ブラックホール話B

仏教十三宗A

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【宇宙とブラックホール】

《宇宙の最後》

宇宙原理』:われわれの世界(地球や太陽系、およびわれわれの銀河)は宇宙の“中心”ではなく、宇宙のどこもわれわれの世界

と対等であるとし、またグローバルな観点からすれば、宇宙は完全に均等で、どの方向を見ても同じように見えるとする仮説。

→宇宙原理の上に立つと、相対性理論によって宇宙の進化を考察できることになる。宇宙の進化には3つの可能性があり、それを

決定するのは宇宙の物質密度である。

@物質間の重力(引力)は宇宙の膨張を引き戻そうとするから、現在の物質密度が高いほど未来における宇宙の膨張は遅くなる。

もし現在の密度がある臨界密度以上であれば、宇宙はある時期に膨張から収縮に転じる。このような宇宙は「閉じた宇宙」と呼ば

れ、体積は有限。閉じた宇宙は収縮に転じた後、有限時間でつぶれてしまう。

A物質密度がちょうどこの臨界密度である宇宙の場合は、ユークリッド幾何学が成り立つ。つまり、この宇宙はわれわれがふつう頭

に描く3次元空間と同じになる。このとき宇宙は永遠に膨張を続け、体積は無限大となる。

B臨界密度より現在の物質密度が低いときも、宇宙は体積が無限大の開いた空間になり、永遠に膨張続ける。

○われわれが実際に見ている物質の量はこの臨界密度よりも少なく、そのほぼ1パーセントといわれている。

○宇宙には見えない物質(ダークマター)が、見える物質の10〜100倍以上存在するらしい。

★★★★★★★★★★★★★

《閉じた宇宙のシナリオ》

(合体)

:宇宙の進化過程において、星の崩壊などにより多くのブラックホールが形成される。ブラックホールはまわりから物質を吸収して

どんどん大きく成長する。また2つのブラックホールが衝突すれば、合体して1つの大きなブラックホールになるだろう。

(定理)

:ホーキングが示した定理によると、ブラックホールは分裂しない

(終焉)

:閉じた宇宙の場合、宇宙の年齢が有限なので、すべてのブラックホールが合体して1つになる前に宇宙はつぶれてしまうだろう。

つまり、多くのブラックホールが存在したまま、宇宙は終焉を迎える。また現在のビッグバン理論は、宇宙が非常になめらかな状態

からスタートしたとしている。それに対し、いま考えた宇宙の終わりには、宇宙は非常にでこぼこした状態になる。

★★★★★★★★★★★★★

《開いた宇宙のシナリオ》

(膨張)

:宇宙の膨張により物質の密度が急激に減少し、ブラックホールどうしの間隔もどんどん離れていくために、ブラックホールどうしが

衝突する頻度もそれにつれて下がってしまう。

(蒸発)

:そうこうするうちに、ブラックホールの蒸発が始まり、ブラックホールは消えてなくなってしまう。

(無限)

:開いた宇宙では、ブラックホールは、1つに合体していようが多くのブラックホールとして残されていようが、最終的には蒸発し消滅

する。その後にはブラックホールから出てきた質量ゼロの粒子(ニュートリノ、光子、重力子など)が主に残る。さらに、素粒子の大

統一理論が正しいとすると、陽子なども壊れ、最終的には電子などのもっとも軽い安定粒子のみが残される。そして、宇宙のすべて

の構造も消滅し、ほとんど真空に近い希薄な宇宙が膨張を続けるだけである。

★★★★★★★★★★★★★

《ブラックホールの密度》

:ブラックホールの質量は半径に比例し、その体積は半径の2乗に比例するから、密度は質量の2乗に反比例する計算になる。つま

り、大きくて重いブラックホールほど、密度が小さくなる。

@地球と同じ質量をもつブラックホール

:その密度は1立方センチあたり1兆トンの20億倍。

A太陽質量程度のブラックホール

:密度は1立方センチあたり200億トンぐらい。

Bクエーサーの中心にあるような1億太陽質量の巨大ブラックホール

:密度は1立方センチあたり2グラム程度。

C1つの銀河全体の質量、すなわち1000億太陽質量程度の超巨大ブラックホール。

:密度は1立方センチあたり0.0000002グラム。

D宇宙全体の質量に匹敵するブラックホール

:密度は1立方センチあたり2×10のマイナス29乗グラムとなり、50センチ四方の空間に水素原子がわずか1個しか存在しないのと

同程度の希薄さになる。



仏教十三宗A

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【真言宗】

 真言宗の宗祖空海は、774年に四国の讃岐で生まれた。15歳のとき京に上り、18歳で大学に入り中国哲学を修めたが、次第に

仏教に関心をもつようになった。そして大学を中退し、四国の霊山を巡り歩いて修行を重ね、20歳のときに、和泉の槙尾山寺で出

家した。

 24歳で孔老釈三教の優劣を説いた『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、“儒教は俗塵の微風であり、道教は神仙の小術、仏教

こそもっともすぐれている“と説いた。

 31歳で入唐し、恵果阿闍梨から密教を学び、33歳で帰国。そしてまず高雄山寺(神護寺)に住んだ。この頃、天台宗の最澄と交

流し、密教伝授の儀(灌頂)を行なった。

 その後、高野山に入り金剛峯寺を建立したり、天皇から東寺を賜ったりするなどして、これらの寺院を中心に真言宗を広めてい

った。空海の業績は多岐にわたり、東寺のとなりに、総合大学にあたる綜芸種智院を開設し、庶民の教育機関とするなどのことを

行なった。彼の代表的な書には、『十住心論』、『秘蔵宝鑰』などがある。

                                                                 

 空海が大成した真言宗とは、ひとことでいうならば、それは大日如来の教えである。大日如来とは、宇宙の実相を仏格化した根

本仏で、すべての諸仏・諸菩薩の母体をいう。この大日如来と心身共になって修行をすれば、この身がこのまま仏になることがで

きる、といっているわけである。これを「即身成仏」というのだが、そのためには、手に仏の印を結び、口に真言を称え、心を仏の

悟りの境地に置く「三密加持」の実践行が必要なのだ。ここで真言とは、真実のよびかけのことで、大日如来のことばである。

 つまり、すべての人々が行いとことばと心を、清く正しく美しくする三密の行を実践し、この身でこのまま仏の徳を成就し、現世を

「密厳浄土(ごくらく)」とするのが、真言宗の教えなのである。

 空海が完成した真言密教は、教理としては不足のないものだったので、後世の真言宗の僧はもっぱら神秘体験の技術をみがく

ことに専念した。

★★★★★★★★★★★★★★

【融通念仏宗】

 融通念仏宗は、平安時代後期に良忍がおこした、浄土系の宗派である。現在、約400の寺院と約12万人の信者を擁している。

 浄土真宗の浄土とは、仏や菩薩の住む安らかな国土を指す。さて、仏や菩薩は無数にいるわけで、それと同じ数だけ浄土が

あるというからたいへんなものだ。一説には、浄土の数は210億もあるといわれている。数ある浄土のうち、日本の浄土真宗は、

特に阿弥陀仏が住むという西方浄土(すなわち極楽浄土)に往生することを願うものである。そのために、阿弥陀仏の名号を称

えているのである。

 良忍は13歳で比叡山にのぼり、天台と密教を学び、常行三昧堂で不断念仏をつとめた。23歳のとき比叡山を去り、大原に来

迎院をたて、法華教を読み念仏を称えた。そしてついに46歳のとき、阿弥陀仏と相通じて観得し開宗した。その後諸国をまわり

融通念仏を広め、大阪の平野に大念仏寺をたてて、根本道場とした。

                                                                 

 融通念仏とは、一人の念仏がすべての人の念仏と、また一人の善行がすべての人の善行と互いに融通し合い、極楽浄土の

ための絶大な力となる、ということである。そこから、この世は人間相互の連帯感のうえに成立しているものだ、という考え方が生

まれ、念仏という簡単な行で自分自身の身と心を正し、社会に奉仕する人間となることを目指すものなのだ。

 この良忍、融通念仏宗の開祖であるばかりでなく、声明(経文などに音楽的な節をつけ詠唱すること)にもすぐれ、天台声明

の中興の祖としても、その名を残している。

★★★★★★★★★★★★★★

【浄土宗】

 法然源空によって開宗された浄土宗は、現在約7000の寺院、信者約600万人を擁する大教団である。総本山は京都の知

恩院で、大本山には百万遍知恩院、清浄華院、東京の増上寺、九州久留米の善導寺、鎌倉の光明寺、長野の善光寺(ただし、

天台宗と共同運営)などがある。

 法然は、1133年、岡山美作の武士の家に生まれた。9歳のときに出家、15歳で比叡山にのぼり、黒谷の叡空らから25年にわ

たりひたすら経典研究にはげんだ法然は、「智慧第一の法然房」と呼ばれるまでになった。そのなかで善導の『観経疏(かんぎ

ょうしょ)』にある「一心専念弥陀名号」に感銘を受け、念仏をひたすら専修することを選びとり、さらに源信の『往生要集』がき

っかけとなって、新宗をおこすことを決意した。

 こうした経緯ののち、43歳で比叡山を下り、東山の吉水で“阿弥陀仏の名号を称えれば、末世の名もなき人々もそのまま往生

をとげ、阿弥陀仏の救済にあずかれる“という専修念仏の教えを説いた。66歳になると、『選択本願念仏集』を著し、ついに浄

土宗を開宗した。ここでは、多くの仏の教えのなかから、捨てるべきものは捨て、口称念仏の一行(本願の念仏)だけを選びとっ

ている。

                                                                 

 法然が開いた浄土宗だが、その教えは次のようなものである。つまり、“阿弥陀如来の誓いを深く信じ、南無阿弥陀仏を称え

ることによって、どんな愚かな罪深い者でも、一切の苦悩から救われ、また、いまあるそのままの姿で立派な人間へと向上し、

浄土に生まれることができるのだ!と。

 この教えの裏づけとして、末世の劣悪な者は、自分の力に頼った修行で悟りを開くことは不可能である、といっている。だか

ら仏の力にすがって末世浄土に往生するしか方法はなく、いまは称名念仏で苦悩多き現実を越えることが大切で、ついには

浄福の来世に生まれることができ、そこでこそ成仏(悟り)できる、と説いているわけだ。

★★★★★★★★★★★★★★

【浄土真宗】

 親鸞を宗祖とする浄土真宗は、真宗十派として、現代まで大きな勢力を誇っている。なかでも浄土真宗本願寺派(本山・西

本願寺)は、寺院数約1万、信者数約700万人、また真宗大谷派(本山・東本願寺)は寺院数約9000、信者数550万人を数

え、二大勢力を形成している。

 9歳で出家し、比叡山で20年間にわたって仏道に励んだ親鸞は、おもむいた京都の六角堂で感ずるところがあって、専修

念仏を称える法然の弟子となった。6年後、念仏が禁止され、師・法然が土佐に流されたとき、親鸞もまた越後に流罪となっ

た。越後での5年間、親鸞は非僧非俗の立場を表明し、「愚禿(ぐとく)」と名乗った。非僧非俗の「非僧」とは、国家の支配下

に置かれているような、既成の僧侶ではないこと、「非俗」とは、煩悩に振り回された生活をするだけの俗人ではないこと、を

さす。この非僧非俗宣言には、専修念仏においては、出家・在家の区別なく、阿弥陀仏の前では等しく同朋同行の輩である、

という意味がこめられている。恵信尼との結婚は、この頃である。

 39歳のとき、流罪を許されたが京都には帰らず、越後にとどまった。42歳で常陸(茨城県)に移り、布教にはげんだ。52歳

で、主著『教行信証』を執筆し、自己の思想を確立した。

                                                                 

 浄土真宗の教義とは、「教行信証」の四法である。「教」は無量寿経、「行」は南無阿弥陀仏、「信」は信心、「証」は滅度

(仏者の死)のことである。真実の教えである無量寿経に説き示された南無阿弥陀仏の名号(なのり)を称えきく信心により、

浄土に往生し、滅度の仏果を証することができる、ということをいっているわけだ。

 親鸞は「本願の名号」ということをいっている。本願の名号とは、苦悩から逃れることができない人々の、根本的な要求に

応えるものであり、いかなる衆生(悪人)をも救いとげなければならない、という阿弥陀如来の誓いである。また、「回向(えこ

う)」ともいっているのだが、これは本願の名号を行ずることをいい、すべての人々を目覚めさせる働きを持っている。

 だから、人々が本願の名号に出合うと、その身に如来の誓いが響き、真実信心に生かされる生活が始まるわけだ。これを

親鸞は、“臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり”といっている。