長編不定期連作小説#3 生臭志願(第1回〜)

#1 おかしな男

 いつの頃からだっただろうか。
 うちにおかしな男が入り浸るようになった。

 うち,という言い方は若干おかしいのかも知れない。
 何故なら,私は僧侶であり,我が家は寺であるからだ。
 江戸の昔にこの町の僧侶が興した小さな寺を,弟子が代々受け継いで今は私が引き受けている。
 自慢ではないが,今や檀家さんも結構な数いるし,建物も立派になった。
 この小さな田舎町では恐らく一番伝統があり,また大きな寺だろう。
 とはいえ,私には跡継ぎがおらず,後継者不在は頭が痛い問題である。

 仏教に関心のある若者は,今でも全くいない訳ではない。
 実際僧を目指す訳ではない者でも,時に法話であったり,時に教えとは関係のない僧の生活や人生の話であったり,時にこの寺の歴史や建築であったり,そういったことに関心を抱いてここを訪れる者は少なからずいたものである。
 普通は仏教や寺といったものに関心を抱いている人でも,ある人は一度きり,そうでない人でも気が向いたときにふらりと,といったパターンであろう。

 この男は違った。
 週に二度,必ず寺を訪れて私と何事か話をして帰っていく。
 それをまるでルーティンのようにもう随分長いこと続けているのだ。

 見る限り,特に何か悪いことを企んでいる訳ではなさそうである。
 年の頃は恐らく四十前後,眼鏡をかけた,どちらかというと真面目で人好しで,若干気の弱そうな男である。
 むしろ,何か目的があってここに来ているのか,ということがそもそも疑わしい。
 本当にここを訪れて,小一時間話をして帰っていく,それだけだからだ。

 僧侶になる気があるのですか。
 男がここに通い出してからしばらくして,私はついに問うてみた。
 いえいえ,めっそうもない。
 私はあなたのように,厳しい修行を積んで僧となり,ご立派な講釈を垂れることなどできはしません。
 …とこう返した。失礼な男だ。

 もしも彼が僧侶になりたい,あなたの下で修行をしたい,と答えたなら,私はどうしただろうか。
 彼は失礼な男かも知れないが,私の話を真面目に聞いていた。
 何より,私自身,この失礼な男を全く嫌う気持ちにはなれなかった。
 彼は私に教えを請おうとしている。そのことは間違いのない事実だ。
 そのような者を門前払いにするほど,私は狭量ではないつもりである。

 男がここを訪れるのは,決まって日曜日と木曜日,しかも午後4時きっかりである。
 彼はいつも,その小さな身体には若干不似合いな大きな車で乗り付けてくる。
 まるで時報のようにざざざざ,と大きな音がし,次いでドアを閉める音が短く響く。
 これが彼の訪問の合図だ。
 以前は私がおらず,妻が応対したこともあるようだが,今は必ず私がいるようにしている。
 まるで待ち合わせの約束でもしているかのようだが,いつの間にかそうなってしまった。

 男の滞在時間は,決まって一時間である。
 午後5時になると,有線で夕焼け小焼けが流れてくる。
 それがお帰りの合図である。
 どれだけ話に熱中していても,5時になると必ず彼は帰る。
 彼はそれ以上滞在を延ばしはしないし,私も引き留めはしない。
 これもまるで約束のようになっているが,いつの間にかそうなってしまったものだ。

 こうなるともうずいぶん長い友人のようだが,そう呼べるほど心を許している訳ではない。
 ただ,私の彼に対する言葉遣いは随分とぞんざいになったものだ。
 ただ,彼はまだ私に敬語であり,何故か私のことを「先生」と呼ぶ。
 聞けば,彼は普段の生活で敬語が当たり前であり,自分の妻にも敬語なのだそうだ。
 聞けば聞くほど変わった男だ。

「おい,得度する気はないか」
 私は半分悪ふざけのように,彼にまた問うてみた。
「私には妻子がいます。仏教は妻帯禁止なのでしょう」
「今の日本の僧侶は大抵は妻帯している。そもそもあんたは俺の妻を見ているだろう」
「肉も喰っちゃいけないのでしょう」
「そんなことはない。ただ,命を食することに感謝して生きてゆくだけだ」
「なら考えてもいいですよ…いや,やめとこう。修行が辛いから」
「初手から生臭坊主か。見下げた男だな。それじゃ得度はできんな」
 男はそれには答えず,いつものように気弱そうな笑みを浮かべながら私に頭を下げ,背を向けて去った。
 小さな背中が見えなくなる際に,彼は遠慮がちに左手を上げた。
 数刻後,けたたましい音が上がり,ざざざざと音を立てながら次第にその音は小さくなり,消えた。

 私の見る限り,男は金に困っている訳ではなさそうだ。
 俗世間で裕福な暮らしに満足していれば,寺に話をしに来ようなどとは思わないはずだ。
 ただ,逆にそうだからこそ,人智では解決できない言い知れぬ悩みがあるのかも知れない。

 男が去った後は,境内に妙な刺激臭が残る。
 私はその匂いに若干顔をしかめながら,そんなことを考えていた。

 男の話は,往々にしてとりとめのないものが多い。
 ただ,時に私から見ても面白いと思える話をしてくることもある。
 今後追々,そんな話をここに綴っていきたいと思う。
 非常に簡単ではあるが,第一回はこれで終わりとしたい。




#2 死について

 彼がそれをはっきりと意識したのは,第1子である娘さんが生まれた時のことであるらしい。
「何というかこう…申し上げにくいんですけどね」
 彼はしばらく間を置き,ぽつぽつと話し始めた。
「自分の後に続く世代が出てきて…まあ,私の親父もおふくろも早々に死んだので…次は自分かと」
「死について,意識するようになったということか」
「まあ,そういうことです」
「親父さんとおふくろさんが往生された時は感じなかったのに?」
「まあ,あの時はまだ若かったですからね」
「そうさなあ」
 私は,やや温くなったお茶をすすりながら言った。
「人間にとって,死は免れないものである。それは事実だなあ」
 一呼吸置いて,率直に聞いてみた。
「死は怖いか?」
「…怖いというか,自分というものがなくなってしまう,ということの想像がつかないのです」
 彼はさらに続けた。「逆に…」
「逆に?」
「私から他人の死を見ている限りでは,死はそれほど怖いものではない」
「ん?」
 私は彼の真意を測りかね,思わず問い返した。
「要するに…他人の,人間の死というのは,単に人体の中にある細胞が活動をやめた,ということでしかない」
「細胞…」私は少々呆れたような口調で息を吐きながら呟いた。
「要は,人間の生命活動というものは,脳や五臓六腑,人体にある数多の細胞の化学反応の連続でしかないと」
「そこまで割り切って考えてしまえれば,むしろ楽ではないのかなあ」
「ただ,そう考えてしまうと,じゃあ自分は何なのか,と思うんです」
「客観的な人生や死と,主観的な人生や死が一致しないということになるのかな」
「こうやって考えていること一つ一つが,所詮脳の化学反応の結果でしかない,ということが今一つ腑に落ちない」
「まあな…ならば聞くが」
 私は問い返してみた。
「人生のイベント一つ一つも,全てが化学反応の結果でしかない,ということになるのか?」
「…そう思います。人体の活動は全てが化学反応の結果であり,人生のイベントはそれらの活動の集合体ですから」
「ただ,自分の思い,身体の活動についてはそう思えない,その乖離は感じていると」
「そうですね」
 骨の髄まで変わった男である。私は少々答えに窮し,黙っていた。
 すると,彼が切り出した。
「先生は…死後の世界を信じておられるのですか」
「死後の世界か…死んでみないとわからんな」
 私は少々自虐的に笑った。
 彼はそれには応えず,じっと私の顔を見ていた。
「まあ…冗談はさておき」
 私は少々ばつが悪くなって,下を向いて続けた。
「仏教において…お釈迦様は四苦八苦,即ち最初の『四苦』として生,老,病,死を挙げておられる」
 さらに続けた。
「中でも死は最も強く我々を苦しめるものだろうな。何せあんたも生きているうちから死を思い,苦しんでいる」
 彼は黙って聞いている。
「ただ,死は誰しも平等にやって来る。大切なのは」
 一息ついた。
「死を穏やかに受け入れることだと,私は思っている…思ってはいるが」
 私は再び自虐的に笑う。
「僧侶たる私でさえ,そこまでの域には達していない。いや,僧侶だからこそかも知れん」
「僧侶だからこそ?」
「死を強く意識し,恐れる気持ちから僧侶になった,という考え方もできるからな」
 私は続けた。
「死後の世界…そういうものがあれば良い。たとえば,浄土の教えは『南無阿弥陀仏』を唱えることで死後救われる,と説く。これは死後の世界が存在することを前提にしたものだろうな」
「死後の世界はある,ということなのですね」
「いや,私も…これはあくまで私の個人的な考え方であり,仏教の僧侶がそうだと思ってほしくはないのだが…死後の世界はあり,『南無阿弥陀仏』を唱えているから安泰,というのは少々違うのではないかと思っている」
「ほう」
「大切なのは,死を迎え入れるために今の生を充実させることなのではないかと思う。さっき冗談のように言ってしまったが,それこそ死後どうなるかなんて死んでみなきゃ分かりゃしないさ。あんたの言うように,身体の細胞が皆活動をやめてしまって,単に腐って土に還るだけなのかも知れない。『死後』に頼ることは危険なことなのかも知れないな」
「であれば,なぜ先生は僧侶として仏教に帰依しておられるのですか」
「死後の世界を担保するためだけに私は御仏に帰依している訳ではないけどな。ただ,心の奥底にそういう気持ちが全くないかと言われれば,それは自信がないが…まあ,何を言いたいかといえばだ」
 私は少々声を大きくして言った。
「仏教の教えは単に死後の話だけではない。より良く生き,穏やかに死を迎えるためにどうあるべきか,という導きも含んでいるということは分かっておいてもらいたいものだな」

 有線放送の「夕焼け小焼け」が流れてきた。
 彼にとって,これがお帰りの合図である。

「おい,得度する気はないか」
 私はいつものように問うた。
「いやあ…今日はやめておきます」
 彼はそう言って,頭を下げて引っ込んでいった。

 彼の中にある,死についての漠然とした苦しみ,不安,疑問。
 そういったものが今日の対話で解決したとは到底思われなかった。
 もう少し,話してみる必要があるだろう。
 彼がまたここに来ればの話ではあるが。




#3 死について(2)

 死というものに憑り付かれている,と語った彼だが,それは四六時中のものではなかったらしい。
 ただ,その恐れというものは,時と場所を選ばず,というか,あまり来てほしくない時に,招かれざる客の如く来るものであるらしい。

「眠れないんですよ」
 彼がくたびれた顔をしてここに来たのは,最初に死への恐れを語ってからしばらく経ってからのことだった。
 その前やその前の前にここに来たときは,特にそういう話はしていなかったし,私も特に気に掛けてはいなかった。
 一時の心の迷い,ということは十分に考えられたからだ。
 そもそも,常日頃から死ぬことばかり考えていることは精神衛生上よろしくない。
 何かに没頭しているときや,そうでなくても普通に生活に追われているときは,そのようなことに心を致す暇はない。
 
 彼が再び「死」に思いを巡らせるようになったのは,主にそういったものから解放された時,即ち夜,床に入った時だ。
 同じ部屋で奥さんと,まだ小さい娘さんが寝ていることも,死への妄想に拍車を掛けたようだ。

「自分もいつかは死ぬのだ,もしも死んだらどうなるのか,ということが頭を過ります」
「妻や子を置いて自分が…といったことを考えてしまうんです」
「考え出すとねえ…眠れなくなっちゃって」
「まあ,それでも少しは眠るんですよ,で,朝起きたら慌ただしく仕事を始めるから,そのことは忘れてしまう」
「でも夜になってさあ寝るか,という段になるとまた考えてしまって…最近じゃあ夜が怖くてね」
 彼は立て続けに吐き出した。
 半分冗談にしたいように笑いながら言っていたが,それが却って事態の深刻さを物語っているように思えた。

「世の人たちは,どうやって死への不安をやり過ごしているんでしょうか」
「そうさなあ,私にも分からないな。正直なところ…これは僧侶としては恥ずべきことなのかも知れないが,例えば檀家さんたちには,死についてこちらから説法ををすることはあっても,そういえば向こうからの話を聞く,ということはあまりなかった。往生しなすった方をお見送りすることは多々あれど,直接死に直面した方と相対することは多くないしなあ」
「本当に死に直面した人というのは,実際よほど死への恐怖に囚われている人ももちろん多くいるのですが,特に年配の人になると,もう達観しているというか,『俺はもういつ死んだっていいんだ』と言われることも多いんですね。どうしてそういうことが言えるのだろうか,と。本当に死が怖くないのか,あるいはただの強がりか」
「人は年を取れば必ず死ぬ。それは道理だ。だからうまく出来ているもので,死を迎える年齢になると,自然にそういう気持ちが出来てくるのかも知れない」
「先生はどうですか」
「私のことはあまり参考にならないのではないかなあ。御仏に帰依する者は,死後御仏によって救われるという気持ちを持っているからな」

「しかし,あんたも常日頃ずっと死のことばかり考えている訳でもないだろうし,死への恐れは恐らく最近出てきたものだろうと思うが,若い頃はどう考えていなすった?」
「若い頃ですか…忙しすぎてあまり考えたこともなかった」
「今が暇という訳でもあるまいに」
「まあそうなんですが…」
 彼はしばし考えた後,再び口を開いた。
「若い頃…恐らくは,自分は死なないと思っていたのかも知れません」
「意識しない,ということではなく?」
「意識しない,という方が正しいのか,それは分かりませんが,とにかく自分が死ぬ,と思っていなかった」

「先生から見たら冗談に思えるかも知れませんが,恐らく今の若い人の多くは,『自分は死なない』と信じている」
「そうかなあ」
「いや,だって考えてもみてくださいよ。流行り病で人死にが多く出ている昨今,伝染るリスクがあるのを分かっていて外でフラフラ遊んでいるんだから。で,『自分は良くても人に伝染して,それで相手が死んだらどうするの』と言われてようやく,はっそうかと気が付いて外に出るのを自粛する。そんな連中ですよ」
「確かにそう言われると,若い人の間には,『自分は死なない』と思っている人が多いように思えるな」
「私も心のどこかではそう思っているのかも知れませんがね。もしかしたら将来,不老不死の薬ができて,人間は死ななくて済むようになるのではないか,という妄想をして,それで何とか毎晩,死への恐怖をやり過ごしている」
「そんな夢のような薬が出来るといいがな」
「ただそうなったらそうなったで困ることもありますがね。地球上が人で溢れちゃう」
「それもそうだ。キャパオーバーだな。順番に逝かないと周りが迷惑をする」
 そう言うと,二人で苦笑いをした。

 しばらく二人とも黙っていたが,思うところがあって私から切り出した。
「死の話ばかりしてきたが,恐らくその前に『老』の苦しみが出てくるのではないかと思う。あんたは『老い』についてはどう考えているのかね?」
「考えたことがないですね」
 即答だった。意外だったので,私は驚いて聞き返した。
「考えていないのか?」
「はい」
「何故?」
「何故かと言われると難しいですが…多分私が考えていることって,若い頃…極端に言えば,18歳くらいの時とあまり変わっていないんですよ」
「ほう」
「たとえば,…まあ妻子ある身で不謹慎ではありますが,街で可愛い女性を見かけると,『可愛い』とか『お近づきになりたい』とか,そんなことを考えたり,漫画を読んでげらげら笑ったり,まあその辺のガキ臭いところがこの年齢になっても一向に変わっていない訳ですよ」
「まあそれはな…三つ子の魂百まで,という言葉もあるしな。でもそれと『老い』はまた違うものだぞ」
「確かに,学生時分のように走れ,とか言われたら出来ないでしょうが,それはあくまで最近身体を使っていないからそうなっているだけで,鍛えればまだ大丈夫だ,という自信があるんですよ」
「それもまた違う気がするが…ただ,恐らくあんたにはまだ決定的な『老い』の兆候は来ていない,ということだな」
「そうでしょうね。強いて言えば老眼くらいでしょうが,生活に支障をきたすレベルで年取ったな,老いたな,という自覚はまだないですからね。ただ…」
「ただ?」
「周りには,老いて身体の自由が利かなくなったご老人がたくさんいらっしゃる。そういう方々に接していると,自分もいずれはこうなるのか,と不思議な気分にはなりますがね」
「まだ『不思議』の段階でとどまっているのか。実感は湧かん,と」
「そうですね」

「もしかすると…」
 私は少し考えてから言った。
「いや,仏教の『四苦八苦』の『四苦』は『生・老・病・死』と言うだろう。これは恐らく順番ではないかと思うんだ。まずは生きる苦しみがあり,次いで老い,病に罹り,そして死ぬ」
「はい」
「あんたの場合は,『老』と『病』をすっ飛ばして『死』を思うから苦しいのではないかな」
「ううむ」
「いや,あんただけではなく,多くの人がそうだと思うが…とかく人はすぐ結論を求めたり,極論に走りがちになる習性がある。まず『生』の苦しみを受け入れ,次いで『老』即ち,老いた自身を受け入れる。そして時が来れば病を得て死んでいく,これが自然の摂理だ。さっきあんたは,『年配者は死について達観している』と言いなすったが,そう考えれば合点がいくな。老いを受け入れた者は,次に訪れる『病』と『死』について,受け入れる心の準備が出来てくる」
「そうなんですかねえ」
「だからまあ,あんたに出来ることは,『死』の恐怖をやり過ごしつつ,恐らく今あるであろう『生』の苦しみ…それは恐らく日常の中にあるものだと思うが,それをありのまま受け入れ,自分の中で消化する。自分で解決できることは努力して解決すれば良いし,できないものはできないのだからそれは受け入れるしかないよな。そうやって日々の『生』をより穏やかな気持ちでより良く生きていくことを,まずは考えるべきではないかな」
「すると次に『老い』の苦しみがやってきますね」
「そうだな。ただまあそれはその時の話だ。『病』『死』を思うのは,それからでも遅くはあるまい」
「え〜…先送りですか」
 彼は笑った。
「まあこればっかりは順番だからな…とはいえ,世の中には老いる前に『病』を得て『死』に至る者や,不慮の事故などで『病』なくして『死』に至る者も少なくない。そのことを考えると,老いる前の段階から死を想い,苦しむという気持ちもわかる。それは苦しいだろう」
「私はそこまでは考えたことがないですが…確かにそれはあり得るし,今から『死』を想い,苦しむことは決して不自然なことではないと思います」
「もちろんそうだ。私だって『死』への恐怖を克服したという訳ではない。前も言ったが,むしろその恐怖が強いからこそ御仏に帰依し,死後の救いを求めている,ということもあるのかも知れないしな」
「先生でも解決できないことですか」
「難しいな。自分の中でこれを解決,克服しましたという人がいたら,私も会って話をしたいもんだ。ただ,私は…いや,他の多くの人もそうだと思うが,まず自分の目の前の日々を充実させることに意識が向いているから,常に死を想って苦しむということはないのではないかな。あんたもそうだろう」
「まあ,いつもという訳ではないですが…ただ,ふとした時に考えてしまうんですね」
「うん。ただそれは,決して悪いことではない,むしろ大切なことだと思う。『死を想い苦しむ』という自分を否定するのではなく,そんな自分も受け入れる。苦しむ時は苦しんだっていいさ。そのひと時が将来の糧になるのかも知れない。『死』という終着点があるからこそ人は『生』を充実させたいと願うのだろう。『死を想う』ことは『生』をより充実させ,より穏やかで安らかで,悔いのない『死』を迎えるための準備なのかも知れない。そう思えば,少しは楽になれるのではないかな」
「わかりました」
 彼はそう言うなり,時計を見た。
 本当に分かったのかは疑わしいところだ。
 しかしここで「夕焼け小焼け」が鳴る。
 残念ながら,今日はここまでだ。

「おい,得度する気はないか」
 私はいつものように,挨拶のようにそう声を掛けた。
「いやあ…今日はやめておきます」
 彼もまた,いつものようにそう返し,車に乗り込んだ。

 今回もどうやら,彼の苦しみを解決できなかったようだ。
 もう少し死について話をするか,あるいは今度は毛色の違う話をしようか。
 ちょっと決めかねている。




#4 恋について

 こないだ「死」について私に大層深刻な相談をしてきた男だが,今回はまた妙な相談をしてきた。
「先生,恋についてどう思われますか」
 いきなり全く予期せぬことを言われたものだから,私は多少狼狽をした。
「何の話だ」
「いや,私の同僚の話なんですが」
 そう断ってから,彼は身の上相談を始めたのである。

「奴はもう四十代なんですが,独り者です」
「別にいいだろう」
「それは別にいいんですがね」
 男は一息ついて,続けた。
「職場に出入りしている女性と仲良くなりまして,連絡先を交換して」
「いいことじゃないか」
「そこまでは良かったんですがね…奴は彼女に気があって,誘おうとしたんですよ」
「うむ」
「しかし彼女にはその気はなかったらしくて,お断りされたんですね」
「まあそれは,よくある話だな」
「で,その後連絡を取ろうとしても無視されるようになった,と」
「うんうん」
「そうしたらあの男,今度は彼女のことをいたく憎悪するようになったんです」
「それは…穏やかではないな」
「そうなんです。奴曰く,『俺を愛してくれる者だけ愛してやる。愛してくれない奴は愛してやらない』」
「どこかで聞いたような言葉だな」
「それでねえ,職場関係だから仕事にも影響するし,下手するとあいつ,彼女に危害でも加えやしないかって」
「…」
「ほら,もう年も年だから焦りもあってね,これが最後の恋だ,くらいに思い詰めていた訳ですよ」
「ううむ」
「それがだめになったもんだから,あいつ自棄になっちゃって」
「なるほど」
「先生,仏教ではこのような時にどのような教えでもって対処しているものなんでしょうか」

「逆に聞くが,あんたは恋についてどのように考えているのかね」
「私…ですか」
 彼はちょっと考えてから応じた。
「恋ってのは,人間の根源的な本能に基づくもので,生殖行為のために備わっている感情であると」
「で,感情ってのは確か,人間の脳の中で起こる化学反応の一つで…,と言ってたな」
「その通りです」
「まあ,仏教においては…あんたも知っているだろうが,恋と言ったってそれは色欲であり,煩悩の一つである」
「そうですね」
「ただ,この色欲という煩悩は,恐らく修行によって消そうとしても消せるものではないだろう」
「そうなんですか」
「うむ,あんたの論を借りれば,色欲は人間の生殖のために根源的にそこにあるものだからな」
 私は続けた。
「かの親鸞聖人も,若かりし頃比叡山で修行をされた時,思い人が現れて大層心を乱されたという」
「へえ,で,どうやって解決されたんですか」
「解決できなかった」
「え?」
「比叡山での修行においても聖人の苦しみは消えることがなく,結局断念して下山をされた。その後,…まあ詳細は省くが,法然上人の下で修行の日々を過ごすことになったのだが,その間に妻帯をされたと言われている」
「なるほど」
「聖人は自身の状況を,『愛欲の海に沈没している』と喩えられていた。それだけ聖人にとってさえ,色欲というものは断ちがたく,苦しみの元になっていたということだろうな」

「仏教においては,やはり色欲は否定的に捉えられるものなんですか」
「そもそも仏教においては,『三毒』というものが存在する。それは,『貪』『瞋』『痴』というものだ」
「何ですか,それ」
「『貪』,これは分かるだろう。貪ること,欲張って執着することだ」
「はい」
「『瞋』,これは『いかる』,即ち怒る,腹を立てることだ」
「ほう」
「で,『痴』,これは愚かであること。物事の道理を理解していない,ということだ」
「先生,それ全部あいつに当てはまりそうですね」
「そこだな。結局恋即ち色欲というものは,これら『三毒』を引き起こす元になる危険性が大きい。あんたの知り合いの例で言えば,彼女に執着し,彼女が自分の思うとおりにならなければ怒り,果ては道理を踏み外す」
「ですよね」
「ただ,別に私は恋愛全てが悪いと言う気はない。恋愛によって自らを高め,人生に幸福をもたらす場合だってたくさんある。そもそも恋愛だって『縁』がもたらすものだ。その『縁』に感謝しながら,自らの生をより充実したものにすることは大切だと思っている」
「良い方に出るか,悪い方に出るか,ということですか」
「ただ人間というのは不完全な存在だから,恋を自らを高めるためのきっかけにできる場合というのは正直そんなに多くないのではないかとは思う。恋が叶わなければ苦しいし,自分が愛を注ぐのと同じように相手が愛を注いでくれなければ相手に対して怒ることになる。その苦しみや怒りが自分や周りをダメにすることにつながりやすくなる。仏教においてはやはりこのような感情は,特に修行においては邪魔者になるし,煩悩として否定的に捉えられがちになるのは仕方のないところなのだろうな」

「先生だったら,こいつにどういうアドバイスをされますか」
「ともかく,まず彼女への執着を抑えなければならないし,彼女が自分の思い通りにならないことへの怒りを抑えなければならないだろう。極端な話,『もう知らん!』で彼女への執着がなくなるのならばそれでもいいさ。ただ人間,そんなに簡単に割り切れるものでもないだろう。それに結果として怒りと憎しみだけが残るのであれば,その恋には意味がなかったどころか,彼の人生に対してマイナスしか残さないことになる。それは不幸なことだな」
「そうですね」
「彼は彼女ではないから,彼女のやり方や感情は分からない。彼女が自分の思うとおりに動いてくれることを望むのは,そりゃあ無理筋というものだろう。本当に彼女のことを好きなのであれば,彼女のやり方や感情を尊重して,鷹揚な気持ちで接するのが当たり前というものだろう」
「あいつは気が短いからなあ」
「恋以外にも言えることだが,他人が自分の思い通りに動いてくれないと怒る人間は多いよな。仕事でも何でも。特に自分自身に余裕のない時はそうなりやすい。これは私も気を付けなければならないと思っているところだ。何も彼だけが特殊という訳ではない。みんなそうだから」
「耳が痛い話になってきましたね」
「あんたもそうだろう。短気は損気と言うが,これは真理だと思う。自分自身がすべきことを全てしたのであれば,自信を持って待っていればいいさ。それでうまくいかなくとも,それは仕方のないことだ」
「なるようにしかならない,と」
「そうだな。とりあえず彼には,しばらく何もせず待つことを勧めるかな。彼は自分のしたいこと,すべきだと思っていることを全てしたのだろう?それでうまくいかなかったら,そういうことなんだろう」
「ただあいつは,これが最後の恋だと思ってるみたいですからねえ」
「そう決めつけるのも如何なものかと思うがな。人間どこでどうなるかなんて分からんよ。『諸行無常』という言葉があってだな。この世の中で変わらないものなどない。幸せな時がずっと続くということはないが,逆に不幸がずっと続くということもあり得ない。50だろうが60だろうが,する時はするさ。『縁』なんてどこでつながっているか分からないものだよ」
「そういう余裕があればいいんですがね…世の中には適齢期というものがあるものですから」
「それはどちらかと言うと,恋の悩みと言うよりは,生きる上での『四苦』である『老』の悩みになりはしないか」
「『老』ですか」
「『老』もまた,恋に大きな影響をもたらすファクターなのかも知れないが…」
 そこまで言ったところで,「夕焼け小焼け」が流れてきた。

「おい,得度する気はないか」
 私は別れ際,いつものように彼に問うてみた。
 彼は何も言わず,静かに首を横に振った。

 普段ならそれで終わりだが,今日はもう一つ声を掛けた。
「おい,今日の話,本当に知り合いの話だろうな。あんたのことじゃないよな?」
「違いますよ!私は妻一筋です!」
 彼にしては珍しく,少々むきになって大きな声で返してきた。
「諸行無常!」
 私がからかうように言ってやると,彼は少々困惑の混じった笑みを浮かべながら,車のドアを閉めた。




#5 恋について(2)―恋と老い―


 同僚の恋愛についての相談(本当に同僚のことなのか,本当は自分自身のことだったのではないのか,という疑いはさておき)を私にしてきてからしばらく後,男はまた私の元にやって来た。
「先日話していたあんたの同僚はどうなった?」
 聞くと,意外な返答が返ってきた。
「あいつは彼女のことを忘れ,今は別の若い女を追いかけていますよ」
 男は薄笑いをしながら言った。
「まあいいさ,恋愛は自由だからな」
 私はそう言いながらお茶をすすった。

「先生」
 しばらく間を空けて,男が口を開いた。
「人間は老いますよね。老いたら,男女を問わず,その男性・女性としての魅力は失われていくように思うんです」
 私は何も言わず,彼が言葉をつないだ。
「それは恐らく,動物として子孫を残す,という役目を終え,異性を惹きつける必要がなくなるからのように思います」
「ほほう」
「私は男ですから,女性がどうなのかは分かりませんが,私自身は少なくとも今現在においては,年配の女性よりは若い女性の方が魅力的に見えます」
「それで?」
「私は今妻がいます。当然,妻を愛しています。しかし,男の性(さが)としては,より若い女性を見てしまう。私が将来年を取った時,それでも妻を一筋に愛し続けることができるのかなあ,という心配が最近生じてきました」

 私は少々意地の悪い笑いを浮かべながら問うてみた。
「既に今のあんたは,一筋に奥さんを愛していると言えるだろうか?」
 男は少々むっとした顔をした。
「勿論,可愛い女性を見かければ,それはぱっと華やかで目立ちますから目を向けますし,綺麗な女性に対しては素直に綺麗だなあ,可愛いなあ,とは思います。前ちょっと言いましたが,お近づきになりたいなあ,と思うようなことだってないとは言いません。しかし,私は不貞行為をしたことはありません」
「いやいや,街を歩く若い,綺麗な女性に目移りすること自体,既に浮気,と言えるのではないかな?『浮気』の『気』は『気持ち』の『気』。気持ちの中で他の女性を見ているということは,それは既に『浮気』であるし,もしそのような女性から好意を告げられた場合に自分は妻一筋である,という意志を通すことができるかな?」
「私は理性的な人間です」
「理性的,というのは己の欲求を理性で抑えることができる,ということだろう」
「その通りです」
「それがまずおかしいのよ。本当に奥さん一筋であるのならば,理性で抑えるべき欲求が生じること自体がおかしい。奥さん以外の女性に対してそういう欲求が生じること自体が問題であると言わねばならない」
「なるほど」
 男は少し黙って考えてから続けた。
「即ち,妻一筋という意志があるのならば,老いようがどうなろうが,妻を思い,愛し続けることが可能なのではないか,とそうおっしゃりたい訳ですね」
「そうだな。もし本当にあんたが奥さん一筋です,と言えるのならば,さっき言ったような悩みはそもそも生じないのであって,その気持ちに陰りがあるから老いた後の奥さんへの愛に疑問を持つのではないかな」
「うーむ」

 少し時間を置いてから,男は改めて,という風で切り出した。
「しかしですね先生」
「うん?」
「愛って,何なんですかね」

「愛とは…か」
 私もとっさのことにすぐには答えられず,それだけ言って黙ってしまった。
「そもそも,私がさっきまで話していたことって,本当に『愛』と言うべきものなんでしょうか」
 彼はそう言い,さらに続けた。
「どちらかと言うと,今までの話って,人間の本能によるところの『性欲』が昇華したものとしての,言ってみれば『性愛』と呼ぶべきものなんじゃないですかね」
「ほう」
「もし『性愛』ということに限れば,人間が子孫を残すための生殖行動,それが可能な相手が対象となるのだろうと思います。そうなると,年老いて生殖能力が衰えた,あるいは失われた相手はその対象にはならないのではないか,と考えられますよね」
「なるほど」
「ただ,『愛』というのは決してそれだけではないと思うんです。年老いて生殖能力が失われ,容貌が衰えても,互いに深く愛し合い,慈しみ合う夫婦というのは世間に数多存在しますよね。私も年老いたら,妻とそういう関係になりたいのです」
「勿論それが理想だな」
「ただ,男…いや,雄(おす)である以上,性的な魅力を持つ女性に対して興味を抱く,ということからは逃げられないのではないか,という気もしているのです。その点について,先生はどうお考えになりますか」
「そうだなあ」
 私は上を向いてしばらくぼうっとなった。
 自分がどうであったか,今どうであるか。
 そのことが答えの鍵になるのではないかと考えた。
 映像ではぼんやりと思い返されるが,そのようなことをあまり考えたことがなかったものだから,頭の中でなかなか言葉としてまとまって来ない。
「仏教では,『愛』をどう捉えているのですか」
 男が,まるで助け舟を出すかのように私に問うた。
 しかし,それは私にとっては助け舟にはならなかったのである。

「仏教では…『愛』というものはあまり肯定的には捉えられてこなかった」
 男は少し意外そうな顔をした。
「それは,前に先生がおっしゃった,『恋』に伴って現れる『三毒』という…」
「まあそう考えて良いだろう。『愛』は欲望を満たすための執着心,というのが仏教の解釈になる。あんたの今まで話してきたところの『性愛』はさしずめ,『惚れた相手』に対する執着かな。仏様からの『慈愛』というものはまた別のものとして,我々が一般的に考える『愛』については,むしろ仏教においては輪廻から解脱して涅槃に至る道筋の障害になるものであり,捨てることが望ましいとされている」
「『愛』は悪なんですか」
「そう言ってしまうと身も蓋もないがな…ただ,さっき言った『慈愛』に相当する…特定の対象への執着によらない…無条件であらゆる者に対して与える,大きな意味での『愛』は仏教…特に後に生まれた,いわゆる『大乗仏教』においては唱えられているところだ。しかし,今話をしている『愛』はそういうものではなかろう。その種の『愛』に対しては,仏教は肯定的ではない。正直,私にとっても不得意科目だ」
「そうかあ…難しいですね」
「そうだな…そもそも『愛』という言葉自体が,様々な意味を孕んでいる難しい言葉なんだよな。で,前話に出たあんたの同僚とか,さっきのあんたみたいに『愛』の喜びに執着しながら,その実『愛』に悩み苦しんでいる者は多い。仏教の観点からすれば,それは言ってみれば邪魔だから捨ててしまえ,と。極端に言えばそういう考えだ」
「困りましたね」
「また,『愛』…いや,あんたの言うところの『性愛』か,そこに執着してしまうと,さっきあんたが悩んでいた,『より若く,美しい相手』を求める気持ちや,自身が老いることによって『惚れた相手』の『愛』の対象から外されてしまうことへの不安,そういったことから,四苦…生・老・病・死の中の『老』の苦しみ,『若い相手が欲しい』『自分自身,いつまでも若くいたい,老いたくない』,そういったことにもつながっていくのだろうな」
「うーん,そうすると結局,恋とか愛とか,そういったものはいつか捨てねばならない,という」
「いつか,というか,仏教においては早く捨ててしまうべきもの,ということになるな」
「仏教,という部分では分かりました。で,先生はどうなんですか」
 男はいきなり,不意討ちのように食らわせてきた。

「先生は妻帯されている。先生は私よりかなりご年配である。奥様もこのお寺で拝見したことがありますが…」
「婆あだったって言いてえんだろ」
「いや,そのう…恐らく同じくらいのお年頃と見受けられます」
「そりゃあそうだ。私より2つ年上だからな」
「先生ご自身は妻帯されているくらいですから,仏教徒といえども我々と同様,『性愛』という意味での『愛』を持っている,捨ててはいないということですよね。そうなると,私たちのような苦しみをやはり持っているのではないかと思うんですが」
「そうだなあ…ただな,一つ断っておくが」
 私は言った。
「あんたのように若いお姉ちゃんに目を奪われて,無暗に道に迷うことはもうないな」
「ないんですか」
「そりゃあそうだ。考えてみろ。私はもう六十を過ぎているんだ」
「いや,年齢は関係ないと思いますが。私ももう四十を過ぎ,不惑,即ち惑わずという年代のはずですが,十代の頃とあまり心の内が変わったように思えないのです。多分あと二十年,三十年経ったところで変わらないでしょう」
「それは人一人一人違うことなのかも知れない。若い人でも年配者を好む人だっているし,年を重ねると好みも変わってくることもあるだろうしな」
「そうですかね。想像がつかないなあ」
「あとは…あんたがまだ若く,雄?だったっけか,その機能とやらを持っていて,生殖行為の源としての『性愛』に溺れることが可能だからじゃないのか」
「…と言うことは,先生はもう…」
「こら,そういう目で見るな!…いや,確かに若い頃と比べたらだな,衰えたというか,その気にならないことは事実だが…」
 男は下を向いた。声を殺して笑っているようだった。不愉快な態度である。
「まああれだ,あんたももう二十年経てば分かるかも知れん。それまで精々道を外さないことだな」
「そうですか。それはそれは…老後の楽しみができました」
「そうそう。最初あんたの言っていた,爺い婆あになっても慈しみ合うような関係というものもいずれ分かって…」
 そこまで言ったところで,夕焼け小焼けが鳴り始めた。

「いやあ,まさか先生と猥談をするとは思いませんでした」
 さっきの不愉快な薄笑いのまま男は車へと乗り込んだ。
 普段なら別れ際に,「おい,得度する気はないか」と呼び掛けるところだが,今回はさすがにできなかった。
 まず男の相談に対し,仏教者としてきちんとした返しをすることができなかったので,その台詞を言う資格がないと己を恥じたからである。
 また,さらに言うと,このたびは彼から見てこの私が「尊敬するべき仏教者」ではなく,「もう役に立たない爺い」に見えたに違いなく,非常にばつが悪かったからである。
 
 ただ言えることは,少なくとも私のいる世界の中に妻がいてくれることには非常に感謝をしているし,少なくともこの世界の中に私を惑わせるような女がいないことについては非常に幸運だと思っている,ということである。


 

続きへ

ホームへ