長編不定期連作小説#3 生臭志願(第16回〜)

#16 仕事について

 男がやってきた。
 だいぶ久しぶりのような気がする。
 前来た時は少々寒かった記憶があるのだが,今は少し身体を動かすと汗が出る陽気だから間違いないだろう。

「おう,久しぶりだな。修行にでも行っていたのか」
「いえいえ」
 男は少々ばつが悪そうに頭を掻いた。
「そんな暇はなかったですよ。とにかく忙しくて」
「商売繁盛か。結構なことじゃないか」
「結構じゃないですよ。私は医者なんですから。繁盛しちゃあいけない商売ですよ」
「そうだったな」
 今度は私の方がばつが悪くなって頭を掻いた。
「しかしまあ,それだけあんたが世の中のお役に立っているということだ。それは結構なことだろう」
「まあそうですけどねえ」
 男はため息をついた。
「こう忙しくっちゃあねえ,しんどくてしょうがないんですよ。ああ,休みたい」
「今日は休みだろう」
「いやいや,昼まで仕事でしたからね。やっと終わって,逃げるようにこっちに来たところですよ」
「仕事は楽しくないのか」
「楽しいわけがないじゃないですか。失敗が許されないし,ストレスは溜まるし」
「そうか。でもやりがいと言うか,喜びもあるだろう」
「喜びですか…今はないですねえ,なかなか」
「そうか?患者さんを助けて感謝されたりとか,医者冥利に尽きることも多いのかと思うがな」
「いやあ…それよりは辛いことの方が遥かに多いですよ。こっちは出来る限り頑張っているのに上司からはいろいろ言われるし,患者さんやその家族からも感謝より文句の方が多いくらいですからね」
 私は黙って目を閉じ,一つ息を吐いた。
 男は私に問いかけた。
「先生,仕事というのはどうしてかくも辛いものなんでしょうか」
 私が黙っていると,男はさらに続けて問うた。
「そもそも,仏教では仕事というものをどう捉えているのでしょうか」

 私は少し考えてから口を開いた。
「仏教においては,自らを『苦』から解放する生き方を是としている。これはまあ間違いないだろう」
「はあ」
 男は生返事をした。
「ということは,仕事でもそれは同じだと考えたらどうだろうか」
「同じ?」
「うむ。今の仕事はあんたにとって『苦』になってはいないだろうか」
「『苦』以外の何物でもないですが」
「であれば,その仕事はあんたにとっては相応しくない仕事であるということになる。一日も早く転職した方がいい。可能ならば早く得度して仏門に入ることを勧めたい」
「勧誘じゃないですか」
「うん,まあそう言われればそうだが…ただまあ,あんたが今の仕事に一切喜びを感じられず,さっき言いんさったように本当に苦行以外の何物でもないということであれば,仏教的に考えても勧められないということになるな」
「はあ」
 男はまた生返事をした。
「そもそも,あんたは何のために今の仕事…医者になったのかな?」
「そうですねえ」
 男は首を傾げ,少々考えながら言葉をつないだ。
「そう言えば小学生の頃に,野口英世だとかシュバイツァーだとか,そういった偉人の伝記を読んで,漠然と医者に憧れの気持ちを持ったことは覚えています」
「自分もそうなりたいと?」
「そうですね。あとはまあ…ここで言うのは少々気が引けますが,高校ではそれなりに勉強が出来たもんですから,何となく自然の成り行きで医学部を目指したという…」
「確かに最近はそう言うのが多いな。医者になりたいという確固たる志がある訳でもないのに,受験界の最高峰にあるから東大医学部を目指す,という受験生が」
「まあ私は東大ではないですが…確かに何となく,出来る奴は医学部を目指すという雰囲気はありましたね」
「とはいえあんたの場合,それでも医師という仕事に対する憧れがあった分まだ健全だと思うがな。しかし今はその『偉大な医学者に対する憧れ』という気持ちはなくなってしまったと言うのか?」
「私は研究者ではありませんし,しがない勤務医ですからそもそも野口英世やシュバイツァーとは違います。それに,かつては確かに医師になって人を救うということに憧れを抱いていましたが,さっき言いましたように上との軋轢とか患者さんたちからのクレームとか,そういった現実に直面すると,そういった憧れというか初心は消え去ってしまい,『嫌だなあ』という気持ちだけが残ってしまうものですよ」
「ならば,なぜその嫌でしょうがない仕事を続けているのか。それこそ辞めて,仏門に入れとは言わないが他の仕事をすればいいじゃないか」
「そう簡単には辞められないですよ。仕事をしてお金を稼がないと生きていけないですし,私一人じゃなく家族全員が路頭に迷うことになってしまいます。転職だって簡単ではないですよ。私は医者の仕事しかしたことがないですから」
「でも,今の仕事が好きではないのだろう」
「そうですが…正直,仕事にしてしまったらどんなに好きなことでも嫌いになってしまうのではないかと思っています。たとえば,私の友人にいわゆる『鉄道オタク』で学生時代は鉄道研究会に入って時刻表ばかり見ていた奴がいます。彼は念願かなって鉄道会社に就職しましたが,今は時刻表を見るだけで吐き気がすると言っていました」
「酷いな。私は僧職にあるが,苦痛を感じたことはないがな」
「先生は仏教者であり,『苦』というものを超越しておられるからではないですか」
「そんなことはない。私もまだまだ道半ばだし,嫌なものは嫌だと思う。ただ,今のこの僧職にはやりがいなり喜びを多少なりとも感じていることは間違いない」
「どこに違いがあるのでしょう」
「仏教に基づく日本人の職業観としては,人のために自ら進んでする仕事について喜びを見出すものであると,そう言われているな。自分が頑張ることが人のためになる,自分の持てるもの―知識や経験が世のため人のための利益になる,そしてそのような仕事を通じて他者との絆で結ばれる,そのことが自らの心を満たし,生きる上での喜び,活力となり,生きる上で生じる『苦』から自らを解放するきっかけとなる。これが仏教的な職業観と言えるのではないかな」
「なるほど」
「たとえば,今まで一心不乱に働いてきたお父さんが退職した後,何となく社会から隔絶されたような気分になって心の健康を損なうとか,そういう話を聞いたことがあるだろう」
「ありますあります。退職したら魂が抜けたようになって,一気に老け込んで認知症になってしまう人をよく診ます」
「私から見れば,そのような人は仏教的には理想的な働き方をしてきたと言える。認知症は別として」
「では,私のようにただ生活のために仕方なく働くというのは間違っているということでしょうか」
「間違っているとは言わないが,あまり良いこととは言えないだろうな」
「いやあ…もしそうだとすれば,日本の大多数の労働者はよろしくない働き方をしているように見えます。多くの人が『何故働くのか』と聞かれれば,私と同様『生きていくために仕方なく』と答えるでしょうし,仕事のために苦しみ,時に自ら死を選ぶ人さえ少なからずいるご時世ですよ」
「そこまでしてする仕事には正直意味はないと思うがな」
「しかしそれが現実です」
 私は黙ってしまった。

「では先生,改めて聞きますが」
 男の方から口を開いた。
「今の仕事に,多少なりとも喜びを感じるためにはどのような心の持ち様をすればいいですか」
「転職はなしでか」
「そうです」
 私は少し考えてから言った。
「正直最初に言ったように,そこまで今の仕事が嫌だと言うのであれば,それ以上続けることは勧めないがな。医師の仕事にやりがいや喜びを感じている者は他にいくらでもいるだろうし,嫌々続けられたら患者さんも迷惑だろう」
 男は下を向いた。
「ただ,もし続ける気持ちがあるのなら,とにかく続けるしかないだろうな」
「続ければ心持は変わるでしょうか」
「分からん。しかし,可能性はゼロではない。続けていくうちに喜びを感じられることも出て来るかも知れない。何より,自分がその仕事をしている理由というか,意味を自ら見出すことが出来るかも知れない。その可能性に賭けるしかないだろうな。しかしその可能性は決して低くはないと思うぞ。100%ではないだろうが」
「はあ」
「労働もまた是修行なり,という言い方も出来る。労働という名の修行を続けることによって,より良い心の持ち方,より良い生き方を見出すことが出来るかも知れない。さすれば今あんたが囚われている『苦』から少しでも解放される方向に進むことが出来るかも知れない。労働を苦役や義務ではなく,金を稼ぐための手段でもなく,より良く生きる方法を見出すための修行と心得て今の仕事と向かい合うことから始めてみてはどうだろうか」
「なるほど」
「さっきも言ったように,仕事は別に悪いこと,嫌なことばかりではないはずだ。仕事によって得られるものはお金以外にもあるだろう。中でも大切なのは,人との繋がりだと思うぞ」
「なるほど,確かに仕事を通じて私はたくさんの仲間,友人と繋がっている。それは間違いないことです」
「今のあんたは仕事のネガティブな面ばかりに気を取られ,仕事は全くつまらない嫌なものであるという気分に苛まれているが,仕事をすることで得られるポジティブな面に目を向けることが出来れば,少しは心持が変わるだろう」
「わかりました」
「ただ,心身に無理を掛けてはいかんぞ。仕事は自分自身にとってポジティブなものであって初めて意味がある。自らの心身を壊すような仕事には意味はない。絶対にない」
「はい」
 珍しく男が晴れやかな表情を見せた。
 そこで夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度…いや,今日はやめておこうか」
 男は怪訝そうに私を見た。
「せっかく今の仕事へのやる気を取り戻したのに,削いではいけないからな」
 男は苦笑いをした。
「いえいえ,いつまでもつか分かりませんし…来週にはまた嫌になって相談をしに来るかも知れませんから」
「そうか。もし仏門に入るのであればいつでも待っているからな」
 男は答えず,笑いながら車に乗り込み,去って行った。

 私は居室に戻った後,何気なく新聞を開いた。
 目の前に現れたのは,教員の過重労働が問題になっている,という記事であった。
 右側の面に目を移すと,長時間労働の末に亡くなった社員の家族が労災認定を求めて云々,という記事が載っている。
 仕事とは一体,何なのだろう。
 ああは言ったものの,私は少々気分が塞ぎ,えいやとばかりに新聞を放り捨てて本堂に入る。
 大きな仏様の前に坐り,何の脈絡もなく南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と題目を呟いて一つ息を吐くのであった。



#17 自死について

 朝,新聞を開くととある有名人の訃報が載っていた。
 まだあちらに逝くには早すぎる年齢であり,しかもつい昨日までテレビに出て溌溂とした姿を見せていたのにも関わらず,である。
 記事を見ると,本当に昨夜まで何一つ変わったことがなかったのに,今朝部屋で倒れており,病院に運ばれたものの死亡が確認されたとのことである。
 そしてその場の状況から,恐らく自死であろうと判断されたとのことである。
 このような記事は以前はあまりなかったと記憶しているが,最近急に増えた気がする。
 そのようなことを考えていると,呼び鈴が鳴った。
 例の男である。

 あれからそれほど日数が経たないのに,この前別れた時とは打って変わってまた深刻そうな表情である。
「どうした。また仕事で嫌な目にでも遭ったのか」
「はあ,まあそれも強ち間違っている訳ではないんですが」
「何だ。嫌に奥歯に物が挟まったような言い方をするじゃないか」
「はい。実は,私が診ている患者さんが自ら命を断ちました」
「なるほど。それは痛ましいことだな。あんたも気分が重かろう」
「勿論です。私が診ていながら,と思うと辛くて」
「そうか。…なかなか掛ける言葉を見つけるのが難しいが,あんたが悪い訳でもあるまい。あまり自分を責めないことだ」
「はい。しかし,このように先生のところに通って仏教について教えをいただき,生きる道について学んでいる身でありながら,助けることができなかったことは痛恨だと思いますし,遺されたご家族の方々の悲しみを思い起こすと身を切られるような思いです」
「そうか」
 私はお茶を啜り,男にもまあ飲みなさい,と勧めた。
 男は一つ息を吐いて,ゆっくりと茶碗を口に運んだ。

 私は新聞を男の前にぽんと置いた。
「見てみなさい。今日もまた自死の記事が出ている」
「知っています。そもそも今は日本で3万人もの人が自死で命を失っています。交通事故の3倍以上です」
「私は精神医学はよく分からないが,なぜ人は自ら死を選ぶのだろうな」
「理由は様々です。分かりやすい…と言ったら語弊がありますが,生活が苦しいとか仕事がきついとか,人間関係とかそういった理由であればまだ理解もしやすいでしょう。しかし,それだけではありません」
「うむ」
「たとえば,功成り名を遂げた方が思い当たる理由もなく突然死を選ぶこともあり得ます。こういった人たちは恐らく,自分自身にしか…いや,もしかしたら自分自身にすらはっきりとは分からない何か言い知れぬ悩みを抱えていて,そこから逃れるために衝動的にそのような行動を取るのだと思います」
 男は一拍間を置いて続けた。
「精神医学の見方から言えば,自死につながる『心の病』というのは,ざっくり言うと脳内物質の分泌が悪くなる又は過剰に分泌されることが原因とされます。そういったことを招くもう一つ大元の原因になるのが,日々の生活の中のストレスや悩み,ということになろうかと思います」
「治療はできないのか」
「無論,脳内物質の分泌を正常化させるための薬,特に不安やイライラを抑えたり,気持ちを安定させる薬を処方することはできます。ストレスなどの原因がはっきりしていれば,そこから切り離すために入院や自宅療養などの方法も有効でしょう。しかし,普段元気な人がある日突然,というようなこともありますから,そこを周りが気付くのはとても難しいことだと思います。本人さんが調子が悪いとか気分が優れないとかそういったことを自覚されて受診をされればまだ良いですが,ご自身でも気付かないまま,あるいは気付いていてもなかなか受診に踏み切れないまま状況が悪くなって最悪の事態を招く,ということは普通にあり得ることです」
「基本的なことを訊くが,それはやはり『病気』ということになるのか」
「医者の立場から言えばそうです。それは『正常』とは言えないですし,放っておくと死につながりますから」
「あんたの患者さんもそうだったのか」
「はい。しかし,その患者さんはどちらかというとそれほど状況が悪いようには見えませんでした。それまでの治療はうまくいっていましたし,少しずつ減薬をしていたところだったのです」
「それが突然そうなってしまったのか」
「はい。ただ,その患者さんは4月から職場の異動で環境が変わって少々大変になったとは言っていました。とはいえ普通に元気そうに話をしていましたから,それほど深刻なものだとは捉えていなかったのです。不覚でした」
「医者が見てもなかなか気付けないものなんだな」
「…そうですね。環境が変われば誰しも精神的な負荷がかかって辛くなるものですし,それが正常な範囲での反応なのか病的なものなのかを判断するのは難しいところではあります。医者と言っても患者さんと相対するのはせいぜい月に数回,数分の面接だけですから…そこに正直,限界を感じていました」
「分かった。ならば最後に一つ訊こう」
「何ですか」
「あんた自身は…死にたいと思ったことがあるのか?」
 男は驚いた顔をして私を見た。そして下を向いてしばらく黙っていた。

「…一回もなかったと言うと嘘になりますね」
 男は絞り出すように言った。
「では,なぜ今まで生きて来れたのかな?」
 男はしばらく黙って考えていたが,言葉を切りながら訥々と切り出した。
「そうですね…難しいな…まず…やはり死ぬことが…たとえば高層ビルの上から下を見ると怖いじゃないですか。そこまで踏み切る度胸がなかったということじゃないかな…」
「度胸が要るのか。では度胸がない人は自死を選ばないのかな」
「いえ,そうではないと思います。自死を選ぶところまで追い詰められた人は,そういったことを怖いと思えないほど正常な判断力を失い,感覚が麻痺してしまうのではないかと思います」
「そうか。であれば,あんたはまだそこまでは追い詰められていなかったということになるな」
「それはそうかも知れません。私の場合は,ただ漠然と『死んだら楽になれるかなあ』と思うところまでだったと思います」
「それも健全ではないと思うがな。まあ生きていて何よりだったよ」
「はい。最近は苦しいことが本当に多いですが,そこで思うのはやはり家族のことです。私が死んだら,こんな私であっても妻や子は悲しむでしょうから」
「『こんな私』ってことはあるまい。医者として身を立てて結構なお金を稼いで,奥さんやお子さんの暮らしを支えているのだからな。時々別の女に走ることがあっても」
「最後の一言は余計ですよ」
 私は笑った。男も口元を少し緩め,さっきよりは柔和な表情になった。

「先生」
 男は真面目な顔になって言った。
「先ほどから先生の方ばかり私に訊いていらっしゃいましたが,今度は私から質問させてください」
「何だ」
「仏教では自死をどう捉えているのですか」
「そう来ると思ったよ」
 私は笑った。
「まず,…これは仏教者としての私の考え方だが,仏教は自死を肯定はしないと思う」
「やはりそうですか」
「うむ。仏教は人間として仏の御心に沿った『良い生き方』を実践することによって極楽に往生することが究極の目的であるから,自死はそこから逸脱した行為に当たると思う」
「しかし,裏を返せば『罪を犯さないうちに自らの意思で死を選ぶ』ことで極楽往生に近付くことができる,という考え方も一応は出来るのではないですか」
「たとえば親しい人を自死で失くされた方にはそのような言い方をすることはあるだろうな。ただ,それが当てはまるのは限られた者だけだろうな」
「何故ですか」
「前に輪廻転生の話をしただろう。その中で『六道』の話をしたが,『人間道』は『天道』に次いで生まれるのが難しい世界である。その『人間道』を自死によって捨てたとしても,次に極楽往生できるとも限らないし,より良い世界に転生できるとも限らない。再び『人間道』に生まれ変わるのも簡単ではない。むしろ『畜生道』以下に堕ちる危険性の方が遥かに高い」
「自死は楽になるための逃げ道にはならない,ということですか」
「その通り。極楽往生できない限り『苦』は続くことだろう。畜生以下に堕ちて後悔しても時すでに遅し,ということになるからな」
「ある意味確率論ですね」
「まあそうかな。ただ勿論,理由はそれだけではない」
「他に何かあるんですか」
「人が人として生まれてきたことには意味がある。人が人として生まれて来た以上,なさねばならぬことがある」
「『意味』ですか」
 男は若干怪訝そうな顔をした。
「どうした」
「うーん…ここがよく分からないんですよ。人が人として生まれてきた意味…これが分からず苦しんでいる人は多いと思います」
「恐らく,あんたが思う『意味』と私が考える『意味』は違うと思うな」
「どう違うんですか」
「あんたが思う『意味』というのは,恐らく現世で何かを成し遂げるということだろう。医者であれば何かの病気の治療法を発見して名を残す,とか」
「…そうですね,それに近いかと思います。そこまで大きなことではなくても」
「私の考える『意味』とは,『生きること』そのものだと思うんだ」
「…?」
 男は少し首を傾げた。

「仏教で言えば,人は『生かされるもの』だ。人間界に生かされた,まずはそのことそのものに『意味』がある」
「はあ」
「そして,その『生かされた存在』である人間が,御仏の教えを実践しながら生き,結果として極楽往生に至ることが人生の目的であり,真の生きる『意味』だと思う」
 男はまだ少々合点がいかない表情である。
「どうした」
「ううん…何となく分かるんですが」
「が?」
「それが果たして,人生の『苦』に直面して死を考えている人たちにとっての救いになるのでしょうか」
 男は私の目を見て続けた。
「先生の仰ることは確かに正しいのかも知れません。しかし,今のお話だけではどこか漠然としていて,本当に苦しんでいる人たちに寄り添った,救いになるような話にはなっていない気がします」
 私は黙って目を閉じた。

「もう少し具体的な話をしようか」
 私は切り出した。
「実は,仏教において自死は『悪』や『罪』とは見なされていないと言われている」
 男はまた怪訝そうな顔をした。
「であれば,自死は肯定されるものなのですか」
「そうではない。さっき私が言ったように,せっかく人間界に『生かされた』のであるから,御仏の教えを実践することで極楽往生に至る,その機会を大切にしなければならない,そのことは確かだ。そしてもう一つ。あんたは何故今自ら命を断つこともなく,無事ここに生きながらえているのか。あんたはどう言った?」
「…え?…ええと,妻や子どもが悲しむから…でしたっけ」
「その通り。あんたはあんた一人で生きているのではない。あんたが今生きているベースには必ず,『因縁』・『縁』というものがあるはずだ。人が人として生きる上には必ず『縁』がある。どんなに天涯孤独に映る人にも必ずある。これは人が良い生き方をしていく上で必ず助けになるものだし,これらに支えられて生きている以上,たやすく断ち切るような真似をしてはいかん,ということだ」
「『縁』あって共に生きている人…そういった人たちに敢えて頼ることもあり,ということを仰りたいのですね」
「そういうことになるかな。支えたり支えられたり,頼ったり頼られたり,人生とはそういうものだろう」
「はい。しかし」
「まだ納得いかないかな」
「そうですね…まだ少し表層的というか…最初に言ったように,人の『苦しみ』の原因は多種多様なんです。それをこのお話だけで十把一絡げで解決できるのか,と言われると」
「確かに難しいだろうな」
「仏教的なアプローチと,私がいつもやっている精神医学的なアプローチ,どちらをもってしてもなかなか厄介な代物だと思っています,この問題は」
「そうだな。自死については仏教界においても深刻な問題と捉えていて,多くの僧侶,仏教者が取り組んでいる課題でもある。私も色々なケースを考えながら,もう少し考えてみようと思う」
 夕焼け小焼けが鳴った。

 得度する気はないか,といつもの台詞を投げる代わりに,私は一言男に言った。
「一つ言っておくが」
 男は意外そうな顔で私を見た。
「あんたはいつも私に『仏教ではどう考えているのですか』と訊くよな。ただ,仏教の解答が全てではないぞ」
「はい」
「あんたはあんたなりに思うことがあるはずだ。その答えを仏教は否定しない。仏教に頼るのも良いが,自分で考えることも忘れてはいかんぞ」
 男は少し表情を崩し,一礼して車に乗り込んだ。
 けたたましい音がして,砂埃を巻きながら車は去って行った。

 もうこういうニュースは最後になってもらいたいものだ。
 そう思いながら私は,読み終わった新聞を古新聞入れに放り込んだ。



#18 笑いの効用


 久しぶりに男がやってきた。
「おう,久しぶりだな。もう来ないかと思っていたぞ」
「いえいえ,先生が寂しがってはいけないと思いまして」
「誰が寂しがるものか。面倒ごとを持ってくる奴がいなくなって清々していたところだ」
 男は笑った。
 随分機嫌が良さそうに見える。
「ご機嫌だな。何かいいことでもあったのか。愛人でもできたか」
「何てことを言うんですか。この愛妻家の私がそんなことをするはずがないでしょう」
「はて,どこに愛妻家がおったものか。口先も絶好調のようだな」
「いえいえ…実は昨夜,寄席に行って落語を聞いて来たのです。久しぶりに腹の底から笑いまして」
「そうか。まあ機嫌が良いのならそれは何よりだ」
「笑うことは身体にとてもいいのです。まずストレスの解消になりますし,免疫力が高まって病気に強い身体になれます。感染症やがんの予防にもなると言われています。また,脳がリラックスして働きが良くなります。自律神経のバランスが取れて血圧を下げる効果もあります」
「そうだな。詳しいことは分からんが,笑いが身体にいいということは聞いたことがある」
「仏教でも笑いは奨励されているのですか」
 私は首を横に振った。
「…正直,あまり仏教で『笑い』をポジティブに捉えることはないな」
 男は少々怪訝な顔をした。
「それはなぜですか」
 私は咳払いを一つして,お茶を一口飲んだ。
 喋ろうと思ったところで,男が先に言った。
「そう言えば,先生が笑っているところをあまり見たことがない気がしますねえ」

「仏教において『五戒』というものがあることは話したよな。笑いにおいては,その多くが『五戒』に抵触し,罪になるようなことが題材とされる。たとえばエロ話,下ネタであれば『不邪淫の戒』に抵触する,というように」
「先生はよくエロ話や下ネタをやっている気がします」
「それはあんたがそういう悩みばかり持ってくるから,それに合わせてやっているんじゃないか。別に好き好んでそういう話をしているのではない」
「そうは見えませんが」
「ともかくだな,仏教においては『笑い』というのはその多くが『煩悩』を惹起させるものであるとして,あまり奨励はしていない。そもそも『笑い』も感情の一つであり,感情に振り回されることは仏教においては忌むべきことだ。私も別に笑いを求めている訳ではないし,敢えて笑いたいとも思っていない。私があまり笑わないとすれば,そのためだろう」
「笑わないような人は気難しいと言われて嫌われませんか」
「それはあるな。個人的には別に嫌われたところで困りはしないが,たとえば檀家さんに法事に行った時などに法話をすることがあるが,ユーモアの一つも交えないと退屈と見えて誰も聞いてくれない。酷い人になると目の前で居眠りをされたりする。仏教の教えを人々に広める,という立場からするとこれは困る」
「そうでしょう」
「だから,仕方なく洒落の一つくらいは法話に交えることもあるし,喋る時は極力笑顔を作るようにはしている」
「作り笑顔ですか。逆に疲れませんか」
「それは疲れる。だから私にとって『笑い』は逆にストレスであると言っていい」
「困ったお人ですね。そもそも先生は先ほど,感情に振り回されてはいけないとおっしゃっていましたが,怒りや悲しみと違って『笑い』は心を乱したりするような,いわゆる『マイナスの感情』ではないと思います」
 力説する男の顔を見て,私は一つため息をついた。

「あんたは最近の笑いを見てどう思う?」
 私は問うた。
「最近の?…ううん,どうですかねえ。正直,最近の笑いはあまり見ないので」
「さっき下ネタの話をしたが,さっきも言ったように最近の笑いにはあまりにも罪深いものが多すぎやしないか。人の容姿や内面のデリケートな部分をネタにして笑ったり,人を傷つける笑いが多い。以前『ホモ』を道化として笑い者にするテレビ番組があった,という話をした記憶があるが,あれなどは最たるものだ。あんなものが『より良く生きるため』の役に立つのか,私は甚だ疑問だな。こういうことを言うと,今はコンプライアンスが厳しすぎて息苦しいだの,だからテレビが面白くなくなっただの,そういうことを訳知り顔でいう者がいるが,このような罪深い『笑い』は必要ないと思うし,そうしないと笑いが取れないというのは,単にその芸人の能力がないだけではないかと私は思う」
「厳しいですねえ」
「まあ,社会の潤滑油としてのユーモアまで否定する気はないが,そこまでして『笑い』を求める必要があるか,というと私はないと思うな」
「奥様はそれでOKなんですか」
「妻はあまりその辺りに頓着をしないから,テレビでお笑いを見てゲラゲラ笑っている。多分私のことを偏屈な男だと思ってはいるだろう。ただ私は別に妻の前で極端に不機嫌になることはない。静かに穏やかな顔をしているだけだ。それで十分リラックスをしているし,わざわざゲラゲラ笑いに行く必要は感じていない。妻だって私がゲラゲラ笑っていたら却って気味悪く思うだろう」
 今度は男が私の顔を見てため息をついた。

「そもそも,なぜわざわざ笑わないといけないのか」
 私は男に投げかけた。
「え!?それはさっき言いましたように,笑いには健康にいろんな効用が…」
「それは俗世の中で煩悩に塗れた衆生が,怒りや悲しみといった感情に振り回されて心の均衡を失うから,そこから立ち直るための対症療法として『笑い』というものに頼るのではないのか」
「…ま,まあ確かにそうかも知れませんが…」
「私に言わせれば,そもそも御仏に一心に帰依し,全ての煩悩を捨て,怒りや悲しみといった心の乱れと無縁になれば,わざわざ『笑い』にすがる必要などなくなる。煩悩を捨てることが一番の健康法だと私は思っている」
「しかし,そのような境地に達することは並大抵ではできません。先生も以前,ご自身もそこまでの境地にはなかなか辿り着いていないとおっしゃっていたじゃありませんか」
「無論だ。だが,そこで諦めてしまうのではなく,その境地に辿り着けるよう少しずつでも努力をしていくことが大事だと思っている。そうなれれば,『笑い』で心身をコントロールしながら無理をして生きるよりよほど早道だと思うがな」
 そう言ったところで,夕焼け小焼けが鳴った。

 男が帰り際に,私に包み紙を渡した。
「何だこれは」
「今,当代一の名人と言われている噺家の独演会のチケットです。奥様と御一緒にどうぞ」
 開けると,確かにチケットが2枚包まれていた。しかも一番いい席で,6500円と書いてある。
「おいおい,こんなもの受け取れないぞ」
「気にしないでくださいよ。先生にはいつもお世話になっていますから,せめてものお礼です」
「えらく殊勝だな」
「それに,一度先生にもゲラゲラ笑っていただきたいと思いまして」
「私に笑いなど必要ない」
「いえいえ,次の時に土産話を楽しみにしていますよ」
「話すことなどないと思うがな」
「構いませんよ。奥様に聞きます」
 私が怪訝な顔をしてチケットを眺めているうちに,男は玄関を出てしまった。

「おい,得度する気はないか」
 車に乗り込もうとする男に,私は問うた。
「やめときます。笑いのない職場は嫌なので」
 男は嫌味な顔をしてそう言うと,そそくさとエンジンをかけて走り去ってしまった。

 男が去ってしまった後,どこからともなく妻が現れた。
 チケットを見てまあ素敵,予定空けとかなきゃ,と浮かれている。
 この調子では私は行かない,とは言えなくなってしまった。
 私は妻を見ながらため息をついた。
 なるほど私にとって「笑い」はストレスの元なのだと改めて知った次第である。



#19 僧侶の独り言


 今日も男が来ている。
 しかし私のところには来ない。
 客間でずっと妻と話をしているのである。
 時々楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 妻が男とあんなに波長が合うとは思ってもみなかった。
 まあいくらあの男が女好きだからと言って,60をとうに過ぎたようなバb…いや年配の婦人を相手にするほど物好きではあるまいし,そもそも奴は20も年の離れた若い女を好むらしいからその種の心配はしていないが,それにしても独り放っておかれている我が身を思うと少々気分が悪い。
 と言うか,男は本来は私を訪ねて来たはずなのだが,妻が男を呼び止めてずっと話し込んでいるのである。
 
 話題は分かっている。
 この間男が私たちに寄越した落語の独演会の土産話に違いない。
 確かに噺は面白かった。
 普段笑わない上に笑いたいという欲求すら捨てたはずのこの私が不覚にもげらげら笑ってしまったのである。
 そうかと思えば人情噺ではつい感情移入してしまい,感極まって涙ぐみそうになってしまった。
 我ながらこんなに喜怒哀楽の激しい人間だとは思わなかった。
 きっと妻は今頃男に,あの時の私の様子を面白おかしく,大袈裟に吹聴しているに違いない。
 前来た時に仏教に笑いなど必要ない,としたり顔で言い放ったのにいい面の皮である。
 きっと客間の笑いは,そんな私に向けられたものであるに相違ない。
 そう思うとますます気分が悪くなった。

 私も不勉強で知らなかったのだが,そもそも「落語」の始まりは仏教の説法だそうだ。
 僧侶が聞いている人々を退屈させないように,真ん中辺りに笑いを入れながら最後仏の教えを説いて終わる,というやり方を採ったのが元であるという。
 「落語の祖」と言われる安楽庵策伝は元々浄土真宗の僧であったという。笑い話が得意で説教に笑いを取り入れ,後に笑い話を集めた「笑話集」の先駆けである「醒唾笑」を著した。
 そう考えると,仏教は「笑い」を否定しないと考えることが出来るのかも知れない。
 少なくとも私が先日聞いた限り,落語の笑いは特段に人を傷つけたり下品な俗情に訴えるようなものではないから,これ自体は頑なに否定すべきものではないのかも知れない。
 
 しかし何故人というものはそこまで「笑い」を欲するのだろうか。
 説法に「笑い」というものを取り入れないと聞いてもらえない,ということ自体が私としては正直腑に落ちない。
 話に価値ある内容があれば,どのような話し方であっても布に水が沁みるが如く心の中に入っていくものだと思うが。
 とはいえ,現実にはユーモアを交えて少し肩の力を抜いたところを交ぜないと聴衆に聞いてもらえないことも確かだ。
 はてさて,どうしたものか。

 前に少し男に話をしたが,人間には喜怒哀楽というものがある。
 ただ,これは仏教において悟りを開く上では正直言って邪魔な感情だと思う。
 「怒」と「哀」は人間の気持ちをマイナスの方向に持って行く感情であり,行動を乱す元である。
 この2つがあまり歓迎されないのは当然だが,だからと言って「喜」と「楽」が逆に無条件で歓迎されるものであるかと問われると私は少々懐疑的である。
 「喜」と「楽」に浮かれるが故に,その反動で「怒」と「哀」もある。逆もまた然りである。
 仏教における悟りの境地と言うのは,喜怒哀楽の感情を一切超越したところにある。
 そのような話を「笑い」に頼りながらするのは,それ自体が矛盾なのではないだろうか。

 とはいえ,仏教の先達が布教に際して「笑い」を利用したことは厳然たる事実である。
 人が笑いを好むのは間違いないところであり,私自身が先日の落語で大笑いすることによって心が洗われるような心持がしたことも事実である。
 あるいは,「笑う」という行為自体は人の心を落ち着け,悟りの境地に近付ける作用があるのだろうか。
 ただ,大いに笑った後ふと我に返ったとき,何となくその反動で寂寥感を覚えたことも事実である。
  
 客間の話し声が止み,数刻置いて男が入ってきた。
「先生,先日は楽しまれたそうで何よりでした」
 男は満面の笑顔で言った。
「ん…いや,まあ,有難う。妻も喜んでいた」
「いえいえ,先生も随分楽しまれていたと奥様から聞きました」
「いやいや…まあ,良かったよ,うん。久しぶりに楽しかった」
 男はまだ笑顔のままである。その表情に何だか若干の含みがあるように見えて少々小憎らしい。
「しかしなあ」
 私は少々シニカルな顔になって問うてみた。
「確かに楽しかった。しかしな,終わった後に少々寂しさを感じたことも事実だ」
 男は意外そうな顔をした。
「祭りの後,というやつかな」
 私は続けた。
「あんたはそのような経験はないか」
 男は難しい顔になった。
「そうですねえ」
 少し間を開けてから男は言った。
「私は…楽しい思いをしたら,ああ楽しかった,で切り替えられる方だと思います」
「そうか」
「ただ…」
 男は虚空を見つめながら続けた。
「私ではないですが,知り合いにお笑いの動画が好きなのがいましてね」
「ほう」
「そいつは見だしたら夜中まで何時間も見るらしいんですよ。中毒のように。で,何でそんなに見るのかと聞いたら,『楽しい時間から元のつまらない日常に戻るのが辛い』みたいなことを言っていました」
「少し病的な感じがするな」
「はい。普段相当仕事でストレスを溜め込んでいるみたいですね」
「うむ。だからこそ『笑い』というのは対症療法に過ぎないと思うんよな。根本から心の安寧を得ようと思ったら,やはり喜怒哀楽の感情を超越して悟りの境地に至ることが必要ではないかと思う」
「いや…しかしそれは…」
「まあ聞きなさい。私は『笑い』を全否定する訳ではない。一時の心の安定を得るということや,人と人との距離を縮めること,私の法話のような小難しい話をとっつきやすいものにすること,そういった目的に対する一つの手段として『笑い』を利用することはありだと思っている。ただ,『笑い』を万能の特効薬のように扱うのはどうかな,ということだ」
 男はまだ釈然としない顔をしている。
「いや,そうは言っても私は今まで『笑い』というものを全くと言っていいほど評価していなかった。むしろ遠ざけていたと言ってもいい。今は少し『笑い』というものを見直したところだ。そのことに気付かせてくれたのは,あんたが落語に私を導いてくれたからだ。それは素直に感謝する。有難うな」
 私は穏やかな笑みを浮かべて言った。
 男は少々ばつが悪そうに頭を掻いた。
 そのタイミングで,夕焼け小焼けが鳴った。

「おい,得度する気はないか」
 私は呼び掛けてみた。
「先生にではなく,落語の師匠に弟子入りしようと思っています」
 男はそう言って車に乗り込み,走り去った。

 まさか,本気ではあるまいな。
 私は思った。
 果たしてあの男を救えるのは仏の教えなのだろうか,あるいは笑いなのだろうか。
 ちょっと分からなくなったので,本堂に戻って御仏の前に座り,小一時間瞑想をした。
 
 



#20 宗教とメンタルヘルス


 ぶおんぶおんとエンジン音を鳴らしながら、男の車がやってきた。
 最近は来ていなかったから、今日と言う今日は飽きて来なくなるのではないかと期待していたのだが、生憎であった。

「おう、来たか。久しぶりだな」
 呼び掛ける私に、男は少々困り顔を見せた。
「どうした。ついに不貞がバレて奥さんに慰謝料でも請求されたか」
「もうそのネタはやめましょうよ」
 男は困り顔のままでそう言った。
「まあ、何か相談事でもあるのだろう。入りなさい」

 男はお茶を啜り、少々間を空けて言った。
「私が医者であることは先生には言いましたっけ」
「ああ、聞いたぞ。勤めている病院の薬剤師のおネエちゃんとどうのこうのと言っておったじゃないか」
「どうしてそういうことだけ覚えているんですか」
「さあ、どうしてかな」
「では、何科の医者であるかは言いましたっけ」
「どうだったかな、まだ聞いていない気がしたな」
「精神科です」
「ほほう」
「そこの患者さんで、少し頭の痛い問題がありまして」
「どうしたというのだ」
「…その方がですね…少々宗教がかってきまして」
「ん?」
「奇行が目立つという話をご家族から聞きまして」
「それは良くないな」
「はい。で、宗教と言えば先生はプロなので、御相談に乗っていただきたいと思いまして」
「プロ?…いや、まあそうかも知れないが…しかし私は一人の僧侶、しかも修行中の身に過ぎんからな。どこまで役に立つか」
 これは今までで最大級の厄介事の予感がする。
 私はお茶を啜りながら、考えを巡らせた。

「以前、少し『カルト』について話をしたな」
「カルト、とは言いませんでしたが、私利私欲に塗れ、宗教の力を利用して私腹を肥やす偽宗教がある、という話はありましたね」
「どうなんだ、その人がハマっているのは『カルト』なのか」
「うーん…そもそも『カルト』とは何でしょうか」
「そうか。これは私の思うところだが、特定の実在する人間を教祖として崇め奉り、帰依の印として財産の多くを寄進させ、またその時間・労力を教祖のために捧げることを強いる、そういう連中は『カルト』と呼んで差支えないと思う」
「であれば…『カルト』ではないと思います」
「そうか。では仏教やキリスト教、イスラム教にヒンズー教といった伝統的なものか」
「それもハズレです。どちらかと言うと、自分で宗教を作っているような…」
 私は変な顔をした。意味が分からない。
「最初はまだ普通だったんですよ。まあ普通と言っても…朝から晩まで念仏を唱えるくらいで」
「念仏を唱えることはおかしなことではないぞ。念仏を唱えることで阿弥陀仏に帰依し、極楽浄土に至る。これは浄土真宗の最も重要な教えの一つだ」
 私は少々気色ばんで言った。
「いやあ、それだけでも家族から見たら気味悪いと思いますよ。朝から晩まで南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…」
「その人をうちに連れてきなさい。あんたよりよっぽど見どころがある」
「いや、彼が念仏をやっていたのは、別に阿弥陀仏に帰依しているからではないんですよ」
「ならどうして?」
「マインドフルネス、という言葉をご存知ですか」
「聞いたことはある。今ある何かに全ての注意を向けることで雑念を払い、悩みを忘れたり集中力を高めるといった効果があると言うな」
「さすがによくご存知で」
「うん、で、それがどうした」
「はい。彼は悩みを抱えて苦しんでいましたから、私の治療の他にもカウンセリングを受けたり、いろいろとメンタルヘルスに関するセミナーにも行っていたようなんです。まずそこで勧められたのがマインドフルネス瞑想であり、その方法として念仏があったと」
「なるほどな。確かに集中して一心に念仏を唱えることによってそのような効果を得られる、という話は聞いたことがある。念仏といってもあんたが思うほど簡単なものではないからな。帰〜命無〜量寿〜如〜来〜南〜無〜不〜可〜思〜議〜光〜…」
「先生、それは今はいいです」
「うん?でもまあ、それでその人の精神が安定するのなら、それでいいじゃないか」
「そこで済んでいれば、ですけどね」
「済まなかったのか」
「はい。それでも彼の悩みは結局消えなかったらしく、いろいろな本…仏教とかそこでとどまってくれれば良かったんですが、最近ではスピリチュアルとかオカルトとか、そういった内容の本を読み漁っているらしくて、最近は言動も何となくおかしな宗教がかってきたみたいで、それでご家族が心配をされているんです」
「なるほどな。で、あんたはどうしたらいいと思う」
「え?」
 男は虚を突かれたようで、呆然と私を見た。

「いやな、あんたも医者の端くれだろうが。であれば、患者さんをどういう道筋で治療したいのか、それを考えるのは医療のプロとしてのあんたの役目だろう」
「はい。なので、私としては医療的なアプローチから患者さんの話を聞いて症状を判断して診断を下し、治療するためにそれに見合った向精神薬を…」
「だからダメだと言っておる」
 私は大きな声で男を遮った。
 男は黙った。
「あんたは以前、精神活動も脳の化学反応の一つだと言ったな。確かにそれも一つの真理かも知れん。しかし、あんたの言うところの医療的なアプローチによって薬を出してもらい、それをきちんと服用する。それでも心の病というものはなかなか根治が難しいことはあんたが一番よく知っているだろう。人間の心というのはそれほど簡単なものではない」
「…そうですね」
「無論、私が施すところの宗教的なアプローチ、これとて万能ではない。それが彼にとって何らかの救いになる可能性があるかも知れない。ただ、それだけでもって彼が苦しみから逃れられるかというと、それもまた違うような気がする」
 私は一呼吸置いて続けた。
「一体彼が何に対して苦しんでいるのか、恐らくあんたは問診をして知っているはずだ」
「はい。彼は仕事が思うように進まないことや、人間関係に苦しんでいると言っていました」
「なるほど。しかしあんたは仕事を代わってやることもできなければ、彼の人間関係に介入することもできない」
「その通りです。彼の悩みを直接取り去ってやることは、私には出来ません」
「残念ながら、仕事は多くの人にとって辛いものであるし、人間関係は自分で努力してどうにかなるものではない側面もある。自分がいくら頑張っても仕事がうまくいかないことは往々にしてあるし、自分のことを嫌っている人を努力をして好きにさせることもできない」
「はい」
「ならばどうするか。それが彼からあんたに課せられた問いだ」
 彼は再び黙ってしまった。下を向いて、心なしか泣きそうでもある。
「まあ、そのような顔をするな」
 私は少し表情を緩めた。
「はっきり言うが、多くの精神科医はそこまで考えていないと思う。患者が来たら話を聞いて、眠れるか食欲はあるか、じゃあいつも通り薬を出しましょう、これでおしまいだ。あんたはちゃんと考えるだけ、まだ見どころがある医者だ」
 私がこう言っても、男は表情を変えなかった。

「思えば今まで、いろいろな話をしてきたな」
 私は言った。
「そうですね」
 男はやっと口を開いた。
「あんたも色々な経験をしてきたはずだ。良いことも悪いことも。悪いことの方が多かったと思うが」
 男は苦笑いをした。
「それらの一つ一つが、その彼を少しでも楽になる方に導く糧になりはしないだろうか」
 男は空を見つめた。
「どうかな。全部は覚えておらんだろうが」
「いや、何となく見えてきた気がします」

「結局、逃げなんですよね」
 男は言った。
「ほう。何故そう思う」
「人間って結局、辛いことから逃げたい、目を背けたいという気持ちがあるのだと思うんです。たとえば、仕事が進まないからそのことを忘れたい、周りに嫌われて人間関係が良くないからそのことから目を背けたい、と」
「それはそうかも知れん」
「ただ、仏教ではそういった悪いことを含めて全てをありのままに受け入れる、その方法で苦しみを克服する。これは先生が常々仰っていたことですね」
「そうだな。しかし自分でこう言っておいて何だが、多くの人間はそこまで強くはない。衆生は得てして、今あるものから目を背け、安易に自分を楽にしてくれる、ように見える、そんな何かに依存しようとする」
「そうですね」
「ただ、それが全て悪いかと言われると、私はそうは思わん」
「そうなんですか」
「うん。人間は弱いものだ。なかなかそのような…悟りに近い境地に達することなど出来はしないさ。ただ、多くはそこに達するまでの旅の途上にある。そのような中で、心がへし折れる前に、対症療法でも良いから自分の心を楽にしてやる方法を持っているのであれば、それに越したことはない」
「なるほど」
「ただ、その過程で怪しげな…さっき言った『カルト』のようなものに絡め取られることだけは避けないといかん。そういった『怪しげなもの』『危ないもの』を避けて通る、そのための判断力は、今に生きる人々が必ず持っておかなければいけないものだ。自衛のためにな」
「はい。さて、ではどうしたものかな」
「今から考えなくとも、もうあんたの中で9割方答えは出ているのではないかな」
 男が何か言いかけたところで、夕焼け小焼けが鳴った。

「おい、得度する気はないか」
 私は言った。
「久々に聞きましたね、その言葉」
 男は笑いながら言った。
 そして私の問いには答えず、やかましい音をたてて去って行った。

 それにしても、人はどうしてかくも悩むのであろうか。
 私はこの年になってこのような暮らしをしているから、悩むようなネタさえもうないのだが。
 そう考えると、私は幸せな人間なのだろう。
 私は幸せを噛みしめながら部屋に戻り、残ったお茶を飲み干した。





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