ズボンの中も劇場 (1991年12月)
「男は仕事、女は家庭」という如く男女の役割、特性を固定的に規定するイデオロギ−
において、女たちに要求されてきたのは、経済的、社会的に男に依存しつつ、生活上で男
の面倒を見てやるという役割であり、特性であった。このイデオロギ−は同時に男たちに
対して、経済的に女子供を養い、社会的に家族を代表し、生活上では女たちに依存すると
いう役割、特性を要請してきた。
ここでは、女が経済的、社会的に一人前の責任能力があ
るとは見なされていないのと同じく、男も生活上充全たる処理能力があるとは評価されて
いなかった。女が経済的、社会的に男から自立できないと考えられていたのウラでは、男
も女(妻、母親)が生活上の面倒を見てくれなければ、暮らしていくことのできない者と
考えられていたのである。仕事が男たちの専管事項であったように、家事も女の専門領域
とされてきたのである。こうした性別役割分担の貫徹を前提としたうえで、家事労働や賃
労働のシステムがつくられ、維持されてきている。これがいかに不合理であり反動的であ
るかは、つとにフェミニズムが指摘し、攻撃してきたところである。
現在、私達が生きている社会の基本的システムも、いまだにこの性別役割分担を前提に
している部分が多い。
賃労働のシステムは家庭のことを全て女に任せきりにして、ひたす
ら仕事に励むであろう男たちを中心にしてつくられているし、家事労働のシステムも男た
ちに「仕事」を任せきりにして、ひたすら家庭を守る女たちを対象にしてできている。女
たちに「お嫁さん」になって男に保護され、男の陰に隠れて生きていくことが要求される
ように、男たちは「家族を養う」ために実力以上に虚勢を張って生活するよう、早くから
教育されている。
私は近年、自分の家事労働の能力を声高に宣伝するという事を戦略的に採用している。
私がこの山村で独り暮らしをし、買物、炊事、洗濯、掃除といった家事万般を一人でこな
している(勿論、私一人が生きていける程度にではあるが)ということを知って、周囲の
人々の示す反応は一様である。「あんたの嫁さんは楽だ」「早く嫁さんをもらわにゃ」あ
るいは「それじゃあ嫁さんはいらんね」この言葉の裏には「家事は女のやるもの」という
意識が救いがたく存在している。
「男らしく」「女らしく」という規範の多くは、そうした男女の役割分担を前提として
成立しているし、学校でも男は「技術」女は「家庭科」を習い、体育でも女はバレ−ボ−
ル、男はサッカ−などとやる種目がちがっていることが多い。生徒会では男が会長、女が
副会長、クラスでも男が級長、女は副級長という場合が圧倒的である。なにか作業をする
にしても、重労働は男子、軽労働は女子という場合が多い。生徒の名簿にしても男子が先
で女子が後である。(数年前までは職員の名簿もそうなっていた)
男女平等を教えるべき立場にある教師たちではあっても、当然のことに世間一般の常識
どおりなのである。よく職場で問題になる「お茶汲み」について述べよう。
私が最初に就職した学校では、日直の教師が男女の別なく「お茶汲み」を交代でやるこ
とになっていた。これについて私と同時に転勤してきた中年の男性教師は、「こんな学校
は初めてだと男だけの席で憤慨して言った。「女の手におえないことがあると男の手を借
りようとするくせに」「すぐに家庭の事情を持ち出して早く帰るくせに」というのがその
憤慨の論拠であったように記憶している。しかしこの学校でも、来客などにお茶を出すの
はハッキリと女性教師の役割となっていた。
現在私が勤務している学校では「お茶汲み」は全て女の仕事になっており、男がその作
業に参入することは非常に例外的なこととされている。職員室で給食の準備をするのも主
に女の仕事になっている。私はこういった局面においては「自分のお茶は自分で汲みます
から」という戦略が正しいのではないかという気がするのだが、まだそう宣言するまでに
は踏み切っていないのでなんとなく居心地が悪い。
最近「マドンナ」現象と言われるまでに女性が政界へ進出するようになり、絶対数では
まだ全く不足しているものの、この事自体は大変良いことであると思われる。しかし、こ
の現象に付随して所謂「女性原理」の存在が説かれ、今までの世界を支配し戦争や環境破
壊を進行させてきた「男社会」から、人類を解放するものであるかの如く賞揚されるのに
はいささか閉口させられる。「子を生む女であるからこそ、戦争の(環境破壊の)(原発
の)怖さがわかるんです」とか「家計を預かる主婦の立場から消費税に反対です」などと
いう発言が、何の疑いもなく堂々と罷り通っている。ここでは相変わらず育児や家計、家
事に関することは女たちの専管事項とされ、男たちは「家庭の小さな幸福」を破壊する悪
役として排除されるべきものとなっている。
現在までの歴史を男が暴力的に女を支配し、服従させてきた「圧政の歴史」と見て、そ
れからの「解放」もしくは「革命」をめざすフェミニズムの論理として、この「女性原理
万能主義」は当然の方法論なのかもしれない。
しかし、現在の「男社会」を支えてきたの はなにも男たちの暴力だけではあるまい。今までの人類の歴史が地球上のどこでも、どの
時代にも、少数の例外を除いて圧倒的に男中心であったのはまぎれもない事実である。「
男社会」は人類の歴史に普遍的に見られる形式であった以上、それは例外的に成立したも
のというよりは、人類史上必然的に成立したものと考えなくてはなるまい。それは男たち
だけの独力で暴力的に形成されたものなどではありえない。「男社会」は人類の半分を占
める女たちの参加と支持がなくては1日たりとも維持しえなかったであろう。
新しい「女 性解放」の社会もまた、女性だけの独力で作り得ないことはハッキリしている。フェミニ
ストたちは男たちを敵にまわすよりは、味方につける戦略をこそ模索するべきではないの
だろうか。
男女の性的役割、特性を固定的に規定するイデオロギ−に対して、この数十年間、フェ
ミニズムは果敢に闘いを組織して、多大の成果をかち取ってきた。しかし、この間「女は
こんなに差別されてきた」「こんなにひどいめにあってきた」と声高に主張し、男たちと
社会的に対等、平等になることを、いままで押しつけられてきた「女らしさ」の仮面を脱
ぎ捨て、男と同じように行動し、労働することで達成しようとしてきた。しかし、現在の
日本の社会のシステム、賃労働のシステムは「男は仕事、女は家庭」というイデオロギ−
からさして進歩していない。家庭のことは女たちが全て面倒をみてくれるから、家庭や家
族の事情に患わされることなく、「仕事」に全力投球できる「男」たちこそ本来の労働力
であると考えられており、それを前提にシステムは作られている。従って「家庭」をひき
ずりながら「仕事」の場に登場してきた「女」たちは、あくまでも補助的な労働力であっ
て、真に信頼できる労働者とは見なされて来なかった。
このシステムを基本的には変更することなく、女たちは「仕事」の領域に進出してきた
のである。当然彼女たちにも「男」と同じく家庭を省みずに労働することが要求されるよ
うになってきたし、彼女たちの方でもそれを望み、要求に応えることで一人前の労働力と
見なされるようになろうとしてきた。即ち女たちは「男」化してきたのである。かくして
男も女も両方「男」化して、家庭を投擲して「仕事」に吸収されていけば、必然的に「家
庭」は崩壊せざるをえない。
労働力を再生産するという使命を担う家事労働において、最も重要な部分を占めている
のは、新し生命を作り育てる「育児」という労働に他なるまい。そしてこの労働は胎盤も
なく、オッパイも持たない男どもにはほとんど不可能なこととして、特権的に女たちによ
って独占されてきた。
「アグネス論争」における「子連れ出勤」は女が仕事をしながら同
時に育児をも放棄しない場合の、新しい育児のスタイルの提起であったに他ならない。こ
のことは逆にいえば、女も男も「男」化し「仕事」に吸収されていけば、「子連れ出勤」
でもしないかぎり、育児を放棄せざるをえなくなることを意味していたのだ。当然、大量
の「育児」されざる子供たちが発生し、学校や街頭で狂乱しまくることになる。
一人の人間が経済、社会、生活の全面で自立することが、事実として不可能であった時
代には男女が役割を分担し、相互に補完しあって生きていくことも当然のことであっただ
ろう。しかし、一人の人間が人間として本当に自立自存していくためには、経済的にも精
神的にも生活上においても、個人として自立し、少なくとも自分の面倒は自分で見られる
だけの能力と経験を持つことが必要である。その上で人間同士の共同性が結ばれていくの
でなければ、結局「馴れ合い」の相互依存関係に留まり、充全たる成熟した社会など形作
り得ないだろう。今や、私達はそれが可能な時代に生きているのではないだろうか。
「男 は仕事、女は家庭」という性的分業は事実として崩壊しつつある。しかし、それが「男も
女も仕事」もしくは「男は仕事、女は仕事も家庭も」という形でよりよいシステムに生ま
れ変わることはできまい。この方向が招来する結果は「家庭の崩壊」でしかない。採用さ
れるべき新しいシステムは「男も女も家庭も仕事も」という方向しかありえまい。男であ
ろうと女であろうと誰であろうと、賃労働も家事労働も両方で主体的に「闘える」ように
システムは根本的に変換されなくてはならない。
男と女の間の差異は、近年どんどん小さくなりつつあり、これは全体としては大変良い
ことだと思われる。法的、制度的な差異はほとんどなくなったし(男女別姓など戸籍に関
する事実上の力関係を除いて)、言葉や文化における差異もすこしづつ消滅しつつある。
しかし、今田に強固な差異を誇っているものも多い。男女の間の服飾の違いなどその最た
るものであろう。上野千鶴子氏の『スカ−トの中の劇場』(河出書房新社 1989年)
という本はその意味で大変面白かった。
実に男と女の服飾の差異たるや甚だしいものがある。この分野における差異は幼年期か
ら老年期まで一貫しており、他の分野での差異の縮小をものともせず、頑なに男女の差異
を保持している。その中でも女たちの服、下着、装飾品、化粧、どれをとっても奇怪に過
剰に装飾的である。確かに男性用の装飾品や化粧品も売り出されてはいるが、それらはか
えって「男らしさ」を演出するための武器として使用されており、決して差異を薄める方
向には作用していないように思われる。女たちの服飾のあの奇怪な過剰さは一体何故なの
か、ハッキリ言って私には分からない。
ただ第一に考えられるのは、服飾のイデオロギ−性が他の分野と比べて非常に強固だと
いうことである。人は毎日何かを着て生活しているのだし、他人に対して自分をアピ−ル
するための第一の表現方法は外見である。その人間の内面的自己がどのようなものであろ
うと、それは容易には伺い知ることはできない。自己の存在はその服飾次第でいかように
も表現し、演出することができるし、それ以上の方法はないといってよい。毎日がコスチ
ュ−ムプレイの世界である。生徒たちは自分の真面目さや不良性をその服装によって表現
しようとするし、学校は制服によって生徒たちをその支配下におこうとする。
第二に考えられるのは服飾のセックスとの結びつきである。性器を日常的に隠すために
服があり、隠すことによって逆に性器の存在をアピ−ルする役割をはたしているというこ
とは、つとに指摘される通りである。男たちは女たちの肉体だけではなく、かえって女の
服や下着や靴などに凄まじい幻想を抱いている。下着泥棒などはその端的な現れといって
よいだろう。ポルノグラフィ−においても、単なる女の裸よりもその服を脱ぐ課程が重視
されているように思う。女の裸だけではあんなにポルノグラフィ−が繁盛するとは思われ
ない。
しかし、女の場合はどうであろうか。私は女ではないので詳しいことは分からないが、
女で男の下着を盗む者がいるという話はあまり聞いたことがない。男の裸や下着を売り物
にしたポルノグラフィ−もさして繁盛はしていないようだ。女たちの服飾、特に下着はあ
んなにも装飾的であるのに、男たちの下着は装飾性よりも実用性が重視され、大体におい
てシンプルである。男たちにとって女の下着を脱がせることは、非常に興奮を覚える儀式
となるのだろうが、女にとって男のパンツを脱がせることは、そんなに興奮する儀式では
なさそうだ。
小浜逸郎の『男はどこにいるのか』(草思社 1990年)という本もこの意味でかな
りおもしろかった。この本では男と女のあいだに「見るもの」=男、「見られるもの」=
女という非対象的関係が成り立っていることに注目し、この差異を男女のエロス的自我の
持続性の違いを中心にして説明しようとしている。男のエロス的自我は、端的にいって射
精という一瞬のうちに消費されてしまう、非常に持続性のないものであるのに対して、女
のエロス的自我は受精=受胎し、子供を生み、育てるという、非常に長期間にわたって持
続されうるものだし、そのために準備されているものだというのである。
私がさらに小浜氏の説を引き写しでのべるならば、その非持続性の故にこそ、男のエロ
ス的自我は非日常的であり、それだけに日常に噴出してしまい、秩序を破壊してしまいか
ねないのである。男たちはだれしもそのエロス的自己(性欲)の噴出をいかにして抑える
かに苦慮しており、その蕩尽のためにさまざまな努力をしているのだといえよう。現実に
みられる「強姦」「痴漢」などの性犯罪はその抑制に失敗した男たちの陥る末路であり、
「買春」「ポルノ」などの性産業はその性欲の蕩尽が商業ベ−スにのってしまった形態で
ある。強姦、痴漢などの犯罪が許しがたいことは勿論、性産業の裏面における人権侵害も
さまざまな問題を抱えているのだが、その成立する要因が男と女の性的な存在基盤の相違
からきているということは否定できない。
フェミニズムは「女性解放」に性急なあまり、男女の間の制度的、権力的な差異と、情
念の上での差異とを区別せず、同じく批判の対象としてきたような所がある。極端にいえ
ば男が道行く女の子を見て「美しい」と思うことからして、「女を人間として評価してい
ない」といわんばかりの論理展開も見受けられる。ひところのセクシャルハラスメント論
議もそれに近い受け止められ方をしていた面がある。こうした側面は決してフェミニズム
運動全体のプラスとは成りえていないと思う。
しかし、一方で「美しい」といわれても素直に喜べない女や男たち、広告の女のグラビ
アを見て「私は男の写真の方がいい」と思う男や女たちが出現してきたことも確かなので
ある。ホモセクシュアル運動のように性別にこだわらず、男でも女でもないただの人間と
して生きよう、性別にこだわらずに愛しあおうという動きも起こってきている。これを一
概に例外だとして度外視してしまうことは出来ない。こうした動きをも包摂できる、より
許容力のある社会をつくり出すことこそ、フェミニズムは目的とすべきであろう。ただた
だ男を敵として闘うことがフェミニズムの存在理由ではあるまい。男女が因習や体制にと
らわれることなく、自由に、そして多様に関係しあえる世の中こそ、フェミニズムの最終
目的なのだから、「女と男の間の関係はこうでなくてはならない」という新しい体制を構
築してしまうのでは、これは運動の自殺である。
「男」と「女」という性別の規範は、さまざまに形は変えていきながらも、消滅するこ
とはありえないだろう。しかし、その規範に挑戦しようとする試みは排除されるべきでは
ない。イデオロギ−は常に懐疑の視線に晒されているべきである。私個人の考えからいえ
ば、男とセックスしたいとは思わないが、女だけを愛さなくてはならないものとも思われ
ない。女がズボンを着るようになったのであれば、男もスカ−トをはくべき(夏はスカ−
ト、冬はズボンというのが理想的)だと思うのだが。