キリスト教の歴史をずっと追っていったら、尋常でいられる文字数ではすみませんので、
ここではカトリックとプロテスタントの違いだけに触れたいと思います。
西暦395年、ローマ帝国は東と西に分裂しました。
使徒のかしらペテロを継ぐものとして、アレクサンドリア、エルサレムなどの他の教会に、
権威を主張していた西ローマ帝国のローマ教会は、
カトリック(普遍的、公け)教会と称し、その司教は地上におけるキリストの代理者であると主張しました。
西ローマ帝国は467年に滅びましたが、ローマ・カトリック教会は、
諸民族をキリスト教化して、広くヨーロッパに勢力をにばしました。
一方の東ローマ帝国では、コンティタンティノポリスを本拠地とする東方教会が発展を続けていましたが、
1453年、東ローマ帝国はトルコ帝国に滅ぼされ、
コンティタンティノポリスの教会は、イスラム教会に変えられ、
1589年、東方教会の総主教座はモスクワに移りました。
東方教会の系統のキリスト教は、ギリシア正教とよばれ、神秘的、思弁的で、伝統を重んじます。
1517年、アウグスティノ教会の修道士で神学博士のマルティン・ルターは、
教会が発行している免罪符に抗議する「95ヶ条の論議」を公けにし、これが宗教改革の発端となりました。
この後、宗教改革運動によって成立した教会は、プロテスタント(抗議する者)とよばれました。
プロテスタントの教派は多数に分かれて発展し、
19世紀には、プロテスタントの神学が大きく展開しました。
16世紀なかばから17世紀前半に、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの宗教戦争があいつぎました。
フランスのユグノー戦争、ネーデルランドのネーデルランド自由戦争、そしてドイツの30年戦争。
これらによって大きな犠牲を払ったヨーロッパ諸国では、この戦争の教訓から、
信教の自由と政教分離の思想が、しだいに根をおろすようになりました。
燃料の枯渇、地球環境の悪化、事故の危険性、電気需要の増加、
次世代の発電には、これらの課題が課されています。
ここでは次世代の電気供給法として期待される、4つを紹介していくことにします。
1:燃料電池
燃料の酸化還元反応を利用して電気を獲得するもので、
低公害型でかつ分散型の電源として大きな期待がかけられています。
リン酸型燃料電池はすでに開発されていて、2015年ごろには、
現在のピーク時用の電源と競合し得るまでになると考えられています。
[課題]
コストの低減:リン酸型では、安価な触媒の開発や発電システムの長寿命化。
技術の確立:溶融炭酸塩型では二酸化炭素循環に関する技術、固体電解質型では電解質の安定化、薄膜化。
いずれの場合も、耐熱材料の開発が不可欠。
2:太陽光発電
現在、電卓や人工衛星など特殊な用途で実用化されています。
通産省のサンシャイン計画では、既存の電力と競合できる
1ワット時あたり20から30円のところまでコストの低下をはかるため、
太陽電池の製造コストを1ワットあたり100から200円にまで落とす量産技術の確立が急がれています。
[課題]
太陽光のエネルギー変換の高効率化のための新材料開発。
それを低コストで量産する技術、劣化防止技術。
ただし、これらの低コスト化は、きわめて困難だというのが現状です。
3:高速増殖炉
例の「もんじゅ」は、原型炉とよばれるもので、実証炉が開発された後、
2020年ごろには、複数の実用炉による運転が開始されるとみられています。
フランスではスーパーフェニックスという実証炉が建設され、
フランス、ドイツ、イギリスなどが共同して、次期高速増殖炉の開発を進めています。
[課題]
発電プラントとしての実証、習熟、発電効率の向上、経済性の確立。
原子力発電に対する安全性の確立。
4:核融合炉
重水素や三重水素などの核融合反応によって発生するエネルギーを発電に利用する装置です。
重水素どうしが反応するD−D反応と、重水素と三重水素が反応するD−T反応がありますが、
重水素は海水の中に無尽蔵に存在するため、
D−D反応(技術的にはこちらのほうが難しい)による核融合炉が実現すれば、
人類はエネルギー資源の枯渇問題から開放されることになるといわれています。
[課題]
強い中性子の照射に耐えられる炉構造材の開発、核融合エネルギーを取り出すブランケット技術の確立。
大型装置の建設には、莫大な費用がかかる。
いずれの発電にも、解決困難な課題が残されており、
われわれ自身の問題、エネルギー資源の枯渇の解決はまだまだ先だということになります。
しかし、例えその問題には終止符をうつことになったとしても、
地球環境に悪影響を与えることになるなら、まったく意味がないでしょう。
結局われわれは、地球に生かせてもらっているのですから。
新羅は、始祖赫居世王によってB.C57年に建てられ、ソラブル(徐羅伐)またはサロ(斯盧)という国号で呼ばれて
きたが、22代智證王の代にいたり、はじめて新羅という国号で呼ばれるようになった。新羅は、朴氏が十代、昔氏が
八代、金氏が三十八代、都合五十六代の王によって治められ、存績期間は千年に八年が足りない九百九十二年で
ある。
新羅は、三国の中で一番遅れて建てられた国でありながらも、中国の影響を最も多く受け入れた国である。もちろ
ん、新羅固有の文化がそれまでなかったわけではないが、百済や高句麗を押さえて先駆けるためには、どうしても、
文化的傅統の古い唐の文化を短い間に、しかも多量に取り入れる必要があったからである。
唐から取り入れられた文化は、ほとんどが佛教文化であった。それゆえに、新羅文化は佛教文化を主軸として発達
していったが、19代訥祗王から28代真徳王にいたる200年間は、その全盛期であったといってよい。
けれど、それは唐の佛教文化の模倣に過ぎなかった。少なくともそこには今もって、新羅特有の様式と精神の投影
がなされていなかった。
長い間ひとり、東方の片隅に埋もれていたため、自ずとそうならざるを得なかった新羅人の保守的な気質にもその理
由がないでもないが、早くから、国土統一のみを唯一の念願ならびに、最高の目標と決め込んでいる新羅人にとって
は、他に心を遣る暇がなかったのかもしれない。
果たして、29代太宗武烈王と30代文武王によって、ついに国土統一の念願が叶えられると、それと時を同じくして、
新羅の佛教文化もにわかにその趣きを一新、しかもごく短い間に、唐のそれを凌駕してあまりある新羅固有の佛教芸
術が、凛然とその光輝を発し始めたのである。
造られた芸術作品の一つとして、新羅特有の息吹きが感じられないものなく、新羅民衆固有の体臭が感じられない
ものがなかった。
幸いにして今に残り、世界の美術家や建築家の目を驚かしめている佛国寺がそれであり、石窟庵とその本尊佛釈迦
如来坐像、聖徳大王の神鏡と金冠塚・金鈴塚・瑞鳳塚の賓冠、それに数多い王陵、古墳、出土品がそれであり、今は
失われその原形を見ることは出来ないが、当時の新羅の豪華絢爛たる文化を推し量るに、少しの不足もない臨海殿址・
芬皇寺址・皇龍寺址がそれであり、さらには1973年8月、皇南洞の第155号古墳から出土を見た、金冠塚・金鈴塚・瑞
鳳塚のそれに優るとも劣らざる純金製の王冠と、韓国最古のものと見做される横75cm、縦53cmの白樺の木の皮に
赤・黄・土・黒・白の五色の顔料をもって天翔ける白馬を画いた彩色“天馬圖”、それから仁旺洞の第156号古墳から出
土された翡翠の曲玉・純金製の首飾りなどがそれである。
一言で言うと、新羅王朝の首都慶州は、千年前の文化とは到底信じられないような新羅特有の凛然たる文化の花が、
久しい歳月を経た今もなお、その美を競い合う巨大な花園といってもよく、この花園にひとたび足を踏み入れれば、そ
の恍惚たる新羅も薫りと、その幽玄なる新羅の情緒に、誰しも酔わされずにはいられないだろう。
新羅の古都慶州は新羅王朝の王都で、B.C57年、朴赫居世王が国を開き、A.D927年、外勢に対する心配りをおろ
そかにしたことから、やむなく、第56代敬順王が国を閉じるにいたるまで、984年間にもわたる新羅千年の歴史の拠り所
であると同時に、斯盧部族を中心とした辰韓十二個国の部族がひとかたまりになり、大新羅創造の大業に向かって、五
戒の戒律も厳たる花郎精神を軸として、国を愛する、芸術を愛する、平和を愛する心、すなわち、今なお韓国国民の血
管の中をとうとうと流れている、いわゆる新羅精神が、芽ぐまれ、育まれ、磨かれた発祥地ともいえる。
今日の寧日のないひたむきな韓国民の意欲は、その昔、新羅盛代を夢みながら邁進、おくところを知らなかった新羅
人の、もう一つの希望にあふれたたくましい行列のそれといってもよい。