使用済パンティ1枚1万円なんて (1993年12月)
                            
   都会の方では、女性の使用済みのセーラー服やらブルマー、下着などを売る店がはやっ ているのだそうだ。あるスポーツ新聞によると、女子高生の使用済みパンティーが1枚1 万円で売れるという。私はこの記事を読んで、「オレが女だったら履いては脱ぎ、履いて は脱ぎして大量にパンティーを売り、大儲けできるのに」と思ってしまった。一緒にこの 記事を読んでいた高校生にそう言うと、彼も「今ではかえって男の方が差別されています よねぇ」と感想をのべた。
 使用済みパンティーが1万円で売れるということは、それを1万円で買って、妄想を逞 しくしたりオナニーにふけったりする男たちがいるということだ。これを「変態」として 気味わるがったり、「性の商品化」として非難したりすることはたやすい。しかし、こうした商品を買う人にこうした商品が売れる背景には、世界中の男どもすべてに、 あまねく共有されている愚かしさがあるように思われる。
 本屋に行って、スケベな本が並んでいるコーナーの前に来たとする。ここで、まったく興味関心がおこらない男は、はたしてどれくらいいるのだろうか。ほとんどの男たちの心中では、「見てみ たい」という気持ちと「くだらん」「恥ずかしい」という気持ちが葛藤するであろう。そしてたま さかエロ写真などを手にしてみたり、あるいは買ってつくづくと眺めてみても、決して満 足はできまい。「つまらんことに金を使ってしまった」と悔やみながらも、「もっと見た い」という欲望はますます高まるばかりである。あるいは葛藤にうち勝って、スケベ本コ ーナーの前を素通りした場合にも、「バカなことをしなくてよかった」という安堵感と同 時に、「もったいないことをした」という気持ちも生じるものだ。
 電車の中などでも、近くに若い女性がいればどうしても視線がそちらに行ってしまう。 ミニスカートの女性がいれば、なにかの拍子にスカートの中が見えないかと思ったりもす る。見えたからといって、どうなるわけでもない。だれもが持っている、同じような腿や 膝があるだけである。女子高生のパンティーを手にしたところで、たかがパンティーであ る。それだけでかなり興奮し、妄想を逞しくすることはできるだろうが、欲望が満足でき るわけではないだろう。
実際の性行為にしても、完全な満足を得ることは困難であろう。 人は「もっともっと」と望み、そのためにSMやら何やら、ありとあらゆる秘術をつくそ うとする。そして、どこまでいっても決して満足できない。
 1万円でパンティーを買う男たちの愚かしさは明らかだが、「わかっちゃいるけどやめ られない」のである。その愚かしさにつけこんだ性産業によって、どんどん金を吸い取ら れていく。

 今まで「女性の下着がほしい」という欲望を実現するためには、男は下着泥棒になるし かなかった。つまり犯罪をおかし、下手をすれば牢屋に入るだけの覚悟が必要だったわけ で、そうした覚悟のないふつうの男たちは、自分の欲望の噴出をなんとかコントロールし て、ガマンして生きてきた。たまさかガマンできなくなって突発的に犯罪行為に走る男も 少なからず存在してきた。
ところが今や、その欲望は金で解決できるようになってしまっ たのだ。確かに世間体は悪いが、決して犯罪をおかしているわけではないし、その下着の 持ち主も納得ずみのことで、誰に迷惑をかけるわけでもない。
 少女たちの側から見ても、事情はほぼ同じだ。今まで自分の性を売ってカネを得ようと 思えば、直接的な性行為を売るか、自分の肉体を写真やビデオに撮らせて人目に晒すとい った方法しかなった。性行為には病気や妊娠の不安がつきまとうし、自尊心を傷つけられ ることも多い。自分の肉体を人目に晒せば、当然それが自分の身近な人に知られた時の反 応も心配である。どちらにしてもかなりの覚悟が必要だ。しかし、下着を売るという行為 が「発明」されて、彼女たちは多少の気持ち悪さを我慢すれば、自分の身元の匿名性を保 持したままで、手軽に収入を得ることができるようになった。
 こうして男たちは自分の弱みをますます手軽に金で解決できるようになり、女たちはそ の弱みに乗じてますます手軽に性を売ることができるようになっていく。今後も性産業は さらに安易で過激な手段を開発し、さらに発展し、肥大化していくことだろう。

 1993年の9月9日と9月20日の「朝日新聞」に「ブルセラショップの女子高生」 についての論文が掲載が相次いで掲載された。一方はこの現象を「近代的な道徳や規則が 時代遅れになってきた」として肯定的に評価しているのに対し、もう一方は否定的な評価 を下している。この後者(亜細亜大学助教授 奥井智之)の論文の末尾がちょっとおもし ろかったので、ここに紹介したい。

 「日本においてはいつ、近代的な道徳や規則が確立したのだろうか。それは常に、上位 者によって下位者に課せられる命令の形をとってきたのではなかろうか」「まったく時代 はずれのことながら、私たちの間ではこれから近代的な道徳や規則が確立されなければな らないのである。単に束縛としてあるのではなく、むしろ人間の自由と結びついた道徳や 規則がである」

 第2次世界大戦までの、天皇や上官の命令に国民が無条件に従うという「近代的な道徳 や規則」が崩壊した後、カネもうけだけを追い求めて世界に冠たる経済成長をとげた私た ちは、今、その経済成長によって復讐されているのだともいえる。
 現在進行中の事態を封建的な秩序からの解放と見ることもできるし、同時に人間関係の 危機、全き無秩序への転落と見ることもできる。プラスの方向へもっていくか、マイナス の方向へもっていくかは、これからの私たち次第なのである。封建的な秩序の崩壊したあ とで、ほんとうに民主的な新しい秩序、新しい人間関係のコードを創造することができる のか、これから私たちの日本人の底力が問われることになるのだろう。


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