教師をラクにする方法 (1995年12月)
                           
   1 NHKテレビ模擬国会「国家百年の計」について
 1995年8月17日の夜8時から、NHKが模擬国会「国家百年の計」という番組を 放送した。
この番組のいう「国家百年の計」とは一体なんなのかというと、これがやはり 「学校教育をいかに改革するか」という問題についての議論なのであった。NHKがこの 番組の題名を単に「学校教育改革案」とせず、「国家百年の計」などという大仰なものに したことからも、教育制度を改革しなければならないということがいまや日本の国家的課 題として、ひろくマスコミや国民の間で認識されていることを示している。私はこの番組 をたまたま旅先のホテルで見たのだが、なかなか面白かったので、まずはその内容を紹介 したい。

 この模擬国会では「学校マルチメディア化法案」が、丹波哲郎氏が首相役をつとめる政 府案として提案され、それに対して桂三枝氏が党首をつとめる野党が「学校民営化法案」 を主張するという展開になっていた。テレビで一度見ただけなので、両者の主張を私が正 確に理解しているかどうかは問題があるが、一応両者の主張を再現してみよう。
 政府案である「学校マルチメディア化法案」の内容は、双方向のマルチメディアネット ワークを各家庭に完備した上で、既存の学校をすべて廃止し、学校は国立の「日本学校」 ひとつとする。すべての生徒はその学校に所属して、各家庭のマルチメディア端末で学習 する。全国からよりすぐった指導者によって、各自の習熟度にあわせたカリキュラムがつ くられ、各自の成績や理解度、どこでつまづいているかなどもコンピューターで即座に分 析され、本人に提示される。最高の教育内容が、自分のペースで学習できるというもので ある。
番組の中ではこの法案に対して、その教育内容の画一性、国家による教育統制の危 険性などが批判されていた。
 一方、野党案たる「学校民営化法案」の内容は、国公立の学校をすべて廃止して、学校 はすべて民営とする。学校の設置基準、教育内容の基準、教師の資格認定制度などもすべ てなくし、どのような形態、どのような教育内容であろうと、正規の学校教育として認め る。政府の教育予算はすべて子供ひとひひとりに均等配分して、自由な教育を経済的に保 障する。またこれらの学校は成績表や卒業証書などを一切発行しない。それによって学歴 社会を一掃するというものである。
 番組の中ではこの法案に対する賛成意見が多かったようだ。私もこの「学校教育の内容 をもっと多様で自由なものに」という主張には共感するところが多かったのだが、いくつ か大きな疑問点もある。

 番組の中でも「あまりに自由な教育では親が選択にこまるのではないか」「はたして子 供に最適の教育をあやまりなく選ぶだけの見識が親にあるのか」といった批判があった。 あるいは「料理だけはどこの学校でも共通して教えるようにしてほしい」といった要望も 出されていた。
「教育」というサービスの消費者としての親や子供たちの立場から考えて も、商品のある程度の品質保証はほしい。最低限度の教育内容の規準がないと、転校など も非常に困難になる。そうしてみると、やはり将来予想される教育システムもある程度現 在の学校と似たようなシステムを引き継ぐことは必要であろう。
 また、学校を民営化して教育を市場原理のもとにおこうとする以上、学校の第一の目標 は利潤追求となるはずである。しかし教育という事業がすべてカネもうけとして採算がと れるかどうかは疑問である。
 エリートを育てようとする学校は、エリートを求める社会的な需要があるかぎり、学費 をいくら高くしても入学希望者は殺到するだろうから、経営は充分に成り立つだろう。平 均的な子供たちを対象とする平均的な教育も、平均的な設備、平均的な教育内容で、平均 的な学費をとれば経営は成立する。しかしそうでない子供たち、学力が低かったり、障害 を持ったり、非行などの問題を持つ子供たちの教育は、決して効率的にはいかない。こう した子供たちを対象とする学校は、学費を非常に高くしても経営的にはかなり苦しくなる だろう。
 結局豊かな家庭の子供はすぐれた教育を受けることができるが、貧しい家庭の子供たち は能力を持っていてもエリートになれず、問題があれば切り捨てられてしまうことになり かねない。その場合、学校間の格差はとてつもなく大きなものとなり、今とはくらべもの にならないくらいの、ウルトラ学歴社会になりかねない。「卒業証書、成績証明は発行し ない」といった程度のことではあまり歯止めにはならないのではないだろうか。

 2「教師は本来○○であるべきだ」なんていう議論はもうやめてほしい。
 現実に教育制度が大きく改革されるまでには、まだまだかなりの時間を必要とするであ ろう。今後もさまざまな視点から、いろいろな主張がなされることだろう。
しかし、現在 までの議論は「教育とは本来こうあるべき」「子供とは本来こうしたもの」といった無前 提な思い入れが強すぎて、有効な議論になってこなかったように思われる。もっと現実に 即した議論を積み重ねていく必要がある。その場合「こうあるべき」とか「本来は」とい った子供たちではなくて、今現実に生きている子供たちの実態にもとづかなくては、有効 な議論は成り立ちえない。

 同じことが教師たちについてもいえる。あらゆる教育論の中で「教師は本来こうあるべ き」「むかしの教師にくらべて今は・・」という言説がとびかい、それが現実の教師批判とむ すびついている。現在の学校は教師が超人的な働きをすることを前提としてつくられてい るが、超人的な教師がそんなにたくさんいるワケがないので、学校制度がうまくいかない のは当然である。現在の日本では教師は数十万人もおり、労働者の代表的な職種のひとつ である。そのような平凡な教師たちに超人的な能力を要求するなど、どだいまちがってい る。
 「別冊宝島」に「ザ・中学教師」というシリーズがある。このシリーズには「プロ教師 の会」を自称する教師たちが執筆者に加わっているせいで、現在の学校のおかれている現 実を過不足なく伝え(もちろんマスコミ的に大仰にはなっているものの)、一応読める内 容のものになっている。この「プロ教師の会」の河上亮一氏は、前述のNHKの模擬国会 にも参考人として登場し、「基本的に子供は強制されないと成長しないものだ」という持 論を述べて、出席者に袋ただき的な批判をあびていた。
 「別冊宝島」には「ザ・中学教師」シリーズとは独立した「日本の教育改造案」(別冊 宝島183 1993年8月23日発行)もある。これは題名の通り「別冊宝島」なりの 教育改革案を示したもので、基本提言を小浜逸郎氏が書いている。この基本提言で小浜逸 郎氏は「教師が並はずれた努力や犠牲的精神を傾注しなくても、ふつうの勤務の範囲内で きちんと管理の責任を果たすことができるような学校システムを構想する」ことを主張し ている。私もこの主張には全面的に賛成である。

 3 教師をラクにすれば、子どももラクになれる
 現在教師および学校はあらゆる場面で批判され、不信感を持たれているが、同時に「学 校の教師というのは大変な仕事だ」という認識も社会的に共有されているように思う。現 在の学校の教師はとてつもなく忙しすぎるということも、広く知られている。教師に余裕 がないために、子供たちにも余裕がなくなり、親も苦しめられることは大変多い。教師が ラクになれば、同時に子供や親たちもラクになれる。学校制度を改革していく上で、「教 師がラクになること」は非常に重要な視点である。問題はそれをどうやって実現するかと いうことだ。
 いちばん単純で確実な解決策は、教育にかける費用を大幅に増やし、人手をふやすこと である。教師の定員を現在の倍にふやすか、1学級の生徒の定員を半分にへらせば、現在 の学校がかかえている問題の過半は解決可能であろう。そのためには若干の負担増は当然 必要である。「軍事費へらして福祉にまわせ」という古典的なスローガンはいまだに有効 だと思うが、教育制度の改革のためにはある程度の高負担、増税は避けられないものと考 えなくてはなるまい。つまり学校や教育の改善は同時に国民の覚悟の問題でもある。

 4 いくつかの具体的方法
 しかし現実の学校の教師の「忙しさ」の大きな部分は、実は実際に子供たちに授業を教 えるとか、生徒を指導するとかの、「教育」とはあまり関係ない部分で発生しているもの が非常に多い。そうした「雑務」から解放するだけでも、教師たちは非常にラクになるは ずである。以下、実際の教師の仕事の中で「どうにかならないものか」と思う点をあげて おく。

(1)教師を教育に専念させること
 現在の学校では、教師は子供たちにモノを教える仕事と、学校という組織を運営してい くための仕事を同時に行っている。集金や備品の管理、書類の整理、教育委員会などへの 調査、報告など、学校組織の運営部門での労働はかなりの分量である。学校に組織運営の 専門職を多数配置して、教師は子供たちにモノを教える仕事(決して教科を教えるという ことのみではない)に専念させれば、実に効率的に仕事が進むようになるであろう。

(2)教師の出張をへらすこと
 学校の教師というのはやたらと出張の多いものである。試みに数えてみると私は199 4年4月から1995年3月までの1年間で31回出張している。そのうち休日の部活の 大会などが9回、平日に授業を休んで出張したのが22回ある。平日の出張の内容は、部 活(陸上)の大会引率が4回、その大会のプログラム編成や、小学校の大会に役員として 参加したものなどが6回、読書感想文コンクールの表彰式の準備などが3回、文部省や県 や市町村の教育委員会の研修や他の学校の研究発表への動員が5回、自分の研究授業につ いての教育事務所の指導員との打合せが2回などである。自治体の行事やスポーツ大会の 役員などが入ることもある。現実の学校教育と多少の関わりはあるものの、無意味と思わ れる出張も多い。出張の間生徒は授業を自習にするなどほっぽっているわけで、この出張 の数をせめて半分にまででも減らせば、随分余裕ができるはずだ。

(3)教師の時間外労働を認めること
 現在、教育公務員には「残業」というのは原則的にないことになっている。しかし実際 には勤務時間内には消化しきれない膨大な労働量があるわけで、教師たちは無定量な時間 外労働をこなし、しかもほとんど時間外給与をもらっていない。これを「残業」としてき ちんと公認し、割増の給与を支払うことにすればどうだろうか。使用者側はできるだけ残 業を減らそうと思うようになるはずだ。それだけでも教師の余裕をつくることにつながる と思う。

(4)見習い教師制度をつくること
 現在の大学の教員養成過程の授業内容などは実にお粗末なもので、ほとんど実践には役 に立たないので、新米の教師がひたすら失敗をくりかえすのは必然である。ある程度熟練 した教師たちにとっても、非常に困難で悩みの多い仕事が、ヘタクソな教師にうまくでき るわけがない。
教師は経験がモノをいう商売である。たくさんの失敗をして場数を踏んで 技術があがっていく。この商売を10年やって、いまだ非常に下手くそな教師である私の 経験からしても「教師なんかだれにでもできる」とは思えない。しかし特殊な才能を持つ 超人しか教師の職責をまっとうできないというのもおかしい。
 そこで私は「見習い教師制度」というのをつくったらいいのではないかと思う。教師に 採用されたら最初の2年くらいはベテランの教師のもとで、ともに授業をしたり担任をし たりする。そしてまた大学での勉強を続けていってもよい。この考えは現在行われている TT方式(1つのクラスの授業を2人の教師が行う)や初任者研修などに近いが、現行の 初任者研修はやたらと出張が多いので、その弊害も大きい。あくまで現場に根づいた研修 システムをとるようにしてほしいものだ。

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