日本史上において、最初に仏教伝来の年次に関して議論が巻き起こったのは、千二百年前の弘仁年間(810〜824)であっ
た。
それは、最澄による大乗戒壇設立に関して、南都の僧綱・護命と最澄の間に起こった。
最澄が、552年説の根拠にしているのは、『日本書紀』の百済国の聖明王が使者を遣わし、釈迦像や仏教を広めるための功徳を
奉わったという記事の中に、欽明天皇13年壬申という年号が見えるからである。
しかし、この記事は、早くから疑問がもたれていて、『日本書紀』の編者で経典に通じていた者によって潤色された可能性が非常
に強く、欽明天皇13年壬申という年号をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。
一方、護命の方は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の中に、仏教が538年(欽明天皇7年戊午)に伝来したとされている記事に依
っている。また、『上宮聖徳法王帝説』にも仏教が欽明天皇年間の戊午の年に、百済の聖明王が、仏教・経典・僧などを伝えたと記
されている。
以上のことから、538年説は552年説よりはるかに信憑性が高いと思われているが、538年説にも重大な問題が秘められていた。
『日本書紀』は、欽明元年を540年としているが、『元興寺縁起』・『法王帝説』に従うと、538年には欽明天皇の御代が始まってなけ
ればならない。しかも、『元興寺縁起』・『法王帝説』には、安閑・宣化両天皇の記事はなく、これらの記事と『日本書紀』のそれは大
きくくいちがっている。
この矛盾は、平子鐸嶺氏が指摘し、喜田貞吉氏の継体天皇没後に、欽明朝と安閑・宣化朝に何らかのトラブルが生じたとする説
に受け継がれた。
その後、林屋辰三郎氏が、この問題を発展させ、欽明朝と継体・安閑・宣化と続く王朝が同時に併存したために、『日本書紀』は、
やむなく継体→安閑→宣化→欽明という天皇の系譜を作成した。この林屋氏の見解は、現在、一般的な説とされている。
ここで、538年説を正しいと仮定して、なぜ『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申にあてたかという問題を考察してみる。
田村圓澄氏は、南都側では釈迦の入滅を紀元前949年壬申とする説が流布していること、三輪の教学では正法500年・像法
1000年としていることなどから、552年が末法の初年に当るため、この年を一つの区切りとし、仏教伝来の記念すべき年にしようと
して、『日本書紀』は、欽明天皇13年壬申に仏教伝来というメモリアルイヤーを設定したのではないかとしている。
さらに田村氏は、仏教伝来の年を末法初年に当てたのは、末法を迎えた唐の仏教に対して日本の仏教興隆の事実を示すため
であり、律令国家の国家意識の高まりであるとした。
この意見に関して、井上薫氏は、『日本書紀』に壬申説を採用したのは、三輪宗の学僧である道慈であろうと推定している。
しかし、壬申説採用が、律令体制の国家意識の高まりだという田村説に対しては、道慈が、唐仏教に対してそのような優越感を
もっていただろうかと、疑問を投げかける説も登場した。水野柳太郎氏は、道慈が国分寺建立と密接に関係することから、壬申説
を末法の初年とするよりも、『大集経』の五堅固説による造寺堅固の元年と考えるべきであるとした。
田村氏と水野氏の両説は、仏教公伝の年次を何かの事象に対する記念の年と考える所が共通している。両説ともに、完全には
『日本書紀』における壬申説採用の理由を示しているわけではないが、考え方として史料からのアプローチだけではなく、仏教公
伝の年というバリューに視点を切り替えているという所に、この説の最大の意味がある。
前項で、538年説を正しいと仮定してとしたのも、538年説にも『日本書紀』と対照した矛盾ということ以外にも、考察しなければな
らないことがあるからである。
現在仏教公伝を記した最も古い史料は、『法興寺塔露盤銘』の後半(前半は潤色されている)の記事である。『法興寺塔露盤銘』
は、法興寺(元興寺・飛鳥寺)が創建された推古朝のものであると考えられている。しかし、そこには元興寺の造営話のみが記され
ているだけで、仏教伝来のことについてはまったく触れられていない。
『法興寺塔露盤銘』の後半に次ぐ古い史料としては、後代の潤色を受けているが、『塔露盤銘』前半と『古縁起』の『元興寺丈六光
銘』である。
これら二つの史料を詳細に検討した福山敏男氏は、二つの史料が推古朝以前から『日本書紀』成立以前に成立したものだと考え
た。
『塔露盤銘』前半には、「大倭国の天皇、シキシマの宮で世の中をお治めになっている。名を、アメクニオシハルキヒロニワノミコト
(欽明天皇)という天皇の御代に、お仕えなさっていたのはソガ、名をイナメという大臣である。その時、百済の聖明王が、上啓して
申された。『万法の中で、仏教が最も上である』と。」と記されている。
また、『丈六光銘』には、「天皇の名は、広庭、シキシマの宮にいらっしゃる時、百済の聖明王は、『私が聞いているには、いわゆ
る仏法は、既に世間無常というべき法である。あなたも修行して、仏像・経典・法師を敬ってみてはどうですか』と天皇に申された。
天皇は、ソガ名をイナメという大臣に詔して仏法を修行なされた。仏法が始めて大倭に渡来したときのことである」と記されている。
福山氏は、『塔露銘』前半と『丈六光銘』を考察し、仏教伝来の時期がただ漠然と欽明朝とのみ記していることに注目し、『古縁起』
が潤色されていく過程において、仏教伝来を、欽明朝→538年と付加されていった過程があったと結論づけた。そして、露盤明前半
との対比から推古朝には、まだ仏教が欽明朝に伝来したという説さえ成立していなかったのではないかと推定した。
仏教伝来538年説は、推古朝以前にはさかのぼらないという目安ができた。ただし、600年には、倭の使者の言葉として、「文字な
く、唯木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬し、百済より仏法を求め得て、始めて文字有り」とあり、仏教が百済から伝来したことは、
既に推古朝において存在していたことが分かる。
6世紀における朝鮮情勢は、きわめて緊迫していた。高句麗・新羅に圧迫され続けていた百済は、頻繁に倭に援軍を求めるよう
になった。倭もそれに呼応する形で朝鮮に兵を送った。
百済は、高句麗の圧迫により、538年に都を熊津から泗ひに移し、552年には新羅により、百済の一部が領有された。また一時、
百済に従属していた加羅諸国も次第に新羅の支配下に入り、日本が拠点を置いていた安羅も新羅の影響を受けるようになった。
一方、混迷した朝鮮情勢に応じるように、倭でも積極外交が行われるようになる。欽明朝には、朝鮮政策に失敗した大伴氏に代
わり、朝鮮に出自をもつとされている蘇我氏が勢力を伸ばしてきた。蘇我氏は、百済を基軸とした対朝鮮外交を重視する。
6世紀前半の東アジア情勢は混沌とした時期であり、倭をはじめ各国が大きく変革しようとしていた時期であった。
仏教や五経博士が、百済の出兵に対する礼として渡来するのもちょうどこの時期であり、仏教伝来という問題を考えるとき、朝鮮
情勢も視野にいれなければならないだろう。
当時僧侶は、単なる宗教者というだけではなく、一方で知識人・技術者という顔も持ち合わせていた。仏教を日本に受け入れると
いうことは、宗教受容ということはもちろんとして、朝鮮の先進文化を受容するという性格ももっていた。
仏教受容をめぐって、『日本書紀』には、552年に仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が争ったという記事がある。
欽明13年壬申に、百済の聖明王が、使者を遣わして仏教を広めた。天皇は、「いまだかつてこれほど微妙な法を聞いたことがな
い」と歓喜し、礼拝の賛否を群臣に求めた。この時、蘇我大臣稲目は、「西蕃諸国はみな仏像を礼拝しています。豊秋日本だけが
どうして独り礼拝しないでいられるでしょうか」と答えたが、物部大連尾興らは、「我が国家の天下に王とまします人は、常に天地の
百八十神を四季ごとに祭ってまいりました。いま改めて蕃神を礼拝するなら国神の怒りを招くでしょう」と反対した。
この記事は、物部氏の伝統的な氏族ゆえの保守的さと蘇我氏の新興勢力ゆえの革新的さを表しているだけではなく、「日本だけ
がどうして礼拝しないでいられるでしょうか」という稲目の言葉には、仏教受容の有無が、一国の宗教的問題ではなく、国際関係上
にも関係していることを示唆している。
最初に、林屋氏の欽明朝と継体・安閑・宣化朝という二つの王朝の潮流が6世紀前半に存在していたという説を述べた。継体朝に
勢力を伸ばした大伴氏は、朝鮮政策の失敗によって政治的権力を失う。
また一方、欽明朝においては、娘を嫁がせることで大きな権力を手にした蘇我氏が台頭し、欽明天皇以降の天皇は、蘇我氏との
外戚関係によって誕生する。欽明朝は、蘇我氏にとって記念すべき時代だった。『日本書紀』推古32年(624年)10月条にみえる、
推古天皇の「朕は蘇何(そが)より出でたり」という発言は、天皇の側からも、自分が蘇我氏の血を引いているという明確な意識が読
みとれる。
蘇我氏の血を引く天皇は、継体天皇の潮流を引く王朝との明確な正当性を、仏教もしくは国際権威の力を借りて確定させた
かったのであろうと思われる。
天然ガスはメタンを主成分とする可燃性のガスで、地下においてガス体として地層にたまっているほか、石油や
水に溶け込んで存在している場合もある。開発及び採掘は、石油の開発ど同様に地表からのボーリングによって
採取するが、地下での埋蔵状態により四つに区分される。また、生産地域からは、陸上で生産される陸上ガス田
と、海洋で海上に設置されるプラットフォームより海底へ井戸を掘って生産する海洋ガス田とに区分される。
@油田ガス
:随伴ガスともいわれ、石油とともに汲み上げられ、地表に出て石油と分離し産出されるガスの総称。
A構造性ガス
:地殻にガス単独で蓄えられている。
B水溶性ガス
:地下水とともに汲み上げられ、地表に出て水と分離し、産出するガス。
C炭田ガス
:炭層または炭層付近から産出するガス
これら産出した天然ガスには通常、炭酸ガス、硫化水素、水分などの不純物が含まれている。このため、これらを
精製して取り除き、90%以上のメタンを含んだガスとして使用されている。
この天然ガスは、比重が空気よりも軽く、約1万カロリー/立方メートルという高い熱量を持っている。しかも燃焼さ
せると黒煙のない青い炎となって、硫黄酸化物も発生しない。こうした高発熱量とクリーンであるという点が評価され、
各国で利用が進んできている。
日本では、新潟県、福島県が構造性ガスを、千葉県が水溶性ガスを産出しており、この三県で国産天然ガスの
97.3%を生産している。ただ、構造性ガスを含む傾斜構造の広がりが極めて少ないこと、また水溶性ガスは地盤
の沈下につながるため産出が制限されるなどで、年間産出量は22億立方メートルと小さな規模にとどまっている。
この天然ガスの発生要因については、石油と同様に有機説が一般的だ。つまり、古代の動物や植物が土中に
堆積して腐敗ガスが発生、これが地下の温度や圧力によって変成し誕生した、というものだ。だが、この「有機成因
ガス」説に対して、最近になって「地球深層ガス」説を唱える見解も台頭、波紋が広がっている。
この地球深層ガス説を唱えたのは、アメリカ・コーネル大学の天体物理学者T・ゴールド教授である。教授は79年、
「46億年前に地球が誕生した時、地上に降り注ぐ無数の隕石とともに大量の炭素や水素、炭化水素などが宇宙か
ら地表に集まり、地殻の内部に入り込んだ。そうしたガスが、数十億年の年月の間に高い温度と圧力を受けて天然
ガスに変わった。さらに地表へ岩の間をぬって上昇してくる際に石油にも変わり、地層内に堆積したのではないか」
という主旨で、この地球深層ガス説を発表した。
この学説が関係者に与えた衝撃は大きい。というのは、これまでの「有機成因ガス」説を前提とすれば、天然ガス
の埋蔵量には自ずと限界が出てくる。しかし、地球の外部から天然ガスの発生要因をとり込んだ「無機成因ガス説」
であるゴールド教授の学説を前提とすれば、天然ガスはわれわれが考えている以上に広い範囲にわたって存在す
ることになり、埋蔵量に対する概念もこれまでの常識を覆す規模にまで膨らむことになるからだ。
人間の手によって開発することが可能な天然ガスの確認可採埋蔵量は、世界全体で約138兆立方メートル(19
93年1月段階)と言われている。燃料としてカロリー換算すると、石油の確認可採埋蔵量の93%に相当する量で
ある。ただ、今後開発が進む分も想定した究極の天然ガス埋蔵量は200兆立方メートルとも300兆立方メートル
とも言われており、同じ化石燃料という比較では、むしろ石油をしのぐ潜在的な埋蔵があるとされている。
また、石油が7割弱の埋蔵量が中近東諸国に集中している状況と比較すると、天然ガスの埋蔵はむしろ世界に
分散している形となっている。1次エネルギー調達の安全性ということを考えると、例えば湾岸戦争で石油の調達
が不安視されたのに対し、調達先が分散している天然ガスは消費する側にとって、はるかにリスクの少ないエネル
ギーと言えよう。
国別の埋蔵量では、旧ソ連地域が群を抜く。まだ未開発の東シベリアのヤクートなどを含めた埋蔵量は約55兆
立方メートルと言われている。世界全体の4割地近くの埋蔵量がここの集中していることになる。中近東諸国も、開
発はまだ進んでいないものの埋蔵量は多い。とくに多いのはイランで約20兆立方メートル。世界の埋蔵量の14%
を占める規模。これに続くのがアラブ首長国連邦(UAE)で、5兆8000億立方メートルの埋蔵が見込まれている。
ただ、天然ガスの開発については、まだまだ未開発の地域も多く、確認埋蔵量も数年ごとに更新されていくこと
は確実だ。環境問題などを追い風とした天然ガスの炭鉱・開発が活発化すれば、地域ごと、あるいは国ごとの埋
蔵量分布の地図はまだまだ塗り変わる公算が大きい。
埋蔵量も多く環境負荷も低いクリーンエネルギーであるとい点から、天然ガスの消費は世界でも拡大している。
現在、世界の天然ガス消費量は、石油に換算すると17億7000万トン(91年現在)。この15年間で1.6倍の規
模に膨らんだ。この結果、世界全体の1次エネルギーの消費量に占める天然ガスの比率は22.7%となっており、
石油の40.2%、石炭の28.0%に続いている。
天然ガスの輸送手段として長距離のパイプラインが主流となっている現在では、自国内に、あるいはパイプライ
ンで天然ガスを運んでこれる地域で天然ガスの消費が多い。欧州、米国で天然ガスの消費が多いのはそのため
だ。自国内に数多くのガス田を抱える旧ソ連地域は、群を抜いて天然ガスの比率が高い。
逆に日本や中国など、国内に天然ガス資源を持たない国は、他の1次エネルギーへの依存を強めざるを得な
い。中国は自国内に膨大な埋蔵量がある石炭に1次エネルギー消費の8割を依存、天然ガスの占める比率はわ
ずか2%に過ぎない。
国内に1次エネルギー資源をほとんど持たない日本の場合は、いうまでもなく石油の依存率が圧倒的だ。全体
の消費の6割弱を石油に依存しており、天然ガスへの依存は1割程度にとどまっている。石炭、原子力をバラン
スさせたエネルギーのベストミックスの追求による効率利用が、日本の特徴といえる。
特に日本の場合、まだ天然ガスの消費水準が1割程度と世界平均の半分にとどまっているのは、天然ガスの
消費量の大半をLNGとして輸入せねばならないためだ。欧米が天然ガス田から直接パイプラインでガスを取り
込むのと比較して、LNGは天然ガス生産国で天然ガスを液化し、専用タンカーで運び、さらに受入れ基地で気
化するという手間とコストがかかる。そのためのインフラの整備と産ガス国とのプロジェクトの構築に時間がかか
ることが、天然ガス需要拡大の大きな障害となってきた。
だが、LNGの大量輸送体制が確立されたことによって、日本のエネルギー消費の分布図もこれからは大きく
塗り変わる。特に、国土が狭く工業地帯が集中している日本のような土地柄にとって、天然ガスのクリーンさ、そ
して効率の高さは大きな武器となる。現実に日本で天然ガスの本格的な利用がはじまったのは、1969年の東
京ガスと東京電力共同によるアラスカ産LNGの調達が最初。むしろそれから20年で、基幹エネルギーの一翼
を担うようになったという点が、天然ガスの潜在力の証明ともいえる。