(定義)
広い意味で考えるなら、マンダラはこの世(現世)に利益すべき全世界にあるといっても決して過言ではない。マンダラ
は拡大解釈すると、平面に描かれたものだけではなく、密教で「真言」「マントラ」といわれるような音声によるひろがりとも
決して無関係ではない。例えば梵字の「ア」とか「ウン」といった、呼吸の原点にたちかえるあの金剛力士像をシンボル化
した「生(ア)」と「死(ウン)」の口の音、その他の読経も含めて、言葉にならない音声も、考え方あるいは感覚的な見方に
よってはマンダラの一部分といえる。
「マンダラ」という言葉の語源を考えてみると、サンスクリット(梵語)、つまりインド古代の仏教語である。サンスクリットは
仏教学を勉強する上では基本的な言葉であり、今もデーヴァナーガリィーという書体で息づいており、使用されている言
語である。事実、インドではヒンディー語が常用されている地域が多いが、サンスクリットで書いたり、しゃべったりするこ
とも十分可能なのである。
そのサンスクリットで「マンダラ」というのは、「マンダ」という言葉に「ラ」という接続語尾がついた言葉である。「マンダ」と
は、まず第一に真髄ということだと解釈される。真髄とは醍醐味、つまり本質ということ。この醍醐味あるいは本質ということ
に「ラ」がついているのだが、サンスクリットの場合、接続語尾がつくと、その本体の意味が変わるということなのである。「マ
ンダ」に「ラ」がつくと、その本体である「マンダ」が変化、変容する。つまり、マンダ=本質が、いろいろな条件によって変
化する。これがマンダラの一つの基本的な意味ということになる。
マンダラは密教法具の中心であるが、それを単なる仏画、彫刻のように密教の美意識だけで解釈しようとするのは好ましく
ない。それは弘法大師空海が請来して、理論と図画を同時に見るべく示唆して、マンダラ中心の修法体系を確立せんがため
のものであった。壇はもとより輪円具足とも訳す。神聖な道場でもある壇上には仏や菩薩が所せましと充満し、聚集している。
両方の世界という二つの図絵・マンダラは、両界曼荼羅が中心である。究極には胎蔵界曼荼羅も中央に定印を結ぶ大日如来
(中台八葉院)をあらわし、金剛界曼荼羅も中央の上方に智拳印を結ぶ大日如来(一印会)を描く。
両界曼荼羅とは究極には即身成仏ということになり、マンダラを実践して理解しようとすれば、即身成仏を果たし得るかどうか
ということが、究極の問題となる。
(両界曼荼羅)
マンダラには、まず両界曼荼羅がある。両界とは金剛界と胎蔵界のことである。わかりやすくいえば、男性的原理が金剛界で
あり、女性的原理が胎蔵界である。これを金胎両部ともいう。
密教では両界曼荼羅を掛けて、いろいろな儀式・作法を行っていかなければならない。儀式・作法がきちんとなされないと、
完全な形で効果を表さないからであり、したがって、両界曼荼羅を掛ける位置ははっきりと決まっている。胎蔵界は必ず道場
の東側に掛け、金剛界は西側に掛ける。たとえば高野山には、両界を結び付ける中間的役割を果たしている根本大塔という
のがあり、その東側に東塔、西側に西塔がある。東西に両界曼荼羅を掛けると、その両界の調和を保つ役割を果たす概念が
必ずあるわけである。
(即身成仏)
空海の当時、特に密教の儀式の中で非常に大事な要素は、道場と壇であった。これらは、両界曼荼羅を掛けることによって、
均衡の美を生じさせると同時に、両界曼荼羅から追求されていく即身成仏の完成を意味する。
即身成仏とは、空海の教えによれば、「此身成仏」「此生成仏」とも表現される。生きたまま仏になる、つまり浄土宗で説くよう
にあの世に救われる場所があるのではなくて、この身のまま、生きたままの身体でもって仏になることができるというのである。
五輪塔という塔の中に入って結跏趺坐(けっかふざ)を組む。そして、差し入れ口から差し入れられる食物を次第に少なくし
ていって、最後には何も食べない。こうして体内の水分を減らしていく。体は衰弱していき…死を待つ。
そういう形で即身成仏する。五輪塔そのものになるわけである。この五輪塔になる理論というのは、空海より後の興教大師覚
バン(1095〜1143)が『五輪九字密釈』で完成したものだが、このように、自分の体がマンダラの本体であるとして実践した江戸
時代から明治時代にかけての人たちが実際に存在する。
生と死を超越する考え方、それを入定という。現在でも高野山に行くと、弘法大師空海は亡くなったとはいわない。いまだにこ
の世に生きている、不死だとする入定信仰がある。
この大師の入定に対する後の出羽三山の僧侶の即身成仏への具体的実践法が、ミイラなのである。そして、密教でいうマン
ダラの概念をここに加えると、弥勒という菩薩になるのである。
弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、胎蔵界曼荼羅では中台八葉院の東北に、また、金剛界曼荼羅では賢劫十六尊中、東北の北端
に位置する。顕教の経典では現今、菩薩として兜率(とそつ)天で衆生を教化している。しかし、釈迦入滅後の56億7000万年後
にこの世に下生し龍花下で成仏するという。そして三会(さんね)の説法で釈迦の説法にもれた衆生を救うという。そのときは、
仏格を得るから弥勒仏といい、釈迦仏になりかわるので補処の菩薩という。両界曼荼羅の理念の中には、どうも大日如来につ
ぐ永遠的な生命力のある尊が必要だったのかもしれない。それが弥勒菩薩である。
この弥勒というものの存在、仏としての性格、図像学的な位置づけ、これが両界曼荼羅の調和というものの組み立ての中の
大きな概念であろう。
(大日如来)
弥勒の存在は、空海の入定思想の中で確立されたものであり、56億7000万年後にこの世に再生するものだとされるわけだ
が、そこには待っている姿勢がある。ところが、待つも待たないもなく、即身成仏を実際に体現しているのだといい切って、両界
曼荼羅の中に描いたのが大日如来である。
両界曼荼羅の中間には調整する機関(たとえば根本大塔など)があるが、なぜ調整するかを一口でいえば、両界の大日如来
は世界観も違うし、姿形も違うからである。胎蔵界の大日如来は、いわゆる禅定(ぜんじょう)に入った仏(座禅をした仏)であ
り、釈迦の姿にほぼ近い。これに対し、金剛界の大日如来は、智拳印といって、左手人差し指を天に向け、それを右手で握っ
ているような印相をした仏である。いわゆる禅定に入っていないのである。
胎蔵界の大日如来のように禅定に入っているのが女性的原理の表象であるとすれば、金剛界の大日如来は男性的原理に
もとづく姿だといっていいだろう。大日如来は、このように異なる世界観の中の主役をなしているわけだから、これを調和・調整
する機関というものが、両者の間に必ず存在しなければならないことになる。
その調整役が、実は、儀式を実践する修行者である私、なのである。根本大塔などの調整役もあるが、実際に行を行って動
かしていくのは、生きている私自身ということになる。つまり、両界の調整役は、行をする人であり、在家であればそれぞれの
人たちであることになる。
修行しながら両界曼荼羅の各尊を一つひとつ覚えるだけではなく、実践的にそういう仏に成りきって、段階をふみ、最後には
頂点に立つ大日如来に成り切る。理論的には、それが即身成仏だといわれているわけである。
(色彩)
マンダラの色彩は、原則的に五色からなる。すなわち青色、黄色、赤色、白色、黒色である。顕教(密教以外の教え)では、
黒色をのぞいて四根本色というが、これを五正色(ごしょうしき)といって極めて大切にする。ただしこれに紅色(洋紅)と緑(緑
青)を加える儀軌もあるが、通常は前記の五色に五大と五根、あるいは五智という精神作用(智、ジュナーナ)にあて色彩をシ
ンボル化して理解につとめる。
(1)青色(しょうしき)
:他の色に勝る力をもち、『金剛頂経』系では阿關如来にあて降伏のシンボルとする。
(2)黄色(おうしき)
:他の色を加えるとさらに光源を増し、それでいて自分の側にある自性を失わない色。胎蔵界の色で増益の色ともいわれる。
(3)赤色(せきしょく)
:金剛界の色で、ものを燃焼させる力をもつ。通常は不動の色身(赤不動)に例があるように降伏法に用い、また愛欲貪染
(あいよくとんぜん)すなわち愛染(ラーガ)の色でもある。
(4)白色(びゃくしき)
:清浄な意で大日如来の根本的な色彩。如来部を総称する色でもある。通常は胎蔵界を赤色にあて、金剛界にあてるが両
部に通じる色で息災法にも通ずる。
(5)黒色(こくじき)
:諸々の存在、物質を隠す性質をもつ。調伏法の根本的な色で、涅槃の色ともいわれている。
なお五色の順序は、胎蔵界の壇線(糸縒)・瓶花・仏供などでは白・赤・黄・青・黒の順。金剛界では、白・青・黄・赤・黒の
順である。
<神の解釈>
●ひとつのことは恐らく疑いえない。キリストが最高にヌミーノスな存在だということである。このことは、神および神の子
としてのキリストの解釈と一致する。
キリスト自身の見解にさかのぼる古い考え方によれば、かれは神によって脅かされている人間を救うためにこの世に
来て、苦しみ、死んだのである。さらにかれの肉体の復活は、すべての神の子らにそのような未来が確かに与えられる
ことを意味するものだとされている。
●神の救い
:神みずから神の子の姿をとって、神自身から人間を救いとる。
@この神の奇妙なふるまいを説明するものとしては、神の意識が疑問の余地なく反省を欠くということである。それだか
らこそ、神への恐れがすべての知恵の始まりとされるのである。
Aその一方、ほめたたえられている神の慈しみ、愛、義を単なる供え物と解してはならないのであって、真の経験として
認めなければならない。→神への恐れも神への愛も、両方とも正しい。
<幻視>
(1)エゼキエル書(紀元前6世紀前半)
:よく整理されまとめられた、ふたつの四位一体。すなわち今日もなお自然発生的現象としてしばしば見受けられる、全
体性の表象である。その《5番めの要素》は、「人間のような姿」によって示される。
∴エゼキエルは象徴の形でヤーウェの人間への接近を見た。これはヨブ記のヨブが体験はしたが、おそらくわかってい
なかったこと。つまりヨブの意識の方がヤーウェの意識より高い、したがって神が人間になることを欲するということである。
さらにエゼキエル書で初めて「人の子」という呼称が現れる。注目すべきはヤーウェがエゼキエルに語りかけるのにこの
呼称を用いることであり、これは察するにかれが玉座の上の「人間」の子であるという意味であろう。ずっとのちのキリスト
の啓示の予示である。
したがって神の玉座の四つのセラピムが福音書記者の標章になったのはきわめて当然だ。セラピムがキリストの四位一
体性を形づくっているように、福音書は玉座の四本の柱だからである。
(2)ダニエル書(紀元前165年ごろ)
:ダニエルは四頭の獣と「高齢者」(日々の老人)の幻を見る。「その前へ人の子に似たものがひとり、天の雲をひきつれ
てすすんだ」
∴ここでは「人の子」はもはや預言者ではなく、預言者とは関係のない、父を若返らせるという任務を負う、「高齢者」の子
である。
(3)エノク書(紀元前100年ごろ)
[a]一種のハーデスと考えられる下界は四つの場所に区切られており、いずれも最後の審判のときまで死者の霊がとどま
る場所である。そのうち三つは暗いが、ひとつは明るく「澄んだ泉」がある。義人のための場所である。
∴エノクの描く四分されたハーデスは霊の、あるいは天の四位一体と対立するものと想定できる。下界の四位一体に照応
する。後者は錬金術の四個一組の元素に、前者はバルベロ、コロルバス、正方形のメルクリウス、四つの頭をもつ神人など
が暗示するように、神性の四つの元から成る面。すなわち全体性の面に相当する。
[b]エノクは神の四つの「顔」を見る。そのうち三つは讃美、祈祷、祈願に向けられるが、四番目の顔は「サタンどもを撃退
し、霊の主の前に進み出て大地に住みたる者たちを訴えることを許さなかった」。
∴この四位一体は明らかに霊(プネウマ)の性質をもち、したがってたいていは天使によって表現される。いまの場合、天使
はエゼキエルの四人のセラピムに由来すると考えてよいので、とりわけそうだ。四位一体の上下の世界への二重化ないし分
割は、サタンが天の宮廷から遠ざけられたように、すでに生じた形而上界の分裂を示す。
だがプレーローマの分裂はさらに、ずっと深く進行してゆく神の意志の分裂を示す兆候である。すなわち父がわが子に、
神が人間に、非道徳な神がもっぱら善に、無意識の神が意識的に責任を負う存在になろうと欲するのである。
[c]終わりのとき、人の子はすべての被造物を裁く。さらに「闇は滅ぼされ」「光は消えることがないであろう」。ここでエノクは
解き明かしてくれる天使から「人の子」と呼ばれる。
∴ここではこの呼称はむしろ、かれが神の神秘の証人であるという事実がすでに暗示するとおり、かれがエゼキエルと同じよ
うに、神の秘義に同化され、つまり含みこまれてしまうということを示す。
[d]エノクは天に移され、そこに席を占める。かれは「天の天」に、水晶石で建てられ、火の川にとりまかれ、決して眠らない翼
あるものたちによって警護される神の家を見る。
「高齢者」が四人の天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ぺヌエル)とともに歩み出て、かれに言う。「きみは義のために
生まれる人の子である。義はきみのうえに宿り、高齢の頭の義はきみから離れることはない」
∴人の子とその意義がいつも義と結び付けられていることは、注目に値する。神のほかは誰も、語るに足るほどに義を分け与
えることはできないのだが、この神に関してこそ、義を忘れるかもしれないという恐れが当然のことながら消えないのである。神
がみずからの義を忘れることがあれば、神の義の子が人間のために神のもとへ進み出ることになるだろう。
子の時代を支配する義は、まるで以前父の支配には不正のほうが優位にあり、子とともにようやく正義の時代が始まったか
のような印象を与えるほど、強調されている。