校則と生徒指導についての考え(1993年12月)
1 職員会でのささやかな体験
私のつとめる学校で、生徒の授業中の服装が職員会の議題となったことがあります。
「最近、授業を体操服で受ける者がめだつ。なかには制服を学校の更衣室に置きっぱな
しにして、体操服で登下校する者もいる。このことについてどう指導すべきか」というの
です。
この職員会で、私は次のように主張しました。
・現状を改めて、生徒全員がきちんと制服で授業を受けさせるようにするためには、かな
りの労力が必要であるし、教師と生徒とのあいだにさまざまな対立感情を生み出すことに
もなる。もちろん、どのような犠牲をはらおうとも教育上絶対に必要なことであれば、断
固として生徒に強制すべきかもしれない。しかし、この近所にも生徒が登校してきたら全
員体操服で活動させている学校だってある。全員に制服で授業を受けさせることが、彼ら
が成長していく上で絶対必要なこととは思われない。
・よく「服装の乱れは心の乱れ」といわれるが、これはまちがいである。「心の乱れが服
装の乱れ」なのではないか。「心のみだれ」が原因で服装が乱れたのであり、服装が原因
となって心が乱れたのではない。確かに服装は目につきやすいけれども、違反の服装の生
徒にむりやり標準服を着せたからといって、その精神的な問題までが解決されたわけでは
ない。服装という枝葉末節のことよりも、もっと取り組むべき本質的な課題があるのでは
ないか。
・部活動で朝練習をやり、授業でも途中で体育や技術、美術などがあり、掃除は体を動か
すから体操服でやれといい、放課後はまた部活動をやるのであってみれば、そのつど着替
えろといえば1日に何回となく着替えなくてはならない。そのようなことを強制すること
が、はたして合理的なことであろうか。また、現実に可能なことなのであろうか。
・自己の表現のしかたを自分で選び、自分が責任を持つということは、人間が社会生活を
していく上で必要な能力である。そうした能力も本来は学校で学ばせていかなくてはなら
ないもののはずだ。生徒に選ばせないで、ただ一つのものだけを強制することが、生徒の
自主的な選択能力を育てるとは思えない。可能な限り自由に選ばせること、そして自分が
選択した結果についてきちんと責任をとらせることこそが、教育的なことなのではないだ
ろうか。
・社会の秩序を保持していくことは大切なことではあるが、本来自由は秩序に優先する。
個人の自由は最大限尊重されなくてはならない。そうした自由が保障された上で、ひとり
ひとりの自由な権利を保障するために、政治的権力が存在し、秩序を維持していくという
のが原則である。いかに生徒が未熟な人格であるからといっても、やはり一個の権利主体
なのだから、体操服で授業を受けることによって他の生徒に明らかに迷惑をかけていると
いうことがないかぎり、体操服で授業を受けるというのも、生徒の権利のひとつとして認
められるべきではないか。
しかし職員会では、この私の主張は完全に孤立無援のままに終わってしまいました。ほ
とんどの教師たちは「授業、登下校はやっぱり制服で」という意見なのです。その論拠は
次のようなものでした。
・その場の雰囲気や目的に、それぞれ適した服装というものがあって、勉強には体操服は
向かないし、運動には制服は不向きである。それぞれに合った服装を整えられるようにす
ることは、やはり学校で教えていかなくてはならない。
・授業中に体操服を着ている者は、やはり授業をうける姿勢も悪い。制服を着ていれば、
少しは「授業をちゃんと受けなくては」という気持ちも生まれるだろう。きちんとした服
装をすることによって心が引きしめられるという効果は確かにある。やはり「服装の乱れ
は心の乱れ」なのだ。
・体操服から制服へ、制服から体操服へ着替えるのに、一体何分かかるというのか、生徒
はめんどくさがって着替えないだけであり、あまえているのである。能率よく着替えるこ
とも訓練しなくてはならないし、「着替えるのが当然なんだ」ということになれば、1日
に何回も着替えることも苦にならないはずだ。
・クラスの中に制服の者と体操服の者とがバラバラにいては、いかにも統一がなく、授業
の雰囲気も悪い。
・ちゃんと生徒心得にも書いてあるのだし、今までも職員会で何度も確認してきたことな
のだから、いい加減にしておいてはいけない。きまりはきちんと守らせなくては意味がな
い。職員が一致団結して指導していかなくては、ある教師は甘く、ある教師は厳しくやっ
ていては、厳しい教師が悪者にされてしまい、生徒の攻撃対象になる。
・朝、きちんと制服を着て家を出るということには大きな意味がある。それによって保護
者もわが子の服装をチェックすることができる。登校も下校も体操服では、親は子供が学
校で違反の制服を着ていてもわからない。
・確かに選択の能力を育てることも大切だが、生徒は未熟であり、まだまだ指導を必要と
する年齢である。選択の幅を広げることは「好き勝手やりほうだい」ということにしかな
らない。
この職員会で私は孤立無援でかなり長々と論じ、時間を延長させてしまったのですが、
教師たちの間にある「まずはカタにはめてから」主義の根強さに改めて驚かされました。
この意識は若手の教師たちの間でも強いようです。
このように学校の現場では、生徒たち「なげかわしい現状」が指摘されると、かならず
その現状を「あるべき姿」に向かうように「厳しく指導しましょう」ということが決定さ
れることが多いようです。
なぜ生徒たちがそのような状況にあるのか、本当にそれが正すべきことなのか、また生
徒たちを「正しい」方向に向けさせる指導が実際に可能なのか、そうしたことが検討され
ることはほとんどありません。またそうした検討は、限られた時間や機会の中では不可能
なことでもあります。教師たちはみな、学校の中で四苦八苦、右往左往している存在で、
教育に対する考えもバラバラなのですから、ひとたび「本当に制服は必要なのか」「中学
校で本当に生徒に身につけさせるべきことはなにか」といったような本質的な議論を始め
ようものなら、それこそ収拾のつかないことになってしまいます。
そのため、多くの場合にはさして議論もせぬままに、とりあえず全教員が一致してある
ことを指導していこうということが決定されます。しかしこれは当然のことですが、そう
して決定されたことが実際に実行されることは、ほとんどありません。
この「授業、登下校は制服で」という決定も、その後、実質的には生徒に守られません
でした。生徒の大半は体操服で登下校しているし、授業に行っても体操服のままの生徒が
何人もいます。もちろん、職員会の決定をうけてある程度の指導はされたのでしょうが、
生徒たちは教師たちがいくらうるさく言おうと、納得できないきまりは守らないものなの
です。いくらスピード違反のとりしまりがきびしく、罰金が高くても、制限速度が守られ
ていないのとおなじことです。
このように、学校では実行がどだい不可能な決定がいくつもなされ、そしてその決定を
本気で生徒に守らせよう、実行しようという努力もなされないことが非常に多ように思い
ます。世に批判の多い「きびしい校則」も、その実態はほとんど守られていないのではな
いでしょうか。
実行不可能、または実行する気のない決定などすべきではないし、本当に必要なことだ
けを決定し、きちんと実行しなければならない、と私は思うのですが、身近な教師たちに
聞いても「まあこんなもんだ」というような感触で語る人が多いようです。
一般に教師たちの会話も、生徒の「なげかわしい実態」を語ることには能弁でも、では
それにどう対処していくかということを語る言葉は非常に少ないのが普通です。実際のと
ころ、どうすればいいのかはだれにも分からないのでしょう。
2 カナダの学校の校則
学校の文化祭で、私の担任しているクラスの研究発表として「校則についての研究」を
することになりました。私が生徒会の顧問として、「校則の見直しにとりくんだら」とた
きつけて役員たちをその気にさせ、自分のクラスでもそれに関連したテーマをとりあげる
ことになったのです。
そこで、私は文部省や県の教育委員会にでかけたり、朝日新聞に問い合わせたりしてみ
たのですが、どこでも全国の学校の校則についての統計的調査、研究というものはしてい
ないことがわかりました。だれにも全体像がつかめないままに「厳しく非人間的な校則」
に対する批判ばかりが強いのが現状なのですが、校則についてのもっと総合的な調査、研
究というものは、絶対的に必要なのではないかと思います。
この文化祭の発表のために、カナダ出身の人にその人のハイスクール時代の校則をイン
タビユーした生徒たちがいました。その話によれば、カナダのハイスクールに共通の校則
として、学校の規則を破った場合の罰則規定があるのだそうです。
罰則のうちで、最も軽いものはdetemtion
とよばれ、宿題を忘れたり遅刻を常習的にや
った場合などに適用されます。この場合、生徒は放課後1,2時間「反省室」でいろいろ
な作業をさせられます。宿題を忘れた場合には宿題をやらされる場合もありますが、監督
の教師によってやらされる事がちがう場合が多いそうです。
次に学校の備品を破壊したり、ケンカをした場合、許可なく早退した場合などに適用さ
れる罰則がsuspentionであり、これが停学にあたります。このsuspentionを4回した場合
の罰則がexpulsion であり、退学にあたります。この停学、退学の決断を下すことができ
るのは校長、教頭のみですが、最初のdetemtion
は教師であればだれでも命ずることがで きるのだそうです。
このインタビユーを受けたカナダ人は、当時この地域の中学校、高校でAET(Asi
stant Englishi Teacher)とよばれる英語指導助手として教師を
している人なのですが、カナダのマスコミでは、日本人は非常に勤勉によく働き、出世の
ために必死で勉強をしているという一部の学習塾などのイメージばかりが報道されている
ため、実際の日本の学校の教室での、授業中の騒々しさとの落差にびっくりしたと話して
いました。
多くのAETたちが「まったく授業に参加していない生徒でも、教室から追い出しては
ならない」という日本の原則を、「理解ではない」といいます。これは憲法26条の「学
習権」を保障するためだということになっています。
AETたちは「授業に参加しない生徒、授業を妨害する生徒には、教室にいる資格はな
い」「なぜ生徒を教室から追い出すことが禁止されているのか」と不思議に思うといいま
す。
日本では、本来生徒が持っている基本的な権利についてさして注意を払わず、その権利
を制限するに場合にも、法的な合理性、整合性はあまり深く追求されていません。そのか
わり、生徒の責任を追求する場合にも非常に心情的で、「生徒の自覚を待つ」などといい
ながら、実際にはたいした指導もおこなわれていないことが多いように思います。
これは、日本では、「生徒は本来、教師のいうことを聞くものだ」「生徒は本来、勉強
したがっているものだ」というような、教師の指導力や生徒の向上心に対する信頼が非常
に根強くあって、生徒が教師の指導に従わなかったり、授業を妨害するといったことは、
もとから想定されていないからであるようです。
ですから、突発して起こるさまざまな事件に対しては、それぞれ場当たり的な体罰や保
護者呼び出しなどがおこなわれているが、この「保護者呼び出し」などというのも、保護
者の方の協力がなかったり、親自身がすでに「お手上げ」に近い状態であったりすると、
何らの効果をあげないということも多いのです。
このカナダの学校の罰則の中でも特にdetemtion
という制度は、その点で非常に興味深 く私には思われました。落ちこぼれがちの生徒に学習の機会を与えるという面からも、こ
の制度は日本でも採用されるべきだと思います。
3 生徒、保護者、教師の代表による審判、調停機関が必要だ
生徒と教師の間のもめごと、生徒同士の対立、教師と保護者、保護者と保護者の対立、
暴力傷害事件や器物破損、恐喝、窃盗、校則の解釈をめぐる争いなど、学校内で起きる事
件は多様であり、日常的でもあります。
こうした紛争の解決には現在、それぞれ担任の教師や生徒指導の教師があたり、それで
も手におえない場合には校長などが前面に出ることになっているのが普通です。
しかし学 校・教師は常に「指導してやろう」という姿勢が強いですから、「当事者の言い分をきち
んと聞いてやろう」というよりも、「しっかり反省させよう」「すぐに反省させよう」と
いう方向にすすみがちです。しかもふつうは一応「反省」させればそれでおしまいで、そ
れ以上なにかを強制するだけの権威も能力も、学校にはありません。結局かたちばかりの
解決に終わってしまうことも多いように思います。
学校でおこる事件のなかには、器物破損や教師に対する暴行、教師による体罰や人権侵
害など、学校・教師が一方の当事者である場合も多いのですが、そうした場合に、学校・
教師のがわがどれだけ冷静、公平に対応し、判断することができるかは疑問です。とくに
高校の場合にはきちんとした審理も弁護もなしに、事件をおこした生徒が退学などの処分
を受けることが問題となっています。
学校での秩序維持や人権侵害などの問題について、各学校に独自の審判、調停機関を設
けることが必要だと思います。
この機関には、教師、保護者、生徒、教育委員会などの代表者が参加します。そして中立的な立場で当事者から事情を聞き、当否を判断し、解決方法を指示します。
この機関には、生徒や教師の人権を保護する機能の他、生徒に社会的な権利と義務、責
任の法的認識を持たせることが期待できます。こうした機関の活動を通して、学校の抱え
る様々な問題を当事者のみの問題として終わらせるのではなく、広く社会的な問題として
とらえていくことができるようになるのではないかと思います。