「登校拒否」問題で私が果たしたい役割   (1998年10月)

 現在、登校拒否=不登校をしている子どもたちや親たちの自主的なサークルが日本各地 につくられています。私の住む地域にもいくつかのサークルがあり、私もよくそうしたサ ークルの会に参加しています。
 こうした会に集う人々の間で有力な意見は、
 ・ 登校拒否は悪いことではない。
 ・ 学校に行くか行かないかは本人の自由だ。
 ・ 学校に行かなくても人間は成長できる。
 ・ 一人残らず学校に行くことの方が異常だ。
 ・ 学校に行かないことが問題なのではなく、学校に行かないことで社会的に差別され 、人格を否定されることが問題なのだ。
 ・ 学校にふたたび登校することが登校拒否問題の解決ではない。
 ・ 学校にいかない自由が社会的に認められることが、登校拒否問題の「解決」につながるのだ。
 といったものです。

 先日、ある登校拒否の子どもの親から「“不登校”とはただ学校に登校していないとい うことを意味しているが、“登校拒否”とは本人が積極的・主体的に、学校に登校するこ とを拒否したということを意味している。無自覚に“不登校”をしている子どもはたくさ んいるが、自覚的に“登校拒否”をしている子どもはごく少ない」という意見を聞きまし た。
 そこで、これからは「登校拒否=不登校は悪いことではない」という意見を≪登校拒否 派≫、「登校拒否=不登校は悪いことだ」という意見を≪不登校派≫と表現することにし ます。

 ≪登校拒否派≫の人々の中でも、最初から「学校になんか行かなくてもいい」と思って いた人などほんのすこししかいません。
ほとんどの人たちは、実際に“不登校”がはじま るまでは、≪不登校派≫の考え(つまり世間一般の「常識」)を信じていたのです。「子 どもが学校に行くのはあたりまえだ」「病気でもないのに学校に行かないなんて悪いこと だ」「学校に行かない子どもは社会からおちこぼれてしまう」「学校に来れないなんてダ メなヤツだ」「ああなったらオシマイだ」と思っています。そう思っているからこそ、子 どもたちはどんなにつまらない学校でもがまんして、毎日登校しているわけです。
 現在では≪登校拒否派≫の意見もマスコミなどによって広まってきていますから、口で は「学校に行かなくてもいいじゃないか」「学歴なんかなくてもかまわない」などと言う 人もいますが、これはあくまで一般論としてのことです。いざ自分のことになってもそう 言い切れる人はほとんどいません。やはり「『いい学校』に行きたい」(本人)、「『い い学校』に行かせたい」(親)と願っているものです。
 だからいざ実際に“不登校”に直面すると、ほとんどの場合、親子ともに深刻な精神的 危機におちいってしまいます。
 ≪登校拒否派≫の人々は「登校拒否が問題なのは学校に行かないということ自体ではな い。学校に行かないことで社会から『学校にも行けないダメなヤツ』と見られ、自分自身 でも『自分はダメなヤツだ』と信じこんでしまう、そのことが問題なのだ」と主張してい ます。親にとっても「わが子はダメなヤツだ」ということはそのまま、その「ダメな子」 を育てた自分の「子育て」がダメだったことになり、「自分はダメな親だ」ということに なってしまいます。
 大多数の“不登校”の子どもや親たちは、そういう強い自己否定に押しつぶされそうに なっています。この苦しみから逃れるには、ふたたび学校に登校するしかありませんが、 学校に復帰してもしばらくは“不登校”だったという「前科」がついてまわります。だい いち、かんたんに学校に復帰できるくらいなら最初から“不登校”になんかなりません。 非常に努力して登校した末に、また力つきて学校に行けなくなると、いよいよ「ダメなヤ ツだ」ということになってしまいます。苦しみはいつまでも(何年も、何十年も)続きま す。
 ≪登校拒否派≫の主張は、そうした長く苦しい経験の末に生まれています。彼らは、そ れまで信じていた≪不登校派≫の「常識」を捨て、「学校に行かなくてもいいのだ」とい う「さとり」をひらき、“登校拒否”の「境地」にいたるのです。彼らは≪登校拒否派≫ となることで、ようやく「(オレは)(わが子は)ダメなヤツではない」と考えることが できるようになります。そう考えることでのみ、自分を肯定し、自信を持ち、安心して生 きていくことができるのです。このように考えないかぎり、彼らにはひたすら苦しい日々 が続くだけです。
 ≪登校拒否派≫になったからといって、すぐに「明るい将来」(「不登校でもちゃんと 就職した」「もと登校拒否児でも医者になれた」といった、「人なみ」の「社会的成功」 のことです)が約束されるわけではありません。もちろん中には「ちゃんと就職した」人 も、「医師になった」人もいるわけですが、それはそれなりの努力の結果なのです。それ でも≪登校拒否派≫の人たちは「だからやっぱり学校に行っておいた方がよかったのに」 とは考えません。むしろ「人なみ」や「社会的成功」という目標を否定する(「カネもち にならなくてもいいじゃないか」「出世しなくてもいいじゃないか」)ことで、将来への 不安を解決しようとしているのです。

 「不登校のまま放っておいたら、いつまでも家にとじこもりっぱなして、大人になって も社会に出ていけなくなる」という不安は、多くの人々が持っているものです。実際に多 くの“不登校”状態の人々が、そのままずっと閉じこもり続けています。そうした事実が 「だから早めに学校に復帰させなくてはならない」という、≪不登校派≫の主張につなが っています。
 しかし≪登校拒否派≫の人々は、「『学校に行っていない』『就職していない』という ことを、本人や家族が『ダメだ』『よくない』と否定的に考えているからこそ、外に出て いけないのだ」「本人や家族が『学校に行かなくてもいいじゃないか』『就職なんかしな くたっていい』と、口先だけではなく心の底から思えるようになれば(すごくむずかしい ことですが)、自信をもって外に出ていくことができるようになる」と主張しています。 つまり“不登校=登校拒否”状態の子どもたちは、本人や家族が≪不登校派≫の考えを持 っているからこそ閉じこもっているのであって、≪登校拒否派≫に「めざめる」ことによ ってのみ、閉じこもりからぬけ出せるというのです。
 「『閉じこもりはよくない』と考えているからこそ、閉じこもっているのであり、『閉 じこもっていたっていいじゃないか』と考えられるようになれば、閉じこもっていなくて もよくなる(少なくとも閉じこもっていることは問題ではなくなる)」というわけです。
 では、どうやったら「閉じこもっていてもいいじゃないか」と思えるようになるのでし ょうか。このことについてある≪登校拒否派≫の親は「その子が生まれた時の気持ちを思 い出せばいい」と言っていました。
 子どもが生まれてくる瞬間には、親は「ただ無事に生まれてきてくれさえすればいい」 と願っています。「よい性格の子どもになってほしい」「いい成績をとってほしい」「社 会的に成功してほしい」などという親の「欲」は、そのあとで出てきます。そしてそうい う「欲」が、わが子が“不登校=登校拒否”になった時に裏切られるので、「こんなはず ではなかった」「自分の子育ては失敗だった」ということになり、わが子と自分をとこと んまで追いつめてしまうのです。しかしこれはわが子のありのままの姿を否定することで す。だからわが子への変な「欲」はすっぱりと捨ててしまい、今現在のわが子の姿をその まま受け入れることだ、そして「ただ生きていてくれさえすればよい」と思うことだ、と いうのです。

 登校拒否=不登校の子どもたちは毎年確実にふえています。しかしその中で≪登校拒否 派≫は圧倒的に少数派です。たんに社会全体の中で少数派だというだけではなく、学校に 行っていない子どもたちやその親たちの中でも、圧倒的に少数派なのです。学校に行って いない子どもや親たちのほとんどは≪不登校派≫の主張を信じていて、自己否定に押しつ ぶされたまま毎日をすごしています。
 しかも、いったん≪登校拒否派≫になった人々も、それだけで安心というわけにはいき ません。社会の「常識」はあいかわらず≪不登校派≫のままですから、彼らはつねにその 「常識」とぶつかり、「常識」に押しつぶされそうになりながら、毎日を過ごさなくては なりません。
 “登校拒否”をしている本人は、同級生だった子どもたちが進学したり、就職したりす るのを聞きながら成長していきます。仲がよかった友だちがたまに遊びに来ても話題は学 校のことが中心です。どうしたって話が合わなくなり、友だちづきあいもとだえてしまい ます。
 親たちにとっても、職場や親類、近所の大人どうしのおもな話題といえばわが子のこと であり、学校のことです。近所の子どもたちが毎日「元気に」学校に行く姿を見せつけら れます。そして「かわいそうに」「大変ですね」というあわれみや同情を受け、「やっぱ り親がしっかりしていないからだ」「なんで無理にでも学校に行かせないの」などという 圧力を感じながら生きています。
 こうした社会の「常識」に押しつぶされないためには、≪登校拒否派≫は団結しなけれ ばなりません。彼らが各地で自然発生的にサークルをつくり、フリースクールをつくった のは、そういう必然性があってのことです。そこでようやく子どもたちは話のあう仲間を つくり、親たちは悩みの相談相手を見つけます。
 彼らはただ団結しただけではなく、集会を開き、機関誌を発行し、積極的に≪登校拒否 派≫の主張を宣伝します。学校に行っていない子どもや親たちの大多数をしめる≪不登校 派≫に「布教」して、「改宗」をせまっています。彼らは自分たちの考えを主張すること で、自ら自分の主張に自信を持ち、自分の生き方に自信を強め、社会の「常識」に対抗す る力を持つことができるのです。
 ≪登校拒否派≫の主張では、「学校に行かないこと」はまったく問題ではありません。 問題は「学校に行かないことを問題だと考えること」なのです。そして彼らは実際に「学 校に行かないことは問題ではない」と考えるようになりました。しかし社会の大多数の人 々はそう考えてはくれません。そこで彼らは自分たちのために、社会全体を変えようとし ています。

 ≪登校拒否派≫は多くの学校関係者から、「学校否定論者だ」と考えられています。
 私は中学校の教師をしていますので(今は一時的に発掘調査の仕事に出向中ですが)、時 々≪登校拒否派≫の会に他の教師をさそったりします。しかしこうした会に教師が参加す ることはめったにありません。一度は参加したとしても、続けて参加する教師はほとんど いません。とくに「熱心な」教師ほど、参加したがらないようです。ある教師を≪登校拒 否派≫の集会にさそったところ、彼女は「なんだ、薬師さんは学校否定論者なの」としき りに残念がっていました。
 ≪登校拒否派≫の人々は、よく「自分たちは『学校否定論者』ではない」といいます。 「学校をなくせと主張しているわけではない」「ただ『学校に行かない自由』を認めてほ しいと言っているだけだ」というわけです。彼らは「自分には(自分の子どもには)学校 なんかいらない」と主張してはしても、「『だれにとっても学校はいらない』と主張して いるわけではない」というのです。
 そして≪登校拒否派≫の人々は「教師と敵対するのではなく、協力して学校・社会を変 えていきたい」と言っています。しかしこれはとてもむずかしいことです。  教師は、「学校に行かない」人々への社会的圧力を代表する存在です。教師は子どもた ちが学校に来てくれるからこそ仕事ができるわけですから、学校に来ない子どもに対して は本来無力です。しかし「学校に行かない」人々のほとんどは「やっぱり学校に行かなく ちゃいけない」と≪不登校派≫の考えを信じているものですから、教師はそのかぎりで影 響力を行使することができるのです。
 ほとんどの場合、教師は子どもや本人をより追いつめていく役割しかはたすことができ ません。ですから≪登校拒否派≫の人々は学校・教師に好 感を持っていません。“不登校=登校拒否”の過程で、ほとんどの人々は学校・教師から 非常に深く傷つけられてしまっています。(とくに「熱心な」教師からの被害が大きいよ うです)。≪登校拒否派≫の集会で彼らの体験を聞けば、学校・教師に対しての不満、ウ ラミが次々と出てきます。

 私が参加したある≪登校拒否派≫の集会でこんなことがありました。
 各地の≪登校拒否派≫サークルの会員である、登校拒否の子どもを持つ親たちが数人パ ネラーとなり、自分の体験をもとに登校拒否問題についての考えをのべました。
 パネラーの親たちはそれぞれ自分のきびしくつらい体験を語り、その経験から得た「さ とり」を説きました。これは話をする親にとっても、その話の主人公である登校拒否の子 どもにとっても、話をすること、聞くこと自体が、けっこうきびしい経験であったりする ものです。
 パネラーの体験談を聞いたあとで、質問の時間がとられました。その時、参加者の中の 一人の若い中学校教師が、「今のような話をされても、毎日学校で頑張っている自分たち は困ってしまう。今聞いた話に全面的に従うかどうかは分からない」と前置きした上で、 「登校拒否の子どもや保護者のために、学校にどんなことをしてほしいですか」と質問し ました。
 この質問は各バネラーから「あんたはあんたで勝手にやってください」「学校になんか なんにも期待していないよ」という、激しい反発を受けていました。司会をしていたもと 「登校拒否児」の人は「自分たちのつらい経験をやっとの思いで話しているのに、そんな ことを言うなんて一体今までなにを聞いていたんだ」と怒っていました。
 ≪登校拒否派≫の人々が激しく反発した気持ちはよく分かります。「どんなに言っても わかってもらえない」「やっぱり学校・教師には何を言ってもムダだ」という絶望的な気 持ちとともに、いままでの学校・教師への不満、ウラミが爆発したのでしょう。
 しかし私は、徹底的にやっつけられてしまったこの教師に、大いに同情してしまいまし た。
 彼は、たまの休日にもわざわざ“不登校=登校拒否”問題のシンポジウムに参加するく らいですから、たぶんとてもマジメで熱心な教師なのでしょう。ほとんどの教師はこんな 集会になんかもとから参加しません。自分のクラスに「不登校」の子どもがいて、いろい ろ悩んでいるところだったのかもしれません。いきなりいままでの自分の「常識」とまっ たくちがう意見を聞かされて大きくとまどい、そのとまどった気持ちを素直に発言したの だと思います。
 今回、大きな反発・批判を受けても、彼はなぜそんなに怒られるのかよく分からなかっ たと思います。「やっぱり≪登校拒否派≫は『学校否定論者』だ」と考えたかもしれませ ん。そしてたぶん、彼は二度と≪登校拒否派≫の集会には来ないでしょう。

 このようにして≪登校拒否派≫と学校・教師の間のミゾはひらくばかりです。私はこれ は学校・教師にとっても、≪登校拒否派≫にとっても、おたがいに不幸なことだと思いま す。
 ≪登校拒否派≫がのぞむように社会の「常識」を大きく変え、学校を変えるには、教師 たちが変わることが絶対に必要です。教師たちの考えを変えなければ、学校を大きく変え ることはできません。しかし≪登校拒否派≫と学校・教師が、おたがいにその主張をわか りあうまでには、とてつもない努力が必要だと思います。
 私は今まで、さまざまな≪登校拒否派≫の集会に参加してきたのですが、最近、教師で ありながら≪登校拒否派≫の集会に参加する人間は、けっこうすくないことにようやく気 がつきました。そしてその「希少価値」をうまく利用する方法はないだろうかと考えたと き、≪登校拒否派≫と学校・教師との間をつなぐ、いわば「通訳」こそが自分の果たすべ き役割なのだと思うようになりました。
 しかし一体、どうすればいいのでしょうか。

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