実数と虚数というものがある。普通の数、実数は、二乗するとプラスになるが、虚数は二乗するとマイナスになる。
われわれの実生活にはまったく関係のない虚数だが、これがわれわれの住むこの世界に深い関係があることがわかったのは、
量子力学の波動関数には虚数が必然的に含まれていることがわかってからだ(量子力学における波動関数〈二乗すれば《電子など
の》存在確率を表す〉は複素数の関数でなければ干渉などの現象を起こすことができない)。
この宇宙の誕生にも虚数が関係しているという。それも、われわれおなじみの時間が虚数になっている、
ということが決め手になっているというのだ。なぜそんなものが必要なのか。
ことの起こりは特異点だ。特異点というのは、宇宙の時空が一点にまで収縮し、空間の曲率などいろいろな性質が無限大になり、
物理的意味がなくなってしまう場所のことだ。実際の世界について、こんな特異点は出てきて欲しくない、
というのが物理学者の本音である。
ところが、どうしても振り切れない特異点が宇宙論にはあった。宇宙の性質を調べるときには、
アインシュタイン方程式(時空の曲がり方を表す曲率と、そこに存在する物質と場のエネルギー・運動量の関係を与える)を使う。
その結果には、特異点がつきまとうのである。ペンローズとホーキングは1970年までに、大域的微分幾何学という、
現代数学の手法を用い、ごく一般的な仮定のもとに、アインシュタイン方程式にしたがう宇宙は過去に溯れば必ず、
特異点につきあたってしまうことを証明した。しかし現実はそれでは困るのである。
ここでいう特異点は、いわば宇宙の「端っこ」に現れるのだが、この端っこの性質がきちんと決まらないと、
たとえ方程式がきちんと分かっていても、そこから先に何が起こるかは決まらないというのが物理学での常識である(端っこでの性質
というのは、いわゆる境界条件、初期条件のこと)。とはいうものの、アインシュタイン方程式に代わるものはない。
特異点を避ける方法…このために考えられたのが虚数時間なのである。
宇宙の始まりでの特異点を消すためには、そこでの空間と時間の区別をなくせばいいというのがその主張だ。
そのためには,時間を純虚数であるとすればいい。
これがハートル、ホーキングが1983年に提出した無境界境界条件というものである。
詳しく計算するには、ファインマンが編み出した経路微分法という量子力学のテクニックを使わなければならない。
この式で時間tを虚数時間t×jに置き換えて式を作り、宇宙の波動関数を計算してやればよい。
この境界条件をさらに、「宇宙の物質の状態も変なことが起こっていない」という条件を置いて宇宙を調べてみる。
無境界境界条件はいわば入れ物だけの条件で、中身も大丈夫という保証がいるのだ。
これらのことから、どういう宇宙が生まれるのだろうか。
アインシュタイン方程式には、条件の立て方によって何通りもの解がある。
その中に虚数時間から始まったと解釈できる宇宙の解があった。それがド・ジッター宇宙である。
ド・ジッター宇宙は、オランダの天文学者ウィレム・ド・ジッターが1917年に発表したアインシュタイン方程式の解である。
一様等方、物質密度ゼロの他、アインシュタイン方程式の宇宙項(真空のもつエネルギーと解釈できる)が存在するという条件がつ
く。物質密度ゼロというのは、確かに宇宙の最初としては妥当かもしれない。一方、宇宙項は、現在の宇宙を観測するとほとんどゼ
ロであるのだが、初期に限ってゼロでなくてもいいのではないかという考え方が、取り上げる背景にある。
このド・ジッター宇宙を量子力学的に考えてみると、宇宙はまったく何もない(誕生のとき、宇宙は真の真空ではなく、宇宙項のため
に、真空よりもエネルギーの高い準真空状態にあったと考えられる。これが後のインフレーションの原因となる)状態から生れ、
最初、虚数時間をたどるが、ある点で実数時間に切り替わり、そこから膨張を始めるという結果が出る。
量子力学を取り入れない古典論では、こんなことはまったく考えもつかない。
ド・ジッター宇宙にこのような性質があったことを見つけたのは、トンネル効果で宇宙が生まれるとして「無からの創成」を主張した
ビレンキンである。ホーキングは、これを量子力学的に厳密に取り入れ、いわば虚数時間が宇宙を産んだという結論を導き出した。
生まれたド・ジッター宇宙は、宇宙項のエネルギーで激しい膨張を起こし、たくさんの物質を産む。宇宙項を使い果たした宇宙は、
フリードマン宇宙となり、緩やかな膨張を続ける。これがインフレーション理論である。
虚数時間を持ち込んだ無境界境界条件が唯一の条件かどうかはまだ分からない。観測はやっと、インフレーション・ビッグバンの
なごりである3度K宇宙背景放射のゆらぎにたどりついたばかりで、宇宙の誕生にはまだまだ遠い。
それでも、宇宙についての人間の理詰め攻撃は続いている。
●素粒子の標準理論
われわれが日常目にする物質を構成しているのは、主に第1世代のクォークとレプトンである・たとえば第1世代のクォークの
アップとダウンが3つ組み合わさって陽子や中性子を作っている。また、電子は第1世代のレプトンの1つである。これに対して
第2世代、第3世代のクォークやレプトンは、高いエネルギー状態でしか見られない物質の基本要素となっている。第2世代のレ
プトンの1つ、ミュー粒子は宇宙線の主な成分として観測されるが、すぐに第1世代のレプトンへと崩壊してしまう。
また第2世代のチャームクォークも加速器による高エネルギー実験でしか生み出されない。
これらの粒子の間には、電磁気力や重力以外に2つの力が働いていることが分かり、それぞれ弱い力、強い力と名づけられた。
そして、4つの力は各々特定の粒子によって媒介されていることも明らかになった。まず重力の担い手であるグラビトン(重力子)
がある。電磁気力は光子によって媒介される。弱い力を担う粒子はWボソンとZボソンであり、またクォークどうしを結び付けて、
陽子や中性子などにまとめておく強い力を媒介するのは、グルーオンである。
これら4つの力の場は、どれもゲージ原理に従うゲージ場であると考えられている。そしてゲージ原理という道具を使って、それ
らを順に統一していこうという試みが始まったのである。
最初に統一されたのは、電磁気力と弱い力である。1960年代にアメリカのスティーヴィン・ワインバーグとアブダス・サラムが2つ
の力を統一する理論を提出し、それは「電弱相互作用の理論」と呼ばれた。この理論は実験的にも確かめられた。
これと同じ頃、クォークの研究から、クォークどうしの間で働く力を扱う力学理論、「量子色力学(QuamtumChromoDynamics=
QCD)」が生まれた。このQCDと電弱相互作用の理論とを合わせて、「素粒子の標準理論」と呼んでいる。素粒子の世界を体系的
に説明するこのような理論の書く利屡によって、素粒子物理学は大きな節目を迎えた。
●超高エネルギーの世界
素粒子の標準理論では、電磁気力と弱い力は見かけの違いはあっても根本は同じもの、すなわち「電弱力」として統一的に扱わ
れている。だが、強い力の方はこれらとは別個の扱いのままだった。そこで、3つの力を1つにする可能性が、1975年頃からくわし
く調べられるようになった。
3つの力の統一が可能か否かということは、言葉を変えれば、3つの世界に差別のなくなる世界が考えられるかどうかという問題
である。理論的な研究の結果、このような世界は確かに存在し得ることが分かり、3つの力を統一する「大統一理論(GrandUnified
Theory=GUT)が組み立てられた。だが、理論ができあがっても、それだけでは科学としては成り立たない。理論の予言が実験に
よって確かめられなければならない。
ところが、大統一が可能になると理論が予言する世界は、想像を絶する高エネルギーの世界であった。加速器などを使って高
エネルギー現象を作り出し、研究する分野を「高エネルギー物理学」というが、現在、世界の高エネルギー物理のフロンティアで
は100〜1000ギガ電子ボルトが達成されている。しかし、大統一理論の舞台はさらにその1兆倍!というとてつもない世界なので
ある。
われわれの生きている世界は大統一理論の舞台となる超高エネルギーの世界とは異なるが、それでも、われわれの世界では陽
子が崩壊することを理論は予言する。物質の安定性は陽子の安定性に基づいているので、この予言は深刻である。
予言によると、陽子がレプトンに崩壊する寿命は10の32乗年以上である。これは「ビッグバン宇宙論」で宇宙の寿命とされる150
億年よりもはるかに長い。だが、大量の物質を集めて観測すれば、その中のわずかな数の陽子が崩壊するのをつかまえることがで
きるだろう。これが確かめられれば、大統一理論の正しさを検証することになる。
このような意図で、世界各地に何千トンもの水や鉄を利用した巨大な実験装置(陽子崩壊実験装置)が建設され、陽子崩壊を観
測する努力が続けられてきた。しかし残念ながら、これまでのところ陽子崩壊が起こったという確実な報告はまだ1つもない。
●超対称性
大統一理論は、陽子崩壊の他にも重要な理論的示唆を行っている。その1つが「超対称性」である。
すべての粒子は「スピン」と呼ばれるある属性(内部自由度)をもっている。スピンの大きさが整数のものをボソン(ボース粒子)、
半整数のものをフェルミオン(フェルミ粒子)と呼ぶ。光子をはじめとする力の媒介粒子は前者に含まれ、クォークやレプトンは後
者に含まれる。
ボソンとフェルミオンの違いは、同じ種類のフェルミオンあるいはボソンが多数集まったときに、もっとも顕著に現れる。たとえば、
ある1つの状態にフェルミオンである電子を2個以上詰め込むことは許されない。これは「パウリの排他律」として知られる。これに
対してボソンは、何個でも詰め込むことができる。スピンの性質が違うだけで、ボソンとフェルミオンの2つのグループは非常に異
なる振る舞いを見せるのである。しかし、大統一理論は、この両者が何らかの対称性をもつような世界があることを示唆している。
大統一理論を標準理論に矛盾なく結び付けようとすると、大統一理論に現れるパラメーターを、信じられないほどの精度で微
調整をしなければならなかった。しかしこれはきわめて不自然なことである。だが、もしボソンとフェルミオンが対称となる世界を想
定すれば、そうした事態を回避して、理論の“自然さ”を取り戻すことができる。これは、物理学者にとってはきわめて望ましいこと
である。こうして、要請されたボソンとフェルミオンの対称性を超対称性と呼んだのである。
間接的にだが、このような超対称性を支持する計算結果もある。大統一理論によれば、素粒子の標準理論に含まれる3つの力
を表す結合定数(α1、α2、α3)は、エネルギーのスケールを大統一のレベルまで上げていったときに、1つの値に統一されな
ければならない。低いエネルギーのレベルではそれぞれの結合定数の値がすでに測定されているので、これを使ってエネルギー
を上げたときの値を計算する。すると、超対称性をもちこんだ場合においてはじめて、3つの結合定数が統一される。超対称性は、
これからの統一場の理論を考えていく上で、重要なカギとなる考え方である。
●統一場理論
大統一理論には、言うまでもなく重要な力が1つ欠けている。それは重力である。これにはもちろん理由がある。現代の統一場
理論は量子力学的な場の理論でければならないが、量子力学的な重力場の理論そのものがまだ完成していないからである。
重力をゲージ原理にもとづいて統一場理論に持ち込むことを初めて示したのは、内山龍雄(当時大阪大学教授)であった。彼
の方法によって、超対称性を組み込んだ大統一理論に重力も取り入れる試みが始まった。これを「超重力理論」という。他にも、
「カルーツァ=クラインの5次元理論」のように、4次元以上の多次元時空を想定して統一場理論を構築しようとする試みがある。
その中でも大きな注目を浴びたのが、ジョン・シュワルツやマイケル・グリーンらによって提唱された統一理論としての「ひも理論
(ストリング理論)」であった。この理論によれば、そもそも物質の根源はクォークやレプトンのような点状の素粒子ではなく、一次元
的に広がったひも状のものである。1つ1つの素粒子は、ひものいろいろな振動のモードが量子化されたものにすぎない。ひもの
振動のモードは無限にあるので、対応する素粒子も無限に現れることになる。そして、エネルギーのもっとも低いモードに対応する
のがクォークやレプトンであり、またグラビトンや光子などの力を媒介する粒子だという。
このひも理論に対称性を持ち込んだ発展型を「超ひも理論」という。超ひも理論は期待を込めて“奇跡の理論”と呼ばれたが、そ
の数理的構造を調べていくと、実際にそう呼ばれても無理はないと思わせる内容をもっている。超ひも理論はまた、多次元空間を
前提とした理論である。それによれば、世界は10次元でなければならない。10次元の世界でのみ、超ひも理論は高い対称性を内
包した首尾一貫した理論となるのである。
超ひも理論は、重力を含む現代的な統一理論としての資格を十分に備えた理論である。しかし、現実の世界の物理学、すなわち
4次元世界の素粒子の標準理論とうまくつながるためには、まだいろいろな問題を克服しなければならない。まず、余分な6次元の
空間をどう考えるかという(時空のコンパクト化)問題がある。他にも、「超対称性の自発的破れ」など多くの理論的困難を解決する
必要がある。