登校拒否・不登校問題に私が期待すること
(1994年8月)
1993年12月、私は「登校拒否ネットワーク・広島」という、登校拒否=不登校の
子供と親たちの会に参加した。
この会には子供や親たちだけではなく学校や塾の教師、精
神科医なども多数参加しているのだが、その中でもみずからも登校拒否の経験者であり、
現在尾道で塾を経営し、その塾を拠点にした子どもたちが「『あそびのページ』編集グループ」を組織して、自分たちで『あそびのページ』という月刊紙を発行している、井上浴
さんの話がけっこう面白かった。その話の要点は、
(1)「学校」という制度が崩壊していくのは、歴史的必然である。これは、江戸幕府が
滅亡したり、公地公民制が崩壊して荘園制がうまれたりするのと同じことで、文部省や学
校や教師たちがいかに努力しようと、とどめることはできない。公地公民制のもとから、
農民たちがどんどん逃亡してしまったように、今、子どもたちは学校から逃亡していきつ
つあるのだ。
(2)日本の社会全体が貧しかった時代「だれでも学校へ行って勉強できる」「そしてそ
の結果よい成績をおさめさえすれば、社会の中で地位が上昇し、貧しさから脱出できる」
という、一種の平等主義、競争原理によって、日本の学校は世界に例のない成功をおさめ
てきた。しかし日本の社会全体が豊かになった現在、子供たちが無理してまで学校に通わ
なければならない必要性を感じなくなるのは当然である。
(3)現在、問題なのは登校拒否をしている子どもたちが、登校拒否をしているというこ
とでその人格そのものを否定されてしまっているということだ。
登校拒否という行為その ものは「学校に行かない」という当然の権利の行使なのに、彼らはそのことで「おまえは
人並み以下の、なまけもののダメのヤツだ」「人生の落伍者だ」とされ、全人格を否定さ
れてしまう。そして彼ら自身も「オレはダメなやつだ」「みんなは学校に行っているのに
自分はおちこぼれてしまった」という自信喪失と挫折感におしつぶされ、自分自身を否定
して、部屋にとじこもったり、自殺したり、あるいは親を殺したりしている。そこまで子
供たちを追い詰める先兵となっているのが、本人の親と教師たちである。
(4)こうした境遇から登校拒否の子どもたちを解放するには、彼ら自身が差別に反撃す
る運動をおこしていくしかない。被差別部落民の水平社運動やアメリカ黒人の公民権運動
のように、差別されている者たち自身が「オレたちは正しい」「オレたちは優れている」
という自信をもって、差別に対して反撃を始めることでしか、差別はなくせない。今、登
校拒否の子どもたちもそうした運動を始める時期にきているのではないか。
というのである。私もこの考えにはほとんど賛成である。
現在、日本の学校制度は深刻な危機に直面している。しかし、学校自身や教師たちは状
況の変化に対応するのが精一杯で、とても学校を変えていくだけの力もなく、どう変えて
いくべきかという真剣な議論もしておらず、明確な目標もない。
子供たち自身が学校を変えていくだけの政治的な力を持つことは非常にむずかしい。彼
らは「学校」や「教育」という大きな制度を変えることよりも、クラス内の人間関係や将
来の進路について自分個人の利益を追求することに忙しい。彼らは学校や教師には大した
力がないことをよく知っているから、いざとなれば教師の言うことなど無視して居直って
しまえばよい。
親たちこそ、本来学校を変えていく政治的な力があるはずなのだが、彼らはとにかくわ
が子のことしか考えられない、とてつもなく身勝手な存在である。特に多くの母親たちに
とっては「世界はこの子を中心にまわっている」のであって、わが子のために召使のごと
くかしずいている。彼らは現在の状況に大いに不満を持っているものの、状況を変えてい
くことよりも、いかに状況にすばやく順応して、目先の利益(よりよい成績、よりよい高
校、よりよい学歴)を獲得していくかということに血眼になっている。その考えや目指す
ものもあまりにも多様で、組織されてもいない。
マスコミは状況の変化をある程度正確に伝えはするが、全体の状況を公平に見るよりは
一部の極端な事象に注目して、さらに極端な方向へと人々をアジることに熱中しやすい。
文部省は最近の「業者テスト廃止」問題にみられるように、強権的に状況を改変する力
を持ってはいるが、あまりに硬直した官僚的な組織であり、的確に状況を把握していると
はいいがたいし、政治的な思惑に動かされてばかりもいる。
そうした中で、登校拒否の子供たちと親たちこそが、今の学校制度から自発的に落ちこ
ぼれてしまい、よい成績やよい学歴に対する希望も失われてしまった(そこまで覚悟を決
めるには、子供も親も相当の時間を必要とするのだが)ことで、より直接的に現在の学校
制度と対決し、根底から学校を変えていく力を、自然に持つようになってきているのでな
いかと思う。その組織も草の根レベルから、全国的なつながりを持つまでに成長してきつ
つある。
今後さらに状況がすすんでいって、あと10年、20年とこのままでいけば、やがて1
クラスのうち10人も15人も生徒が登校拒否状態になるという時代がくるであろう。そ
うなった時には、もはやどうあがいても「みんないっしょに」という理念は通用しなくな
ってしまうだろう。そうなってはじめて、もう一度基本的なことから、日本の学校制度全
体を見直し、現実的に変えていく作業が始まるであろう。
ここで『子どもたちが語る登校拒否』(1993年 世織書房)という登校拒否児たち
の声を集めた本の中から、特に面白かった文章を紹介しよう。筆者は当時15歳の佐藤寿
栄さんである。
やりたかったこと
学校という所はいろいろあっていいと思います。私達生徒が学校を選べれば、もっと良
いと思います。今の日本では、学校どころか先生・授業なども選ぶことはできません。そ
のうえ、与えられたものを決められたスピードでこなしていかなくてはなりません。人に
はたいてい相性というものがあり、ある人にはよくてもある人にはよくないという場合が
あります。それなのに、それを選ぶどころか拒否するのもいけないとされています。
私は現在、登校拒否をしています。たいてい学校側は、「午前中だけでも」「午後だけ
でも」「出たい授業だけでも」「図書室・保健室」「給食だけでも」「放課後人がいなく
なってから」などなど思いつくだけでもこんなに寛大にうけいれようとします。(もちろ
ん例外もあると思います。校長しだいですから)そしてほんの10分でも1時間でも1日
登校したことになるのです。
私が落ち着きはじめて母といろいろな話をしましたが、ひとつ面白いのでいつかやりた
いというのがあります。それは「学校をいまのままフリースクールにしてしまう!」とい
う話。
私達をそんなに寛大にうけいれてくれるというのなら、いっそみんなで好きな授業だけ
うけに行ってしまえばいいじゃないか。できれば5,6人の登校拒否児たちで始まったこ
ろ入って行く。机や椅子などなくてもなんとでもなるし、好きな授業だけでもいいと学校
側からいってきたのですからこれを利用しない手はありません。好きな時間に行って好き
な授業に出て・・・。これだけ好きにやれれば今の学校でもフリースクールになったも同
然でしょう?
それに公立中学で出来てしまうのでそこがいいのです。でも残念ながら人
が集まらず実現していません。(『子どもたちが語る登校拒否』P472)
こんな「学校フリースクール化運動」を、登校拒否の子供たちが始めたら、それこそ現
行の学校制度を根底からくつがえしていく、公民権運動に似た広範な力を持てるようにな
るのではないかと思う。これを読んで、私もそんな運動のはじまりを期待するよ
うになった。
登校拒否=不登校現象は必ずや今後ますます拡大していくであろう。そしてそのことは
否応なく「みんないっしょに」という現在の学校制度を、根本から突き崩し、変革してい
くことになるだろう。私たちは、そうした将来像をみすえて、そろそろ覚悟をきめるべき
時期にきているのではないだろうか。