【蒸発】
《ブラックホールからの放射》
●ホーキングの論文
:1976年、スティーブン・ホーキングが科学雑誌「Nature」に、小さなブラックホールは放射を出して蒸発する、という内容の短い
論文を発表。彼がこの理論をイギリスの国際会議で発表したとき、出席者の多くはほとんどこれを認めなかった。
●量子論
@古典論と違って、ある現象が起こるかどうかは確率的に決まる。
A古典論では通り抜けることが不可能な壁(エネルギーの障壁)も、量子論では、トンネル効果によってある確率で通過することが
可能になる。
B量子論では、真空は仮想的な粒子と反粒子が現れては消え、消えては現れている場と考えられているが、その仮想的に作られ
た対が、ある確率で現実の粒子として対(粒子・反粒子)となって現れる。
※ブラックホールの大きさは通常は巨視的(マクロ)なので、普通は量子論を考えに入れる必要はないが、ブラックホールが素粒子
くらい小さいときは、量子論の効果を無視することはできない。実際、ブラックホールの質量が10の12乗キログラム(10億トン、小惑
星程度)以下になると、量子論的な影響が大きく現れる。
《爆発的な蒸発》
:ホーキングはこのような小さなブラックホールが形成されたとき、量子論がそれに与える影響を考えた。
●熱放射
(結果)ブラックホールはその質量に逆比例した温度の熱放射を出す。
(現象)“真空”で生成された粒子の対の片方がブラックホールに落ち込んだとき、残った粒子が一緒に消滅する相手を失い、あた
かもそれらの粒子がブラックホールから出てきたかのように見える。
(粒子)質量をもつ粒子は、少なくとも静止質量分のエネルギーが必要になるのでできにくい。そのため、実際に蒸発によって放出さ
れる粒子はほとんどが質量ゼロの粒子である。
(消滅)熱放射が出ると、ブラックホールはもちろんエネルギーを失うので、それだけ質量が減る。質量が減ると、それに逆比例して
さらに温度は上昇するから、熱放射の量は大きくなる。その結果、ブラックホールは加速度的にその質量を失い、最後には消滅して
しまう。
●爆発
:最後の瞬間は、最後の1000トンのブラックホールが1秒間で消滅し、その質量すべてがエネルギーに変換される。ただし厳密に
は、この最後の最後(10のマイナス5乗グラムになったとき)にどうなるかは、現在でもよくわかっていない。
《ブラックホールとエントロピー》
●エントロピー増大則(熱力学の第2法則)
:「エントロピー」とは、物事の秩序や乱雑さを表す物理量であり、状態がランダムなほどエントロピーが高いという。自然界では、あ
らゆる現象は必ずエントロピーが増大する方向に進行する。
:ブラックホールが物質を吸い込むと、物質のもっていたエントロピーもブラックホールに吸収される。ところが、ブラックホールか
らは何の情報も取り出せない。このエントロピーをわれわれが観測できなくなったということは、エントロピーが消えてしまったという
ことであり、「エントロピー増大則」が成り立たなくなってしまう。
●ブラックホールの表面積増大則
:ブラックホールには「事象の地平線」という、ブラックホールの“表面”を表す領域があるが、その表面積{4π×(地平線の半径)の
2乗}は決して減少しない。つまり、ブラックホールは物質を吸収し重くなっていくが、その結果その大きさも大きくなり、太る一方なの
である。
→ブラックホールに物質が落ち込むと、ブラックホールは質量が増え、その分だけ表面積も増大する。これは、ブラックホールのエ
ントロピーが増大したことを意味する。つまり、ブラックホールに落ち込んだことにより、物質のエントロピーは消滅するが、それ以上
にブラックホールのエントロピーが増大するのである。
その結果、ブラックホールと物質の系全体としてのエントロピーはやはり増える。このように、ブラックホールのエントロピーを含め、
系全体のエントロピーが常に増大すると考えるのを、「一般化された第2法則」と呼ぶ。
《ブラックホールの蒸発仮説》
(仮定)ブラックホールを熱放射を出す熱源だと仮定すると、熱力学の立場からも、ブラックホールは表面積に比例するエントロピー
をもつことになる。
(不成立)ブラックホールの表面積増大則は、ブラックホールが蒸発すると成り立たなくなる。蒸発によってブラックホールはどんどん
小さくなり、表面積が減少する。すなわち、エントロピーが減少するからである。
(熱放射)ブラックホールは蒸発により軽く小さくなってエントロピーも減少するが、他方では熱放射を出している。当然、出てきた物
質はエントロピーをもっている。そこで、物質のエントロピーとブラックホールのエントロピーの和を考えると、ブラックホールの失うエ
ントロピー以上に物質のもっているエントロピーが大きいため、全体としてエントロピーは増える。
【法相宗】
法相宗は華厳宗・律宗とともに、奈良時代に栄えた日本最古の宗派である。ただし、宗派といってもこの時代には、宗旨を特別に
示すものではなく、現在の大学か学部のようなものだった。そこでは、仏教を学ぶ者に門戸を開き、教義を学ばせた。当時の修行僧
たちは、特定の宗には属さず、ほとんどの者が必要に応じて各宗に学び、教義を身につけていったのである。
大本山は奈良の興福寺と薬師寺。法隆寺も独立して聖徳宗をつくるまでは大本山だったし、京都の清水寺も北法相宗をおこすま
では大本山だった。
始祖は『西遊記』で知られる玄奘三蔵で、629年にインドへ経典を求めて出発した後、17年間インドで学び、唐へ帰り唯識を広め
た。そして、その弟子の慈恩が教えを受け継ぎ、法相宗を開いた。
その頃、元興寺(もと飛鳥寺)の道昭が入唐し、玄奘から直接、唯識法相を学んで帰国、日本に広めた。ちなみに、この道昭は遺
言により火葬されたといわれており、これがわが国の火葬の始まりとされている。
法相宗の門下には、奈良時代を代表する僧侶が数多く輩出した。諸国をまわって民間布教を始めた行基は民衆集団を結成し、
社会事業に尽くした。また、聖武天皇の大仏建立にも協力、行基菩薩と呼ばれたくらいである。
唯識とは、もともとインド僧の世親が大成した思想である。「唯識」では、あらゆるこの世の存在やできごとは、自分自身の心の働き
によって、仮に現わされているに過ぎない、とする。だから、この世は自分の心を離れては存在せず、心はこの世のすべての本体と
して唯一の実在するものだと考える。
それでは、心の本体である「識」とは何か。それは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識と、末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の
八つを指す。六識は、ものやできごとなどの形や概念を認識する働きを持つ。また、末那識は、自己中心的な自我意識を認識す
る。そして阿頼耶識は、すべてを認識する根本的な識である。阿頼耶識は、無限大の容れ物という意味を持ち、私たちの「するこ
と−身業」、「いうこと−口業」、「おもうこと−意業」のすべてがここに経験として蓄えられている。
この阿頼耶識が私たちの行ないの源であり、これ以外のものは実在せず、この世は心の影として映し出されているに過ぎない、
という考え方が、唯識の根本なのである。
【華厳宗】
華厳宗は、現在寺院数約50を抱える小さな宗派である。奈良の東大寺が大本山。
東大寺は、天平15年(743年)、すべての人々が幸福である理想世界を実現するため、聖武天皇が大仏(毘盧舎那仏/ぴるしゃ
なぶつ)造立を発願し、建設された寺である。大仏は3年後に完成したが、すべての伽藍が完成するまでには20年の歳月を要する
という、一大事業だった。現在でも境内には大仏殿をはじめ、二月堂、三月堂、四月堂、開山堂、戒壇院等の伽藍が並ぶ。
華厳宗は良弁がおこした宗派である。その経典は『大方広仏華厳経』で、唐の道せんが華厳関係の書を伝えたのに始まる。良弁
良弁は、新羅から来た審祥から華厳宗の講義を受けた。また彼は聖武天皇に崇敬され、大仏造立の中心的な役割を果たし、聖武
天皇、行基、菩提僊那(婆羅門僧正)と合わせて、当時「四聖(ししょう)」と呼ばれた。
鎌倉時代に入ると、新仏教の台頭で旧仏教系の宗派は衰退していくが、華厳宗の僧たちは南都六宗をまとめ、鎌倉旧仏教復興
の先頭に立ち活躍した。
華厳宗の教義は、あらゆるものは縁(条件)によって起こり、相互間系の上に成り立っているという、仏教の根本思想である縁起の
思想を深めたものである。たとえば、太陽の光はどんなに交錯しても互いに妨げ合うことがないように、世界のあらゆるものは幾重に
も無限に関係し合いながら、よく調和して存在している、という世界観を表現したものなのである。
また、毘盧舎那仏は太陽を意味し、仏の智慧の広大無辺なことを象徴している。宇宙は、この仏によって統一がとられ、あまねく
照らす光明のもとに生成躍動している、というわけだ。
【律宗】
律宗は、現在寺院数約30、信者約3万人で、いちばん規模の小さいな宗派である。総本山は奈良の唐昭提寺。境内の金堂、
講堂、僧房、宝蔵、経蔵等は天平時代に建立された。宗祖は、唐僧・鑑真和上。
和銅3年(710年)、都が奈良の平城京に移され、聖武天皇の号令のもと、東大寺の大仏建立や諸国の国分寺造立など、一大
仏教国としての姿を整えるべく事業が推し進められた。しかし、当時の日本にはまだ本格的な戒律の学問がなく、僧侶の正式な
授戒(僧侶になるための戒律を授けること)が行われてなかった。そこで、天正5年(732年)、普照、栄叡の二人の僧が伝戒の師
を求め、唐に渡った。
訪ね当てた時、鑑真は44歳。二人は初め、弟子を派遣してもらうよう頼んだが、誰も応じる者がいない。そこで“伝法のためなら、
いたずらに身命を惜しむべきではない“と、鑑真自らが渡日することを決意した。しかしその渡航も失敗を重ね、6回目の挑戦で遣
唐使の船に便乗し、12年の歳月を費やした渡日をようやく果たした。鑑真67歳のときであった。
日本に渡った鑑真は、まず東大寺に入り、ここに戒壇院をたて、日本僧授戒の根本道場とした。また、のちに唐昭提寺を開い
て、戒律の修行道場とした。さらに、下野の薬師寺、太宰府の観世音寺にも戒壇を設け、これが天下の三戒壇となった。これによ
り、すべての僧侶はいずれかの戒壇で正式に授戒することが義務づけられた。また鑑真は渡航の際に多数の経典を持ち込んで
おり、そのうち天台宗関係の書物が後年最澄の目にふれ、天台宗をおこす礎ともなった。
律宗の教義は、戒律を守ることを修行の中心に置いている。特に僧侶の生活規範を厳しく定め、仏教を修行しようと願う心を、
次の三つにまとめた。すなわち、
@自分自身の行ないで非を防ぎ、一切の悪を断つこと。 A一切の行を心掛け積極的に修めること。
B一切の人々のために積極的に尽くすこと。
である。仏教を修行しようとする者は、この三つを自らの心に誓って戒律を受け、実行しなければならない、としている。
この戒律だが、比丘(出家した男子)には250戒、比丘尼(出家した女子)には348戒の具足戒が定められている。また、在家
信者にも、殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒(おんじゅ)の五戒を定めている。
【天台宗】
天台系の宗派を代表する天台宗は、伝教大師最澄によって開かれた。天台系の宗派は現在、20を数える。総本山は、大津
の比叡山延暦寺。門跡寺院は東京上野の輪王寺、日光の輪王寺、京都の妙法院(三十三間堂)、三千院、蔓殊院、毘沙門堂
など。さらに別格大寺は東京上野の寛永寺、長野の善光寺、そして岩手の中尊寺がある。というように、天台宗は全国に大寺院
を擁している。
宗祖最澄は12歳の時に寺に入り、19歳で授戒した。しかし奈良仏教の世俗化に失望し、また人生の無常をも感じて、わずか3
ヶ月にして奈良から京都比叡山に逃れた。以後13年間にわたって草庵にこもり、仏教修行と経典の研究につとめた。そして32歳
にして、法華経及び天台思想の講義を始めるにいたる。
38歳のおりに唐に渡り、8ヶ月の間、天台法華経、密教、戒律、禅などを学び、この翌年(806年)、比叡山に天台法華宗を開い
たのである。
ところで開宗した最澄は、それまでの、国が僧侶の認可を与える国立戒壇を否定し、独自の戒壇を設けることを決意した。この
とき著したのが“一隅を照らす者は、これ国宝なり”という有名なことばがみられる『山家学生式』である。
天台法華宗は、次の三つの点で日本仏教に一つの転機をもたらした、といわれている。つまり、国の支配からの仏教の独立、
信仰・信念にもとづく一宗の確立、総合統一的な仏教体系の実現、である。
天台宗は、法華一乗の教えを根本とし、誰にでもある仏性の尊厳と永遠不滅を信じ、他のために尽くす菩薩行を積極的に行い、
円教・密教・禅法・戒法・念仏などを法華一乗に融合し、皆成仏道の実現と仏国土建設のために仏道を実践する、というものであ
る。ここで法華一乗とは、法華経が悟りにいたるための唯一の乗りものであり、すべての人々を仏の道に到達させるには、法華教
を唯一の拠り所とする、という考え方を指している。だから、本尊も特別に定めていないわけだ。
このように、最澄の総合的仏教観の確立により、天台宗は内部でそれぞれ、流儀・流派をたてて、仏教思想の研究を競い合
い、これが鎌倉新興仏教発生の源となった。また、最澄の残した“道心の中に衣食(えじき)有り、衣食の中に道心無し”という
教えは、現代にいたるまで僧侶のあり方の根本となっている。
次に、天台宗の各派をあげると、
◎天台宗=総本山・比叡山延暦寺 ◎天台寺門宗=本山・大津の園城寺(三井寺)、宗祖・円珍
◎天台真盛宗=本山・大津の西教寺 ◎本山修験宗=本山・京都の聖護院
◎金峯山修験本宗=本山・奈良吉野の金峯山寺、宗祖・役行者(えんのぎょうじゃ)
◎粉河観音宗=本山・和歌山の粉河寺 ◎鞍馬弘教=本山・京都の鞍馬寺
◎聖観音宗=本山・東京浅草の浅草寺
などがある。