私が死刑に反対なワケ
(1999年9月)

 1 私は殺されたくない。だから「人殺しはよくない」という世界に住みたい。

 人を殺すことはなぜいけないのでしょうか。
 それは「私が殺されたくないからだ」と私は思います。
 もし「人を殺してもよい」という世の中に私が住んでいるとしたら(実際にそれ に近い国もたくさんあるようですが)、私はいつも「殺されるかもしれない」「あ の人は私を殺そうとするかもしれない」という不安と恐怖を感じながら生活しなけ ればなりません。そんな生活は私は絶対にいやです。
 「殺される前に殺してしまおう」という考えもあるでしょう。西部劇の世界なん かそうですね。しかしどんなにすばやいガンマンでも、後ろから撃たれたら死んで しまいますし、歳をとってウデがおとろえたらやっぱり殺されてしまいます。
 「人を殺すことは絶対によくない」という原則がきちんと確立している社会でこ そ、私はひとまず安心してくらせます(実際には他にもいろいろと不安の種はたく さんあるのですが)。
 私は他人に殺されたくありません。だから他人を殺したくもありません。

 場所を戦場に限定し、相手を敵に限定したうえで、「人を殺せば殺すほどよい」 というのが戦争です。兵士として戦場にかり出されれば、当然殺すか殺されるかと いう厳しい生活をしなければなりません。兵士にならなくても、自分の住んでいる 場所がたまたま戦場になれば、空襲や砲弾で一方的に殺される(時には味方の軍隊 に)ことになってしまいます。場合によっては近所の住民どうしで殺しあう(最近 の旧ユーゴスラビアなど)こともあります。そんな生活も私は絶対にいやです。私 は戦争で殺されたくはないし、殺したくもありません。

 「人を殺すことは絶対によくない」という原則が確立していても、それでも人を 殺す人はいます。そこで「人を殺したヤツは殺されなければならない」というのが 死刑です。  (実際には殺人以外の罪でも死刑にされた人はたくさんいるのですが、ここでは それは問題にしないことにします)
 他人の自由をうばった人は自由をうばわれる(刑務所に入れられる)し、他人の 財産をぬすんだ人は財産を没収されます(罰金をとられる)。だから他人を殺した 人が殺されるのは当然のことだ、と考えることもできます。

 「『人を殺すことは絶対によくない』から、死刑は絶対によくない」という主張 があります。しかしこの主張が正しいとするならば、「『他人の自由をうばうこと は絶対によくない』から、たとえ犯罪人であっても刑務所に入れて自由をうばって はならない」ということになります。つまりあらゆる刑罰が成り立たず、犯罪に罰 をあたえることはできなくなってしまいます。それでは私たちの生命も自由も財産 も、なにひとつ守られなくなってしまうでしょう。

 2 私は無実の罪で死刑にされたくない。

 それでも私は死刑には反対です。
 私が死刑に反対だという理由はいくつかあります。
 理由のひとつは、私自身が無実の罪で死刑にされてしまうのは絶対にいやだ、と いうことです。
 もちろん無実の罪で刑務所に入れられたり、罰金をとられたりするのもいやです が、他の刑罰ならあとで無実が証明されれば、ある程度のとりかえしがつきます。 しかし死刑の場合にはとりかえしがつきません。実際に死刑判決を受けたり、死刑 を執行したあとで、実は無罪だったと分かった例はいままでにたくさんあります。
 私がそんな目にあうのは絶対にいやです。

 3 私はだれかに私のかわりに仕事で殺しをさせたくない。

 もうひとつの理由は、死刑を実行するには実際に死刑囚を殺す人が必要だという ことです。
 私は相手が犯罪者であろうとなかろうと、仕事で他人を殺すなんてまっ ぴらごめんです。警察官などならば、相手が自分や周囲のだれかを殺そうとしてい る場合に、やむをえず殺してしまうこと(正当防衛というやつですね)があるかも しれません。しかし死刑囚の場合には、たとえ過去にだれかを殺したことがあった としても、今殺さなければまただれかが殺される、というわけではありません。そ れでも死刑制度がある以上、誰かが私のかわりに仕事で殺しをしているわけです。

 実際に死刑執行にかかわった人の体験談を読み、話を聞いてみると、多くの関係 者の人々が大きな苦しみを体験していることがよくわかります。実際に死刑囚を殺 す担当の人だけではなくて、日常死刑囚の世話をする人、監視をする人、処刑にた ちあう人、立場上処刑を命令する人、さらにはその家族の人々など、非常に多くの 関係者が苦しみ、悩み、中には精神を病んでしまう人もいるのです。ちょっと内容 が古いですが、ノンフィクション作家である大塚公子さんの『死刑執行人の苦悩』 (1994年 角川文庫)という本が参考になると思います。(もちろん個人差は あるでしょうし、中には殺人が好きな人もいるかもしれませんから、全員が必ず苦 しみを感じている、ということはないかもしれませんが)
 こうした人々にも当然のことですが、人権があります。その人権を守るためにも 死刑はなくすべきでしょう。

 「みんながいやがるようなつらいことでもだれかがやらなければならない、とい う仕事は他にもたくさんあるのだから、死刑を実際に執行する人たちがつらい思い をするからといって、それが死刑を廃止するべきだという理由にはならない」とい う考え方もあると思います。
 しかしそういう場合にも、いくつか考えてみなくてはならないことがあると思い ます。
 まず、「だれかがやらなければならないのだからしょうがない」という考えが通 用するのには、程度の問題があると思うのです。つまりその仕事の内容がある程度 だれでも(あなたでも、私でも)耐えられるようなものならば、「だれかがやらな ければしょうがないのだから、あなたがやるべきだ」といえると思うのですが、そ の仕事をする人々の苦しみがとてつもなく大きい場合には、最初からそんな仕事は するべきではない、ということです。
 たとえば兵士が戦場でとてつもなく悲惨な目にあうということは、戦争に反対す る理由のひとつになります。強い放射能で汚染された場所で働く人々が必要だとい うことは、原子力発電所に反対する大きな理由になるでしょう。

 もちろん「それでもやるべきだ」という仕事もたしかにあると思います。命がけ で働く警察官や消防士の人々がいるからこそ、私たちが安心して生活することがで きるのですから。
 しかしそうした犠牲も、それが「社会全体のためにどうしても必要だ」という場 合にかぎられているはずです。たいして必要がないことに犠牲を強いるのは悲劇で す。

 4 私には死刑が絶対に必要なものだとは思えない。

 死刑は本当に必要なのでしょうか。
 もし無理にやらなくてもいいこと、別のやりかたにかえてもいいことならば、こ れはやめるべきだし、変えるべきでしょう。
 「それでも死刑は必要だ」という意見(「犯罪防止に役立つ」「社会全体の安定 のために」「殺人の被害者や遺族の感情を考えて」など)ももちろんあるでしょう が、実際に、現在では世界の半分以上の国々が死刑を廃止しています。そうし た国々でもちゃんと社会が成り立っているのですから、私は無理に死刑を続ける意 味はないと思います。

 4 「遺族の感情」を絶対優先のものとしてもらっては困る。

 近親を無残に殺された人が、「犯人を殺してやりたい」「このむくいを受けさせ たい」と思うことは多いでしょう。
 しかしもちろん、すべての遺族がそう感じるわけではありません。「犯人をきび しく罰してほしい」とは思っていても、「絶対に死刑にしてもほしい」とまでは思 わない人もいるでしょう。中には「かんたんに殺してしまうのではなくて、犯人に きちんと反省・謝罪をさせてほしい」などという人もいると思います。
 実際に、近親を殺された遺族の中にも、死刑廃止運動に関わっている人が何人か います。そうした人々は、「近親を殺されたくせに死刑廃止運動をするとはけしか らん」「殺された人間を思う気持ちが足らん」などと批判されることもある、とい う話もあります。「近親を殺されたからには『犯人を死刑にしろ』と願うのが当然 だ」という考えがあるらしいのですね。
 私自身が殺人の被害者や遺族になったとして(実際にはまだなったことがないの でわかりませんが)、私の実際の感情とはちがうのに「殺されたのだから犯人の死 刑を願うべきだ」などと強要されるのなんか、私はいやです。
 犯罪に対する刑罰をどの程度のものにするか、という問題で、「被害者の感情」 (殺人の場合には被害者は死んでしまっているので「遺族の感情」)というのは、 確かに配慮されるべき重要な問題のひとつでしょう。
 しかしこれも、無条件に最優先されるべきものでありません。遺族の中には江戸 時代みたいな「仇討ち」をしたいと思う人だっているかもしれませんが、そんなこ とをしたら、これはまた新しい犯罪になってしまいます。
 「遺族の感情」にある部分では反しているとしても、やはり死刑は廃止されるべ きだ、と私は思います。

 5 「犯罪者にも人権はある」だから死刑はおかしい。

 死刑という刑罰がおこなわれるためには、「犯罪者には人権はない」または「凶 悪な犯罪者には人権はない」という考えが必要です。
 「犯罪者には人権はない」という考えはむかしは当たり前でした。それどころか 「容疑者には人権はない」という考えすら当たり前で、平気で拷問しまくっていま した。
 その後こうした考えは改められて、容疑者にはもちろん、犯罪者にも人権が認め られるようになってきました。私たちはいつ容疑者、犯罪者になってしまうかわか らない(犯罪者はまだしも、容疑者にされてしまう可能性はいつでもある)のです から、容疑者、犯罪者に人権が認められるのは当然のことだと思います。
 たとえ犯罪者として刑務所に入れられ、自由をうばわれたとしても、それですべ ての権利が失われてしまうわけではありません。刑罰でうばわれるのはその人が本 来持っている権利の一部であり、全部ではないのです。終身刑以外の場合には、 ある一定の期間がすぎれば、そのうばわれていた権利もまた回復されます。終身刑の場合には一生刑務所に入れられるわけですが、これも、その人が本来持ってい る権利を、全部うばわれてしまうわけではありません。罰金にしても、その人の財 産のすべてを没収するわけではありません。
 これは「犯罪者にも人権はあり、刑罰として一部の権利を制限されることはあっ ても、すべての権利をうばわれることはない」という考えにもとづくものだと思い ます。
 しかし死刑という刑罰は、殺してしまう相手に人権(人間としての権利)を認め ていてはできないはずです。人間としての権利を認めていないからこそ、殺してし まうことができるのです。つまり死刑には、むかしながらの「犯罪者には人権はな い」という考えが根強く残っているのだと思います。
 「犯罪者には人権はない」という考えはまちがっている、と私は思います。だか ら死刑もまちがっている、と私は思います。これが私が死刑に反対する最大の理由 です。

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