わかりやすい言葉と民主主義
(1999年9月)
1 わかりやすい表現は民主主義の基本です。
民主主義の原則のひとつは「国民主権」、つまりあのリンカーン大統領の演説に
ある「人民の、人民による、人民のための政治」ということでしょう。
これは国民ひとりひとりが、さまざまな政治上の問題について理解し、考え、意
見を持ち、それをさまざまなかたちで表現し、そうした国民の意見にもとづいて実
際の政治が行われていく、ということです。
「そんなことは理想だ、不可能だ」という人もいるでしょう。確かに理想であり
完全に実現することは不可能でしょう。だれだって(私だって)国や地方や世界の
抱えているあらゆる問題について、正しく理解し、正しい判断をし、それを正しく
表現することなんか、とてもできるものではありません。
しかし、ではこうした役割を一部の人だけに任しておいて、その他大勢はその人
の言うとおりにしていればいいのでしょうか。そんなことをしたら、とてつもなく
ひどい世の中になってしまうということは、今までの長い歴史の教訓から充分あき
らかなのではないかと思います。
私たちはそれが不可能ではあっても、<みんなが理解し、みんなで判断する世の中>をつくっていかなければなりません。それを多少なりとも現実のものにするために、この数百年間、私たちはずいぶん努力してきたし、少しずつではあっても成
果をあげてきているのではないかと思います。
<正しい判断>をするために第一に必要なのは<正しい理解>です。ものごとを
よく知らないうちから、正しい判断をすることなど絶対にできません。そして<正
しい理解>をするのに必要なのは<正しい情報>です。まちがった地図から正しい
道筋はみつけられません。
そうすると<正しい情報>こそが大切だ! ということになるのですが、もうひ
とつ問題があります。日本人に英語で情報を伝えても英語がわかる人しか理解する
ことができません。中国語やロシア語、ウルドゥ語ならばもっと少数の人にしか伝
えることができまないでしょう。
<正しい情報>を伝えてもこれでは意味がありません。情報は<わかりやすく>
<理解しやすいかたちで>伝えられなければならないのです。
<正しい情報>が<わかりやすく>伝えられれば、より多くの人々に<正しく理
解>され、それをもとに考え、行動することができます。情報がわかりやすければ
わかりやすいほど、より多くの人々がよりよい判断をすることができるようになり
ます。
わかりやすい表現は、民主主義の基本なのです。
しかし現在の日本では、わかりやすい表現は全体的にものすごく不足していると
思います。実際に書かれたり、話されたりしている言葉を見ると、どれだけ本気で
みんなにわかってもらおうと考えて表現されているか、非常に疑問を感じます。
直接国民の生活に関係がある<法律>や<公文書>はどうでしょうか。
法律や公 文書がほとんどの国民に理解できない言葉で書かれていては、これは民主主義とは
いえません。情報公開によって役所の持っている情報を手にいれても、それが一般人には理解不可能なのでは意味がありません。
政治や経済、社会の毎日の動きを国民に伝えることが役割の<ニュース>はどう
でしょうか。
ほんとうに分かりやすい言葉で伝えられているのでしょうか。「ニュ
ースがわかりにくい」「ニュースなんかつまらない」という原因の一部は、そこで
使われている専門用語や略語にあるのではないでしょうか。わかりやすいニュース
も民主主義の基本です。
わからない人にわかるようにものごとを教えるはずの<教科書>や<説明書>は
どうでしょうか。
わからないからこそ教科書や説明書が必要なわけですから、とく
にわかりやすく書く必要があります。特にパソコン関係の説明書など、専門用語ば
かりで何回読んでもわからないものがたくさんあるのではないでしょうか。「この
程度のことがわからなくてどうする」などといばってもらっては困ります。
専門分野の学術論文は、その分野の専門家の間だけに通用しさえすればよいもの
です。だから専門用語を使って、専門家だけに通用するように(その専門分野の人々にはちゃんとよく分かるように)書かれればいいでしょう。
しかし、どんな専門家であっても、いつも専門家だけに通用する言葉づかいだけ
をしていればよい、ということはないはずです。
大学や研究機関(私が現在働いている発掘調査機関もコレ)などの多くは、国民
のはらった税金で運営されていたり、国や地方自治体などから補助金を受けていま
す。こうした研究機関の人々には、自分たちが研究してわかったことを、人々にわ
かりやすく伝える義務があるはずです。
そうでなくても、専門家の得た知識は、できるだけ広く人々に伝えられ、活用さ
れていく必要があるでしょう。中には原子力発電の技術などのように、人々の生活
や生命に直接大きな影響を与えるものもあります。「専門家にまかしておけば大丈
夫だ」「シロウトは口出しするな」などといっていたら、とんでもないことになっ
てしまう可能性もあります。 こうした努力は最近ではかなりされるようになってきているとは思いますが、ま
だまだ不足しています。本人は充分わかりやすく説明しているつもりであっても、
実際には全然わかりやすさが足りない、ということがよくあるものです。しっかり
ふだんから「わかりやすく表現するための訓練」をつむことが必要でしょう。
日本人にとってわかりやすい日本語は、外国人にとってもわかりやすい日本語で
す。日本にたくさんの外国人が住むようになった現代では、<国際化>の面からも
<わかりやすい日本語>が必要とされているのではないでしょうか。
<インターネット>の発達も<わかりやすい表現>を必要としています。
インターネットでは写真や図を送ることもできますが、ほとんどの情報は書かれ
た文章で伝えられています。相手の表情がわからない電話での話でも、さまざまな
誤解がおきやすことは、みなさんが時々経験されていることだと思います。まして
文章だけで言葉のやりとりをしていては、いろいろな誤解がおこる可能性は大きい
ものです。さらにインターネットでは一度も会ったことがない人と情報のやりとり
をすることがめずらしくありません。インターネットこそ、わかりやすい表現が絶
対に必要とされる分野でしょう。
<わかりやすい表現>とはなにも特別なことではありません。<専門用語を使わ
ない><むずかしい漢字・漢語を使わない><やたらと外来語を使わない><文章
はできるだけ短く書く><主語と述語の関係がしっかりしている文章を書く>など
といった、当たり前のことをすればいいのです。
しかし実際には、この<あたりまえのこと>が圧倒的に足りないと思います。
2 第二の「言文一致運動」を!!
ドイツのルターが宗教改革をした時に、それまでラテン語で書かれていた聖書を
ドイツ語に翻訳して出版した、という話があります。これによって一部の教会関係
者だけに読まれていた聖書が多くの人々に読まれるようになり、宗教改革がすすん
でいきました。
明治時代のころの日本では「言文一致運動」というものがおきました。
当時の文章は「○○で候」などというもので、人々がふつうに話している言葉と
はちがう言葉で書かれていました。それに対して「ふつうに話すような言葉を使っ
て文章を書こう」という「言文一致運動」がおこり、現在の日本語の文章ができた
のです。
この運動の結果、それまでの「○○で候」といった文章の表現のしかたは、完全
に古語となってしまいました。そのために滅んでしまった<味のある表現>という
のも多かっただろうと思います。
しかし一方では、より多くの人々にわかりやすい情報を提供し、わかりやすい表
現の手段をあたえ、その後の日本社会の発展に大きな役割をはたしました。
私は<第二の「言文一致運動」>が必要だと思います。
みんなが本気で<わかりやすい表現>を追い求める時、駅の案内表示や、市役所
からの通知や、学校の教科書や、テレビのニュースが、本当にわかりやすく表現さ
れる時、この社会はかなり根本的にかわるのではないか、と思うのです。
そのために大きなやくわりを果たすのは、マスコミと教育だと思います。
小学校から大学までの学校は、「わからない人にわかってもらう」ことが最大の
目的であるはずです。当然、もっとも<わかりやすい表現>が必要となるところで
しょう。
現在の学校教育で、<わかりやすく表現する>ための訓練がどれだけおこなわれ
ているでしょうか。
<わかりやすく書く><わかりやすく話す><相手にわかって
もらえたかどうか確認する><わからなければ質問する>といった訓練は、まだま
だ不足しているように思います。まず、本来<わかりやすく伝える>専門家である
はずの教師たち自体が、きちんと<わかりやすく伝える>訓練を受けていません。
どちらかというと学校では、<むずかしい言葉を理解する><むずかしい言葉を
使って表現する>という訓練の方が中心になっているようです。もちろんきちんと
その意味を理解した上で<むずかしい言葉>を使うのならばいいのですが、どうも
よく意味がわからないままで<むずかしい言葉>に突入してしまうことの方が多い
ように思うのです。
教育の場で<むずかしい内容>を理解すると同時に、<わかりやすく表現>する
訓練が、きちんと体系的に、そして徹底的におこなわれるべきだと思います。