慰謝料というのは、不法行為による損害賠償請求ですから、
これが認められるには、離婚の原因として夫婦どちらか一方に主たる有責行為があることが必要です。
つまり、双方に有責行為がない場合(性格の不一致による円満協議離婚など)には、
お互いに慰謝料の請求はできません。
また、結婚生活の破綻の責任が双方にある場合も、慰謝料請求は認められません。
[慰謝料請求金額の算定]
@破綻(離婚)原因の種類:一般的に、不貞は慰謝料の金額が大きくなります。
A有責行為の態様:有責行為者が故意であったか過失であったか、偶発的なものか、無意識的なものか。
B背信性:婚姻中の一方の献身度や、離婚原因が止むのを信じて長年待っていたことなど。
C責任の割合:一方的に責任があるのか、双方に責任があるのか。
D婚姻期間:一般的に、結婚していた期間が長いほど金額は大きくなります。
E申立人の年齢:今後の生活や再婚の可能性に大きな影響があるため、一般に高齢なほど金額は大きくなる傾向があります。
F当事者双方の資力
G当事者の社会的地位
H親権の帰属
I申立人の性別:現実問題として、離婚後の社会的扱いに不利なのは女性の場合が多いので、女性側からの請求の場合のほうが金額が高くなる傾向があります。
J財産分与の額:財産分与の金額を決定する際、相手方の有責行為が離婚の原因になったことについての精神的損害の賠償の要素も加味されることがあります。
(消滅時効)
離婚の慰謝料請求は、不法行為に基づくものなので、3年の消滅時効(民法724条)にかかります。
(清算条項)
離婚に際し、「離婚協議書」や「調停調書」中の条項に、清算条項の記載があれば、
詐欺・脅迫等の特別な事情がないかぎり、慰謝料を請求することはできません。
(支払時期)
同一事例でも、慰謝料の金額を離婚と同時に決定した場合の方が、
離婚後に決めた場合よりも、金額が大きくなりやすい傾向があります。
知的所有権とは、工業所有権と著作権を合わせたものです。
工業所有権は、特許、実用新案、意匠、商標の総称です。
1:特許権
発明を守る法で、知的所有権の中で、もっとも強い力をもっているといわれています。
[出願書]
特許出願書には、願書、明細書、図面、要約書があり、これらを特許庁に提出します。
明細書(説明文)は、次の順序で書くこととされています。
@発明のあらまし。産業上では、どの分野に属するものか。
@従来技術をあげる。そして、その欠点をあげる。
@改良した構造を箇条書きにする。
@その改良点の作用・効果。
@その改良に関連する他の方法や他の利用法。
[違い]
実用新案は、物品の形状や組み合わせについてのみ権利が与えられ、
創作実用度の高いものが特許ということになります。
形状でも、新規で、その効果が大きい場合には特許がとれます。
2:実用新案
特許の程度の低いものが実用新案ですが、実際にはその境はわかりにくく、
実用新案で出しておいて、あとで特許になおしたものもたくさんあります。
[権利取得]
平成6年から、実用新案は無審査となり、権利期間も半分の6年になりました。
しかも特許の出願料は、最初は2万1000円の特許印紙を貼ればいいのですが、
実用新案は1万4000円の印紙を願書に貼り、さらに登録料2万5000円が必要となります。
将来、実用新案は出願者がいなくなり、権利の取得は特許と著作権にわかれるといわれています。
3:意匠権
意匠権とは、デザインを売るために絶対に必要な独占権です。
[欠点]
@出願後、許可になるまでは2年から3年はかかる。
@権利を取得しても、それは外国にまでは及ばない。
@出願書類の作成に時間がかかり、出願料も3、4万円はかかる。
[著作権]
上のような欠点を、著作権はすべてカバーしてくれるため、
意匠に出願した人は、著作権にも同時に登録しておく方がいいでしょう。
4:商標権
商標とは、商品の名であり、マークであり、目印です。
[名前]
次のような名前は、その商品の意味が通じるものとして、許可されません。
@商品の効能を表す名前=(あまからセンベイ)
@商品の用途を表した名前=(サッカーシューズ)
@商品の製造方法を表した名前(絹ごし豆腐)
@商品の原料の数量・形状を表した名前=(ピーナッツバター)
@普通名詞=酒で「正宗」、パンで「クロワッサン」など
@産地、ありふれた名とか氏
つまり、これらの名前を個人が独占してしまったら、他の人が使えなくなってしまうのです。
[条件]
@文字、図形、記号、またはこれらを組み合わせたものであること。
@他人の商標と見分けられるような目立つ特徴があること。
5:著作権
著作権は技術ではでなく、音楽、文芸、美術、学術の分野に権利が及びます。
[目的]
個人の創作活動を保護することで文化は進歩すると考えるもので、
その保護は、発表の日から創作者の死後50年にも及び、また届けは不要です。
[著作者人格権]
@公表権:公表するかどうかを決定する権利
@氏名表示権:自分の著作物について、自分の名前をつける、つけないを決める権利
@同一性保持権:自分の著作権を、他者に無断で変更・削除させないための権利。
西暦70年のユダヤ戦争でローマ軍に敗れたユダヤ人がエルサレムから追放されると、原始キリスト教の中心
地だったエルサレム教会も壊滅的な打撃を受け、キリスト教の中心はローマに移った。これを契機に、キリスト
教はそれまでのユダヤ教色を脱して、福音を中心とした世界宗教への道を歩み始めるのだが、初期の教会は、
後に見られるような組織立ったものでもなければ、特権的なものでもなかった。
最も初期の時点では、キリスト教徒の集会はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)が利用された。やがて、独自の集
会場がつくられて教会の原型となり、使徒書簡や福音書の朗読、讃美歌、説教などの形式が整えられた。教会
組織も、当初は相互扶助的なもので、階級制はなかった。というのも、パウロは言うように、「あなたがた(信者)
はキリストの体であり、また一人一人はその部分」(コリント書)と見なされていたからである。
「使徒」の時代から、教会の統率管理者「監督」の時代を経て、やがて「司教」職が成立する。このころになると、
教会はキリストの代理として福音を管理する、特別な“霊的機関”としての地位を確保するようになった。そのこと
は、381年の「ニカイア信条」によく言い表されている。そこでは、真理が唯一であるように、救済機関としての教
会も唯一であり、教義や祭式も唯一であること(異端・分派の否定)、教会の使命は神聖であること、教会は“普遍
的“であること、使徒からの伝統を継承する者(司教)によって統率されることが謳われたのである。
司教を長とする司祭職が確立された時点で、キリスト教は大きく変わった。「聖なるものの変質」が、そのときから
生じたからである。
教会が、まだ司祭を持たなかった時代には、信者は、その行ない−禁欲、断食、奉仕など−によって、誰もが
「聖なるもの」と触れ合い、「神の賜物」に接することができると信じられていた。ところが職業司祭が生まれると、
「聖なるもの」と触れ合う権利は、司祭だけのものとなった。聖と俗の中間に、司祭という仲介者が立ちはざかるよ
うになったのである。
教会の権威を最も象徴的に表しているものに、ローマ教皇のシンボルの「天国の鍵」がある。「マタイ福音書」の
中で、イエスはペテロにこう語る。
「あなたはペテロ(「岩」の意)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗でき
ない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上
で解くことは、天上でも解かれる」(16章)
ペテロが授かった天国の鍵は、天国の門を開いたり、閉ざす権能をもっている−教会はこう主張し、さらに進め
て、ペテロの後継者たるローマ司教が、天国の門を開き閉ざす権能、すなわち「鍵の権」を保有すると主張するよ
うになった。
この鍵がなければ天国の門は開かない。ということは、救済が完全に教会の管理下に置かれたことを意味する。
さらに教会は、信徒が天国に入る上で通過しなければならない7つの「関所」−洗礼や聖体、告解などの「七つ
の秘蹟(サクラメント)」を設けた。この密儀を通じて、教会は、地上における神の業の代行機関としての地位を完全
にわがものとし、万人の上に君臨する体制をつくりあげた。その象徴が、教皇(法王)なのである。
「教皇(Papa)」という称号は、西方教会唯一の司教座であるローマ教会司教の頂点に立つ者に与えられる。ロー
マ教会はキリストから「天国の鍵」を託されたペテロの墓の上に建てられたとされ、特別な権威が認められていたが、
そのローマ教会の頂点に立ち、ペテロに由来する使徒的伝承を継承する唯一者と定められたのが、この教皇であ
る。
教皇の権威は、当初は宗教的・霊的なものであった。しかし、フランク王国のメロヴィング朝を倒し、8世紀半ば
にカロリング王朝を樹てたピピンが、自らの王権の正統性を承認してくれるようローマ教皇に求めて以降、教皇の
権威が王権の上に立った。さらに、ピピンの子カール大帝が教皇から帝冠を受け、教皇が王位継承者の頭に冠
を載せるという戴冠式の形式が定着すると、教皇の権威は霊的方面のみならず、世俗的方面にまでおよぶことに
なった。
ローマ帝国時代には、皇帝が教会の上に君臨したが、両者の立場は逆転し、教会・教皇が王権の上に君臨する
体制(「教皇皇帝主義」)が整えられたのである。
けれども、教皇がかくも絶大な力を保持できる根拠は、イエスの教えの中には実は存在しない。この難問を処理
するために、教会は、先に見てきたような秘蹟の独占体制を確立していくとともに、自らの絶対的な権力を証明す
るための偽文書や、経済的な背景である土地の所有権を証明するための偽文書まで作成した。前者は「偽イシド
ルス教令集」(9世紀)といい、教皇が、地上におけるキリストの唯一の「代理者」であることを宣言している。また後
者は「コンスタンティヌス帝寄進状」(8世紀)といい、コンスタンティヌス帝がキリスト教に回心した際、ローマ・イタリ
アなどを教皇に寄進したとして、そこが教皇領であることを主張したのである。
11世紀の十字軍時代になると、教皇権はより強大なものとなり、12世紀末から13世紀初頭にかけて教皇位にあ
ったインノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎えた。ローマ・カトリックの司祭によって聖別されたパンとぶどう酒が
キリストの肉と血になるという「化体説」をカトリック公認教理としたこの教皇は、「キリストの代理人である教皇は、神よ
りは低いが人よりは高い。教皇は誰でも審くことができるが、誰からも審かれることはない」と豪語した。
けれども、中世も末期になると、教皇権は次第に弱体化していく。
異様なまでに肥大した自尊心、貪欲な権勢欲、背徳的な生活、宗教者としての自覚を失った聖職売買の横行...
教皇庁の内実はこれであり、壮麗な教会建築の内部は腐敗の極みに達していた。そこには、尊敬に値すべきもの
は何ひとつ見出せない。
14世紀に入るや、教皇がフランス王に従属したり(アヴィニョン捕囚)、複数の教皇が擁立されて対立するなど、
教皇権の衰退が明確な形となって現われてきた。かつて欧州各地の王に号令をかけ、我が世の春を謳歌していた
おもかげは失われた。
しかも14世紀には、流行地域の人口の4分の3までが失われるというペスト禍が、欧州を襲った。欧州全体が死
の色に染められ、教皇権と王権の並立による中世的秩序世界は崩壊した。人々は、中世を乗り越える新しい生の
原理を必要としていた。かくして、ルネサンスと宗教改革の時代の幕が開く。