車社会についての考え (1995年12月)  
                           
 都会に住んでいる人々はあまり理解していないことだが、日本の田舎は完全な車社会に なってしまっている。
都市では発達している鉄道、バスなどの公共交通機関も田舎では極 端に衰退してしまい、山の中などに行くとタクシーもない。すべての人間が自分の車で移 動することを前提として、社会がなりたっている。そこでは車を運転できること、自家用 車を持っていることが社会人であることの前提条件であり、車を運転できないことは、そ れだけで社会生活に大きな支障をきたすことになる。特に20〜30歳代において車の免 許を持っていない者は皆無に等しい。
 余談だが、そうした中で私は28歳になるまで免許をとらなかった。当然私は、事ある ごとに「どうして免許をとらないの」「はやく免許をとらにゃ」はなはだしきは「免許が ないと結婚できんよ」などと言われ続けてきた。
 日本にこうした本格的な車社会の到来したのは近々20年ほどの間のことである。そし てこの車社会は、人々の生活様式や意識を根底的に変えてしまった。その変化は特に大都 市よりも田舎で顕著である。そこでここでは、特に田舎の車社会の実態を紹介することにしたい。

(1)田舎人がほとんど歩かなくなること。
 田舎では人々の生活の中で「歩く」ということが非常に稀なことになってきている。
 田舎の人間が都会に出て驚くことのひとつは、逆説的ではあるが都会人がじつによく歩 くということだ。都会では家から駅までとか、駅から会社や学校まで、数百メートルを歩 き、駅の乗換えのためにもかなりの距離を歩かなくてはならない。
 田舎では、ほとんどすべての家、すべての人が車を持っている。その ため仕事であろうと買い物であろうと、あるいは気分転換であろうと、あらゆることに車 に乗ってでかける。
 私が以前勤務していた学校では、ほんの2,300メートル離れたところに職員住宅が あるのだが、そこの住民はほとんどが自動車通勤をしていた。ほんの100メートルくら いしか離れていないところに用事があって行くのでも、なんとなく車を運転していく人が ほとんどなのである。
 逆に100キロ以上あるようなかなりの距離の移動でも、公共交通機関を使わず自分で 車を運転して行ってしまう人が多い。公共交通機関の方が移動時間は短くてすむのだが、 田舎ではその本数が極端に少なかったり、乗り継ぎの接続が悪かったりすることが多い。 列車やバスの時間に自分の予定をあわせるという不便さにくらべると、自分で車を運転し て行く苦労の方がまだマシというわけだ。結果的には時間も短くてすむし、カネもかからない。
 もはや車以外の交通手段、列車やバスを利用することなど、想像することすらできない という人が決してすくなくない。彼らの思考の中では「移動手段=自家用車」という図式 が固定化してしまっているのだろう。
 こうなると100メートル以上の距離を歩くことなど、信じがたい苦行となる。買い物 などに行っても、できるだけ歩く距離の短いところに車を停めたいと思う。極端な例だが 私の友人の一人など、自動販売機でジュースを買うことすら、できるだけ車から降りずに すまそうとしていた。車を降りて歩くより、自動販売機にうまく車を横づけする方が楽だ というのである。「ドライブスルー」のファーストフード店が繁盛するのもおなじ心理に 訴えるからであろう。
 子供たちもみな親の車に乗りつけているから、歩くということは極端に少ない。「下校 のバスに乗り遅れたから送ってくれ」と教師にねだる生徒たちがいかに多いことか。片道 4キロほどのところから通ってくる生徒たちなど、待ち時間の間に歩いて帰ればよさそう なものだと思うのだが、みなブラブラしながら2時間後の次のバスを待っている。
 昔は何キロも離れた所から歩いて来るので、山奥の子供は足が速いと言われていたそう だが、今では山奥であればあるほど、親が自宅の玄関から学校の昇降口まで車で送り迎え している。親たち自身もほとんどが自動車で通勤しているので、ついでに子供を送ってや ることもしやすい。
 自転車通学をしている子供たちも、雨が降ったり冬場になったりすれば、その多くが親 の車での送り迎えに切りかわる。そうなると学校から数百メートルしか離れていないよう な生徒でも、親の車に送られてくる。学校の校門前にはラッシュのごとき車の列ができあ がる。

(2)田舎の公共交通機関には老人と子供しか乗らないこと。
 自家用車は個人的移動のために、最も適した交通手段であろう。そのためにこの数十年 の間に急速に普及した。そして現代日本の、特に大都市圏以外の地域では、欠くことので きないものとなっている。
 しかし一方、それまで地域の人々の身近な交通手段であったローカル鉄道やバスなどの 公共交通機関の利用者は極端に減り、そのほとんど全てが赤字経営に転落し、半ばはつぶ れ、残りの半ばは補助金によってようやく存続している。現在、観光地以外のところでの 田舎の鉄道やバスを利用するのは、ほとんどが地元の中学高校の通学生徒だけだ。
 住民のほとんどは高校卒業と同時に免許を取るし、免許を取ってしまえば全く鉄道やバ スを利用しなくなってしまう。小学校就学以前の子供たちも親の車に乗っていくことが多 いから、中高校生以外ではせいぜい少数の老人が利用する程度だ。
 私の学校の生徒にも、生まれてこのかた鉄道や路線バスには乗ったことがないという者 も少なくない。修学旅行で初めて鉄道に乗った、高校の受験で初めて路線バスに乗ったが 料金の払い方が分からないというケースさえめずらしくない。
 公共交通機関は、一定の時刻表に従って動いている。しかもその車内にはたくさんの異 なった種類の人々が乗っているので、おのずから社会的なルールがある。つまり列車やバ スの中は、自分の都合を全体の(バスや鉄道会社の)都合に合わせることによって成立し ている、公的な空間なのだ。
 しかし自家用車の中は私的な空間である。その中ではどんなことをしてもかまわない。 それぞれが自分の車の中にやたらステッカーを貼ったり、ぬいぐるみを乗せたり、音楽を 響かせたりして走っている。
 現在では、鉄道やバスの車内も高校生や中学生の貸切りに近くなっている。従って、そ の車内も学校の教室や校庭に準じ、たまに乗り合わせると子供たちの不作法なことこのう えない。

(3)地方都市の郊外だけが大発展をとげ、その他の地域は衰退していくこと。
 田舎の人々は仕事はもちろん、ちょっとした買い物にも車でいくようになる。いったん 車に乗ってしまえば100メートルも10キロもさしたる違いはないから、だれもが安く て何でも揃う大規模店に直行する。
 大規模店の中でも、より広い駐車場を持つ店ほど有利である。そこで郊外の田を潰して つくられたショッピングセンターに客が集中し、道路がせまく駐車場もないような町中の むかしからの商店街は、みるかげもなくさびれてしまっていく。総合病院や官庁なども都 市中心部から郊外へと移転していく。
 この現象は日本全国ほとんどの地方都市でおこっているが、私の故郷の町でも劇的に起 こった。数年前まで全くの田園地帯だったところにバイパスが作られたのがきっかけで、 その道筋にそっての風景は一変し、現在では広大な駐車場を備えた大規模店が立ち並んで いる。その一方で、私が子供のころにはあんなに賑やかだった都市中心のアーケード街の 店は軒並みシャッターを閉ざしている。
 車が運転できる者、車を所有している者にとっては、まことに住みやすい世の中である しかし、車の運転ができない者、車を持っていない者にとっては、実に不便になってきて いる。住宅地から歩いていけるような小さな店はどんどん潰れてしまい、店は遠い郊外に あり、そして車以外の交通手段は実質的になくなりつつあるのだから。
 最近山村では、70代、80代の老人が車の免許を取るケースが増えている。数年前の ことだが、90代の老婆がスクーターの免許を取ったというニュースがあった。人は「年 寄りの運転なんかあぶない」というが、これも車社会の必然である。ただでさえ山奥の集 落は老人ばかりになっているのに、地元の店は潰れてしまい、路線バスも廃止になってし まえば、無理にでもスクーターや車を運転しなければ生きていけない。ましてや身体障害 者などのように簡単には車を運転できない人々にとっては、本当に生きていくことがむず かしい社会になってきている。

(4)田舎では、誰も速度制限を守らないこと。
 道路の制限速度ほど守られていない法律、規則も珍しいのではないだろうか。
 自動車学校ではこれを絶対のものとして教えている。しかし、私はひそかに自動車学校 の教師が日常生活でどれだけこれを守っているのか、疑問に思ったものだ。警察の関係者 でさえ、どれだけ守っているのか疑わしい。
 実際に路上を走っている車の状態をみれば一目瞭然である。制限速度を守って走ってい る車というのは珍しい存在であり、ほとんどの運転者から車の流れを妨げる諸悪の根源と して忌み嫌われている。制限速度を守って走っている車の後ろにはすぐさま長蛇の列がで き、その列の中の運転者のほとんどは抜くチャンスをうかがいながらイライラしまくって いる。そうした圧力を受けながら、なおかつ制限速度を守ろうとするには、かなりの度胸 が必要である。
 実際に制限速度が低すぎるのも事実である。田舎の道路は基本的にはすいており、私の ように未熟な運転者でも、制限速度の30〜40キロオーバーなどすぐに出せる。そして さしたる危険も感じない。かえって制限速度を守って走っていると、無理をして抜こうと する車の脅威を感じて危ない場合も多い。
 しかし運悪く「ねずみとり」に捕まってしまうと、かなり高額の罰金を払わされる。こ の場合、多くの運転者は警察のだまし討ち的「ねずみとり」の手法に憤りをおぼえたり、 おのれの不運を嘆いたりはするが、自分の違反行為を素直に反省したりはしないだろう。 そこで田舎の自動車運転者のほとんどにはレーダー探知機が装備されることになる。職場 の日常会話の中でも「あそこはよく警察が張ってるから気をつけろ」「このあいだ○○で やられた」といった話題がよく出てくる。
 余談だが、あのスピード違反取締り用のレーダーの技術と、レーダー探知機の技術との 間には、かなりの関連性があることは容易に推定できる。さぞかしレーダー屋はもうかっ ていることだろう。
 ほとんどの車の運転者はスピード至上主義者である。彼らは限界までの高速を出したが っている。別に急ぐ理由もないのに急いでいる。彼らは「ゆっくりのんびり走る」という ことを知らない。「はやく、はやく、もっとはやく」がモットーである。このあたり、資 本主義社会最高の商品にピッタリという感じもする。
 こうしたスピード至上主義者にとって、遅い車は悪である。歩行者や自転車も勿論悪で ある。赤信号も道路工事もみな悪である。渋滞も悪である。みな地上から消え去るべきも のである。そうした障害物にであった時の彼らは、車全身でイライラを体現し、ほんのわ ずかでも隙があれば追い抜きをかけようとしている。「ゆずりあい」とか「思いやり」と かいった社会的な潤いのすくない世界である。
 日常生活においては非常に温厚な人物が、車の運転を始めるや人が変わったように乱暴 にハンドルをさばき、遅い車や赤信号や渋滞に悪口雑言をあびせかける(といっても車内 でだけのことだが)という例は多い。かく言う私でさえ、実際に自分が運転をしてみると そうした傾向を多分に持っていることがわかる。
 スピードが出せる所でスピードを出さないでいることはむつかしい。だれにでもスピー ドを出したいという欲求はあり、スピードを出す快感がある。そして本来スピードが出せ るはずの場所でスピードが出せないということは苦痛である。
 10キロオーバー程度なら「ねずみとり」にひっかからないという説もある。もしそれ が本当だとすれば、そんな「許容範囲内の法律違反」などとということ自体、おかしなこ とだ。しかも、実際にスピード違反で処罰するかどうかという判断は、現場の警察官の恣 意にまかされており、理屈をとなえてゴネまくったり、「おかみのお情け」にすがれば許 してもらえる場合もある。万人が利用する道路交通において、このようなことがまかり通 れば、それは警察に、交通利用者に対する絶対的な権力を与えてしまうことになる。法律 はこうした恣意的運用を許さず、同時に現実的なものでなくてはならないはずだ。

(5)田舎者でも、自然や人と向き合うことが少なくなること。
 以前山村の学校に勤めていたころ、私の家から職場までは歩いて15分ほどだった。こ の間は川沿いの土手の道で地元の人たちの散策の場所でもあった。毎日の朝晩、通勤途上 に人々と挨拶を交わしたり、川沿いの風景を眺めたりするのは、非常に大きな気分転換に なるものである。地域の人々との交流を深めることもできる。
 田舎では、隣近所のほとんどすべての人が車で通勤している。自分の家の玄関先から勤 め先の玄関まで車で行ってしまう。従って隣近所が顔を合わせたり、日常会話をすること もすくなくなる。
 車を運転している最中には、ぼんやり風景に見とれている余裕はないし、美しい風景に ぶつかってもすぐに車をとめるわけにもいかない。駐車しやすい場所を見つけて停めなく てはならないのだが、それも面倒臭い。車を運転している間は、立ち止まることが苦痛に なっているのだ。ましてや車から降りてよくよく風景を眺めようというような気は、なか なかおこらない。そこでどんなすばらしい風景でも、運転しながらチラチラと見ただけで オシマイということになりやすい。
 車の中は暖房や冷房によって快適な空間が保障されており、雨や雪に濡れるといういう こともない。峠を登るのが苦しいということもない。ただちょっと運転しづらいというだ けだ。冬の間など、目的地に着いてもなかなか車からおりて寒い外に出ていこうという気 になれないことも多い。

(6)車の運転者がしばしばエンジンを空ぶかしするようになること。
 数年前に瀬戸内海を横断するフェリーに乗ったところ、航海中ずっとエンジンをかけっ ぱなしにしている車が多くて一驚した。しかしタクシーやバス、トラックなどが客待ちや 休憩などで何時間もエンジンをかけっぱなしにして停車しているのは、けっして珍しくな い風景である。このエンジンの空ぶかしこそが、最も悪質な排気ガスを噴出しているのだ が、こうした運転者たちの鈍感さというのは、実に驚くべきことである。

(7)車を運転するという行為が自己目的化すること。
 40日ばかり車を運転しないまま放っておいたら、バッテリーがあがってしまい、動か なくなってしまったことがあった。修理工場に相談すると「せめて1週間に1回は動かさ なくては」といわれた。「バッテリーを充電するために、わざわざ遠回りをして出勤して いる」という人の話も聞いた。便利さを求めて車を運転するようになりながら、今度は車 に生活を支配されるようになっている。

(8)田舎の地域経済が道路建設に頼っていること。
 今やどのような田園地帯でも、その住民のほとんどは兼業農家であり、車で地方都市に 通勤している。
朝夕は地方の小都市といえども通勤のための交通渋滞が出現する。そのた め田舎の住民の中には道路拡充への要望が強く存在している。そして実際に田舎の地方自 治体の仕事の大きな部分が道路建設である。田舎の住民はほとんど自動車運転者であるの で、道路建設についての要望も大きい。田舎には他に産業も少ないので、地域経済自体が 公共事業に頼っていることも珍しくない。山を切り開き田畑を潰して、どんどん新しい道 路がつくられていく。そうしてつくられた新しい道に沿って、どんどん新しい市街地が形 成され、交通事情の悪いところはさびれていく。
 しかし中にはほとんど車の通らない道路も多い。特に疑問なのが各地につくられている 「広域農道」である。申し訳に「農耕車優先」などという看板がたっているが、全く農業 のためには役にたっていない。かえって農地を潰すためにつくられているようなものだ。
 観光地などには広大な駐車場がつくられるが、それが実際に使われるのは一年のうちで も非常に短期間の観光シーズンだけで、ほとんどの期間は全く使われることがない。

 以上、結局は車社会に対する批判になってしまった。しかし、こうした批判に対しては 当然、それぞれに有力な反論を展開することができる。
 車社会ははじめて個人的な移動の自由を大多数の人々にもたらした。以前とはくらべも のにならない移動の自由を人々は満喫している。しかも車の魅力は実用的な側面にとどま らない。車は同時に現代人の最高のオモチャである。車を運転することで、人々は生身の 自分の数倍の力を発揮することができる。生身の肉体ではおよびもつかない大きな力を、 自分の思いのままに発揮できるということ、大きな車体を自由自在に操作できるという快 感など、車の持つ魅力は大きい。車は趣味としても広いすそ野を持っている。
 多くの日本人にとって「車」は「家」に次ぐ大きな財産である。家は一生に一度買うの がせいぜいなのに対して車は何年かに一度は買い替えなくてはならない。自動車産業が現 代の高度資本主義社会において最大の産業となり、日本の労働者の1割がこの産業に従事 しているといわれるほど発達してきたのは当然のことである。今後もさらに車社会が発展 していくのはまちがいない。その大きな流れを押しとどめようなどということは、どだい 不可能である。
 しかし、日本における車社会の現状は、さまざまな欠陥や問題点を持っている。そして 中国やインドなどが車社会へと変貌しつつある現在、世界に共通する課題も多い。  自動車というものが、現代社会においてこれだけ必要不可欠なものになったにもかかわ らず、自動車や道路交通に関する行政の仕事は、ほとんど警察官僚の専管事項となってお り、政治の場でもたいした議論はされていない。
 数年前の参議院比例代表選挙において、二つのミニ政党がもっぱら道路行政の改善を公 約として掲げていた。制限速度の見直し、車検制度の改善、保険を車単位ではなく運転者 単位とすることなど、なかなか首肯できる主張が多かったように思う。
 これからも自動車の数はふえ、運転免許を持つ人の数もさらに増えていくだろう。ただ いたずらに道路を建設し、駐車場をふやし、新車を売りまくるだけでは、問題はより混乱 し、深刻化していくだけである。自動車の生産から廃棄まで、燃料や排気の問題をふくめ て総合的に解決していく必要があるだろう。今や自動車は世界最大の産業であり、最大の 問題である。無為無策でいられるのはあとわずかの時間でしかあるまい。
 すくなくとも都市中心部や近郊での自家用車と公共交通機関との共存をはかる施策は、 もっと大胆にとられるべきだと思う。


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