バーチャル・セックスの可能性 (1994年8月)

  東京に大雪が降った日、オールナイト映画を見て一晩をすごそうと、夜の新宿の町に出 た。
 しかし、大雪のために映画館は軒並み休みになっており、見ようと思っていた映画はや っていなかった。オールナイトをやっていたのは「新極道の妻たち」「デモリッションマ ン」のふたつだけで、私は「新極道の妻たち」よりはマシだろうと思い、「デモリッショ ンマン」を見た。
 これが覚悟していた以上にどうしようもなくつまらない映画だったのだが、それでも中 に印象に残るシーンがいくつかあった。
 「デモリッションマン」はシルベスタ・スタローン主演の近未来SF映画である。舞台 は21世紀なかばのアメリカ西海岸だが、そこは20世紀末の「暴力と犯罪の時代」の反 省にたって、暴力や汚い言葉はすべて追放された「非暴力管理社会」である。銃は全面的 に禁止されて警官でさえ持っていない。ただ博物館に展示されているだけである。人々は 暴力や流血といったことを、想像することさえできなくなっており、人間どうしが直接肌 をふれあうことすら、一切なくなってしまっているのだ。  
映画の中では、この社会でのセックスについて描いているシーンがあるのだが、これが なかなか面白かった。
 シルベスタ・スタローンの同僚の女が、彼に「私とセックスしませんか」と、まるで食 事にさそうような気楽な感じで言う。スタローンが承知すると彼女はヘッドホンのような ものを持ってくる。二人ががそれをかぶると、機械を通じてお互いの性的イメージが交換 され、相互に作用し、生身のセックスをすることなしに、イメージだけで性的快感を得る ことができるのだった。いわば「バーチャル・セックス」である。
 過去(つまり現代)から生き返ったシルベスタ・スタローンは、この「バーチャル・セ ックス」にあきたらず、「本物のセックスをしよう」と女に迫るのだが、「とんでもない ことだ」といって拒絶されてしまう。
 この時代には、子孫を残すには政府の許可が必要であるという。映画には直接出てこなかったが、多分子供たちは人工受精、人工胎盤、人工保育といった技術を駆使して生ま れ、育てられていくのだろう。
 バーチャル技術が現在どの程度実用化されているのか、これからどのように発達してい くのか、私はほとんど知らない。しかし、この映画が描くようなバーチャル・セックスは けっこう近いうちに実現されそうな気がする。近い将来、私たちは現実のセックスと変わ らない、もしくは現実以上の性的快感をバーチャル・セックスによって味わうようになる かもしれない。
 人類はその誕生以来、特定の発情期にとらわれずに1年中発情している。そのためセッ クスは生殖のためというよりは「遊び」のためのものになった。人々は実際のセックスよ りもそれに付随する「セックスのイメージ」にふりまわされるようになり、常に性的衝動 が噴出して日常生活を破壊してしまう危険におびやかされるようになった。そこでそうし た危険に対処するために、性的衝動を抑圧、または消費する、さまざまな社会制度をつく りあげてきた。この点については、フロイトをはじめとする多くの先達たちが指摘し、研 究してきたところである。
 しかしバーチャル・セックスが一般化されたならば、今までに人類が築きあげてきたセ ッスクにかかわる文化、社会構造は根底から変わってしまうかもしれない、と私は思う。  
バーチャル・セックスは「究極の性のイメージ化」である。そこでは生身のセックスか ら完全に切り離された、セックスのイメージだけが大きな価値を持っている。イメージだ けの冒険で、生身の人間とは全く無関係なのである。プログラムの設定しだいでは、ど んな相手とでも、どんな状況、どんな体位でも、自由にセックスを楽しむことができる。 性病、エイズ、妊娠、良心の呵責などといった問題もまったくない。自分の性的魅力も、 相手に対する愛情も、なんらの重大な決意もいらない。
 現在ではまだセックスのまわりにただよっている「秘めごと」めいた雰囲気は一掃され てしまうだろう。人々はスポーツやゲームを楽しむのと同じように、おおっぴらにバーチ ャル・セックスを楽しむことができる。「バーチャル・セックス機」は車やテレビやビデ オなどと同じく、どの家庭にもある生活必需品のひとつになっていく。  
現在繁栄している性産業も、そのほとんどはバーチャル・セックスに移行していくだろ う。バーチャル・セックスならば生きている人間は不要だから人件費の節約にもなる。コ ンピューターならば客のどんな無理難題にも答えることができるだから、生身の人間が太 刀打ちできるわけがない。(もっとも「思いどおりにならないからこそ、生身の人間の方 がいい」ということも考えられるのだが)  
これは「究極の性のイメージ化」であると同時に、「究極のオナニー」であり、「究極 の避妊」「究極のフリーセックス」でもある。「究極の性の商品化」ともいえるだろう。  
バーチャル・セックスの一般化がすすんでいくことは、女性を「妊娠する性」「強姦さ れる性」「売買される性」から最終的に解放し、セックスにかかわる社会的な男女差をな くすことにもなるだろう。これによって、女は男と全く対等にセックスを楽しむことがで きるようになる。文字どおり「ベッドの中の男女平等」が達成されるのだ。これは「フェ ミニズ最後の福音」になるのかもしれない。  
「バーチャル・セックス」が実現される時代、バーチャル技術は人生のあらゆる場面、 社会のあらゆる機構、世界のあらゆる場所におよんでいるだろう。どのような荒唐無稽な 設定であろうと、あらゆることが現実以上のリアリティで体験できるようになるだろう。
 すでに実際の生身の体験よりも、機械が提供する疑似的な体験の方がより一般的なもの になるという「世界のバーチャル化」現象が、ものすごい勢いで始まっている。私たちが 有名な観光地にでかけて、「なんだ大したことないじゃないか」と失望したりするのは、 その初歩的な現象であろう。そこで人々は観光写真と同じアングルの場所に立ち、「写真 と同じだ」と実感することによって、「自分は今、あの有名な観光地にきているのだ」と 納得しようとする。ここでは写真による「バーチャル体験」によるイメージの方が、実際 の体験を凌駕してしまっているのである。  
子供たちの遊びの世界は、現在もっともバーチャル化の進んでいる分野だろう。生身の 肉体を使った遊びは、今や全面的にテレビゲームにとって変わられてしまった。子供たち はテレビゲームの中で、宇宙の彼方や中世の物語の中に遊んでいる。
 「世界のバーチャル化」がすすむことで、人々はいよいよ自分の周囲の現実の世界や自 然、他人との深い関わりを失っていくだろう。すでに子供たちはどんどんそうなってきて いる。彼らはひとりひとり孤立して不安にやみくもに生き、お互いを傷つけあっている。
 生身のセックスがバーチャル・セックスにとってかわる時、それは「人生全体のバーチ ャル化」の完成となるだろう。セックスは新しい人間を生み出す営みからは完全に切り離 され、生身の肉体とは全く無関係なものになっていく。やがて人間の死も、労働も、教育 も消費も、すべてが生身の肉体とは無関係な、疑似的なものになっていくだろう。
 しかし、以上のような想像は、すべて「バーチャル・セックスの方が生身のセックスよ りも人々を魅了するであろう」という前提にたっている。これに対して「しょせんバーチ ャル・セックスは生身のセックス以上のものにはならない」「いくらバーチャル・セック スが発達しても、人間は生身のセックスの誘惑から自由にはなることはできない」といっ たことも想定できる。近未来の「バーチャル時代」は、ナマの体験とバーチャルな体験の 戦いの場となるであろう。
 映画の中では、野性派のシルベスタ・スタローンが未来社会のシステムに打ち勝ち、女 もシルベスタ・スタローンにぞっこんまいってしまって、最後にはキスなんぞして「やっ ぱりこっちの方がすごい」とかなんとか言って、ハッピーエンドになるのだが、現実の近 未来はどうなっていくか、興味のつきないところである。やはり長生きはしたいものだ。

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