ヨハネ黙示録

マリアの被昇天

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<七つの回状>

:キリストはヨハネに、アジアの地方にある教会にあてて七つの回状を書かせる。

@エペソの教会

:悔い改めるよう警告され、そうしなければ光を奪うとおどされる。この回状から、キリストがニコライ派を「憎んでいる」

ということも知らされる。

Aスミルナの教会

:その敵はユダヤ人を自称しているが、実は「サタンの集団」である。この語もあまり友愛に満ちた響きはしない。

Bぺルガモの教会

:偶像崇拝者の活動を許していることを非難される。ここにもニコライ派がいる。それゆえ教会は悔いあらためよ。「もし

そうしないなら、わたしはすみやかにあなたのところへとんで行く」。これは、脅迫ととらねばならないだろう。

Cテアテラの教会

:偽預言者イゼベルを放置している。かれは「この女を病の床に投げ込み」「この女の子供たちを死に委ねるつもりだ」

しかしかれのもとに留まるものには「異教徒を支配する権力を与えよう」。

Dサルデスの教会

:活動は神の前に完全でない。それゆえに「悔いあらためなさい」。そうしなければ、かれは盗人のように予期しないと

きにかれらの所にとんで行く。

Eフィラデルフィアの教会

:責められるところはない。

Fラオデキアの教会

:そのなまぬるさのために、かれは口から「吐き出」そうとしている。悔いあらためよ。「わたしは愛するものをすべて叱っ

たり懲らしめたりする」。

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<七つの封印>

:エゼキエル風の神の幻が、その後に語られる。しかし玉座についているものは人間のように見えず、「見たところ碧玉や

赤めのうのようであった」。その前は「水晶に似たガラスの海」だった。玉座のまわりに、前も後も外も内もいたるところ目に

覆われた四つの生き物がいた。

 その次に七つの封印で封じられた巻き物が「小羊」によって開かれる。

@初めの四つの封印

:小羊は、災厄に満ちた四人の黙示録の騎士を解き放つ。

A第五の封印

:殉教者の復讐を求める叫びが聞こえる。「神聖な真実な主よ。いつまで裁きを行わず、大地に住むものにわたしたちの血

の復讐をなさらないのですか」

B第六の封印

:天変地異を起こす。あらゆるものが「小羊の怒り」から身を隠す。「大いなる怒りの日が来たからである……」

∴ヨハネの手紙の著者については、かれがキリスト教徒たちに説くことをわが身に模範的に実現しようとして、あらゆる努力を

はらっているということは、自明のこととして前提してよい。そのためには負の感情をすべて遮断しなくてはならない。

 負の感情は意識の画面からは姿を消したが、覆いの下で増殖を続け、これがいつかは啓示のように意識に襲いかかる。

C第七の封印

:ヨハネの不信仰な空想力が尽きるほどの、あらたな悲惨な洪水がなだれ出てくる。「預言」を続けることができるように、その

小さな巻き物を強壮剤のように、かれは今食べなければならない。

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<太陽の女と復讐の子>

●第七の天使がついにラッパを吹き鳴らしたとき、エルサレムの破壊は終わり、月を足の下に踏み十二の星の冠を頭にかぶ

った太陽の女が天に現れる。この女は産みの苦しみのさなかにいる。彼女の前に火のように赤い龍がいて、生まれてくる子を

呑みこもうと待っている。

(太陽の女)

:彼女は「太陽を着た女」である。ひたすら女性であって、女神でもなければ汚れを知らずみごもった永遠の処女でもない。

彼女は男性の原人の対となる、女性の原人である。

(復讐の子)

:天から生まれてくる子は必然的に《対立物の複合体》、統一のシンボル、生の全体性である。

 この新しく生まれた男の子は「怒りの小羊」、すなわち黙示録のキリストにあからさまに倣って、キリストの複製として、すなわ

ち「鉄の杖をもってすべての異教徒を牧すべき」ものとして、特徴づけられる。

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<最後の幻>

(1)人の子は両手で鋭い鎌をもち、同じく鎌をふるう助手を伴っている。しかしぶどうの収穫は実はまたとない殺戮なのであ

る。「その酒ぶね(その中で踏まれるのは人間である)から血が流れ出て、千六百スタディオン離れた馬の手綱まで届いた」

(2)天の神殿から七人の天使が怒りの鉢をもって出てきて、それを世界のうえにぶちまける。主要な目当ては、天のエルサレ

ムの対蹠物、淫蕩な情婦バビロンの破壊である。

バビロンは太陽の女性ソフィアに対応する。もちろん道徳的な正負の符号を逆にする。地上の存在である。

 選ばれた者たちが偉大な母ソフィアに敬意を表して「童貞」になると、無意識のうちに補償として忌しい姦淫の空想がうまれ

る。したがってバビロンの破壊は姦淫の根絶であるのみならず、生の歓楽一般の終了を意味する。

(3)予告されていた神聖結婚、小羊と「その女」との結婚。花嫁は天から降りてくる新しいエルサレムである。「その輝きは高価

な宝石に似て、透き通る玉のようである」

 この都市は正方形をしていて、都自体も街路もガラスに似た純金でできている。神自身と小羊が都の神殿であり、消えること

のない光の源である。もはや夜は存在しない。不純なものは都のなかに入りこむことができない。

 神の玉座から生命の水の泉が流れ出し、そこに立つ生命の樹々はエデンの園とプレーローマにおける先在を想起させる。

∴この最後の幻は、キリストに対する教会の関係を指すものと解されるが、「合一のシンボル」の意味をもち、したがって完全

性と全体性を表す。

 つまりエデンの園の四つの川、キリストの四人の福音書記者、神の四つの生きものに表現される四位一体を、《円かつ四角》

としての都もまた表しているのである。

 円が天のまるみと(霊としての)神の万物を包摂する本質を意味するのに対し、四角は大地に関わる。天は男性地は女性

である。したがって神の玉座は天にあるが、知恵は地上を支配する。



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●新しい教義

◎代願者、仲保者であるマリアが今こそ、聖三位一体のもとに場を与えられ、「天の女王、天の宮廷の花嫁として」迎えられ

てほしいという願望が、大衆に浸透していることは、かなり前からわかっていた。

◎神の母が天にいるということは、すでに千年以上前から決定済みのことと認められていた。

◎ソフィアが創世以前から神のかたわらにいたということは、旧約聖書からわかっている。

◎神が人間の母の体を通って人間になろうとすることは、古代エジプトの王の神学が述べている。

◎神の原存在が男性的なものと女性的なものを包摂するということは、先史時代から認識されていた。

1950年に天の花嫁と花婿が一体になった。

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(1)事件の解釈

:神の母の高挙への渇望が民衆の間に浸透するなら、この傾向は究極のところ、救済者、仲保者、《最高の平和をうちたてる

仲保者》が生まれてほしいという願望を意味する。この者はプレーローマでは永遠の昔にすでに生まれているにもかかわらず、

かれの時間における誕生は、人間によって感じられ認識され宣言されなくては、実現しない

(2)民衆の動向の動機と意味

:新しい神の誕生ではなく、キリストを最初とする神の受肉の進展である。この教義は歴史的批判的な議論によっては正しく評

価されない。

(3)教皇の証明法

:心理学的知性にとっては完全に納得できるものである。それは第一に不可欠の予示のかずかずを、次に千年以上の歴史を

もつ陳述の伝統を踏まえているからである。

 したがってプシュケーの現象が存在することの証拠材料は十二分にあることになる。物理的に不可能な事実が主張されてい

るということは、もともとどうでもいいことだ。宗教が主張することはすべて、物理的には不可能なことだからである。

(4)プロテスタントの立場

:教皇の宣言の結果はこの上なく重大であり、プロテスタントの立場を、形而上学的な女性の代表者を欠く男性の宗教という

悪評に委ねるものである。

 プロテスタント教会はあきらかに、男女同権を指し示す時の徴に十分注意をはらわなかった。「同権」は、「神である」女性、

キリストの花嫁という形における形而上学的根拠を要求する。キリストの人格を組織で代替できないように、花嫁も教会で代替

されえない。女性的なものは男性的なものと同じく、人格によって代表されることを要求するのである。

(5)教義の意味

:この教義は、魂の最深部を動かしている。危険な緊張を高めてきた対立の解消と平和への渇望が満たされるという、あらた

な希望を意味する。

 この緊張には誰もがかかわっており、誰もが個人的な不安というかたちで経験している。そして合理的手段によって取り除く

可能性が見つからないだけに、この緊張はいっそう強く感じられるのである。したがって集合的無意識の深部に、同時に大衆

のうちに神への干渉への希望が、いや期待さえもが高まっても、なんの不思議もない。

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●カトリックとプロテスタント

◎カトリック教会

=元型的シンボルを、自由に世俗的に展開してゆくにまかせ、理解しにくいことも批判的反論があることも意に介さずに、もと

の形のまま使っている。ここにカトリック教会の、みずからの母胎から育ってゆく木をその木固有の法則にしたがって生育させ

という、母の性格が明らかになっている。

◎プロテスタント教会

=父の精神に対して義務を負う。

@この新しい教義という知的な《躓きの石》を前にして、プロテスタント教会はキリスト教徒としての責任(「わたしが弟の番人だ

というのですか」)を想い起こし、明白なあるいは密かな、どんな理由がこの教義の宣言を決定させたのか、本気で検討してみ

るべきだろう。

Aこの教義によってプロテスタント教会には、世俗の時代精神に対する新しい責任が生じた。なぜなら問題があると思われる

姉(カトリック)でも世間の前にあっさり見放すわけにはゆかないからだと自覚されれば、望ましいことだろう

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(注)

◆元型

:ユングの基本的概念のひとつ。ユングによれば元型は集合無意識(後出)の内容である。つまりすべての人間は共通してい

くつかの強力なイメージを意識せずに心に懐いており、それらが人間の意識や行動を密かに規定していると考えた。

◆プシュケー

:ユングの基本的用語。魂を意味するギリシア語であるが、ユングは意識と無意識の全体を呼ぶ。

 意識、無意識、プシュケーを、あるときは実体であるかのように、またあるときは領域、場(むろん物理的空間的な意味では

ない)であるかのように、ユングは記述している。

◆ヌミーノス

:ルードルフ・オットーは「聖なるもの」という著書で、超自然的存在を意味するラテン語のヌーメンという語から、ダス・ヌミノー

ゼという語を造った。オットーがダス・ヌミノーゼ(聖なるもの)の特徴とするのは、非合理的、神秘的で、絶対に異質なものと

感じさせる、恐れを感じさせると同時に魅きつける力をもつということ。

 ヌミーノスはダス・ヌミノーゼから造られた形容詞で、上に述べた内容における「聖なる」という意味で使われる。

◆集合無意識

:ユングの基本的概念。種としての人類の祖先の経験の蓄積を、個々の人間は自分では知らずに遺伝的記憶として、あるい

は本能的心理機構としてもって生まれてくるとユングは考え、それをユングは集合無意識と名づけた。

 集合無意識と区別と区別するため、フロイトの唱えた無意識をとくに個人無意識とよぶことがある。

◆プレーローマ

:ストア派、新プラトン派のグノーシス的概念。現象界に対するイデアの世界。あるいは神性の充満する世界で、現実世界に

存在するものはすべて、そこから流出してくると考えられる。

◆ニコライ派

:エペソとペルガモの教会にはいりこんだ異端の一派。ニコライとその追従者たちによるものといわれるが、この派の存在につ

いての言及は黙示録にあるのみで、詳細は不明である。