長編不定期連作小説#3 生臭志願(第21回~)

#21 仏教と法と政治―その精神

 
 暦の上では暑い夏がようやく終わろうとしている頃合いだが、まだまだ暑い。
 一体この暑さはいつまで続くのだろうか。
 このままで行くと、12月には暑さのピークになるのではなかろうか。

 いかん。
 私まであの男に毒されてきたようだ。
 そんなことを考えていると、噂をすれば何とやらである。
 見慣れた車がやって来た。

 男は暑い暑いと言いながら、通されてもいないのに門を開けて部屋に入った。
 そして、目の前に出された冷たい麦茶を、どうぞとも言われていないのに一気に飲み干した。
「今日はどうした」
 私が訊くと、男はふうと一息ついて、
「実はちょっとお聞きしたいことがありまして」
 と言った。
「先生は政教分離、というのはご存知ですか」
「それくらいは知っている」
「失礼しました。先日実家に帰省しまして、その際に中学生の甥から訊かれたんですが」
 男は言うと、慌てたようにカバンの中からデパートの包装紙に包まれた大きな箱を取り出した。
「忘れてました。先生、これはお土産です。奥様と一緒にどうぞ」
「あんたは少々粗忽でいかんな。…まあ、これはいただいておこう。ありがとう」
 私は妻を呼び、もらった土産を渡すと、麦茶を飲んで続きを促した。
 男は言った。
「政教分離、即ち政治と宗教を切り離す理由とは何か、と」
「ほう」
「彼が言うには、もし宗教が本当に正しいことを教えているのであれば、宗教団体が政治をしても問題はないのではないか、と。現に外国ではキリスト教などの宗教政党があるじゃないか、と」
「なるほどなあ」
 私はあごを撫でながら宙を見据え、少々考えた。

「私も少し調べてはみたのですが」
 私が考えていると、男は唐突に言った。
「日本で政教分離の原則が定められているのは、まず他の宗教や無宗教の国民に対して不利益を与える恐れがあるから、ということのようです」
「それは言えるな。日本は恐らく外国と比較しても新旧を含め多くの宗教があるように思う」
「はい。仏教、神道、キリスト教をはじめ、そこから派生した様々な宗教がありますね。イスラム教やヒンズー教などを信じる人もいますし」
「うむ。『八百万の神』という言葉があるが、日本人の国民性として、多彩なものが信仰の対象となっているように思えるな」
「そうですね。日本には信教の自由がありますが、信教の自由が認められるためには特定の宗教が政治をやってはダメだ、ということになるという理由があるようです。あと」
「他にもあるのか」
「はい。日本は戦前、『国家神道』を唯一無二のものとして扱ってきました。そして『天皇=現人神』と捉えてきました。その信仰が軍国主義を支えた、という考え方があり、GHQは戦後、政教分離を進めたようです」
「なるほど。よく分かった。ありがとう。これで問題は解決じゃあないか。私が出る幕もない」
 私が立ち上がろうとすると、男は作務衣の裾を掴んで言った。
「いえいえ、先生には一つ、どうしてもお聞きしなければならないことがあるのです」
「何だ」
「たとえば日本に政教分離がなかったとして、仏教政党が政権を取ったとします。今までの先生のお話を聞いていると、仮にそうなったとしても特段不都合が生じるようには思えません。むしろ、今の状況を見ていると、仏教の教え、戒律が政治にも必要なのではないかとさえ思います。先生はそうは思いませんか」
 私は座り直し、再び宙を見据えた。

「まずさっきあんたが言ったように、日本には多種多様な宗教を信じる人がいるな」
「はい」
「仮に仏教政党が政治をしたとして、勿論他宗教を弾圧したり不利益をもたらすことはないと思う。ただ、他の宗教を信じる立場からしたら面白くはないだろう。そこに争いが生まれる懸念はあるだろうな」
「なるほど」
「あと、あんたも薄々は分かっていると思うが、宗教はつまるところ、ある特定の存在に『絶対的に帰依』し、『盲信する』という特性を帯びる。極論すれば、あんたは御仏のために死ねるか?という話だ」
「極端ですね」
「そうだ。だからこそ、『国家神道』はアメリカから危険視されたのだろう」
「いや、でも仏教には戒律があるじゃないですか。殺生は無論禁じられているでしょう。仏教の名の下に国民に死を強いる、などということはないのではないですか?」
「勿論それはそうだ。しかし、人間は弱いものだ。以前一向一揆の話をしたことは覚えているか?」
「そう言えばありましたね。『進者往生極楽、退者無間地獄』でしたっけ」
「そうだ。かつて仏教においても、その教えの下に殺し合いを強いた歴史がある。どんなに優れた教えであったとしても、それを使うのは人間だ。不完全な存在である人間が、教えを自分の都合の良いように利用する危険性があるということは、常に考えておかなくてはいけない」
「そう言えばあの時先生は、外部社会が宗教と対立することになったときは、宗教は武器を手に取って立ち上がることも有り得る、という話をされていましたね。一向一揆もその一つの例として話されたかと思います」
「そうだったかな。宗教はその性質上、どうしても閉鎖的な性質を帯びる。政治は万人に対して平等で開かれたものでなければならないから、そもそも宗教の性質と相容れない部分があるとは思う」
「ただ、今の政治を見ていますととても『万人に対して平等で開かれたもの』とは思えません」
 男は熱っぽい口調で言った。
「今の政治を見ていると、仏教政党とは言いませんが、仏教の戒律を重んじる精神性が必要ではないかと思います」
 男はさらに続ける。
「今の政治家は自らの私利私欲、党利党略を優先させ、国民の声を二の次にしているように思えてなりません。自分たちのためではなく、国民のために行動できる政治家が必要ではないでしょうか」
「選挙演説のようだな。あんたが立候補したらどうだ。一票入れてやるぞ」
「茶化さないでくださいよ。先生の意見はどうなんですか」
「まあまあ落ち着きなさい」
 男は少々不服気な顔をして、麦茶のお代わりを半分ほど飲み、息をついた。

「私も昔学校で習っただけだから良く分からんが、日本は三権分立という制度を取っているよな」
 私が切り出した。
「そうですね。司法権が裁判所、立法権が国会、行政権が内閣にあります」
「まず、あんたの言うところの政治の問題というのがどこにあるのかが問題になるな」
「と言いますと?」
「例えばだ。どんなに素晴らしい教えがあってもそれを悪用して人を不幸にする宗教もどきがあったとする。その場合、問題は教えではなく、教えを捻じ曲げた形で実行する教祖にあると言えるだろう。政治に言い換えると…」
「法律がきちんとしていても、それを執行する行政に問題がある、ということになりますね」
「では、教えが間違っていたと仮定する。そうなると」
「問題は立法府である国会にあるということですね」
「司法だけは喩えが難しいな。仏教だと死んだ後で裁きを受けて極楽に往生するか地獄に堕ちるかが決まる訳だが」
「そうですね」
 男は笑いながら言った。

「なので、まず問うべきは法だな。あんたはさっき仏教の戒律の話をしたが、これは正しく生きるための最低限のルールであり、自身と他人を幸せにするための、少なくとも不幸をもたらさないためのものだ。その点では、細かい違いはあれど法律も戒律もその精神は同じだと私は思っている」
「はい」
「法律を全てチェックしてその不備を指摘するのは一般人には難しい。それは専門の法律家に任せればいいだろう。しかし、何らかの問題が起こった時、それに関する法律に着目してきちんとしたものになっているかどうかを確かめるということは国民として大切なことだと思う」
「そうですね」
「そしてもう一つ、問題が起こった時に見ておかなければいけないことは…もう分かるな」
「はい。為政者が法律を適正に執行しているかどうか、ということですよね」
「うむ。どんなにきちんと法律が整備されていたとしても、所詮不完全な人間が扱うものだ。扱う上で『私』の心が絶対に紛れ込まないという保証はない。しかし、それは『公』職にある者としてはあってはならないことだ。国民はそうなっていないかを厳しく監視する必要があるだろう」
「はい」
「そして、そうやって法律や為政者を監視する上で、より正しく生きるためのルールとして仏教の戒律をバックボーンとして考えることは決して間違ってはいない。むしろ仏教者としては奨励したいところだな」
「しかし、もどかしいですね」
「何がだ」
「そうやって監視し、不備や誤りを見つけたとして、声を上げる方法が私にはありません」
「それは選挙での清き一票しかないな。それが民主主義というものだろう。願わくば、一人一人の国民がさっき言ったような気持ちでもって、『私』を捨てて『公』の精神で一票を投じてもらいたいものだな」
 男はなおも不服そうな顔で黙っている。
「何ならあんたが立候補したって構わんのだぞ。金はあるんだろう。供託金くらいなら」
「いえいえ」
 男はばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。
 そこで夕焼け小焼けが鳴った。

「おい、得度する気はないか」
 私は帰りかける男にいつものように呼び掛けた。
「いやあ、もう少し考えます」
 男は煮え切らない様子でそう言った。
「おい、本当に政治家になるんじゃないだろうな」
 私が言うと、男は首を大きく横に振った。
「それならいいがな。いや、政治家になるのは構わんが、くれぐれも私や御仏の名前を使うんじゃないぞ。迷惑だからな」
 男は顔の前で激しく手を振りながら扉を開けて車に乗り込んだ。
 ほどなくけたたましい音と共に、車は去って行った。

 寺に戻ると、そう言えばまだ今日は新聞を読んでいなかったと思い、手に取って開いた。
 まず目に飛び込んできたのが、「政治とカネ」の記事である。
 私ならこんなことをして新聞に載ったら恥ずかしくて生きているのが嫌になると思うが、大した神経だと思う。
 私にはとても務まらないし、あの男でも多分無理だろう。

 そして隣の面には、とあるカルト宗教と政治家との関係を取り沙汰す記事が載っている。
 政教分離について長々と喋ったのが少々空しくなってきた。
 私はテーブルの上に新聞を放り投げ、瞑想をするために本堂に向かった。 




#22 御仏の救い

 今日も男がやってきた。
 今日のテーマは何だろうか。
 男がまず口を開いた。
「先生はよく私に得度を勧められますよね」
 私は頷いた。
「無論、あんたのように道に迷える者がいれば、御仏への帰依を勧めるのは仏教者としては当然だと思うからな」
「しかし、私はまだそこまでする気持ちにはなれないのです」
 私は顔を撫でながらほう、と言った。
「それは何故かな。私の不徳だろうか」
「いえ、そんなことはないのですが」
 男は下を向いた。
「…何と言うか、まだそこまで仏教に対しての思いが達していないように思えるのです」
 私は黙って次の言葉を待った。
「仏教によって救われる、その意味をまだ理解していない、できていないのかな、と」
 私は頷いた。
 男は続けた。
「仏教によって得られる救いとは何なのか、またどうすればその救いを得られるのか、それをお聞きしたく思います」
 私は虚空を見上げて呟いた。
「うむ、確かに私は今まで、仏教の教えに基づいて『良い生き方』をすることについては説いてきたが、具体的な『救い』についてはあまり話して来なかった気がするな」
 男は少々ばつが悪そうな顔で頷いた。
「では、今日は御仏の救いについて話そうか。それがあんたの背中を押すことになるのならばな」

「ただ」
 私は最初に断りを入れた。
「仏教には様々な宗派がある。宗派によって異なる部分は多い。それは理解しておいてほしい」
「はい。存じております」
「まあ、大まかなところは学校で習う日本の歴史で教えるだろうから、あんたも知っているかな」
「はい」

「では話そう。まず、具体的に『救い』とは何か、ということだが」
 男は無言のまま、じっとこちらを見つめている。
「簡単に言うと、前話したように悟りを開いて輪廻転生から一抜け、即ち『解脱』をして、苦しみの多いこの世からおさらばすることだ」
「極楽往生するということですか」
「浄土の教えで言えばそうだな。しかし仏教でも他の宗派ではそれを意味しない」
「では、そういった考え方であれば『解脱』をしたらどうなるのですか」
「敢えて言えば『仏になる』ということになるかな」
「仏に、ですか」
「うむ。悟りを開くことによって人は『仏』になる。それは浄土の教えでも同じだが、死後に極楽往生することを明確に示しているのは恐らく浄土の教えだけだろう」
「他の宗派では極楽というものはない、と」
「ただ、悟りを得て解脱することによって『苦しみのない世界』に行くことを意味するという点においては同じではないか、と私個人としては考えている」
「なるほど」
「そもそも、本当に悟りを得た者であれば、この世の苦しみ―四苦八苦を克服した者という言い方ができるから、生きながらにして『解脱』に限りなく近い境地に達しているという考え方も出来るがな」
「しかし、それは難しいことですよね」
「そうだな。そのための『方法論』としていくつかの方法が示されている。それがあんたが聞きたがっている『救いに至る道』ということになるだろう」

「では、救いに至る道についてはどうなんでしょうか」
「これは本当に宗派によって分かれるからな。まずは念仏の教えだ」
「南無阿弥陀仏ですね」
「うむ。念仏…浄土の教えにおいては、ただひたすらに『南無阿弥陀仏』と唱えることで救われる」
「本当にそれだけで良い、ということですか」
「そうだな。何せ親鸞聖人は、『善人でも救われる。況や悪人をや』と仰った」
「悪人正機説ですね。その意図するところは何なのでしょう」
「これは私の主観だが、悪人の方が『自分は悪いことをしてきたから地獄に堕ちるだろう。どうしたら良いのか』という苦しみを強く持っているのではないか。そのような者の方が、仏様…ここで言うところの阿弥陀様に帰依して救われたいという気持ちがより強く、救いへの道により近い、という解釈ではないかな」
「しかし、人を何人も殺しておいて笑っていられるような極悪人が救われるとも思えませんね」
「それは勿論、そういう人間が阿弥陀如来に帰依して救われたいと願うとは思われないからだろう。そういう者でも御仏の教えに目覚め、強い帰依の気持ちを持って日々念仏すれば救われる。これが阿弥陀様の教えだ」
「寛容なのですね」
「そう、御仏の慈愛は限りない。どのような者でも分け隔てなく救う」
 私は続けた。
「そう言えば、あんたは『悪人』という言葉にどのようなイメージを持っていなさる?」
「一般的には泥棒とか、殺人犯とか、そういう人を指しますね」
「そうだろうな。ただ、ここでの『悪人』は違うからな」
「そうでしたね。欲や煩悩に囚われている我々凡夫も『悪人』になるのでしょうね」
「そう思う。ただ、悪人正機説でも言われるように、そういった者の方が救いに近い、と親鸞聖人は仰られた。ということは、どういうことかわかるか?」
「どういうことですか?」
「少しは考えてから聞きなさい。まあ答えを言ってしまうと、今まで我々は煩悩や欲を『悪』『なくすべきもの』として捉えてきた。それは間違いないことだが、逆に言えば煩悩や欲に囚われその所為で苦しむことが、阿弥陀様に帰依することへの『きっかけ』『取っ掛かり』になるということでもある。だから、煩悩や欲があること自体はある意味当たり前のことであり、その事実を受け入れながら阿弥陀様におすがりする気持ちを強く持つことが救いにつながる。これが浄土の教えだと私は考えている」
「なるほど。他の宗派はどうですか」
 男は言いながら茶をすすった。私も一息ついて同じタイミングで茶をすすった。
 その様子が可笑しかったのか、男は声を殺して笑っている。

「次は…禅の話をしようか」
 私はその場の空気を戻すため、厳めしい顔を作って切り出した。
「あんたは座禅を組んだことはあるかな」
「いえ、ありません。ただ、動いたり笑ったりしたら警策で肩を叩かれることは知っています」
「貧相なイメージだな」
「あ、あと以前お話ししたかと思いますが、永平寺の雲水の様子を見たことはあります。あれは禅の教えですよね」
「うむ。あれを見れば禅の修行がいかに厳しいものであるかは分かると思う」
「はい」
「禅の教えにもいくつかの宗派があるが、共通していることは、そもそも人間の心の中に仏性が宿っていて、座禅に打ち込むことによって雑念などを取り払い、『無』の境地になることで悟りに近付く、ということだろう」
「はい」
「あんたが言う『動いたり笑ったりしたら叩かれる』というのは、そのようなことをするというのは心に雑念があって『無』の境地になり切れていない、ということですよ、という警告の意味で警策で喝を入れられるということだと思う」
「だから『警』策、と言うんですかね」
「そうかも知れんな」
「だとしたら、人間は元々仏となる存在、ということなのですか」
「確か臨済宗においては座禅によって仏性に近付くという考え方であり、曹洞宗においては既に仏性を持っている人間が座禅によって無我の境地に達して「仏」となる、という教えであると。その違いはあるが、基本的にはあんたの解釈で間違いないと思う」
 男は頷いた。
 私は続けた。
「ただ、そのためには、前も言ったと思うが、煩悩とか欲とか執着心とか、そういった邪な心を捨てる必要がある。私の考えで言えば、禅の教えにおいては、座禅を含めた厳しい修行によってこういった境地を目指すということになるのだと思う」
「そう言えば前永平寺の話をした時、先生はそのようなことを仰っていましたね」
「そうだったかな」
「確かあの時先生は、修行によってのみ悟りに至るという考え方には疑問を持っていらっしゃいましたね」
「うむ。私個人は、人生そのものが修行であり、生きていく中で仏性を得ていくものではないかと思っている。禅の修行に励む人たちも、座禅に打ち込むことによって無の境地に至ることを模索しながら、日々の生活も含めて仏性に目覚めていくのではないかと思う。永平寺の雲水たちも、厳しい修行をし、山を下りて僧として生活し、修行の経験を生かしながら自分なりの方法で修練に励み、教えに従って日々の生活を送り、時を経て今度は自らが師となり、後に続く者たちに教えを伝えていくことになるだろう。その人生の中で『仏』となる道を歩んでいく、というのが禅の教えだと私は解釈している」
「そうでした」
「ただ、特に曹洞宗の座禅は『仏性を得る』ことを目的とはしていない」
「どういうことですか」
「曹洞宗では人は既に『仏』である、と説く。そして、『座禅によって仏性を得る』ことを目的とはしていない。『仏性を得たい』という『欲』に動かされてする座禅では仏性は得られないし、仮に仏性を得られたと思ったとき、その人は座禅をやめてしまうだろうからな」
「なるほど」
 私は少々疲れたので、まあちょっと休もう、と言って座椅子の背もたれに身体を預けた。

 数分経った後、私は身体を起こしてまた話を始めた。
「次は、法華経について話そうかな」
「日蓮宗ですか」
「それだけではない。まず、法華経とは何か知っているか」
「学校の日本史の時間に日蓮上人の話で出てきましたが、詳しくは知りません」
「そうか。法華経とはざっくり言うと、お釈迦様が晩年にインドで聴衆の前で話された、広大な物語だ」
「そうなんですか」
「うむ。お釈迦様は聴衆の前で、ご自身の生涯についての話やその考え方、教えを説いた。時にたとえ話などを用いて分かりやすく説いているところもある。誰もが仏になれるとし、何より『今を大切に生きる』ことを説いたものだ。さっきあんたが言った日蓮上人だけではなく、聖徳太子に天台大師、曹洞宗の道元禅師、宮沢賢治などもその影響を受けている」
「なるほど。多くの仏教者に影響を与えた、いわば最高の経典とでも言えるものですね」
「ただ、法華経は『難信難解』とある。どうすれば仏になれるのか、という点については菩薩クラスのレベルの高い修行者でなければ難しいと解釈されている。なので、そのレベルに達しない我々のような者については直接の答えを示してくれるものとは言い難いのではないかと思う」
「簡単なものではないのですね」
「うむ。ただ、多くの仏教宗派がこの法華経に従いながら、どうしたら凡夫でも救いの道に至ることができるのか、ということをそれぞれの方法で説いているな」
「法華経と言えば日蓮宗だと思うんですが、それ以外の宗派でも重視しているのですね」
「そうだな。ただ日蓮宗は浄土の教えについては相容れないものとしているようだが」
「そうなんですか」
「うむ。日蓮宗ではあくまで重視すべきは『法華経』であり、法華経を学ぶことが救いへの道だと説いている。なので、阿弥陀様の名を唱えることで極楽往生できると説く浄土の教えは誤りだと説いた。ただ、法華経を学ぶことは非常に難しい。なので日蓮宗においては法華経に帰依し、題目である『南無妙法蓮華経』と唱えることで救われる、と説いている。また、法華経の教えに従って生きる人は全て『菩薩』たり得ると解釈しているようだな」
「なるほど」
「日蓮上人は法華経に従って生きることを奨励した。このこと自体は意義のあることだと思うが、国政についても法華経に従って行うべきだと主張して時の権力者である鎌倉幕府を痛烈に批判したり、他宗派を排斥して『地獄に堕ちる』と攻撃したので彼らには疎んじられた。ただ、法華経そのものは非常に意義深い教えだと思うし、興味を持って触れる人も多い。難解だと思うが、分かりやすく説いてある本もあるから、読んでみるのも良いのではないかな」
「あまりにも壮大に思えますね。私に分かるかどうか」
「まあ、『難信難解』だからな。最初から全部理解しようと思ってもそれは無理だろう」
 私は笑った。男は頭を搔いている。

 夕焼け小焼けが鳴った。
「本当はもっと話さなければならないことがあるのだが、まあこんなところにしておこう。得度する気になったかな?」
「いやあ…とてもとても」
 男は疲れ切った表情で、絞り出すように言った。
 私はその様子を見ながら、静かに言った。
「結局のところ、念仏にしてもそうだが、心からその信仰の対象となる存在に対して帰依できるかどうかが大切だということになるだろうな。そこに僅かでも疑いがあるのであれば、やめておいた方がいいかも知れないな」
「はあ」
「まあ誰もがすぐにそのような境地に至ることができる訳ではない。もしそうであれば、この寺だって信者さんたちでもっと賑やかになっているだろうさ」
 男は笑った。
「まあ、もう少し考えます」
 男は部屋を出た。玄関先で妻に挨拶をする声が聞こえ、しばらくして車のエンジン音が響いた。

 男が去って静かになった後、私はしばらく物思いをしていた。
 私自身、他の宗派を含めた仏教について人様に説くような知識と教養のある人間なのだろうか。
 人に物を教える時に、不意に己の無知を知ることがあるものだ。
 私は少々自らを恥じながら仏様の前に座り、目を閉じて瞑想をした。






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