「登校拒否=不登校」論争を考える(1995年12月)
1 登校拒否=不登校問題の問題点とは?
高度成長期以前の日本ではずっと、子供たちが学校に行けない最大の理由は≪貧乏≫で
あった。世界のほとんどの国々では現在でもそうである。
日本国憲法は第26条第2項で「すべて国民は、法律の定めるところによりその保護す
る子女に普通教育を受けさせる義務を負う」「義務教育はこれを無償とする」と規定して
いるが、この規定はおもに「家が貧乏で子供を学校に行かせるなんてできない」という親
たちに対して、「カネはいらないから子供を学校に行かせなさい」という場合を想定して
つくられている。つまり「子供は学校に行きたがるものだ」「勉強したがるものだ」とい
うことを大前提としていて、経済的要因以外のことが原因で子供たちが学校に行けなくな
る、などということはまったく想定していない。
ところが、「家が貧乏で学校に行けない」などということがほとんどなくなってしまっ
た現在の日本で、非常に多くの子供たちが自発的に学校に行くことを拒否しており、その
数は毎年確実に増えつつある。
この「登校拒否」=「不登校」の増加こそ、現在の学校の存立する基盤を根底から覆そ
うとしている。
日本の学校は「みんないっしょに」ということを最大のよりどころとし、その教育的営
みの根幹としてきた。子供たちはみんないっしょに入学し、毎日同じ制服を着て、同じ時
間に登校し、同じ授業を受け、いっしょに遠足や修学旅行に行き、ともに体育祭や文化祭
に若い情熱を燃やし、クラスで団結して合唱コンクールにとりくむ。そしてみんないっし
ょに進級し、いっしょに卒業していく。みんながいっしょにやることこそ正しいこととさ
れていて、一人でも脱落する者や落ちこぼれる者がいれば、それは非常に残念なことと考
えられている。
日本の学校の教師たちは、この平等思想にもとづく「みんないっしょに」の理念を最大
のよりどころとして、その仕事をおこなってきた。クラスを一丸とした学級指導や、「み
んな仲間なんだから」おたがいに教えあって、落ちこぼれをつくらないような学習指導こ
そが、正しい姿として称揚されてきた。
こうした学校の「みんないっしょに」主義は、戦後民主主義の思想に支えられ、その平
等思想の根幹となってきたらしい。
「学校に制服は必要だ」という主張の有力な論拠のひとつに、「私服にすると貧富の差
によって服装の違いがあらわれ、貧乏な家の子がイヤな思いをする」というものがある。
現在の日本は資本主義の世の中なのだから、社会の中に貧富の差があるのは当然のことな
のだが、「学校だけは現代社会のすべての悪い要素から隔離され、理想的な平等社会でな
くてはならない」という信仰が、広く日本の社会を支配しているようだ。
「遠足のおやつは500円以内」「修学旅行のこづかいは1万円以内」などという規制
の論拠としても、この「貧富の差を超越する平等主義」は根強い力を発揮してきた。習熟
度別の学級編成が「エリート教育だ」として批判され、あまりこの国の教育に根づいてい
ないのも、「落第」という制度が実際にはほとんど機能していないのも、こうした戦後民
主主義の平等思想によって忌避されてきたからなのではないだろうか。現在の日本の学校
は、こうした「虚構の平等」を追求することには熱心だが、個人の権利や責任といったこ
とを追求するには、あまりにも不熱心なままできたようだ。
そうした中ですこしでも「みんなとちがう」ということは、非常に恥ずかしいこと、忌
むべきこととされ、できるだけ避けなければならないと考えられてきた。
ところが「登校拒否」=「不登校」はそうした「みんないっしょに」の理念を根幹から
破壊してしまうのである。いくら学校や教師が「みんないっしょにやろうぜ」と言っても
「いちぬけた」とばかり、学校に出てこないのだから。教師は子供が学校に来てくれれば
こそ、一応教師らしいことができるものの、子供がハナから学校を拒否してしまえば、全
くなすすべを知らないといってよい。
今や日本じゅうのほとんどの学校、ほとんどのクラスに「登校拒否」=「不登校」の生
徒がいる。従って教師であるかぎり、「登校拒否」=「不登校」問題と無縁ではいられな
い。日本の教師たちは、いままでの自分たちの営為を根底から破壊する現象に直面し、鋭
く対応を迫られているのだ。
ところがこの登校拒否=不登校という現象をめぐって、現在日本にはおおきくふたつの
あい対立する考え方があるように思う。現実に行われている議論や実践はそのふたつの考
え方のいずれかの中間点にあり、この両論だけが対立しているわけではないのだが、ここ
ではあえてふたつの極論を対比し、その優劣を競わせてみることにしたい。
そこで、「ひとりディベート」とでもいえるような手法を採用し、両者を比較検討して
みることにする。本来のディベートでは両論にわかれて甲論乙駁し、それをさらに審判が
判定するのだが、この文章ではその三役を私が一人でこなしてしまおうと思う。もとより
私個人の理解にもとづいて両論の論理の展開しているので、当然異論もあろうと思う。ま
してや同じ私が判定者としての中立性を保てるわけもない。これはあくまでも文章上の遊
びである。読者諸賢は自分なりに「ひとりディベート」に参加し、自分で判定してみてい
ただければよいと思う。
2 両者の理論の基本的な対立点を比較してみよう
ここでは便宜上、一方を「不登校派」、一方を「登校拒否派」と呼ぶことにする。
まずは「不登校派」「登校拒否派」のそれぞれについて、その理論的背景を簡単に整理
しておきたい。
<不登校派>
現代の日本での多数意見。不登校とは無関係な人々はもちろん、不登校の本人やその保
護者、教師、精神科医など、不登校に関わる人々のほとんどがこちらのがわに所属してい
る。いわば社会の「常識」。
現在の学校や社会の制度を基本的に肯定的にとらえ、不登校をその制度や規範からはず
れた例外的な現象として、否定的にとらえている。
<登校拒否派>
現代日本社会では圧倒的に少数派であり、登校拒否の子どもやその親たちの中でも、ほ
んの一部の人たちにしか支持されていない。つまり「異端」である。しかし近年その支持
者は急速にふえつつある。
現在の学校や社会の制度を基本的に否定的にとらえ、そうした社会の歪みの犠牲者、社
会や学校に対する本質的な異議申立ての行動として、登校拒否をとらえている。
以下、いつくかの理論的対立点を整理してみる。
(1)不登校=登校拒否の原因はなにか
<不登校派>
不登校の原因は、本人のがわにある。
いじめを受けたり、成績が悪かったり、勉強やスポーツが苦手でも、毎日ちゃんと学校
に行っている子供たちは多い。むしろ圧倒的多数の子供たちはどんなにイヤなことがあっ
ても学校に登校している。
ふつうの子供たちにはできるはずのふつうのことが、なぜできないのかというと、それ
はやはり本人のがわに問題があるからなのだ。本人が怠け者であったり、精神的に弱く、
甘えがあるからであり、本人のいままでの生育歴=家庭の教育のしかたに問題があったか
らなのだ。
<登校拒否派>
登校拒否の原因は学校、社会のがわにある。
学校や社会が、画一的、管理的で個人の個性や人権を認めようとしないために、登校拒
否という現象が起こっているのである。現在の日本の学校にはいじめ、校内暴力、体罰、
不合理でこまかく生徒の生活を規制するきまりなど、あまりにも多くの問題がある。
学校や社会の方が異常なのであり、そうした異常さの中では学校に行かないことの方が
正常なのだ。
(2)不登校=登校拒否は病気であるか
<不登校派>
不登校は病気であり、治療の対象である。
本人の精神的な弱さが原因なのだから、これは精神病の一種である。病気であるからに
は、これは医者の治療の対象である。
<登校拒否派>
登校拒否は病気ではない。
今まで多くの不登校の子供たちが病気あつかいされ、むりやり病院に入れられて、精神
科の医者の治療の対象とされてきた。そしてたくさんの子供たちが傷つけられ、治療の名
のもとに人権を侵害されてきた。
登校拒否はあたりまえの生き方であり病気ではない。いじめを受けたり、勉強がわから
ないなどの理由で、学校に行くのが非常に精神的につらいという場合に、「それでも学校
にいかなくてはならない」など思い込んでいる方が、かえって強迫神経症の症状である。
(3)不登校=登校拒否は悪いことか
<不登校派>
不登校は悪いことである。
子供たちは学校に行くことで社会生活に必要な知識を学び、また社会の中での生き方を
学んでいくものだ。学校では組織的、計画的に学習を積み上げていって、将来社会で立派
な大人として生活していくだけの知識や技術をまなぶことができる。それだけではなく、
学校は、子供たちが同じ世代の多数の子供たちとつきあい、おたがいに競いあい、ぶつか
りあったり、励ましあうなかで、他人とのつきあいかたを学んでいく重要な場である。
学校に行かず、多くの人間のあいだで揉まれることなく成長期をすごしてしまうことは
その人間の人格形成に重大な欠落をもたらしてしまう。
<登校拒否派>
登校拒否は悪いことではない。
学校に行かないことは現在の日本ではかえって正常な生き方である。正常とはいえぬま
でも、学校に行く、行かないは個人の選択にまかせられるべきことであり、子供たちには
学校に行かない権利、授業を受けない権利だってあるはずだ。学校に行かないことは犯罪
でもなんでもない。何も考えずに学校に習慣的に登校していることこそ、異常である。
学校に絶対に行きたくない、行こうとすると頭が痛くなったり腹が痛くなったりすると
いう子供を、無理やり学校に行かせる必要はまったくない。学校がいやな生徒はどんどん
登校拒否になればいいのだ。
(4)不登校=登校拒否は直さなくてはならないか
<不登校派>
不登校は直さなくてはならない。
子供を学校に行かないままに放置しておくことは、その子の将来にとって、とりかえし
のつかない損失になるので、できるだけはやく不登校を終わらせ、学校に復帰させなくて
はならない。
<登校拒否派>
登校拒否は直さなくてもよい。
学校に行かなくても生きていける。
学校は、その管理的な教育手法によって、子供たちをあるカタにはめてしまうことが多
い。かえって登校拒否をしていた方が子供たちの個性や才能をのびのびと伸ばすことがで
きる。小さな学校社会の中だけで大きくなるよりも、登校拒否でも、広い社会の中でさま
ざまな体験をし、生産活動などをしている子供たちの方が、はるかに大きく成長し、社会
性も身につけることができるものだ。学校に行かない子供たちは自由な時間が多いから、
いったん勉強する気になれば、集中して勉強することができるし、自分の興味関心のある
ことには、授業時間などにとらわれず、たっぷり時間をかけることができる。
かえって登校拒否の方が大きく成長する場合もある。
(5)不登校=登校拒否は直せるか
<不登校派>
不登校は直すことができる。
不登校の原因は本人の精神的な弱さにあるのだから、その精神的な弱さを治療や指導に
よって克服し、精神的に自立させることができれば、不登校は直すことができる。実際に
多くの子供たちが、直って学校に復帰している。
<登校拒否派>
登校拒否の解決は本人次第である。周囲の者がとやかく言うべきではない。
本人が学校に行くことをいやがっているのに、むりやり学校に行かせても、本人の状態
をより悪くするだけだ。本人が本当に学校に行く気にならないかぎり、登校拒否は直らな
いし、むりやり学校に行かせようなどとは絶対にするべきではない。
(6)本人の自主性を尊重すべきか
<不登校派>
子供の自主性を過信してはならない。
子供とは未熟な存在であり、放任しているとどんどん転落してしまうものだ。必ず計画
的、組織的な指導が必要である。
不登校をしている子供たちは、精神的に病んでいるのであり、治療の対象である。本人
の自主性そのものが狂っているのだから、彼らが自然に自分の欠陥を自覚したり自ら社会
性を獲得していくなどということはありえない。つねに周到に配慮された指導や治療を加
えることが必要なのだ。本人が学校に行きたくなるまで待っているようではダメで、時期
を見て登校を刺激したり、時には力づくで学校に連れていくことも必要である。
<登校拒否派>
本人の自主性を最大限尊重するべきだ。
子供だって一人の独立した人格である。
自分の人生は自分で決めるものだ。もしその途中でいろいろな失敗があっても、その責
任は子供自身が引き受けるべきことであり、そうした失敗や挫折を繰り返しながら、人間
は成長していくものなのだ。子供たちは自分で登校拒否という人生を選択したのだから、
その選択を尊重して、見守っていくことが親や教師の役目である。
(7)不登校=登校拒否問題の解決には早めの対策が必要か
<不登校派>
不登校には早めの対策が重要である。
いったん長期の登校拒否になってしまうと、解決がむずかしいので、はやめに不登校の
傾向を持つ生徒を発見し、その原因をみきわめて、対応策を考え、直していくという、早
期発見、早期治療が大切である。
<登校拒否派>
登校拒否は短時間で解決しようなどとするべきではない。
学校に行くのも行かないのも、本人の選択次第である。登校拒否をはじめたら、そのま
ま学校にずっと行かなくてもかまわない。すべて本人の自主性に任せればいいのだから、
焦る必要は全くない。
自分の道は自分で切りひらかせればよいのだ。
(8)不登校=登校拒否問題の解決とはなにか
<不登校派>
不登校問題の解決は、学校に復帰することである。
学校に行くことと、行かないことの間には天地のごとき開きがある。学校に行くことで
子供たちは自然に社会性や知識を身につけていくことができる。不登校問題の解決は学校
に行くことで、学校に行きさえすればものごとはある程度自然に解決していくものだ。
<登校拒否派>
登校拒否問題の解決には、学校をめぐる社会のありかたが変わることが必要である。
いじめや体罰の被害を受けていたり、学校の不合理なきまりが納得できない子供たちに
とって、「がまんして学校に来い」などというのはなんの解決にもならない。いじめで自
殺するよりも、登校拒否する方がずっと正常な反応である。いじめや体罰、校則など、さ
まざまな問題がある学校や、登校拒否を認めない社会のありかたそのものが異常なのだ。
学校や社会が個人の人権を無視し、画一的、管理的であるからこそ、登校拒否問題がおこ
っているのである。問題の解決には、学校や社会が個人の人格や多様性を認めるように、
根底から変わっていかなくてはならない。
「登校拒否はあたりまえ」という社会、登校拒否が「問題」でなくなる社会の実現こそ
が、登校拒否問題の解決といえるだろう。
両者の理論の対立は、現在の日本の社会や学校のありかたを、基本的に肯定的にとらえ
るか、それとも否定的にとらえるか、というちがいにその根源がある。つまりコトは不登
校=登校拒否という現象をどうとらえるかという問題にとどまらず、現代の社会を総体と
してどう評価するかという、非常に大きな価値観の問題に関わってきているのである。
3 両方の理論の有効性を検証してみよう。
現実に学校に生きている教師としては、両者の形而上学的な論争にまどわされることな
く、実際の個別の不登校=登校拒否の事例に即して、どちらがどの場面ではより有効かと
いうことを、取捨選択していかなくてはならないだろう。
以下はいくつかの視点を設けて両者の理論の有効性を検証してみたい。
(1)不登校=登校拒否をしている本人が、今現在を生きる上でより有効なのはどちらか
今の自分の生き方を、周囲から否定的に評価され、また自分自身でも「オレはダメなヤ
ツだ」と考えながら生きていくのは、とてつもなく苦しいことである。そんな状態が長く
続けば、それこそ自殺でもするしかあるまい。人間はやはり「オレはこれでいいのだ」と
今ある自分自身を肯定し、周囲からも「お前の生き方はそれでいいのだ」と肯定的に評価
してもらうことが、絶対に必要である。
しかし、今現在の自分自身を全面的に肯定してしまうことは、自己満足におちいること
であり、自ら高い目標を設定して努力し、向上していこうという気持ちは生まれにくいの
ではないかとも考えられる。
<判定>とりあえず現在のことのみを考えれば、登校拒否派の圧勝か。
(2)不登校=登校拒否をしている本人が、将来より大きく成長できるのはどちらか。
たぶんここがいちばん問題となるところであろう。
子供たちが学校に行かずに、自分だけの力で学力を身につけるのには、学校で勉強する
以上の高い能力と努力を必要とするだろう。学校に頼らなくてもよいだけの才能を持つ人
や、学校に代わる塾やフリースクールに通ったり、家庭教師を雇うことができるだけの経
済力がある人にとっては、学校の必要性はそんなに高くない。
しかし、いうまでもなくそうした高い才能を持つ子供や、まるまる学校に肩代わりでき
るだけの塾や家庭教師に頼れる経済力のある家庭はほんの一部である。大多数のふつうの
子供たち、ふつうの家庭にとっては、学校に全く頼らずに自分の才能を伸ばすことは非常
に困難といってよいのではないだろうか。
いろいろな個性を持った多数の人間の中で生きていく「対人関係」の技能も、人間が社
会の中で生きていく上では、ある程度必要な技能である。人間はだれしもひとりでは生き
られない。学校という同世代の人間が多数いる社会を拒絶ししまえば、自分から学校とは
ちがった場に飛び込み、自分の力で「対人関係」の技術を磨いていかなくてはならなくな
る。
もとより現在の日本社会の「学力」や「対人関係」の規範を否定して、全くちがった規
範を掲げることも可能だ。登校拒否派の主張は、最終的にはそこまで行きつくことになる
だろう。
<判定>現状の社会制度を肯定する前提にたてば、不登校派が有利。
その前提そのものを根底から疑うならば、登校拒否派がやや有利か。
(3)不登校=登校拒否をしている本人の「教育を受ける権利」が、よりよく保障される
のはどちらか。
「学校以外では教育が受けられない、だから学校に行かなくては」と不登校派は主張す
る。
しかし憲法は「教育を受ける権利」を国民すべてに保障している。したがって不登校
=登校拒否をしている子供たちにも、当然「教育を受ける権利」はあるはずで、政府はそ
の権利を保証するために、学校以外でも彼らが学習できる場を設けるべきである。
しかし一方では「政府が『教育を受ける権利』を保障するために設置した学校を拒否し
ているのは、自らの『教育を受ける権利』を放棄しているのであり、政府がそこまで面倒
を見る必要はない」という主張も一応可能ではある。
また、学校で集団的にうける教育を拒否している者に対して、どのように「教育」を施
していけばよいのか、技術的な問題も大きい。
この問題について登校拒否派は、「フリー スクール(文部省指定の学習指導要領や設置基準にとらわれない自由や学校や塾)やホー
ムスクーリング(親などが指導者となり自宅などでおこなう教育)も学校教育と同等のも
のとして認めるべきだ」と主張している。
<判定>これも判断に迷うところだが、登校拒否派が若干有利か。
(4)不登校=登校拒否の親たちが、より生きやすいのはどちらか。
親にとって子供とは、半生をかけた人生最大の生産物であり、自己の化身である。その
わが子が不登校=登校拒否になったりすれば、ほとんどの親は狂乱し、自らの精神的安定
をも失ってしまうものだ。
今現在のわが子の状態を否定的に見ることは、親自身にとって非常に苦しいことだし、
子供本人も精神的に追いつめていくことになる。自分の親から「オマエは今のままではダ
メだ、ダメだ」と言いつづけられたりすれば、ほとんどの子供はまいってしまう。追いつ
められた末に家庭内暴力でもおこして反撃するしかない。
しかし、子供は甘やかされているばかりでは成長しない。時には厳しく躾け、高い目標
を設定し、成果を期待したり、努力を評価してやることも当然必要だ。]
<判定>とりあえずは登校拒否派が有利であろう。
(5)不登校=登校拒否に直面している教師たちが、より仕事がしやすいのはどちらか。
子供たちが学校に来てくれるからこそ、教師の商売が成り立っている。学校の存在を基
本的に否定している不登校=登校拒否の存在は、それだけで学校と教師の存立基盤を脅か
している。
誰であれ、自分の現在やっている仕事を否定的なもの、意味のないものと考えながら、
情熱を持って働くことなどできるものではない。教師という仕事そのものが現在の学校社
会の体制を守り、秩序を保持していく立場にあり、その体制そのものに疑問を持ってしま
っては、うまく仕事をこなしていくことなどできない。たまさか疑問を感じても、学校現
場というところはやたらと忙しくて、なかなか立ち止まってゆっくりモノを考えたり討論
するヒマなどないし、実際に学校社会を変えていくためには、とてつもなく膨大なエネル
ギーを必要とする。
<判定>現在の教師たちがおかれている状況から見れば不登校派が有利。
しかし「教師はもっと根源的に教育という営みに携わるべきだ」と考えれば、登校拒否派が有利か。
(6)不登校=登校拒否をしていない子供たちが、今現在をよりよく生きることができるのはどちらか。
社会の多数派の人々は、常に少数派を異端として排除し、差別することで、自らの優位
性を確認し、社会秩序を維持していくものだ。だから圧倒的多数の毎日学校に行っている
子供たちが、不登校=登校拒否を否定的にとらえるのは、当然のことといえよう。
しかし、では不登校=登校拒否をしていない子供たちが現在の学校社会に完全に満足し
ているかというと、そんなことはない。彼ら自身も学校の制度や秩序のなかで、おちこぼ
れたり、差別されたり、差別したりしている。そして今現在、不登校=登校拒否からほど
遠いと思われている子供も、いつ不登校=登校拒否におちいるかわからない。
ほんとうにひとりひとりが大切にされる社会とは、異なる価値観を持つ者が共存できる
社会でなくてはならない。異端が容易に排除されてしまう社会は、多数派にとっても決し
て住みよい社会ではない。
<判定>現状維持のみを考えるならば不登校派が有利。
しかし、もっと「より生きやすい世の中」ということを考えれば、登校拒否派が有利だろう。
(7)不登校=登校拒否問題を解決するために、より効果的なのはどちらか。
不登校=登校拒否をめぐるふたつの意見の対立は、結局のところ個人対社会全体の戦い
である。
学校や社会全体を変えていくのには、長い時間と膨大なエネルギーが必要で、そう簡単
に変わるものではない。それに比べれば個人が変わる方がまだしも簡単だ。
しかし、どんなに差別され、弾圧を加えられても、絶対に自分の生き方を変えない人間
は、どんな時代にもいるものだ。しかも現在の日本では「学校に行かない」という人間を
強制的に学校に来させる手段も権限も、だれも持ってはいない。
<判定>短期的な解決をめざすなら、不登校派が有効。
根本的な解決には登校拒否派が有利であろう。
(8)社会全体をよりよいものに変えていくために、より効果的なのはどちらか。
あらゆる社会の制度は、基本的に秩序的なものである。適度の秩序がなくては、人間は
安心して生きていけない。そして、どのような社会制度であろうと、それが社会制度であ
る以上、その秩序からはみ出してしまう「異端者」はかならず存在する。異端者をひとり
もつくらない社会制度など、絶対に存在しないだろう。
しかし、「異端者」とされる人間の数はできるだけ少ない方がいい。その方がひとりひ
とりの自由な生き方が守られるし、社会全体としてもより安定的である。多数の異端者の
存在は、彼らが異端として排除されることに抵抗し、さらには自分たちにこそ正統性があ
ると主張することによって、既存の社会制度に対して変革をせまり、また実際に変革して
いく力の源泉となっていく。
社会がより安定的に存在し続けるためには、常に社会自体が「異端」をすくなくするこ
とを自己目的のひとつとし、「異端」を吸収していく寛容さを持ち続けることが必要であ
る。そのためには、社会全体が「異端者」の存在に寛容であり、「異端者」を排除したり
抹殺したりすることなく、「異端者」が「異端者」として存在し続け、主張し続ける権利
を認めることが必要である。
社会制度はつねに変革され、よりよいものに変わっていかねばならない。そうした変革
の力は常に少数派とされる人々の中にある。
<判定>登校拒否派が有利であろう。
(9)不登校=登校拒否問題の将来像を考えた場合、どちらがよいか
不登校=登校拒否の発生と増加は、現在の日本の社会と学校のありかたに、深くふかく
関わっている。今後も日本の学校制度が基本的に変わらないならば、必ずや不登校=登校
拒否現象は飛躍的に増加していくだろう。その時こそ、日本の学校や社会は根底的に変わ
らざるをえまい。
<判定>登校拒否派が有利であろう。
4 とりあえず必要なことはなにか、考えてみよう
不登校=登校拒否の問題は、現代の日本の社会構造と深く関わっている、とてつもなく
大きな問題である。けっして簡単に解決できる問題ではないのだが、放っておけば自然に
解決する問題でもない。やはり個人や家庭のレベル、個別の学校のレベルでも、行政や社
会全体のレベルでも、さまざまな改革への努力が必要だ。
ここでは、とりあえず現在必要だと思われることをとりあげて、考えていきたい。
(1)個人の尊厳と選択を尊重すること。
社会の中に貧富の差や身分の差が残っている時、「みんないっしょに」という強い同一
性思考のもとで、個人こじんの差異を認めないことも、一種の平等主義ではある。しかし
これは一人ひとりの選択や個性を認めないだけに非常に抑圧的なものであり、程度の低い
平等である。
日本人が戦争に負けたことによって占領軍から「戦後民主主義」というものを与えられ
た時に、まずはこの「程度の低い平等」いわば初歩的な平等から始めたことは、歴史的な
必然があったのかもしれない。しかし、すでに戦争に負けて50年もたっている現在、わ
たしたちはもっと程度の高い平等を必要とする時期にきているのだ。
程度の高い平等、それは当然「みんないっしょに」ではなくて「みんながちがう」こと
を前提とし、目標とするものでなくてはならない。すでに49年前に制定された日本国憲
法においても「すべて国民は個人として尊重される」と規定されている。現実の社会も最
近の夫婦別姓の議論のように、ようやく「みんながちがう」ことを認める方向に変化しつ
つある。学校や教育の制度も同じ方向への変化を迫られている。
何度もいうように、不登校=登校拒否の爆発的な増加は、「みんないっしょに」という
学校制度を根本からくつがえす動きなのだ。「みんないっしょに」では学校に来ない子供
たちに対して、学校は「遅刻してもいいから」「保健室でもいいから」「私服でもいいか
ら」と甘い言葉でさそって、どうにかして学校に来てもらおうとしている。これはもうす
でに「みんないっしょに」の原則が実質的に崩壊しつつあることを示している。
(2)個人の権利と責任を重視すること。
ただ個人の自由な選択を認めるだけならば、それはわがまま勝手の自由気儘な社会にし
かならない。自由や権利を尊重するからには、自分の行為の結果に対してはきちんと責任
をとることが必要だ。それは刑事的、経済的な責任も、道義的な責任もある。個人の選択
や権利を尊重する社会は、同時に個人の責任性が確立される社会でなくてはならない。
(3)単位取得、進級、進路選択などの制度を多様にすること。
多くの高校では1学年のうち1教科でも単位を落とすと、もう一度その学年をやり直さ
なくてはならないことになっている。公立の小中学校では自分の住んでいる学区の学校に
原則として通学しなくてはならないし、どんなに成績が悪くても落第するなどということ
はほとんどない。小学校から中学校、高校、そして大学と進路も単線で、多様な選択は保
障されていない。こうした学校制度は、どこかで一度つまづくとなかなか復帰しにくいよ
うにつくられている。
(4)学校以外に子供が生きる場、学習する場を多様に設定すること。
現在、ほとんどの日本の子供たちは、学校を中心にして生活している。朝起きたらすぐ
学校に登校し、昼飯は学校給食を食べ、授業が終われば部活動をし、夕方遅くなって帰宅
する。日曜日や夏休みまで学校にでかけて部活動をしたりしている。将来の進路まで学校
に決めてもらったりすることも多い。
みんなが学校に行くのに、自分だけが学校に行くことを拒否してしまえば、必然的に一
日のほとんどの時間をひとり孤独に過ごすしかなくなる。実際にほとんどの不登校=登校
拒否の子供たちが(これは日本全体ではとてつもなく膨大な数になるのだが)その「教育
を受ける権利」を充分保証されることなく、自分の家や自分の部屋に孤立している。
現在さまざまな塾や施設が彼らを受け入れようとしているが、まだまだ不充分だ。学校
以外に子供たちが共同して生きていく場所、学習していく場所は、もっともっと多様に設
定され、子供たちの方がそうしたたくさんの選択肢の中から、いちばん自分にあったもの
を選べるようにしなくてはならない。
(5)労働時間を短縮し、「福祉社会」の成熟をはかること。
現在の日本では親も子供も教師も忙しすぎる。なんだか分からないことでとてつもなく
忙しい。
特に親たちに生活の時間的な余裕をもたらすことがいちばん必要なことなのではないか
と思う。子供の教育に第一義的に責任を持つのは親であるのだが、現状では親があまりに
忙しすぎて子供の面倒を見ることができず、あるいは子供の面倒を見たくないので、子供
を学校や塾に押しつけて過ごしている。
子供を育てるということは、現在の日本においてはとても難しいことである。しかもや
りなおしがきかない。この点、状況は我々の幼年期や親の時代とは全く異なってしまって
いる。そのような困難に、自らあえて挑もうという現代の親たちというのは、ある意味で
非常に貴重な存在といえる。それだけに親たちの子育ては社会的に支援されなければやっ
ていけない。
(6)学校、学級の規模を小さくし、教育予算をふやし、教師を増やすこと。教員養成の
ための教育をもっと実践的なものにすること。
これはいまさら言うまでもないほど多くの人々がずっと以前から指摘しつづけてきたこ
となのだが、非常にゆっくりとしか改善されていかない。
日本政府、あるいは日本人はカ ネもうけに関係することには大量の資金をつぎこむものの、カネもうけになる見込みのな
いものへの出費には非常に吝嗇なのだ。このことは日本の国民的な病理とともに、この国
の根底的な貧しさを示しているように思う。
(7)「学歴」以外の経歴、技能が「学歴」と同等に評価されるようにすること
「学校に行かない自由」が現実的に保証されるためには、学校に行かないことを選択し
た個人にとって、それが現在においても将来においても不利益にならないような社会制度
が必要だ。それは「学歴」以外の経歴や技能が、学歴と同等に評価される社会でなくては
ならない。
しかし、ペーパーテストが身分や性別に関係なく個人の能力のある一面を客観
的に評価できるのにくらべると、個人の経歴や技能についての普遍的な評価基準を設定す
ることなどは非常にむずかしい。そもそも個人の経歴や技能を客観的に評価することなど
不可能ではないか、もしそのようなことが可能だとしてもそれはそれで別の危険性を持つ
のではないか、とも思える。
不登校=登校拒否問題は不登校=登校拒否をしている子供たちだけの問題ではなくて、
日本の社会や教育全体の構造的な問題である。とにかく親もマスコミも政府も、もっとも
っと本気になって考えて欲しいものだ。