私を「先生」とよばないで!!(1998年6月)

 みんなが私のことを「先生」とよびます。
 学校の生徒や卒業生たちが教師のことを「先生」とよぶのは、まあ仕方がないかもしれ ませんが、保護者も教師たちを「先生」とよんで当然のことのように思っています。教師 どうしもおたがいに「先生」とよびあいます。近所の人の中にも「先生」とよぶ人がいま す。旅先などで偶然に知り合った人も、私が教師をしていることを知ると、すぐさま「先 生」とよんだりします。数年前にある山村の中学校につとめていた時には、スーパーマー ケットで買い物をしても、役場で住民票をもらっても、農協で貯金をおろしても、どこへ 行っても「先生」とよばれていました。
 学校の忘年会は12月25日、2学期の終業式の日の夜にやるのがふつうです。近くの 温泉などで泊まりがけでやることもあります。ほとんどの学校が同じ日に忘年会をするわ けですから、この日の温泉街はたくさんの学校の忘年会でにぎわいます。教師どうしはお たがいに「先生」とよびあっていますから、この日は温泉街のあちこちで「先生」という ことばがとびかいます。旅館のロビーでも、風呂の中でも、二次会のスナックでも、また はストリップ劇場でも、おたがいに「やぁ○○先生」などと言い合っているわけです。私 が見ていても不気味な風景ですから、事情を知らない旅行者には実に不気味でしょう。
 教師たちにも「これは不気味だ」という自覚はあるようです。そこで職場で親睦旅行に 行く時に、校長は「社長」、教頭は「専務」などと決めて、おたがいに「先生」とはよび あわないことを決めた、しかしすぐにいつものクセが出てしまって長続きしなかった、と いう話を聞くこともあります。
 学校では教師以外にも事務員や校務員の人々が働いています。この人々のよび方が、時 々問題になることもあります。
 教師たちは生徒や保護者から「先生」とよばれ、おたがいも「先生」とよびあっていま すが、事務員や校務員の人々はふつう「○○さん」とよばれています。事務員や校務員の 人たちは、教師にくらべて学校の中では圧倒的に少数派です。ですからよび方以外でも、 さまざまなことで差別感をうける人が多いようです。そこで職員会などで「『○○主任』 『○○校務員』とよぼう」あるいは「教師どうしも『○○先生』はやめて『○○さん』と よびあおう(ただし生徒の前ではいままでどおり)」ということを決めたりしますが、あ まり守られてはいないようです。

 私は他人から「先生」とよばれるのも、他人を「先生」とよぶのもきらいです。
 「先生」というのは、他人を尊敬してよぶことばです。もともとは文字どおり「先に生 まれた者」という意味で、年上の人のことをさしていたそうです。現在は医者、学者、弁 護士、議員などが「先生」とよばれていますが、とくに学校の教師は「『先生』のなかの 『先生』」と考えられているようです。なかには生徒に向かって「先生はねぇ・・」など と自称する教師もいます。世の中の「先生」たちの中でも、平気で「先生」と自称できる 仕事は、教師以外にはないでしょう。
 現在の日本では、学校の教師はとてつもなくたいへんな仕事だと考えられています。初 対面の人と話をしていて、私が中学校の教師だということを知ると、だれもが「たいへん ですね」と同情してくれます。しかし、これだけ学校・教師はたいへんな状態になってい るということが国民的認識になっているのに、その「たいへんさ」を少しでもへらしてい こうという動き(たとえばひと学級の定員をへらすことなど)が、ほとんどないのはなぜ なのでしょうか。
 批評家の小浜逸郎さんは『先生の現象学』(世織書房 1995年)の中で、「先生」 というよび方について次のようにのべています。

  「センセイ」は、常に「普通の人」よりもいくらかは「高いところにいる人」でなくてはならない。その意味で「センセイ」はどこか「普通の人」とはちがった人として認識されている人たちの一種である。(『先生の現象学』P8)
  「センセイ」という呼称には、「普通の人」からどこか社会的に浮き上がった別格の 人、という意味が一貫して込められているのである。この「浮き上がった別格の」というイメージは、肯定的にも否定的にも使い分けができる。肯定的な側面を前面に押し出 して使うなら、それは足下にも近寄れぬ畏敬すべき雲の上の人、というイメージになる し、否定的な側面を前面に押し出して使うなら、それは、現実を知らない役立たたず、  というイメージになる。(『先生の現象学』P11)

 私は、教師を特別あつかいすることはやめるべきだと思います。
 現在の日本には、教師は「先生」であり、特別な存在であるから、どんなにたいへんな 状況の中でも超人的な力を発揮して、すばらしい教育をなしとげることができる、またで きなくてはならない、という意識が、まだどこかに残っているように思うのです。
 ほとんどの教師たちはふつうの人間です。超人的な力は持っていません。教師に超人的 な力が期待されるかぎり、学校・教育の混乱はつづくでしょう。超人的な力を持っていな い人間でも、教師という仕事がつとまるように、学校・教育の制度はかえていくべきなの です。教師は「特別な仕事」ではなく、「ふつうの仕事」になるべきです。

 学校から発掘調査の仕事に出向して、「これでしばらくは他人から『先生』とよばれず にすむ」と思ってよろこんでいたのですが、あまい考えでした。
 調査現場ではおおぜいの作業員の人たちが働いています。この作業員さんのほとんどは 60歳〜70歳くらいの方々なのですが、この人生の大先輩のみなさんから、発掘調査員 は「先生」とよばれているのです。私は「先生」とよばれるたびに、「『先生』なんてい われると困っちゃう」などと答えているのですが、まったく困ったものです。
 世の中では、教師をやめた人間のことも「先生」とよんだりしています。このまま私は 一生「先生」とよばれつづけるのでしょうか。


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