Back

フィラデルフィア管弦楽団
The Philadelphia Orchestra

フリッツ=シール
Scheel
カール=ポーリッヒ
Pohlig
レオポルド=ストコフスキー
Stokowski
ユージン=オーマンディ
Ormandy
リッカルド=ムーティ
Muti
ウォルフガング=サヴァリッシュ
Sawallisch

フィラデルフィア管弦楽団は、1900年11月16日に初めての演奏会を開いたので、アメリカのメジャーオーケストラの中では比較的遅いスタートだったということになります。初代の指揮者は、フィラデルフィア管弦楽団の設立に尽力したドイツ人のフリッツ=シールで、1907年に他界するまで指揮を続けます。その後を継いだのは、同じくドイツ人のカール=ポーリッヒ。彼はマーラーの助手を務めたこともありましたが、1912年に契約が切れるとドイツへ帰って行きました。

ここで登場するのがレオポルド=ストコフスキー。彼の下でフィラデルフィア管弦楽団は、とてつもない発展を遂げることになるのです。まず、ストコフスキーのハンサムな顔とノンタクトの指揮に人気が沸Marcel Tabuteau騰し、聴衆が飛躍的に増大しました。そして、1917年にレコード録音に乗り出すと、録音の仕方や楽器の配列を研究することによって「フィラデルフィアのレコードは音がいい」という評判になります。1925年に電気録音法が開発されると、彼はベルリンまで電気音響学の勉強に行き、それを活かすことでフィラデルフィアのレコードは大ヒットとなります。

ストコフスキーの先見性はまだまだ発揮され、ラジオが本格的に放送されるとレギュラー番組を持ち、映画がトーキーになればすぐさま出演したのです。ウォルト=ディズニーの「ファンタジア」は今日でも知られる傑作ですし、ディアナ=ダービンが出演した「オーケストラの少女」は、戦前の日本でも大ヒットしました。こうしてオーケストラの財政はべらぼうに潤い、そのお金で優秀なメンバーを雇い入れると共に、世界の名器を買い集め、世界最高の仲間入りをしました。William Kincaid

1936年、ストコフスキーと共同の指揮者として、若きユージン=オーマンディがミネアポリスからやって来ます。そして1938年からは、オーマンディが音楽監督に就任しました。オーマンディは幅広いレパートリーを誇り、ストコフスキーが築き上げたものに、さらに磨きをかけました。オーマンディもストコフスキーと同じく、現代音楽の振興に力を入れ、数々のアメリカ初演、世界初演を行なってきました。1980年、オーマンディは桂冠指揮者に勇退し、イタリア人のリッカルド=ムーティが音楽監督となります。彼は、フィラデルフィアにオペラ演奏の伝統を築きました。そして、1993年シーズンからは、ドイツ人のヴォルフガング=サヴァリッシュが音楽監督を務めています。約70年間という長期間に渡って、ストコフスキーとオーマンディの二人に率いられたフィラデルフィア管弦楽団は、音楽監督が100年の歴史でたった6人という結果となりました。この事実は、オーケストラにとっては非常に幸運なことだったといえます。

フィラデルフィア管弦楽団は、多くの記録を持っています。「初めて電気録音をしたオーケストラ」「初めて商業放送に出演したオーケストラ」「初めて映画に出演したオーケストラ」などです。ラフマニノフは「世界最高のオーケストラ」と賞賛し、シベリウス、ショスタコーヴィッチ、ヴァージル=トムソンなど、昔から多くの作曲家にも気に入られてきました。フィラデルフィア首席奏者

フィラデルフィア管弦楽団の奏者は名人揃いですが、彼らの個人的な演奏活動を制限することで、完璧なアンサンブルを達成してきました。また、楽団員の持つ楽器には「ストラディヴァリ」や「ガルネリ」などの名器が多く、団員の楽器購入を援助する制度も整っています。さらに、レコード録音の際、限られた時間内に満足のいく録音が完成できなかった場合にはギャラが支払われないという習慣もあり、各奏者が日々の鍛練を忘れません。そのため、全員がすばらしく初見がききます。こうした独特の特徴も、フィラデルフィア管弦楽団の名声を支えてきたものの一部だと考えられます。


フィラデルフィア管弦楽団