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ユージン=オーマンディの生涯
1899-1985

Budapest

1899-1921

オーマンディユージン=オーマンディ(イェノ=ブラウ)は1899年11月18日、「ドナウの真珠」ブダペスト(ハンガリー)に生まれました。父親は音楽好きの歯科医で、当時最高のヴァイオリニスト、イェノ=フーバイの名前を息子に付けたのです。オーマンディは4歳からヴァイオリンを始め、5歳でブダペスト王立音楽院(現フランツ=リスト音楽院)に入学しました。そして、9歳になった彼は、父親の望み通りに偉大なヴァイオリニスト、イェノ=フーバイに師事することとなったのです。

歯科医だった父親の指導は熱心で、かなり厳しかったらしく、時には体罰を与えられたようです。オーマンディは、診察室の隣の部屋で監視されるように練習をしていましたが、ムチでうたれそうになるまで好きな読書をしていたとのこと。オーマンディは考え、父親が入ってくるのを見えるように机の位置を変え、楽譜を暗譜することによって、ヴァイオリンを弾きながら同時に読書もしていたそうです。結果的に記憶力が発達し、父親には感謝していました。

フーバイの下で腕を磨いたオーマンディは、やがてオーストリア=ハンガリー皇帝の前でも演奏するようになります。そして、17歳の若さで王立音楽院から教授資格を得、弟子を教えると共に、ドイツのブリュトナー管弦楽団のコンサート・マスターにも招かれたのです。戦争が終わるとウィーンに移住し、そこでも演奏活動を続けていました。

そんな時、運命のマネージャーが現れました。オーマンディの才能に目を付け、アメリカへの演奏旅行を持ち掛けたのです。こうしてオーマンディは、夢の国アメリカへと旅立つことになります。1921年のことです。

New York

1921-1931

オーマンディは、希望を胸に抱いてアメリカへやって来ました。ところが、その演奏会の約束は実行されませんでした。なんと、無一文で遠く離れた異国の地に放り出されてしまったのです。頼れる友人などいるはずもありません。まったく自分一人の力でなんとかしなければならなかったのです。そうして、やっと探し当てた仕事が、ニューヨーク・キャピトル劇場のヴァイオリン奏者でした。その職を見つけたとき、オーマンディの懐中には5セントのニッケル玉が一枚だけだったそうです。キャピトル劇場 コンサートマスター

キャピトル劇場は管弦楽団を持った映画館のようなもので、バレエや無声映画の合間に交響曲の一部や序曲を演奏したそうです。オーマンディは最後尾で演奏していましたが、入団5日目にしてコンサート・マスターになってしまいました。この劇場で、オーマンディに転機が訪れます。1924年9月、病気で来れない指揮者の代役として初めて指揮台に立ったのです。この時、劇場の取締役から指揮者になることを薦められ、オーマンディは断ったのですが、給料を25ドルも上げてもらえるということで指揮者へと転向しました。ただ、当時は指揮に全く興味がなかったそうです。

オーマンディはブダペストの王立音楽院で、指揮をするための準備を完了していました。それ以来、空いた時間には楽譜を勉強するようになり、レパートリーを増やしていったのです。トスカニーニを敬愛していたオーマンディは、しばしばカーネギー・ホールでのリハーサルを見学しました。それから、1927年にアメリカ市民権を獲得。1929年にはレヴィゾーン・スタジアムでニューヨーク・フィルを指揮し、1930年にはフィラデルフィア管弦楽団のポップス・オーケストラ、ロビン・フッド・デル管弦楽団を指揮しました。

そして、1931年10月30日、急病のトスカニーニの代役として、正式なフィラデルフィアの指揮台に立ったのです。この時は、ニューヨーク・フィルのトスカニーニと、フィラデルフィアのストコフスキーという当時の人気を二分する両者が、お互いのオーケストラを指揮するということで話題となっており、指揮台に立つのは自殺行為オーマンディだといって誰も代役を引き受けなかったそうです。オーマンディのマネージャーは「あなたは何も失うものがない」といって指揮することを薦めました。オーマンディは出演し、見事に大成功を収めたのです。

このコンサートの聴衆の中に、ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)の代表がいて、オーマンディに客演指揮を要請しました。そして最初の演奏会の前に、常任指揮者として5年間の契約を結んだのです。こうして、オーマンディは世間の知るところとなり、活躍の舞台はミネアポリスへと移ります。

Minneapolis

1931-1936

先のコンサートでオーマンディに注目したRCAは、フィラデルフィアを振らせてレコードを作ろうとしましたが、オーマンディは自分を招いてくれたミネアポリス交響楽団との録音を主張しました。その結果、ノーギャラでの演奏を条件に録音しましたが、当時まだ珍しかったレパートリーということもあってレコードは飛ぶように売れ、オーケストラの財政は潤ったそうです。オーマンディ

その大胆なレパートリーとしては、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」、ロイ=ハリス「ジョニーが凱旋すれば」、シェーンベルグ「浄夜」、マクドナルド「ヘブライの二つの詩」、マーラー「復活」などが挙げられます。

こうしてオーマンディは、ミネアポリス交響楽団の演奏技術をみるみる向上させ、彼自身の名声も高めていったのです。そしてその活躍は、オーマンディをフィラデルフィアへと導くことになりました。オーマンディの在籍した5年間は、ミネアポリス交響楽団にとって最初の黄金期だったといえます。

Philadelphia

1936-1985

オーマンディ1936年、とうとうフィラデルフィアにやって来ます。ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦楽団の指揮者となったオーマンディは、1938年には単独の音楽監督に就任しました。以来1980年まで、この黄金の椅子に座り続けることになります。当時のフィラデルフィア管弦楽団は、すでにストコフスキーによって世界的な名声を欲しいままにしていました。そのため、ニューズ・ウィーク誌では「トップ・オーケストラのトップ・マン」と表現されました。このトップ・オーケストラを引き継いだオーマンディは、その名声と機能を維持したまま、ゆっくりと自分のオーケストラへと変えていきました。オーマンディは、この時期を「この上なく難しい時期だった」と後年語っています。しかし、その才能と謙虚さによって乗り切ることに成功するのです。

まずは、完璧な耳です。オーマンディの「耳」は楽界の伝説だったそうで、各パートの最も理想的なバランスを達成することができました。また、どんな音も聞き分けるため、楽団員はミスが許されなかったのです。驚異的な記憶力も才能のひとつでした。オーマンディはほとんど暗譜で指揮し、新作でも一晩で暗記することができたそうです。

さらに、協奏曲などの伴奏の腕前ではオーマンディの右に出るものはいませんでした。オーマンディに伴奏してもらって褒められなかった独奏者はいなかったそうで、世界中の奏者が協演を希望しました。ラフマニノフも「世界随一」と激賞し、1978年のアメリカ・デビュー50周年記念コンサートで、25年ぶりに協奏曲を演奏するホロヴィッツもオーマンディを指揮者に選ぶほどでした。オーマンディとクライスラー

オーマンディは、こうした音楽的な才能だけでなく、人間的にも優れた資質を兼ね備えていたといえます。世界最高のオーケストラの音楽監督という地位についてもおごり高ぶることはなく、ヴァイオリニストとしても相当の腕を持っていたにもかかわらず「私など第二ヴァイオリンの後ろの方で弾いていればいい程度の楽員のひとりですが、こうして中央に立って指示することができるのは幸運なことです」と、よく言っていたそうです。このような謙虚さも、44年もの長期間に渡って音楽監督を続けることができた理由のひとつではないでしょうか。

1943年にCBSに移籍してからは、RCAの時以上に録音に力を入れるようになります。1948年のLP登場以後の5年間で、オーマンディとフィラデルフィアの録音は80枚に達したそうです。おかげでオーケストラは黒字財政を続け、当初3年だったオーマンディの契約は8年に延長され、以後も5年契約を繰り返すことになりました。1957年のステレオLPの登場により、オーマンディの録音はさらに増加します。この頃の録音は、当時のCBSの技術の高さからか、とても40年前とは思えないほどのすばらしい状態で録音されています。

オーマンディとダニー=ケイオーマンディとフィラデルフィアは、1949年のイギリスを初めとして各国への海外演奏旅行を数多く行い、国内でも縦断・横断ツアーを何度も行っており、レコード録音の数と演奏旅行の回数で名声を判断されていた合衆国では、そのいずれにおいても他を圧倒していました。「録音に入りきらない」と言われた音は当時の貧弱な再生装置で伝わるはずもなく、その魅力を伝えるためには実際に演奏を聴いてもらうしかなかったのかもしれませんね。(もっと早く来日してたら、オーマンディとストコフスキー日本での評判も違っていたのかな?)

1960年、ドライブ好きだったオーマンディは交通事故にあったようで、その大腿骨には人工骨が入っていたそうです。そのため、アカデミー・オブ・ミュージックの創設104周年記念でアイネムに委嘱した「フィラデルフィア交響曲」の初演が遅れたというエピソードがあります。こうしたことから、オーマンディのコンサートについての文章では「足を引きずりながら登場し...」といった表現をよく目にします。

1967年、オーマンディはフィラデルフィア管弦楽団を率いて初来日します。この時「腰が抜けるほど驚いた」といった具合に、素直に感想を表現できた常識的な評論家はごく一部であり、多くの評論家は否定しました。自分の感想を述べるだけならともかく、中には「日本の聴衆を失望させた」などと平気で本に載せるような、人格が歪んでいるとしか思えない評論家までいました(聴衆ひとりひとりにリサーチしたのでしょうか!?演奏終了後の会場内の拍手喝采はスゴイものでした。実際にその中にいたからペンを執っているんだろうに...)。その後日本には、1972年、1978年、1981年(ムーティも一緒)にやって来ました。

オーマンデとウィルコックスレコード録音に関しては25年間CBSと専属契約を結んでいましたが、1968年、再びRCAに帰ってきます。CBS時代に夥しい数の録音をしてきた名コンビですが、スタンダードなものの再録音と共に、初録音の曲も目立つようになります。RCA初期の録音は、まだ慣れていなかったせいか、CBSより技術が劣っていたためか、いまいちのような気がします。あえて言うなら、CBSの録音は指揮台の上で聴いているような気さえするのですが(もっとも指揮台に立ったことなどありませんが...)、RCA復帰後の初期の録音(70年前後)は、オーケストラとの間に一枚のガラスでもあるような感じがします。この頃の演奏には好きなものが多いので少し残念です(74、5年頃からはバツグンになりますが)。

オーマンディと江青話を戻しましょう。ニクソン大統領の訪中における米中国交回復を受けて(オーマンディとフィラデルフィアはニクソンのお気に入りだったらしい)、1973年に親善使節として、中国で歴史的友好公演を行いました。9月10日から23日まで滞在し、北京で4回、上海で2回の演奏会が開かれたのです(演奏料は受け取らない)。この時は中国人のピアニスト・殷誠忠と協演し、「ピアノ協奏曲−黄河−」を演奏しました。オーマンディはフィラデルフィア管弦楽団に対して、音楽を通じて町の文化や世界に貢献するオケにしたいというヴィジョンを持っており、この歴史的公演は、まさにその考えに副うものでした。

1980年、長期に渡って務めた音楽監督の地位を譲る時が来ます。その後任としては、小澤征爾も考えられていたようですが(小澤はオーマンディと同じく、元フィラデルフィア管の弦楽器奏者が釣り竿の先で作った指揮棒を使用している)、既に首席客演指揮者の地位に就いていたリッカルド=ムーティに決定しました。オーマンディは、音楽監督としての最後のコンサートでも普段と同じように指揮し、一切のセレモニーを拒否したそうです。そして、「これで人生が終ったわけじゃない。ゴルフも好きじゃないし...小さな球を打って、それを追いかけて行くのは私の趣味じゃない...結局、指揮はやめられませんな。」と語ったそうです。これから後は、フィラデルフィア管弦楽団としては初めての桂冠指揮者として、指揮を続けていくことになります。

オーマンディ悠々自適の指揮活動を続けたオーマンディですが、1984年1月10日、カーネギー・ホールでベートーヴェンとバルトークを振った後、心臓の具合が悪化して同月下旬から入院しました。これが最後のコンサートとなり、「指揮台の上で死にたい」と言っていたオーマンディの夢はかなわず、1985年3月12日、フィラデルフィアの自宅から二度と帰らぬ演奏旅行に出ました。フィラデルフィアの人々にとっては相当ショックな出来事であり、地元紙の「フィラデルフィア・インクゥワイアラー」では一面トップで大きく扱われただけでなく、全4ページの大特集となったのです。フィラデルフィア市民に本当に愛されてきた証拠のひとつでしょう。アメリカ合衆国は、オーマンディが亡くなった1985年を境に、債権国から債務国へと転じてしまいます。「純金のキャデラック」とまで形容されたオーマンディのフィラデルフィア・サウンドが、強かったアメリカの象徴のように感じられるのは、私だけでしょうか...

オーマンディは、フィラデルフィア管弦楽団から生涯離れることはありませんでしたが、私生活では2度の結婚をしています。1950年に結婚したグレーテル夫人(1998年5月31日、89歳でお亡くなりになりました)によると、オーマンディには「悪い癖が一つもない」とのこと。酒を飲まない。タバコを吸わない。大好物は甘いものだそうです。そして、常にユーモアを持ち合わせていました。

このような人生を歩んできたオーマンディは、フィラデルフィア管弦楽団においてオーケストラ史上最高の成就を達成したと言えます。しかし、オーマンディは「音楽だけが主役」と考え、決して指揮者である自らにスポットを当てようとはしませんでした。だから、多くの人々は気付いていません。彼らの音楽こそ、普遍的な輝きを放ち続けていることに...オーマンディ

私は、音楽にはいろいろな聴き方があることを認識していますし、人には好き嫌いがあることも理解しています。ですから、一般的に「内容がある」と言われている音楽を楽しんで聴いている人々を批判するつもりは全くありません。しかしながら、もし、全知全能の神がいるとしたら、また、我々より高度な精神レベルに達した宇宙人がいるとしたら、あるいは、全ての困難を乗り越えて最高の叡智を享受することのできた未来の人類がどちらを選ぶかと考えた時、「オーマンディとフィラデルフィア」が選ばれることを確信します。