日本の子どもに個人主義は可能なの?
恒吉僚子さんの『人間形成の日米比較』(中公新書)をもとに考えてみました
(1998年12月)
1 現在の学校・教育の混乱の原因・対策についての二種類の考え
別稿の「日本に個人主義は可能なの?」という文章の最初で、現在の学校・教育の混乱
について、おおざっぱにふたつの考えがあると述べました。
( 1) この数十年間の教育改革が「個性の尊重」を徹底しすぎて、一人一人が自分勝手に
なりすぎたのが原因だ。 →もっと自由を制限するべきだ。
(2) 現在の学校教育が「個性の尊重」を題目としては掲げながら、実際には旧態依然の
校則や激しい進学競争によって、一人一人が自由に行動できないために、こうした問
題がおこっているのだ。
→もっと自由化を進めるべきだ。
(1) の主張は「日本人には個人主義は不可能だ」「だから日本の伝統的な人間関係を守っ
ていくべきだ」という意見からきているのではないかいうので、別稿「日本に個人主義は
可能なの?」の中でいろいろと考えてきました。
そして「もう日本人は伝統的な人間関係 には戻れないし、もどりたくないよ」「だからとにかく個人主義を可能にしていくしかな
いんじゃないの(かなりむずかしいみたいだけど)」というあたりが、結論だったように
思います。
しかし(1)の意見には、もうひとつの可能性があると思うのです。
それは「大人には個人主義を認めるべきだが、子どもには認めるべきではない」「それ
どころか将来『立派な個人主義者』になるためには、子どもの時にはしっかりしつけてお
かないければいけない」という理由も成り立ちそうだということです。
なぜそう思うのか、その理由をちょっと説明しましょう。
2 アメリカ合衆国の教育は子どもを「人間」あつかいしない?
最近、中学校1年生の社会科、世界地理の授業でアメリカ合衆国についてやった時に、
市役所にいるアメリカ人の国際交流員に授業に参加してもらったことがあります。
この時、彼女は「日本の学校の教室がうるさいこと」と、「生徒が教師に対してほとん
ど友だちのような口のききかたをする」ということに「驚いた」と言っていました。私は
以前は「アメリカの学校では、生徒が教師に対して『○○先生』などと言わずに愛称でよ
びかけるくらいなのだから、さぞかし教師と生徒の関係もかたくるしくなく親密なのだろ
う」などと、さしたる証拠もなしに想像していたのですが、これは全く事実ではないよう
です。
アメリカ合衆国のマンガ『ピーナッツ』シリーズ(チャールズ・M・シュルツさん作
谷川俊太郎さん訳 講談社などから)は、チャーリー・ブラウンやルーシー、ライナスな
どの子どもたちの世界を舞台にしているのですが、親や教師などは姿も形もまったく登場
しません。彼らの問いかけに対して子どもたちが答えるシーンはあっても、大人たちの声
はセリフとして出てくることはないのです。このマンガには教室内の場面はたびたび登場
するのですが、いずれの場合も子どもたちは教師に対してひどくかた苦しく返答していま
す。まるで教師の声や指示は天上から降りてくる神の声であるかのように見えます。
日本の学校では学級の生徒たちを5〜6人の班にわけ、それぞれ班長をおき、班ごとに
美化係、レクレーション係などの学級内の係を分担し、班単位で掃除当番、給食当番など
を行うということが、かなり一般的におこなわれています。朝礼や終礼、学級会なども生
徒が司会をつとめ、生徒たち自身が話し合いをすすめていく建前になっています。班会議
や班長会、学級会などを通じ、生徒たち自身が学級の問題点をとらえ、話し合い、改善し
ていくことが期待され、教師主導の活動ではなく、生徒の自主的な活動が活発に行われる
ことが望ましいこととされています(実際にはほとんどの場合うまくいかないで、教師が
あれこれと口を出し、強引にものごとをすすめていく場合が多いのは、みなさんご経験の
通りです)。
日本の教師たちもその多くは民主的な集団こそがよりよい集団であると考えていて、こ
うした活動を通じて、生徒たちが民主的な討論の方法や民主的な人間関係を学んでいくこ
とを期待しているのです。
しかし比較社会学者、恒吉僚子さんの『人間形成の日米比較』(1992年
中公新書) によると、アメリカ合衆国の小中学校では、まったくこうしたことはおこなわれていない
というのです。(ただし、恒吉僚子さんは「概して白人が主体」で「中産階級の公立」学
校を中心に話をすすめる、とことわっています)
日本の学校では教室で騒いだりして授業を妨害する生徒に対しても、教師が直接注意す
ることはあまり望ましいこととはされていません。それ以前に、生徒どうしで「おたがい
に気をつけよう」「私語をしないように注意しあおう」ということが班や学級の目標とし
てたびたび掲げられます。これがほとんど実行されないことはみなさんご存じの通りです
が、たまに実行されることがあると「生徒の自治能力が高まっている」と、非常に高く評
価されます。
前述のアメリカ人にこの話をしたら「そんなことはアメリカでは絶対に考えられない。
同僚から注意されることはアメリカ人の最も嫌うことだ」と言っていました。
『人間形成の日米比較』は、日本の学校で民主的な人間関係を学ばせる手段として広く
行われているこの方法が、実は班内の仲間の気持ちを「思いやる」「察する」という、き
わめて日本的人間関係を前提として成立していること、この方法が自己主張を強めるより
も、逆に周囲との協調性を高める結果をもたらしていることを指摘しています。
「欧米諸国の学校では生徒は学校の掃除などはしない」ということは私も以前から知っ
ていたのですが、『人間形成の日米比較』によると、アメリカ合衆国の学校では日本でや
っているような班単位の集団作業や、朝礼、終礼なども一切しないのだそうです。日本の
学校のようにこまかい規則も目標もないかわりに、生徒は教師の指示に忠実に従うことが
もとめられる(とくに学年が低いほど)というのです。
「 アメリカの伝統的なしつけ観によれば、親が子のわがままに折れたならば、堕落する
性向のある子どもは罪と悪行を重ねてしまいかねないのであり、子供の親への服従が強
調された。そして子供が動物的存在から遠ざかるにつれ、自由に振る舞うことを許され
たのである」
(『人間形成の日米比較』P18)
つまり(1)子どもはまだ「人間」になっていない存在、(2)まず手近な「人間」=
親・教師に服従させ「人間らしさ」を注入する、(3)「人間」になった時点で自由・対
等と認める、という考えがありそうです。
「子供の悪しき衝動を“矯正”するという性悪説的な色彩の強いアメリカの伝統的なし
つけ観は、一種の「動物モデル」にのっとっていると言えよう。実際、夜泣きする赤ん
坊をかまうとわがままを助長するので、泣かせておいて親が言いなりにならないことを悟らせるのが一番だというような指示は、そのまま、今日でもアメリカの犬の訓練書に書いてある」
(『人間形成の日米比較』P18)
イギリスやアメリカ合衆国に行った時に、街で人々が散歩させている犬が、日本のよう
に吠えたり自分の行きたい方向に引っ張ったりせずに、飼い主に忠実に従っているのを見
てびっくりしたものです。欧米人は動物である犬をしっかりと訓練して、飼い主に忠実に
従わせるように、「人間以前=動物」の状態である自分たちの子どもも、親や教師の指示
にしっかりと服従するように訓練しているのでしょうか。これに比べると日本人は犬や子
どもの自主性・自発性を尊重しているといえそうです。
恒吉僚子さんは、アメリカ合衆国で育った自分の体験を紹介しています。
「ある春の日、六歳の私は、母とシンディーという女性に連れられてドライブに出かけ
た。
(中略)突然、新緑の薫りを胸一杯に吸いたくなった私は、窓を降ろしはじめた。
その時、顔を半分私のほうに向けながら、いかにも権威を持った口調でシンディが、
「いたずらは止めなさい!」と怒鳴ったのである。そこには、自分の命令を聞かないな
どとは言わせない、という威嚇的な雰囲気があった。
(中略) 私にとっては腑に落ちない。にもかかわらず、シンディーの指示には従わないわけに
はいかない。なぜか? それは彼女が大人だからである。したがって私としては力の差
を見せつけられた形で引き下がることになったのである。
(中略) これが、もしわが家の出来事であったならば、どうなったか。おそらくは、「他の人
が寒いでしょ・・・」などと言われ、 <自分のせいで誰かに風邪でもひかせたら大変
だ>などと慌てて窓を閉めたに違いない。
(『人間形成の日米比較』P22)
私など、こんなに大人の権威をふりかざしながら育てられたら、思いっきりひねくれて
しまいそうです。
子どもの時にビシビシと親からカタにはめられた時の反発が、欧米人の自己主張の強さ
(=思いやりのなさ)につながっているのでしょうか。ぎゃくに日本人が「すぐ他人の意
見に同調する」「他人の顔色をうかがう」といわれるのも、欧米人のような権威的な子育
てを受けてこなかったからかもしれません。
3 「人間」あつかいされないのは子どもだけではなかったのでは?
市民革命の当時、個人主義=民主主義の対象者(「人間あつかい」すべき範囲)はイギ
リス、フランス、アメリカ合衆国などの国の市民で男で大人の人々だけでした。この時代
には市民以外、男以外(つまり女)は「人間」とは考えられていなかったのです。
欧米人にとっては私たち欧米人以外の人間も、「人間」ではありませんでした。つい最
近まで(現在でも?)、欧米人の多くは自分たちこそ世界でもっとも優れていると考えて
いました。そして劣った(「人間」になりきっていない=動物なみ)アジア・アフリカの
国々を植民地にして、キリスト教をはじめとする自分たちの進んだ文化を押しつけること
こそ相手のためだ、これは自分たちの「高貴なる責任だ」などと主張していたものです。
現在、欧米人の心の底はいざ知らず、このような意見が公式に主張されることはなくな
りました。現在では「人間」の範囲は階級、性別、学歴、人種、宗教などのちがいを越え
て、一応は全世界のほとんどすべての人間に広がってきています(実際にすべての人間が
「人間あつかい」されているかどうかは、大いに疑問のあるところですが)。
このように個人主義=民主主義の適用範囲が広がってきた中で、最後に残っている適用
外の部分が「子ども」です。
社会的に「個人=人間」として認められるためには、「自己判断=自己責任」の能力が
あることが前提です。子どもには判断能力も責任能力も充分にはありません。表現力も良
識も不足しています。ですから子どもを「個人」として認めない、人間あつかいしないと
いうことも、当然のことであるように思えます。
『人間形成の日米比較』の紹介する「アメリカの伝統的なしつけ観」はこのような考え
の上に成り立つものであり、それはむかしの欧米人がアジア人、アフリカ人に対して持っ
ていた考えや対応法と共通しているように思えます。ぎゃくにいえばむかしの欧米人はア
ジア人、アフリカ人を「子どもあつかい」していたということでしょう。
4 ふたたび子どもの自由についての二種類の考え
この文章の最初に述べた、「大人には個人主義を認めるべきだが、子どもには認めるべ
きではない」「将来『立派な個人主義者』になるためには、子どもの時にはしっかりしつ
けておかないければいけない」「だから子どもには自由を与えるべきではない」という考
えも、こうした欧米的な子ども観のもとに成立しそうです。
つまり「子どもの自由をもっと制限するべきだ」という意見の成立根拠としては、「も
っと日本の伝統を大切にするべきだ」という考えと、「もっと欧米的にビシビシ子どもを
しつけるべきだ」という考えと、全く正反対のものが考えられるということです。あるい
はふたつが合体しているのかもしれません。
そう考えると「子どもにもっと自由を認めるべきだ」という意見の方にも、ふたつの成
立根拠がありそうです。ひとつは「もっと欧米的な個人主義=民主主義を子どもにも認め
るべきだ」というもの、そしてもうひとつは「子どもは自由を与えてやればきっとよい方
向に育つはずだ」という「日本の伝統的な子ども観」です。こちらの方も実際には両方が
合体しているようです。
日本の伝統的な子供観によれば、子供の本性は元来「善」であり、「悪」は子供の内
にではなく、外の環境などに求められた。民俗学的資料からも、子供は、外の悪に汚れ るまではそれほど悪いことをしないものであるという考え方が日本人の間では強かった
ことがうかがえる。その結果、自然な成長が促され、寛容なしつけが好まれたことが繰
り返し指摘されてきた。
(『人間形成の日米比較』P7)
しかし「子どもは本来・・・」という考えかた自体が、まちがっているのではないでし
ょうか。
「本来○○であるはずだ」という考えは、「あるべき姿」は追求できても、現実
の生きている人間の姿は見失いがちです。いいところもあれば悪いところもあるのが人間
です。子どもだってそうでしょう。
5 世界にひろがる「個人主義=民主主義」とは?
日本と同じようにアメリカ合衆国でも「子ども観」「子育て観」は大きく変化してきて
います。こちらではより「寛容」に、日本的になってきつつあるようです。
かつてのアメリカの育児書は、赤ん坊が泣いた時に気安く抱くなどということは、子
供の堕落を助長し、親がすべきことではないと力説していたわけだが、今日の育児書の
多くは、同じような激しい口調をもって、 泣く赤ん坊は抱き上げるべきだと書いてい
る。それは、親が無理をしない程度に赤ん坊と付き合いなさい、などという生やさしい
ものではない。抱くことが「正しい」のであり、親の「義務」であり、それをしないの
は罪であるといわんばかりのものが目立つ。主張の内容は変われども、「理想的」な子
育ての在り方が存在すると信じ、それをひたむきに追求していく姿勢は変わらない。ピ
ューリタン的価値に反発しながら、このような態度自体がピューリタン的でないかと感
じてしまうのは、私だけであろうか。
(『人間形成の日米比較』P13)
別稿の「日本に個人主義は可能なの?」という文章では、「民主主義=個人主義」の文
化・制度を、いかに日本にとりいれるかということを考えました。
「民主主義=個人主義」の文化・制度が欧米諸国に起源を持つ事はあきらかです。しか
し私たちが欧米文化をそのままマネするなどということは無理でしょう。そしてまた、本
当に個人主義=民主主義が世界に広がるためには、それが欧米だけの文化的背景にもとづ
いていてはなりません。私たちは欧米文化の中でも、本当に必要だと思うものだけを受け
入れるべきでしょう。
自己主張ばかりして、周囲に対して攻撃的であることが「個人主義=民主主義」的とは
思えません。同じように、まわりにあわせてばかりいて、自分の言いたいことを言わない
というのも、「個人主義=民主主義」からはほど遠いでしょう。ひとりひとりの基本的人
権を保障しながら、住みやすい社会にするためには、みんなが自分の権利をどんどん主張
するのと同時に、おたがいの権利を尊重しあい、権利がぶつる時にはうまく調整しあうこ
とも必要です。
「日本人はかんたんにあやまりすぎる」「欧米社会では少しでもあやまったら自分の責
任を認めたこととみなされ、たいへんなことになる」「だから外国で交通事故にあったり
しても、絶対にあやまってはならない」などという話を聞きます。もちろん自分に責任が
ないことまで、ペコペコあやまることがいいとは思えません。しかし、明らかに自分にの
責任があるのに絶対にあやまらないなんて、どう考えてもまちがっています。
私たちは、私たちなりの民主主義=個人主義を求めていくべきですし、私たちにあった
子育て・教育の方法をつくりあげていかなければならないのでしょう。