長編不定期連作小説#3 生臭志願(第11回〜第15回)

#11 輪廻について

 男は,やや悄然とした顔で私のところへ来た。
「どうした。また男にキスされる夢でも見たのか」
「茶化さないでくださいよ。今度は本当に困っているんです」
「まあとりあえず一息ついて,茶でも飲みなさい」
 男は出されたお茶を一気に飲み干した。かなり熱い茶だったのだが,大丈夫だったのだろうか。
「先日,私の知り合いの子どもが交通事故で死にました」
「…それは痛ましいことだな。ご両親はさぞお嘆きだろう」
「はい,毎日泣いてまして,私は仕事柄彼らの相談に乗っているところなんですが」
 男は一息置いた。
「それで…私は彼らに,仏教から学んだ聞きかじりの話をすることがあったんですが」
 男は相変わらず下を向いたまま続けた。
「何の罪もない子どもが,どうしてこのような悲惨な死に方をしなければならなかったのか,神も仏もないのか,と彼らは嘆くのです」
 私は目を閉じた。
「子どもは前世で何か悪いことでもしたのかと。だから現世でこのような目に遭ったのか,と。しかし,私はそうとは思えません。だとすれば,あまりにも仏というものは酷い仕打ちをするものではないかと思うのです」
 全部話してしまってから,男はようやく落ち着いたように見えた。

「まず,あんたの言うところ…輪廻の話からしようか」
 私は切り出した。
「輪廻転生,これは人が死んだ後,次にいずれかの形で生まれ変わる。魂は死んで生まれ変わってを繰り返しながらこの世界を彷徨い続ける,ということを言う」
「はい」
「生まれ変わる世界,これは六道と呼ばれるものであり,天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道である」
「はい」
「勘違いしてはいけないのは,一番上は天道だが,これも含めて全てが『苦』だということだ」
「天道は極楽じゃないんですか」
「さよう。天道は最も楽しみの多い世界とされるが,悲しみも迷いもある。そして寿命―死もあるということだ」
「では,極楽浄土に生まれ変わるというのはどういうことですか」
「仏教においての目的は『解脱』―つまり,徳を積むことによってこの輪廻転生の繰り返しから抜けるということだな」
「なるほど」
「で,我々がこの世界に人間として生かされているのは,未だ解脱の境地に至らず,そこに至るまでに必要な修行をしている状態であるが故,ということになるな」
「はい」
「であれば,前世の行いは現世の運不運には関係ない,というのが私の解釈だな。前世で悪業を重ねた者はそもそも人間には生まれて来られないだろうから」
「なるほど」
「で,人は死んだ後,生前の行いについての審判を受ける。その結果によって極楽に往生するか,あるいは六道のいずれに生まれ変わるかが決まる。余談だが,7日に一度,7回の審判を受け,最終的に行き先が決まるのが四十九日とされている」
「…」
「そのお子さんは…現世においては不運にも生き切ることはできなかった。それはとても残念なことだったと思う。しかし,ひとたび人間界に生まれついたということは,他の衆生同様に輪廻の結果を受けて人間界に生かされたということであり,このたび死を迎えたということで,やはり審判を受けた上で極楽に往生するか,あるいは六道のいずれかに転生するか,ということになるだろうな」
「であれば,罪を犯すことなく死を迎えたのであれば,極楽に行けるのではないか,という言い方ができる訳ですね」
「まあ絶対とは言えないが…そういうことになるかな。残された者に出来ることは,お子さんが極楽に往生できるように念入りにお弔いをすること,だな」

「しかし」
 男が切り出した。
「そんなに簡単に『解脱』をして極楽往生できるものなんでしょうか」
「まあ…普通は無理だろうな」
 男はその場に倒れそうになった。
「それじゃあダメじゃないですか」
「そもそも,人間に生まれ変わることすら容易なことではない。五戒というものがあるのは知っているか」
「いえ,詳しくは」
「仏教の在家信者が守るべき戒律で,5つの禁止事項があってだな。殺生,偸盗―これは盗みだな。あと邪淫,妄語―嘘,あとは飲酒。そういったことをすれば地獄に落ち,人間道に生かされることはできない。我々はむしろ運よく人間道に生まれつくことができた,という言い方ができるだろう」
「うわあ…」
「で,その人間道に運よく生まれついて仏の教えに辿り着き,その教えを守って『より良く生きる』。それが極楽に往生するための唯一の方法と言えるだろうな」
「そこがいまいち良く分からないんですよ。今までのお話を聞いて,『より良い生き方』については少しずつ理解してきているつもりです。ただ,五戒を守るのは至難の業だと思います。そこはどう折り合いをつけるんでしょうか」
「確かに,一度でも過ちを犯したらもうアウト,というのは慈悲がないな。その辺りは…正直,日本の仏教はかなり寛容に捉えているふしがあるな」
「と言いますと?」
「まず,過去のことはともかくとして,仏様の前で五戒を守るという誓いを立てる。また,『五戒を絶対に破らない』という解釈ではなく,『五戒を心に留め,その場その場で自覚して守るように心がける』という考え方をする」
「それならば何とかなりそうですね」
「さらに言えば,僧侶といえども五戒をきちんと守っているか,と問われると難しい面もある。たとえば,五戒は殺生を禁ずるが,広い意味で殺生を禁ずるということであれば,肉食も本来はダメだ。一部では菜食を実践するところもあるようだが,多くは特定の種類の肉を禁ずるとか,適当なところで折り合いをつけているようだ。私も普通に肉を食している」
「ほほう」
「また,飲酒喫煙も禁じられているが,僧侶でも酒好き,煙草好きはいるからな。私はやらないが」
「そう言えば,昔実家の法事の時,来ていた坊さんは親父と一緒にビールを飲んでいましたよ」
「…それは普通にアウトだな。日本は戒律に対する考え方が緩いのではないか,とは私も思う」
 私は笑った。
「ということは,あの坊さんは破戒僧で,死んだら地獄に落ちるんですかね」
「いや,日本の仏教はそういう者であっても救われるための道筋を用意してくれているからな」
「道筋?」
「そう。あんたも知っているだろう。浄土であれば『南無阿弥陀仏』,法華であれば『南無妙法蓮華経』といったものよ」
「はいはい」
「さらに言えば,親鸞聖人は『悪人正機説』を説いておられた。これは知っているだろう」
「はい。善人なお以て往生を遂ぐ,況や悪人をや,というやつでしたっけ」
「うむ。これは私の解釈だが,過去又は現在悪人であったとしても,そのこと自体は極楽往生するための障害にはならない。むしろ,悪人であることを自覚し救われたいと願う気持ちがある者の方が,何も考えずに普通に生きている者よりも極楽往生に近いのではないか,ということであり,即ち仏に帰依する気持ちの有無や多寡が大事であると。さらに言えば,そういった気持ちに目覚めたものであれば,悪人といえども仏の教えに導かれてより良い生き方ができ,極楽往生・解脱の境地に近付けるのではないかという趣旨だと思う」
「はい」
「そもそも,五戒を完璧に守り通さないと地獄に落ちるというのであれば,世間の99.9%の人間は地獄に落ちるだろう。結局のところ極楽往生を目指すために重要なのは,仏に深く帰依し,その教えに従ってより善く生きる,その一点に尽きるんだろうな。五戒はそのための指針だと私は思っている」

「そう言えば」
 私は不意に思い当たったことがあり,男に尋ねた。
「あんたは今まで見たところ,随分と現実的というか科学的というか,そういった物の見方をしているように見受けられたが,そもそも輪廻転生といったものを信じるのか?」
「ううん…正直,半信半疑ですね」
「だろうな。普段のあんただったら,『人間は死んだら腐って土に還るだけですよ』と言うだろうし,『人間というのは精子と卵子が結びついて受精して生まれるんだから,生まれ変わりなんかありっこない』と言うだろうからな。しかし,少しでも輪廻の考え方に思いを抱いたのは何故かな?」
「人は死んだらどうなるのか,ということを,以前からぼんやりと考えていました。ただ,それを考え出すと自分の中で『死』への思い,苦しみが強くなって…先生のところに初めて伺ったのはそういったことからだったのです」
「そう言えばそうだったな」
「私の持っている心,魂というものは死ぬことによって消えてしまうのか?それともどこかに行く先があるのか?そこが私の中では解決できていないのです。本来であれば,心だの魂だの精神の活動だのというものは脳内の化学反応の結果に過ぎないということで片付けてしまうべきものなのかも知れませんが」
「うん」
「人が死に,腐って土に還れば脳は消滅します。魂もそれとともに永遠に消えてしまうものなのか?あるいは仏教の教えのとおり,魂というものは不滅であって,死によって器が失われてもまた新たな器の中で生き続けていくものなのか?その辺りの折り合いがまだ自分の中でつかないのです」
「…」
「そういったところへ,知人のお子さんの死に接し,『生まれ変わり』というものへの関心というか疑問というか,そういったものが改めて芽生えてきたものですから」
「なるほどな」
 私は顎を撫でた。
「で,今の考えはどうかな?」
 私は改めて問うてみた。
「正直,今はまだ輪廻転生は『ない』のではないか,という気持ちが強いです。しかし」
「しかし?」
「そう考えることで大事なお子さんを失った両親の気持ちを少しでも癒すことができるのであれば,私は『生まれ変わる,極楽に行ける』と言ってあげたいと思っています」
「そうだな」
 私は頷いた。
「正直,仏教的な観点から言うと…身も蓋もないことを言えば,『死んでしまったものはどうしようもないのだから,諦めて今のありのままを受け入れなさい』と言うしかない。しかし,人間には心というものがある。受け入れ難いものはあるだろう。そこを曲げて,受け入れた上で前を向いて生きていくために役に立つのであれば,真実がどうであれそのように声を掛けてあげることは必要なのかも知れない」
「優しい嘘,という奴ですかね」
「いや,私は輪廻転生はあると思っているからな。嘘ではないぞ」
「では私は『妄語』の戒を犯した訳ではないですね」
「そうだ。あんたが死んだら四十九日の法要で経をあげる時に仏様にそう説明しておいてやるからな」
「え?どちらかと言うと先生の方が…」
「私はあんたより先には死なんからな。先死のうものなら何をされるか分かったもんじゃない」
 そう言ったところで,夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度する気はないか」
 私はいつも通り,そう呼び掛けた。
「先生の葬式を挙げるために必要だったら考えますよ」
「失礼な奴だな。なら要らんわ」
 男は笑いながら走り去り,車に乗り込んだ。
 
 まあ,あの元気があれば大丈夫なんだろう。
 私は一つ息をついてから,踵を返して本堂に戻った。



#12 縁について

 あれから懲りもせず,奴は私の元を再々訪れている。
 こういうのを「腐れ縁」というのだろう。
 そもそも「縁」というのは何なのだろうか。

「先生,『縁』って何なんでしょうね」
 男は訪れるなり,そう聞いてきた。
 まさかこの男は私の心が読めるのだろうか。
 こんな訳の分からない男と以心伝心というのはいささか気持ち悪いのだが。
「なぜそんなことを聞くんだ」
「ええ…ちょっと思うところがありまして」
「ぼかすところが怪しい。何かあったのか」
「いえいえ…それはちょっと」
 合点が行かなかったが,私は「縁」について思うところを喋ることにした。

「仏教で『縁』と言えば,やはりあれだろう,『袖すり合うも多生の縁』というやつだな」
「それは聞いたことがありますね」
「うむ。単に着物…今は洋服だろうが,その袖が触れ合っただけであっても,それは前世からの,もしくは後世への深いご縁に基づくものである,という意味だな」
「前世や後世というのは,前お聞きした輪廻転生の考え方によるものですよね」
「そういうことだ。あんたがたとえば道端で誰かにぶつかったとするだろう。その人は今は見知らぬ人であったとしても,後世において地獄で会うかも知れない」
「何で地獄確定なんですか。極楽往生させてくださいよ」
 私はははと笑い,続けた。
「まあそれは冗談として,人との出会いというのは貴重なものである。縁あって出会ったのであれば,その一つ一つを大切にして生きていかなければならないよ,とそういうことだな」
 男は少々不服そうではあったが,はあと一言呟いてまず考え込む風をした。
「しかし先生」
 男は顔を上げて切り出した。
「縁というものには『良縁』と『悪縁』があるように思います」
「ほう」
「仏教が勧める『良い生き方』を助けてくれるような人もいれば,悪い方向に誘おうとする人もいるでしょう。それに,私の記憶では,仏教は元々は個人が悟りの境地に至り,輪廻転生から解脱することを目標としているというお話だったかと思います。その境地に至るために,特に色欲に直結する異性との縁はあまり肯定的には捉えられないものではないでしょうか」
「まあ,『縁』というと大抵の人は異性との縁を想像するだろうし,実際に出雲大社など『縁結びの神』として有名になっているようなところだと,そういったことを目的にして参拝する人が多いからな。ただそれは正解じゃない」
「と言いますと?」
「まず仏教においては,『因縁』という言葉があってな。それは『因』と『縁』の二つの言葉に分けることができる」
「はい」
「全てのことが起こるためには,必ず原因がある。直接の原因となるものが『因』であり,間接的な原因となるのが『縁』である」
「分かりにくいですね」
「では分かりやすい例を挙げようか。あんたにはお子さんがいるだろう」
「はい」
「そのお子さんはどうしてこの世に生まれてくることができたのかな?」
「…?」
「考えなくても分かるだろう。あんたと奥さんがセックスをしたからだろうが」
「は,はあ」
 男は少々赤くなって下を向いた。
「下ネタですか」
「下ネタではないぞ。本当のことを言ったまでだ。これが『因』,直接的な要因だな」
「はあ」
「で,なぜあんたと奥さんがセックスをするに至ったか。これはあんたと奥さんがたまたま出会い,良好な人間関係を結ぶことができたからだ。これは『縁』,間接的な要因と言えるな」
「…はあ,まあそれならまあ,分かりやすいですね」
「逆もあるぞ。たとえば私があんたを殺したとする」
 男はぎょっとした顔で私を見た。
「たとえばの話だぞ。私がナイフであんたの心臓を一突きにして殺したと仮定する。あんたが死んだ直接の原因は,ナイフで心臓を刺されたからである。これが『因』。ではなぜ私があんたを死に至らしめたかというと,私とあんたの間によろしくない人間関係があったからである。これが『縁』だな」
「子どもの話はともかく,そっちは例としては不適切じゃないですか」
「良い悪いの価値観を脇に置けば,どっちも『因縁』の例としては間違っちゃいないと思うがな…ただ」
 私は一呼吸置いて続けた。
「本来の仏教で言うところの『縁』と比べると,世間で考えられている『縁』というのはその多くを人間関係に特化したものと捉えている節がある。その辺りについては整理が必要なんじゃないか,と私は思っている」

「確かにこの世の全てのこと…良いこと,悪いことも含め,多くが人と人との関係によって起こっている。これは事実だ。ただ,それだけではない。動物,植物,命のあるもの全て,いや命を持たないものも含め,あらゆるものとの繋がりによって我々は日々の生活を送っている。だから,そこのところを心の中で意識し,人間同士の『縁』,それ以外の『縁』,全てを分け隔てなく大切にして生きていく,それが仏教的な価値観で言うところの『より良い生き方』につながるものだと私は思っている」
「はい」
「勿論,その中で一番『因』『縁』となるところが大きいのは人間同士の関係だとは思う。親子や友人,師弟,あとはまあ,夫婦や恋人といった関係もあるだろう。ただ個人の好き嫌いの感情はあるにせよ,出会った全ての人々との『つながり』を大切にし,また感謝しながら日々を過ごすことが重要であることは言うまでもないことだな」
「嫌いな奴とのつながりに感謝するのは難しいことですね」
「まあそうだろう。ただ,『良薬は口に苦し』ということわざもある。あんたの思うところの『嫌いな奴』が必ずしもあんたの人生にマイナスの影響を及ぼすとは限らない。あんたにとって人生の勉強になるような経験をさせてくれる存在になる可能性はある」
「そうですかねえ」
「今の好き嫌いはあんたの価値観に合うか合わないかによるものではないか?もしそうであれば,別の価値観から俯瞰して眺めて見れば,もしかすると理解できるところもあるのかも知れない。そのことをあんたに分からせるために与えられた『縁』なのかも知れない」
「なるほど」
 男は頷いた。そして思い出したかのように切り出す。
「しかし先生,さっき聞きましたけど仏教的な『より良い生き方』をするためには,悟りの境地に近付けてくれる『良縁』を呼び寄せ,それを邪魔する『悪縁』を断ち切らないといけないと思います。そのためにはどうしたら良いのですか」
「そりゃあんた,今まで生きてきた上である程度は感覚で分かっているだろうが」
「え?」
「前に言った『五戒』を守るとか,要は道を外さないように誠実に生きていけば良い。さすれば『良縁』は自ずからやって来るし,『悪縁』を招く者は近寄って来れないだろうさ」
「はあ」
「たとえば危ない目に遭いたくなかったら,そういう連中がウロウロしている街には近付かないだろう。それと同じだ」
「そういう分かりやすい連中を避けることは容易です。しかし…」
 男は少し口ごもった。
 どうした,と言おうとしたところで男は意を決したかのように口を開く。
「最初に言ったような…色欲に直結する異性との縁については,これは『悪縁』として断ち切るべきものである場合もあろうかと思います。親鸞聖人だって,女性との関係については非常に悩まれたと聞きました。どのように暮らしていても,そういったことは時を選ばずやって来るもののように思えます」
 私は少し虚空を見つめて考えをまとめ,そうしておいて言葉を発した。
「うむ…その異性との関係だな,それを『良縁』とするか『悪縁』とするかはその人次第ではないかと思うがな。相手を色欲の対象として見ればそれは断ち切るべき『悪縁』になってしまうかも知れないが,そうでなければ―人と人との繋がりということでもって見れば,それは大切な『ご縁』なのではないかと思う」
「ううん」
 男は少々苦しそうな顔をしてまた下を向いた。
「美しい女性を見ればそういう思いを抱いてしまうのは男の性なのかも知れない。ただ,異性を色欲の対象としてしか見ないのは,仏教云々以前に人として,相手に対して随分と失礼なことだと思う。相手のことを人として尊重し,その存在,繋がりに対して感謝する気持ちがあれば,異性との『ご縁』が仏教的によろしくないもの,排斥されるべきものにはならないと思うぞ」
「…」
「勿論,色欲でもって誘惑するために近付こうとする者もいるかも知れない。ただ,さっき言ったように道を外れないような生き方をしていれば,そのような者は敢えて近付いて来れないだろう。逆に言えば,そのような者が近付いて来る,そしてそのことによって苦しむということであれば,そのような生き方が出来ていなかった,ということになるのではないかな」
「なるほど」
 男は宙を見上げ,ため息をついた。
「できてなかったんだろうなあ…」
 男は小さな声で呟いた。
 私が一言掛けようとしたところで,夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度する気はないか」
 私はいつものように問うた。
「いやあ,ナイフで心臓を一突きにされたらいけないからやめておきます」
 男は冗談めかしてそう言った。
 しかし,顔色が少々冴えないように思えた。
「どうかしたのか」
 私が聞くと,男は首を横に振った。
「悩みがあったら聞くぞ。世俗的なことでも構わん」
 男は下を向いた。
「それを話すには般若湯が必要ですね」
 男は力なく笑った。
 
 男が去った後,私はしばらくその方向を眺めていた。
 まあ,あいつの人生だ。
 私が介入する必要もないだろう。
 今度何か言ってきたら,それはまたその時の話だ。
 私はそう自分に言い聞かせながら,本堂に引っ込んだ。



#13 悩める男

 その日,私は檀家さんの法事に行っていた。
 経を読んでひとくさり話をして,それではと言ってお宅を出る。
 遠い道のりであれば愛用の原付を使うのだが,今日のお宅は歩いても30分程度である。
 その程度の距離であれば,足腰を鍛えるために歩くようにしている。

 寺は緑に囲まれた山の麓のようなところにあるのだが,地形の関係で15分も下れば海が見える。
 檀家さんのお宅は昔ながらの家々が並ぶ路地にあるが,少し歩くと様相が違ってくる。
 この辺りは昔海を埋め立てたところで,工場やオフィスビルが立ち並んでいる。
 普段とは違う景色を眺めながら歩くのは良いものだ。

 そのような私の気持ちの静寂を打ち破るかのような光景が見えた。
 それは確かに普段とは違う景色である。
 例のあの男である。
 こんなところで出くわすとはついていない。
 しかし,彼は私には気付かぬようである。
 男は人を連れていた。
 20代半ばと思しき女性である。

 男はスーツ姿であり,女性は私服姿である。
 肩まである黒髪で丸い眼鏡を掛け,服装を含めて地味な風体であるが,顔立ちは整っているように見えた。
 何より男の楽しそうなこと。
 私の前ではついぞ見せたことのないような笑顔で,矢継ぎ早に話を振っている。
 女性は利発であると見えて,そのような男の話にテンポを合わせて応じ,また自分からもいろいろと話をし,それなりに盛り上がっている様子であった。
 少々年齢が離れているとはいえ,知らない人から見れば似合いの二人に見える。
 しかし,男のことを知っている私にとってはそれで良いとはいかない。
 彼は妻帯者であり,今の相手は明らかに妻とは別の女性である。
 ただ,さすがに呼び止めて咎めるような度胸は私にはなかった。
 そもそも,私はこの男の人生に介入する気はさらさらなかったのである。
 私は彼らを無言で見送り,寺への帰路を急いだ。

 数日後,男は少々冴えない顔をして現れた。
「おう,来たか。相変わらず冴えない顔をしているな」
「ええ,悩みが多くてね」
「いくら私でも解決できる悩みとできない悩みがあるからな。お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ,と言ってな」
 男はぎょっとした顔をした。
「何で知っているんですか」
 あっさりと認めたようである。
「あんたのことなどお見通しだ」
「はあ…しかし先生が私の職業を知っていたなんて」
「?」
「確かに私は医者ですが…先生はどこでその事実を知ったんですか。気味が悪いなあ」

 男は医師としての悩み―患者との人間関係,コミュニケーションの難しさ,治療の結果患者や家族に不満や恨みを抱かれることなどを私に滔々と喋った。
 私にできることなど微々たるものであるが,聞いてやるだけでも気分は随分と違うものである。
 確かにそう言われれば,男は大きな車に乗っていて裕福そうであったし,やけに科学的な物の見方をしていたし,何よりいつも妙な刺激臭―今にして思えば,恐らく薬品の類のそれだろう―を纏わせている。
 しかし,今はそのことはさほど問題ではなさそうである。
 男がひとしきり喋り終わったところで,私は反問を試みた。
「うむ。あんたの悩みは分かった。しかし,今抱えている悩みはそのことではないのではないかな」
 男は意外そうな顔を見せた。
「…と言いますと?」
「昨日今日医者になった訳じゃないんだから,今そのことについて格別に悩んでいるということはなかろう。少なくとも今は,そういった悩みを緩和してくれる『何か』があるのではないか」
「…」
「しかし,その『何か』に関する何らかの悩みがあって,それで今冴えない顔をしているのではないかと見たが,どうかな」
「ううむ…さすがは先生。その通りです」
 やっと自白した。

「あんたは先日,若い女と二人で楽しそうに歩いておったな」
「見てらっしゃったんですか」
「うむ。私はあの日は法事で近くに来ておったからな。あんたは私がいるのに全く気付かず,挨拶もなしに女との会話に夢中になっておった。だから私も放っておいた」
 男は顔を赤くして下を向いた。
「彼女はあんたの奥さんではないだろう。確か奥さんはあんたと同年代と聞いた気がする」
「そうです」
「あんたは奥さんがいる身でありながら若い女性と『不邪淫の戒』を破ったということになるな」
「ち…違います違います。神に…いや御仏に誓ってそれはないです」
 男は狼狽して叫んだ。赤い顔がますます赤くなった。
「どうだかな」
 男はますます狼狽した。
「信じてくださいよ。それにその…仮に,仮にですよ。私が彼女にそういう気持ちを抱いたとして,彼女がOKしてくれると思いますか?こんな40を過ぎた,倍半分も年の離れたオジさんに」
「いやいや」
 私は厳格な顔をして首を横に振った。
「やったかやらなかったか,その事実は問題ではない。問題にすべきは,あんたがその女性に対してそのような気持ちを持っているかどうか,ということよ。あんたが心の中で彼女を裸にしてああだこうだと妄想したとする。それはその時点であんたは心の内で『不邪淫の戒』を犯しているということよ」
 男はため息,というか声にならない声で呻いた。
「私は…彼女とそのような関係になりたいなどという大それたことは考えていないのです」
 男は少し間を置いてさらに言った。呟くような小さな声だった。
「…ただ,良い友人でいたい。これからも末永く,そのご縁を大切にしたいと思っているだけなのです」
「であれば,なぜそのように悩む?冴えない顔をする?今までと同じであれば,今殊更に悩む必要はないだろう」
 私は間髪を入れず問い返した。
「先生は以前,四苦八苦のお話をされましたね」
「ああ,したな」
「その中で…何でしたっけ,得たものを失うのは苦しいと。私が今それなのですよ」

 件の女性は,男と同じ病院で勤務する薬剤師らしい。
 男と彼女は帰る方向が同じなので,帰りに顔を合わせることが増え,一言二言の会話から始まって最近はほぼ毎日一緒に談笑しながら途中まで一緒に歩いて帰るようになったという。
 同じ医療従事者で悩みを分かち合える部分も多く,男は女性とのひと時を心の支えにしているようである。
「そういう訳なので,別にやましいことはありませんよ」
「どうだかな。若い女性だからそういう扱いをするのであって,これが男だったらそんなことはしないだろうに」
「私は男は嫌いです」
「私だって男なんだが,嫌いなら来なくってもいいんだぞ…まあいいや。それで何か?彼女との関係が失われそうになっていることをあんたは気に病んでいるというのだな?」
 男は黙って頷いた。
「何があったんだ?」
「ええ…彼女がこの4月から,遠方の病院に赴任するんです。彼女の故郷の」
「ほう」
「勿論それは彼女が決めたことですから,受け入れて応援するしかありません。しかし」
「これで彼女とはサヨウナラ,となる。それがあんたは嫌なのだな」
「その通りです。せっかく仲良くなれたのに…と思うと,そして私も彼女に随分救われてきましたから,それが失われた時の自分の精神状態を考えると…耐えられないかも知れないと」
 私は少し考えて言った。
「私から見れば,距離は問題ではないと思うがな。本当に良縁であってお互いがお互いを必要としているのであれば,たとえ遠く離れたとしてもそのつながりが消えることはない。まして今は連絡方法がいくらでもあるんだから,顔を合わせることができないということをそれほど気にする必要はないと思うぞ」
 男は少しの間黙っていたが,意を決して切り出した。
「あと…少し失敗しまして」
「失敗?」
「はい…彼女が最近よそよそしくて…嫌われてしまったかも知れない」
「何かやらかしたのか」
「はい。この間までは良かったんですが…その後会えなくなってしまって。ちょっと馴れ馴れしくしてしまったので,避けられているのではないかと」
「この間って,私があんたを見たのはつい数日前なんだが…そんなことを気にしているのか」
「それまではほぼ毎日会えていましたから…で,この間ちょっと私的なメールを送ってみたんです。他愛のないことを書いて…でもそれも返事がなくって」
 私は呆れたような顔をした。
「たったそれだけのことで」
「いやいやいや,それだけのことじゃないですよ!私がどれだけ悩んでいるか」
「あんたなあ…それは完全に恋しているじゃないか,彼女に」
「いやいや,そんなことはありませんよ。そんな邪な想いはありません!これは単に友人としての人間関係の」
「でも彼女のことじゃなかったらそんなに悩まないだろう」
 男は目線を下に落とした。
「ま…まあそうですけど,それは別に恋でなくても,大切な友達だったら誰しも気にするんじゃないですか」
「まあいいや,整理しよう」
 私は一つ茶を啜った。

「あんたの彼女に対する悩みの種は大きく分けて2つだな。まず一つ目は,彼女が4月でいなくなること」
「はい」
「これは前言った,あんたも分かっていると思うが,『愛別離苦』というものだ。『愛した者と離れるのは苦しい』。『愛した者と』」
「そこだけ強調しなくてもいいじゃないですか」
「間違いじゃなかろうが。ただこれに関して言えば,仏教においては『諸行無常』という言葉があって…あんたには言うまでもなかろうが,全てのものは移り変わって行くのだから,抗っても仕方がない。受け入れるしかない」
「はあ…でもそれは辛いことですよね」
「辛いことは辛い。しかしそれは避けようがないことだ。大体,死に別れるという本当の意味での離別に比べたら彼女は生きている訳だから,さらなるご縁があればいつでもまた会うことがあるかも分からない。彼女は自らの意思で故郷に帰ることを選んだのだから,あんたが辛い顔をしてはいけない」
 男は頷いた。
「で,二つ目は彼女に嫌われたのではないかということだな。しかしこれは一つ目と大きな関係があると思う」
「どういう関係ですか」
「あんたは恐らく,彼女が4月でいなくなるから彼女の気持ちを繋ぎ止めておきたいという思いがあって焦っていたのではないかな?そこで急に距離を詰めようとして近しい態度を取ったり不必要なメールを送ったりしたのだろう」
「ああ」
 男は声を上げ,私の目をまっすぐに見た。
「まさにそれだと思います。…今考えると,彼女がそれを気味悪く思うのは無理もないことでした」
「そういうことだな。あんたが思うより,彼女はあんたとの距離が近いとは思っていないだろう。ましてやあんたはうんと年上であるし,妻帯者だからな。警戒もするだろうさ」
「…はい。今にして思うと恥ずかしいことです。彼女を失う苦しみの余り,混乱したのかも知れません」
「それでもあんたは,これは恋ではないと言いんさるか?」
「恋ではないでしょう。いい年をして。まして私は妻帯者。そんなことを言うべき立場ではありません」
「そこな。あんた自身が恋ではない,邪淫ではないと言い張っても,私から見たらそうは見えんよ。まあその気持ち自体を咎めることはしない。そういう気持ちになったとしても,それは今実際に起こっていることなのだから受け入れるしかない。ただ,人間として仏教徒として道を踏み外さないよう,正しい生き方をしていかなければいかんよ,とは言っておく」
「大丈夫です」
「どうだかな。たった数日言葉を交わせないくらいでそこまでへこむほど弱いあんたが,それとは真逆の強い気持ちでもって教えを守ることが出来るとは思えん」
「大丈夫ですから」
「あんたは彼女が好きなんだろう。女性としてか友人としてかは置いておくとして」
「好きか嫌いかと問われたら,それは好きですよ」
「じゃあ万万が一,彼女があんたのことを好きだと言ってきて,奥さんがいても構わないから抱いてくださいと言ってきたら,あんたは拒むことができるかな?」
「そんなあり得ない話をしても仕方ないじゃないですか」
「そこは逃げるのだな。本当に強い気持ちがあれば,きっぱり断りますと言えると思うがな」
 男は黙った。
「まあそこで嘘をつかなかったことだけは認めてもいいかな。邪淫だけでなく妄語の戒も犯せば,あんたは死んだ後間違いなく地獄に落ちるからな」
「やめましょうよ,もうその話は」
 男は不服そうに言った。
「で,私は彼女のことをどうしたらいいでしょうか。もう嫌われてしまったかも知れないけど」
「そんなもん,考えなくっても分かるだろう。前似たような話を聞いたし,アドバイスもしたぞ」
 私は呆れた顔をして言った。
「ああ…そう言えばありましたね。少し距離を置いて,でしたか」
「そうだとも。4月まではまだ間があるだろう。しばらく距離を置いて,放っておくことだ。本当に嫌われているんだったら,こちらからあれこれつついたところで逆効果にしかならんし,そうでないんだったら向こうから何か言ってくるさ」
「分かりました。…ただでさえもう残り少ないのになあ」
「言っただろう。ご縁があればその先の良い関係は続いていくものだ」
 そう言ったところで,夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度する気はないか」
 私はいつものようにそう呼び掛けた。
「…?今日は言ってもらえないと思っていました」
「何故だ」
「だって先生から見たら私は邪淫の戒を破った『破戒者』じゃないですか」
「『善人なお以て往生を遂ぐ,況や悪人をや』と言うだろう」
「私は悪人ですか」
「少なくとも善人ではない」
「ただ私は『悪人』である上に帰依の心も足りません。今日はやめておきます」
 そう言って男は去って行った。

 全く,救い難き衆生である。
 この男も4月でどこかに行ってはくれないだろうか。
 とはいえ,この男がいなくなると少々退屈になるであろうことも間違いない。
 本堂に帰って茶碗を下げようとすると,男の座っていたところからほんのりと薄い薬品臭がした。



#14 失敗について

 
 男はその日,前回にも増して冴えない…と言うか,憔悴しきった顔をしてやって来た。
「おう,来たな」
 男は黙って畳の上に座った。
 一つふう,とため息をつく。
「どうした。邪淫が奥さんにバレて慰謝料でも取られたのか」
 笑いを取るつもりで言ったのだが,男は表情一つ動かさず,下を向いて黙っている。
「…」
 男は少し間を置いて,絞り出すように言った。
「いやあ…失敗しました」

 男はあの日以来,例の女性と顔を合わせることがなく,気が気ではない毎日を過ごしていた。
 そんなある日,彼は上役に当たる診療科主任部長に呼ばれた。
「嫌な予感はしてたんですがね」
 男はそこで,主任部長から彼女とのことについて聞かれたという。
「部長が言うには…彼女は私と会って話をするのが辛いと言っている。セクハラとまでは言わないが,彼女にあまりしつこく言い寄るのはやめてもらえないか,と」
「なるほど」
「いやあ…不覚でした。まさか彼女がそんなに私のことを嫌がっていて…セクハラで上司に訴えるなんて」
 私はまあ飲みなさい,とりあえず落ち着きなさい,と男に茶を勧めた。
 男は前回同様,熱い茶を一気に飲み干した。こいつの喉は鉄で出来ているのだろうか。
「あんたは…彼女にそういった…セクハラになるようなことを言った覚えはあるのか」
「ある訳ないじゃないですか。世間話をしてただけですよ」
「でもあんたは,4月に彼女がいなくなることをかなり気にしていたじゃないか」
「それはまあ…4月にいなくなったら寂しい,辛いということは言いましたよ」
「まあそれも含めて…あんたが彼女に何某かの想いを持っていることは間違いなかろう。それを彼女は感じ取った。そしてそれが重荷になったのだろうと思うな。あんたはうんと年上で,まして妻帯者だからな」
「変な意味に取られるようなことは言ってないはずですけどねえ」
「言葉でそう言わずとも,そういう気持ちがあれば話し方や態度に現れるだろう。女性はそのようなことには特に敏感らしいからな」
「はあ」
「それで…これが一番重要なことだが」
 私は男の目を見て言った。
「あんたは…まだその彼女が好きなのか?」
 男は即座に首を横に振った。
「いやいや…元々そんなことはなかったですから」
「その割には随分気に懸けていたじゃないか」
「そうですけど…部長からその話を聞いた時に…そういった気持ちはすーっと引いていきました」
「そうか…そりゃあ良かった」
「良かったですか」
「そりゃそうだ。まだ好きです,なんて言われたらどうしようかと思ったわ。あんたの性格だと確実にストーカーになるだろうからな。一直線に」
「そんなことしませんよ」
「いやいや,私には分かる。あんたは真面目で融通が利かず,思い込みの激しいタイプだからな。ストーカーにはうってつけだ」
 男は不服そうな顔をしながら一つ息をついた。

「でも先生」
 男は切り出した。
「彼女は元々…最初は彼女の方から挨拶をして話しかけてくれましたし,本当に最近まで普通に笑顔で会話してくれましたし,メールでもちょっと乗り気な感じの…たとえば『今度美味しいお店を紹介しますね♪』みたいなことを書いて送ってくれていましたし,そこからほんの短い時間しか経っていないのに何故セクハラで上司に訴えるような真似をしたのか,私には理解できません」
 私は苦笑いを浮かべた。
「あのなあ,世の中には社交辞令というものがあってだな」
「えー?あれが全部嘘だったと?それはないなあ」
「それがあるんだな。大体,ニュースでもよく報じられておるだろうが。最初若い女から愛想良くされて勘違いしておかしな真似をしてセクハラで訴えられたという,まさにあんたの場合もそうじゃないか」
「勘違い…ですか?」
 男はまだ納得していない風である。
「まあ上司にチクられる程度で済んで良かったじゃないか。これがもしハニートラップとか美人局だったら,あんたは今頃この世におらんかも知れんぞ」
「良かあないですよ。上司には変な風に思われるし,それに何だかあれから,私の周りの人たちが私を避けているような気がして…あの話,みんなに伝わってるんじゃないだろうなあ」
「そりゃあ分からんがな。でもあんたは医者だろうが。嫌なら辞めて,その辺で開業したらいいじゃないか」
「それが出来るならやってますよ」
「まあそういう方法だってあるんだから,あんまり気にしなさんな,ということよ」
 男は言葉ともため息ともつかぬ声ではあ,と言った。
「しかしまあ,3月の終わりまでは彼女と同じ職場で仕事をするんだろう。仕事で関わることもあると思うが,どうするんだ。会ったら挨拶くらいはするんだろうな」
「しませんよ。私は彼女の前から消えるつもりです」
「穏やかじゃないな。変なことを考えてやしないだろうな」
「いやいや…考えすぎですよ。彼女には決して会わないようにするつもりです。出勤と帰りの時間もずらします。見かけても挨拶しませんし,声も掛けません。彼女は私が嫌いなんだから,トラウマになっちゃいけないから」
 男は笑みを浮かべて言った。しかしその笑みはぎこちなく引きつっている。
「うむ…まあそれはそれで構わんと思うが,そんなことが出来るのか。仕事でどうしても,ということもあるだろう」
「用事は全部クラークに頼みます。それで事は足りると思います」
 私は腕組みをした。
「ううむ…しかしまあ,残念なことだな。せっかく縁あって出会ったのに,そのようなことになってしまうと」
「そりゃあ残念ですよ。でも,私だって自分のことを嫌っている人とは仲良く出来ません。そもそも,私に直接言わないで上司に言ったということ自体,私のことを信用していない証拠です。そのような相手とは縁を切るのが正解だと思います」
 男は言った後で,ふうと息をついた。
「…残念ですけどね」

「まあ,一つ言えることは」
 少々長い沈黙の後,私は切り出した。
「あんたは失敗をした。彼女がどうこうと言っていたが,あんたがそれに乗せられて浮かれて,妻帯者でありながら心を移しそうになった。その気持ちが相手に伝わってドン引きされ,結果セクハラで訴えられた。あんたは彼女に恨みがましいことを言っていたが,あんたの浮ついた言動がなかったらこのようなことにはならなかったということも事実だ。これはあんたの失敗だ」
「…」
「しかし,仏様はちゃーんと見ている。あんたが間違って『不邪淫の戒』を破らないように,彼女に対して警戒心を植え付け,あんたから遠ざかるようにした。仏様のご加護があったからこそ,あんたは『不邪淫の戒』を破らなくて済んだ。極楽往生に近付いた訳だ。良かった良かった」
「良かあないですよ。私が今どれだけ苦しいか」
「苦しいか?戒を破らずに済んだのみならず,あんたを苦しめていた『愛別離苦』からも解放された訳だろう。あんたはもう彼女を愛していないのだからな」
「変な言い方しないでくださいよ…別に『愛別離苦』なんかじゃないですし。それよりも今の方が…職場での立場もおかしくなるし,何よりこのストレスフルな仕事の中でたった一つの気晴らし…言うなれば砂漠の中のオアシスのようだった彼女との時間が,もう金輪際なくなっちゃったんですよ。最悪だ」
「そりゃ仕方ない。あんたの言動が原因なんだからな。あんたが悪い」
「ううん」
 男は呻いた。
「だがな。仏教においてはこのような失敗も,結局は御仏のお導きということとされている」
「失敗が,ですか」
「うむ。さっき言ったように,あんたが失敗をして彼女が逃げた。これも御仏のお導きよ。あんたが心の奥底に忍ばせていた『邪淫』への期待は今回ものの見事に打ち砕かれた。これを御仏の導きと言わずして何と言うべきか」
「忍ばせてないですって」
「そもそもあんたは妻帯者であり,彼女から見たら立派な『おじさん』になるのだぞ。職務上でも上の立場だろう。それを何故『お友達』になれると錯覚していた?」
 男は何も言えず,黙っている。
「恐らくあんたは,自分なら大丈夫だと思っていたのだろう。この年にしては若く見えるとかイケメンだとか,そんな間違った自己評価で以って」
「余計なお世話ですよ」
「それがまさに『不覚』というやつだな。あんたは生きる上での『方向』を間違えかけた。それを自覚させ,正しい方向に導こうとして御仏が用意した試練が今回の失敗よ。そう思えばほれ,全てすっきりするだろう」
「…すっきりはしないですが…まあそうかな,とは思えますね」
「大切なことは,今回のこの経験を教訓にして,同じ失敗を二度と繰り返さないようにすることだ」
「はあ」
「あんたは部下が二度同じ失敗を繰り返したら怒るだろう」
「まあそうですね。何も考えずに漫然と仕事をしている証拠だと思いますから」
「仏様も本当はそう思っているさ。だが仏様はもう少し心が広い。何せ『仏の顔も三度まで』と言うからな」
「三回までは失敗してもいいということですか」
「どうかな。ただ仏様は衆生がより良い生き方をするために,その方向に迷う…無明の中で迷っている者に対し,敢えて『失敗』という名の試練を与え給うことがある,ということは覚えておくと良いかもな」
 男は頷いた。心なしか,少し表情が明るくなったように見えた。

「しかし,あんたは口先では妻一筋だと言っていたくせに,若い女に現を抜かすとは,同じ『失敗』でもかなり性質が悪いと私は思うぞ」
「面目ありません」
 男は下を向いた。
「男として,どうしても若い女性を見ると…ということは確かにあると思います」
「あんたは少々度を超しているように見えるな。同じ失敗を繰り返さない自信はあるのか」
「大丈夫です。もう『若い女性と仲良くなれる』などという幻想は捨てました。私には家庭がありますから,職場はただ仕事をするだけの場だと割り切って,仲間や友達を作ろうなどということは考えないようにしますよ」
「それもまた極端な話だと思うが…しかし,あんたはいくつまでそのような…色欲に囚われ続けて生きることになるのだろうな」
「先生,それは誤解ですよ。人をエロ大王みたいに言わないでください」
「誤解か?あんたは前,彼女が迫って来たら断れるか,と聞いたら誤魔化して答えなかったじゃないか」
「誤魔化した訳じゃありませんよ。そんなあり得ない質問をされても困る,と言っただけです」
「じゃあ彼女に特定せずに聞くが,あんたは若くて可愛い女性が抱いてください,と言ってきたら断れるか?」
「ああ,断りますとも」
「本当だろうな?抱きついておっぱいを押し当ててきても毅然と断るんだろうな?」
「何ですかあなた!いやらしい!」
 そこには,お茶のお代わりを注ぎに入ってきた妻が立っていた。
「大体あなたは僧職にありながら…」
 妻の説教が始まった。
 男はそっぽを向いて知らないふりをしている。
 夕焼け小焼けが鳴った。
 私はこれ幸いと立ち上がり,さあさあ,もう帰る時間だなと男を送り出す口実で外に逃げた。

「おい,得度する気はないか」
 私の言葉にも,男は冷たい目でこちらを見て言った。
「いやあ…奥様になら帰依してもいいですけど」
 私は頭をぼりぼりと掻いた。
 男はこちらに一瞥もくれず,車に乗り込んでエンジンをふかし,去って行った。

 確かに私は時々エロ話をするが,それは男のように色欲に囚われた衆生を諭すためにその話題を使うだけであって,決して私自身が色欲エロ坊主であるという訳ではないのである。
 その証拠に私はもう何年も…
 いや,その話はやめておこう。
 寒いので本堂に戻りたいのだが,妻の説教の続きが怖いのでそれもできない。
 仕方がないので倉庫から箒を取り出して,大して落ちてもいない落ち葉を掃いて,ほとぼりが冷めるまで時間を潰すことにしたのである。




#15 修行について

 
 男がまたやって来た。
 この間よりは落ち着いた様子ではある。
「おう,来たか。少しは楽になったか」
「まあ…もう少し時間がかかりますかねえ。出来れば今すぐ楽にしてもらいたいんですが」
「物騒なことを言うな。私はあんたのために手を汚す気はないぞ」
「それは冗談ですが…ちょっと思うところがありまして」
 男は少し間を置いて言った。
「先日,テレビで永平寺の修行の様子を見ましてね」
「ほう」
「雲水…って言うんですか,若い修行僧の皆さん方が厳しい修行に励む様子を見て,私も随分と気が引き締まるというか,心が洗われるような心持がしまして」
「ほうほう」
「で,こんな私でもあのような修行をすれば少しは救われる気持ちになるのかと思いまして」
「そうか,ついに得度する気になったか」
「違います違います。そこまでは…ただ,そのような経験を一度はしてみたいと思ったもので,で,そのう…先生がされた修行の話などを聞かせていただけたら有難いなあ,という」
「そうか」
 私は少々がっかりした顔をして向き直り,少し考えながら言った。
「修行かあ」
 男は期待に満ちた目でこちらを見ている。
 私は少々もったいぶって切り出した。
「私の修行…修行とは」
 私は少し時間を置いた。
 男は目を輝かせてこちらを見ている。
「私は…修行をしていない」
 男はその場に倒れ込んでしまった。

「そもそも,修行のあり方というのは宗派によって随分と違う」
 私の言葉にも,男は冷たい目を向けたまま黙っている。
 私はさらに続ける。
「その前に…まずはお釈迦様の話をしようか。お釈迦様は高貴なお生まれで,何不自由することのない生活をされていた。しかしそのような中でも『生・老・病・死』の苦しみに囚われ,救いを求めて出家され,厳しい修行を始めた」
 男は黙って聞いている。まだ不審そうな目である。
「肉体と精神を限界まで追い詰める修行をされる中でも悟りに至らず,疲弊しきったお釈迦様はついにこれをやめて川で身を清めていたところ,村娘から乳粥を施されて気力を回復された。そして『琴の弦はきつく締めると切れてしまう。緩めると音が悪くなるから,適度に締めるのが良い』という彼女の歌を聴いて,自らの『苦行によって悟りに至る』という考えが誤っていたことに気付き,その後は菩提樹の下でひたすら瞑想を重ねられ,数々の誘惑に打ち克って悟りに至られた」
 男はなおも黙っている。ただ,さっきよりは真面目な顔をしている。
「なので,私個人としては心身を極限に追い込んで…という修行が悟りに繋がるかどうかと言われたらどうかと思うな」
「であれば,永平寺でやっているようなあのような修行に意味はあるのですか」
 男が口を開いた。
「無論,修行に意味がないということはないと思う。私個人の考えだが,悟りに至るためには戒律を守り,仏の教えに集中し,また煩悩を断つこと。これらを『戒学』『定学』『慧学』の『三学』といって修行者が為すべき3つの道とされている。こういったことが必要であることは間違いない。ただ,これを修行という形で行うのか,あるいは日々の生活の中で実践していくのかということについては人それぞれ考え方が異なると思う。私はどちらかと問われれば後者の立場かな」
「はあ」
「永平寺の修行僧の多くは,恐らく1年とか2年とかそういった短いスパンで集中的に厳しい修行をし,その後山を下りて僧侶としての人生を歩むことになるだろう。無論,山を下りた後も厳しく自分を律することが必要となる。修行は確かに厳しいものだと思うが,大切なのはむしろその後だろう。仏教者としての『道』を守り,それに相応しい人生を続けることは,ある意味修行に耐えるよりも難しいことなのではないかと思う」
「しかし,しないよりはした方がいいのではないですか」
「無論,それは人それぞれの考え方だと思うよ。ただ,厳しい修行があるということが一般の衆生からして仏門へのハードルを上げることになりはしないか,とは思っている。浄土真宗においては修行というものはないから,どのような者にも等しく悟りへの道が開かれている。ひたすらに仏様―阿弥陀様に帰依し,念仏を唱えることで身体の弱い者,心の弱い者でも救われることができる。誰もが皆,あの永平寺の雲水のような修行に耐えられるような強い心身を持っている訳ではないからな」
 男は真剣な顔で聞いている。やっとその目から軽蔑の情が消えたようである。

「そもそも,修行をすることによって悟りに至る,というのは少々短絡的な気がするんだな,私は」
 私は呟くように言った。
「違うんですか」
「うーん。さっきも言ったが,私は解脱して極楽往生に至るためには,仏様のみ教えに沿った形で『より良い生き方』をすることが重要だと思っているからな。1年2年修行をしただけでその境地に達することができるならみんなやっているだろう」
「まあ…そうですね」
「私も修行の風景はよく見ることがあるが,そこにはまず『生活』というものがある」
「生活?」
「うむ。たとえば永平寺は禅,曹洞宗だから,まずは『只管打座』といってひたすらに座禅に打ち込む修行がある。また,読経や禅問答も行われる。しかしそれは私から見れば,修行の中の一つ,という位置付けではないかと思う」
「では修行の全体像とは何なんですか」
「生活そのものだろう。座禅や読経はもとより,質素かつ作法に厳しい食事,作務と呼ばれる掃除などの日常作業,そして睡眠に至るまで,全てが修行なのだろうと思う」
「仏教の教えに従った生活をすることが悟りへの道,ということですね」
「そうだな。恐らく永平寺においては,短いスパンでの修行生活によって『仏教者としてのあるべき生き方,あるべき生活の形』を教えるのだと思う。その形を修行を終えて山を下りてからも実践することで,あんたの言う『悟りへの道』へとつながっていくのだろうな」
「であれば,やはり修行は必要なのではないですか?」
「さっきも言ったが,厳しい修行に耐えうるタフな心身を持つ者ばかりではないからな。そうでない者にも救いへの道は開かれていないといけない。そもそも極端に心身を追い詰めるような修行はお釈迦様も否定しておられる。そこは宗派というか人それぞれの考え方にもよるが,厳しい修行を実践することによって悟りに近付く方法もあるし,わざわざ修行を経ずとも生活の中で御仏の教えを実践することが出来るのであれば,それも一つの道だと思う」
「先生は後者を選ばれた訳ですね」
「まあそうだな。私に言わせれば,衆生にとっては日々の生活そのものがこれ修行だと思う。数多の誘惑が渦巻くこの世知辛い娑婆において,いろんな人間に振り回されながら道を踏み外さないように生きて御仏の教えを実践する。これを修行と言わずして何を修行と言うのか」
「ある意味永平寺よりも厳しい環境ですね」
 男は笑って言った。
「そうだな。あんたもいろいろあると思うが,それもまた修行よ」
 男はばつの悪そうな顔になって頭を掻いた。

「しかし先生」
 男はまた口を開いた。
「そもそも『悟り』って何なんですかね。悟りを開いた状態になると何かあるんですか」
「仏教的な意味で言えば宇宙の真理を知って煩悩を捨て,迷いや苦しみから解放され,安心立命の境地に達すること,というのが一般的なところだ。ただ私自身,まだまだそのような境地に達することが出来ているかと問われたら自信はないな」
「人によっては悟りを得ることで何らかの神秘体験をしたとかそういう話も聞きます」
「私もそれは聞くが…ただそんなはっきりしたものではないと思うし,私は信じてはいない」
「ほほう」
「あんたは医者だからある程度分かるだろうが,心身を極限まで追い詰めると何だかハイになったり,訳も分からず気持ちよくなったりすることがあるらしいじゃないか」
「ランナーズハイなんかがそうですね。脳内麻薬物質が分泌されて,それで気分が高揚すると」
「それそれ。それで一時的に脳や精神に変調を来たすことがあって,それを『悟りを開いた者が味わうことのできる神秘体験』と勘違いする者がいる。だから死ぬ一歩手前まで心身を追い詰めることが悟りへの道だ,と考える者がいるのだろうが,それは余りにも短絡的だと思うし,私から言わせれば間違いだと思う」
「薬物を使っても似たような状況は作れますよ。昔とあるカルト教団がやった方法ですがね」
「最初あんたは,修行をすることによって救われる気持ちになるのではないか,と言ったが,苦行に耐えればそれは清々しい気分になれるだろう。しかしそれと悟りとはあくまで別物だと考えた方がいいんじゃないか,と私は思うよ」
「わかりました。ただ,さっき言われた『清々しい』体験は捨てがたいものがありますね。ここでは無理かな」
「無理だな」
 私は笑った。
「しかし,永平寺をはじめとしてあんたみたいな人を鍛えてくれるお寺さんは多くあるだろう。修行体験をしてみたいのであれば,そっちに訊いてみることを勧めるよ。相手が素人さんだと分かっていれば少しは手加減をしてくれるかも知れない。そうでないとあんたは途中で逃げ出してしまうだろうからな」
「考えてみます」
 そう言ったところで,夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度する気は…いや,最初に訊いたか。ないと言ったな」
 私は言いかけて止めた。
「修行してから考えます」
 男は笑いながら車に乗り込み,去って行った。

 まあ,あの男にはそれくらいやってもらった方が良いのかも知れない。
 厳しい修行をしている間はおかしなことも考えないだろうし,悪いこともしないだろう。
 風が強い。
 そう言えば,そろそろ春一番が来る季節だった。
 私は少々急ぎ足で,暖房のきいた本堂に戻った。




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