皇太子婚約の報道を聞いて思うこと
(1993年1月)
1月6日の夜、TVをつけてみたら突然この話題を放送していた。そのうち終わって通
常番組に戻るだろうというのは浅慮な考えで、TVはいつまでたっても「そろそろ他のニ
ュースや番組も見たい」という私の希望には応えてくれなかった。
こうした報道は、昭和天皇の葬式の時や湾岸戦争の時に既におなじみのものだが、この
ようにどのTV局も全く同じ話題を報道している時に、全く違う番組を報道すれば絶対に
高視聴率が獲得できるのではないかと思う。視聴率獲得にあれだけ必死になっている各T
V局が、どうしてこんな絶好の機会を逃してしまうのか、私にはどうも理解できない。
本来私たちには、自分の見たい番組を選ぶ権利があるはずである。TVはもっと他の放
送局とちがうことをやるべきだ。昼間はメロドラマとワイドショー、夕方はアニメーショ
ンの再放送、午後6時はニュース、7時はクイズ、8時はバラエティショー、9時はドラ
マ、そして11時からはまたニュース、日曜の午後はスポーツ中継といった具合に、普段
からどのTV局も申し合わせたように同じ時間帯には似たような番組ばかり放送している
ものだが、人間は時間に関係なくニュースを見たくなったりドラマを見たくなったりする
ものだ。ましてや日本中の人間がみな皇太子の婚約に興味があるとは思えない。
TVはここぞとばかりに小和田雅子氏の人間的ディテェールと、婚約した二人のなれそ
めから現在までを、微に入り細を穿ち教えてくれるが、いったい日本人の何%がそれを知
りたがっているのだろうか。またそんなことが本当に高い費用を使って取材し、報道され
る価値のあることなのか。
この皇太子の婚約に際しては、日本のマスコミの間に「報道協定」が結ばれ、「報道協
定」があったからこそ静かな環境のもとで婚約を成立させることができた」といわれる。
この「報道協定」の成立までには、「お妃候補」とされる女性に対しての加熱した取材、
報道があり、小和田雅子氏も数年前にそうした取材に巻き込まれて「嫌気がさしてしまっ
た」のだという。
一部の報道には「真実を国民に伝えることがマスコミの使命であるのに
報道協定はマスコミの自殺だ」という意見もあるようだ。しかしマスコミの「報道協定」
によって1年間の報道を自粛してもらうことで、ようやく婚約にこぎつけることができた
という皇太子の経験は、なにも彼だけの特殊な経験ではない。今までに無数の芸能人や一
般庶民が、どれだけマスコミの報道によって犠牲にされ、人権を蹂躪されてきたかわから
ない。今回、厳重な警備と報道管制に守られた天皇家には、特別に「報道協定」が認めら
れたが、これが天皇家以外の国民に認められることがあるのだろうか。日本のマスコミは
天皇家以前に一般国民の人権とプライバシーをこそ、尊重しなくてはならないのではない
かと思う。
1月7日の朝、私は博多駅から列車に乗った。売店で売っている朝刊は、どの新聞も皇
太子の婚約がトップ記事になっていた。その中で「九州スポーツ」だけが「貴花田・宮沢
りえ婚約解消」をトップ記事にしていた。思わず買って読んでみると、この問題の焦点は
「女が家庭をとるか仕事をとるか」という、実に古臭い話なのである。そして「九州スポ
ーツ」の論調は「国民的スーパースターである貴花田のために、宮沢りえは喜んで犠牲に
なるべきだ。娘に仕事を続けさせようという宮沢りえの母親は許しがたい」というもので
あった。
本来結婚は「両性の本質的平等」に立脚し、「両性の合意のみに基づいて成立」(憲法
第24条)するはずである。
住む世界がちがうの、家庭の都合だのによって、愛し合うふ
たりが引き裂かれてしまうなどというのは、一時代前の悲恋物語にこそ、必要不可欠の筋
立てであったが、現代の日本でまだ大手を振って通用し、世間やマスコミもそれを認めて
しまうなどということは、あってはならないことである。特に相撲界は「神聖なる土俵の
上に女が乗ると、穢れてしまう」などという不可思議な差別を、平気で押し通している世
界なのだから、この機会にこそ、徹底的に批判されてしかるべきであろう。人間どうしが
愛し合い、人生を共に歩んでいくためには、再度引用するが「両性の合意」以外はなにも
いらないのだ。たまたま愛した相手が相撲とりだったからといって、宮沢りえが仕事をや
めなくてはならない理由はなにもないはずである。娘に仕事を続けさせたいという宮沢り
えの母親の気持ちも、それだけをとってみれば全く非難されるべきものではないはずだ。
私には、どうして世のフェミニストたちがこぞって宮沢りえの応援に駆けつけて、この
話題を政治的に利用しようとしないのか、実に不思議でならない。宮沢りえが相撲界の封
建的な論理に屈して、芸能界引退=相撲部屋のおかみさん化するかどうかは別にしても、
これだけの国民的関心を集めている話題を、うまく利用しない手はない。これこそ、第2
の「アグネス論争」ともいうべき国民的論争を巻き起こすチャンスであるはずだ。
同じことは、皇太子婚約のニュースについてもいえる。この話題の報道で私がいちばん
不思議に思ったことは、どの報道も小和田雅子氏が外務省を辞めるのをしごく当然のこと
としているということだった。あれだけ「結婚しても女は外で働いて当然」といった価値
観を広めていた「進歩的マスコミ」でさえも、小和田雅子氏が結婚することを「せっかく
有能な外交官だったのに勿体ない」といいこそすれ、仕事をやめて「天皇家」という夫の
家庭に入り、夫を助けることを当然視して、全く疑っていない。
結婚する相手がだれであれ、結婚相手の家がどんな家であれ、常に結婚する男女は対等
であり、五分五分の関係であるはずだ。それは結婚相手が相撲とりであろうと、皇太子で
あろうと、同じことである。どちらかの家庭や、どちらかの仕事の都合が無条件に優先さ
れてよいはずはない。逆にいえば、皇太子が皇太子という職業についていることと、その
結婚相手とは全く無関係であるべきだし、その職業が結婚相手の犠牲や献身なくして成立
しないというのであれば、そのこと自体がおかしいことなのである。皇太子の結婚という
大向こうむけの宣伝には絶好の機会だけに、フェミニスト諸氏にはもっと奮起してもらい
たいものなのだが、寡聞にして今のところ、そのような視点からの意見を聞いたことがな
い。
稲作農耕社会の象徴として長い歴史を生き延びてきた天皇家が、今や非農業国となって
しまった日本で、今後もそれなりの地位を確保するためには、日本人の「理想の家族像」
を演じていくしかないと考えられる。その「理想の家族像」の一要素として「キャリアウ
ーマン」を選んだことは、なかなか良い選択だったといえるであろう。ならばさらに一歩
進んで「働く皇太子妃」「働く皇后」を演出し、日本人の新しい家族像の指針となること
に挑戦してもらいたかったのだが、そこまで踏み切れなかった(そうした可能性について
検討したという形跡さえ全くない)ということが、私は残念である。
私は天皇家に、現代日本が抱える社会的諸問題に全力でぶつかってもらい、国民的討論
を巻き起こす先兵となることを期待している。女性の天皇を現出させることをはじめとし
て、原発の近くに皇居を移転する、もしくは皇居の中に原発を建設すること、公立学校に
学んで学校教育の荒廃と正面から対決し、大学受験に失敗して浪人することなどを、大い
に期待している。
今回の婚約、さらには結婚で、どのような新家庭を築いていくか今後が
期待されるところではあるが、手本とされるイギリス王家のように、不倫、別居などの家
庭内争議を引き起こして、現代の家庭の持つ問題点を凝縮して見せてくれるのも一興であ
ろう。