幼き日に出逢った銀鱗


もう、10年も前に癌で逝ってしまったのだけれど、私には釣り好きの叔父がいました。

叔父が逝ってしまって少しして、家を尋ねたら、倉庫に釣り道具が沢山あるから...と伯母に言われ、倉庫に行ってみました。既に叔父の釣友が大半持ち帰ったらしく、新しいものは残っていなかったけれど、そこには先日無くなったオリムピック(マミヤOP)の名竿 純世紀が2本残っていました。それと古びたリール。

そのリールのうちの一つを見て、私は幼い日の記憶を呼び戻さずにはいられませんでした。

D社の金色のボディをしたリール。

・・・・・・・

小学生の頃の私は、既にかなりの釣りキチで、友達と自転車にクーラを積んで、カゴに釣り道具、竿入れに入れた竿を背中に担いで、1時間以上掛かるような場所に釣りに行くことさえありました。
但し、その頃は投げ釣りだけです。

叔父にも時々釣りに連れていって貰っていました。

その金色のリールはいつもその場所に、その時間にあったのです。

きっと叔父のお気に入りだったのでしょう。あの当時新品だったとしても、私がそのリールを叔父の家から持ち帰った時点で10年以上。そして今では20年以上経っていますが、まだ充分に使えます。ちゃんと手入れが行き届いていたのでしょう。

そのリールは、5〜6年前、磯から67cmのハマチ(ヤズかな)を釣り上げたときも、まったく動じることなく、私を支えてくれました。

なお叔父とは血はつながっていませんので、私の釣り好きの血は叔父のものとは違うものです。


全く釣りに興味を示さない叔父の息子と違って、仕掛け作りから始まって何から何まで自分でやる私を随分可愛がってくれたものです。

そうそう、叔父の倉庫から持ち帰った釣り道具の中に、石鯛竿とリールがあります。これらは相当年季が入っていて、リールの回転はスムーズだけれど、竿は使えるかどうか解りません。でもその年季が、私が知らないところで、叔父が夢を求めて竿を握っていた姿を連想させるのです。

少し形は違うけれど、私がいま海に向かって感じていることと、同じような気持ちでいたのだろうなぁ.....


さて、叔父は釣り船を持っていました。

年に1度くらい....そう、だいたい夏だったと思います。うちの家族と叔父の家族を乗せて、釣りに出掛けていました。それは私が自転車をこいで友達と海辺を走り回るようになるよりも前からのことでした。

釣れる魚。タイゴ(チャリコ)、ギザミ(ベラ)、キスゴ(キス)、ズルゴチ(メゴチ)、ギーギー(ヒイラギ)等々、今の夏場の魚と種類は一緒ですが、これらの魚は今の比でないくらい沢山居たものです。しかも、船で出ていますから、誰が釣っても幾らでも釣れる状況だったことは、容易に想像できると思います。

子供の頃の私達は、夢中になって釣ったものです。
10cmほどのタイゴでも、(当然今なら迷わずリリースしますが、)あの頃はそれが悪いことだとは知らずに、釣り上げてはキープしていました。ただそれらは、叔父がその場で3枚におろして刺身にして食べたり、また持ち帰って唐揚げにして食べたりと、私達を育ててくれたことには相違ありません。

稚魚は当然リリースすべきです。でも、子供が釣り上げた魚をちゃんと食べさせる、それも必要です。食べることで、恐らく生命の循環を自然に感じることができるのではないでしょうか?
根拠はないのですけれど、そんな気がします。



一つだけ、これらに時々混ざる魚がいました。

その魚もとても小さいのだけれど、ピンと背鰭を立てて、銀色に輝く綺麗な魚体に黒い縞模様。
形はタイゴに似ています。

多分、そこで始めて聞いたと思います。

チヌゴだと....

多分チヌという魚種に出逢った最初の瞬間は、叔父の船の上だったと思います。

何故だか解らないのですが、その銀鱗は今なお私の頭に焼き付いています。

タイゴは沢山釣れるのにチヌゴはあまり釣れない。だから....なのかも知れませんが。
叔父達は、チヌゴにはあまり興味が無さそうでしたが、私にとってはとてもそれは貴重なもののような気がしたのだと思います。

ただ、それだけの話です。
ただ、夏の暑い日の、叔父の釣り船の上。私の小さな手の平に載った小さな銀鱗。
今、それをひたすら追い求めている私の姿は、当然その時点では誰も想像しなかったでしょうね。

・・・・・恐らく、そのチヌゴはタイゴと一緒に唐揚げにされて私を育ててくれたのだと思います。


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