長編不定期連作小説#3 生臭志願(第21回~)

#21 仏教と法と政治―その精神

 
 暦の上では暑い夏がようやく終わろうとしている頃合いだが、まだまだ暑い。
 一体この暑さはいつまで続くのだろうか。
 このままで行くと、12月には暑さのピークになるのではなかろうか。

 いかん。
 私まであの男に毒されてきたようだ。
 そんなことを考えていると、噂をすれば何とやらである。
 見慣れた車がやって来た。

 男は暑い暑いと言いながら、通されてもいないのに門を開けて部屋に入った。
 そして、目の前に出された冷たい麦茶を、どうぞとも言われていないのに一気に飲み干した。
「今日はどうした」
 私が訊くと、男はふうと一息ついて、
「実はちょっとお聞きしたいことがありまして」
 と言った。
「先生は政教分離、というのはご存知ですか」
「それくらいは知っている」
「失礼しました。先日実家に帰省しまして、その際に中学生の甥から訊かれたんですが」
 男は言うと、慌てたようにカバンの中からデパートの包装紙に包まれた大きな箱を取り出した。
「忘れてました。先生、これはお土産です。奥様と一緒にどうぞ」
「あんたは少々粗忽でいかんな。…まあ、これはいただいておこう。ありがとう」
 私は妻を呼び、もらった土産を渡すと、麦茶を飲んで続きを促した。
 男は言った。
「政教分離、即ち政治と宗教を切り離す理由とは何か、と」
「ほう」
「彼が言うには、もし宗教が本当に正しいことを教えているのであれば、宗教団体が政治をしても問題はないのではないか、と。現に外国ではキリスト教などの宗教政党があるじゃないか、と」
「なるほどなあ」
 私はあごを撫でながら宙を見据え、少々考えた。

「私も少し調べてはみたのですが」
 私が考えていると、男は唐突に言った。
「日本で政教分離の原則が定められているのは、まず他の宗教や無宗教の国民に対して不利益を与える恐れがあるから、ということのようです」
「それは言えるな。日本は恐らく外国と比較しても新旧を含め多くの宗教があるように思う」
「はい。仏教、神道、キリスト教をはじめ、そこから派生した様々な宗教がありますね。イスラム教やヒンズー教などを信じる人もいますし」
「うむ。『八百万の神』という言葉があるが、日本人の国民性として、多彩なものが信仰の対象となっているように思えるな」
「そうですね。日本には信教の自由がありますが、信教の自由が認められるためには特定の宗教が政治をやってはダメだ、ということになるという理由があるようです。あと」
「他にもあるのか」
「はい。日本は戦前、『国家神道』を唯一無二のものとして扱ってきました。そして『天皇=現人神』と捉えてきました。その信仰が軍国主義を支えた、という考え方があり、GHQは戦後、政教分離を進めたようです」
「なるほど。よく分かった。ありがとう。これで問題は解決じゃあないか。私が出る幕もない」
 私が立ち上がろうとすると、男は作務衣の裾を掴んで言った。
「いえいえ、先生には一つ、どうしてもお聞きしなければならないことがあるのです」
「何だ」
「たとえば日本に政教分離がなかったとして、仏教政党が政権を取ったとします。今までの先生のお話を聞いていると、仮にそうなったとしても特段不都合が生じるようには思えません。むしろ、今の状況を見ていると、仏教の教え、戒律が政治にも必要なのではないかとさえ思います。先生はそうは思いませんか」
 私は座り直し、再び宙を見据えた。

「まずさっきあんたが言ったように、日本には多種多様な宗教を信じる人がいるな」
「はい」
「仮に仏教政党が政治をしたとして、勿論他宗教を弾圧したり不利益をもたらすことはないと思う。ただ、他の宗教を信じる立場からしたら面白くはないだろう。そこに争いが生まれる懸念はあるだろうな」
「なるほど」
「あと、あんたも薄々は分かっていると思うが、宗教はつまるところ、ある特定の存在に『絶対的に帰依』し、『盲信する』という特性を帯びる。極論すれば、あんたは御仏のために死ねるか?という話だ」
「極端ですね」
「そうだ。だからこそ、『国家神道』はアメリカから危険視されたのだろう」
「いや、でも仏教には戒律があるじゃないですか。殺生は無論禁じられているでしょう。仏教の名の下に国民に死を強いる、などということはないのではないですか?」
「勿論それはそうだ。しかし、人間は弱いものだ。以前一向一揆の話をしたことは覚えているか?」
「そう言えばありましたね。『進者往生極楽、退者無間地獄』でしたっけ」
「そうだ。かつて仏教においても、その教えの下に殺し合いを強いた歴史がある。どんなに優れた教えであったとしても、それを使うのは人間だ。不完全な存在である人間が、教えを自分の都合の良いように利用する危険性があるということは、常に考えておかなくてはいけない」
「そう言えばあの時先生は、外部社会が宗教と対立することになったときは、宗教は武器を手に取って立ち上がることも有り得る、という話をされていましたね。一向一揆もその一つの例として話されたかと思います」
「そうだったかな。宗教はその性質上、どうしても閉鎖的な性質を帯びる。政治は万人に対して平等で開かれたものでなければならないから、そもそも宗教の性質と相容れない部分があるとは思う」
「ただ、今の政治を見ていますととても『万人に対して平等で開かれたもの』とは思えません」
 男は熱っぽい口調で言った。
「今の政治を見ていると、仏教政党とは言いませんが、仏教の戒律を重んじる精神性が必要ではないかと思います」
 男はさらに続ける。
「今の政治家は自らの私利私欲、党利党略を優先させ、国民の声を二の次にしているように思えてなりません。自分たちのためではなく、国民のために行動できる政治家が必要ではないでしょうか」
「選挙演説のようだな。あんたが立候補したらどうだ。一票入れてやるぞ」
「茶化さないでくださいよ。先生の意見はどうなんですか」
「まあまあ落ち着きなさい」
 男は少々不服気な顔をして、麦茶のお代わりを半分ほど飲み、息をついた。

「私も昔学校で習っただけだから良く分からんが、日本は三権分立という制度を取っているよな」
 私が切り出した。
「そうですね。司法権が裁判所、立法権が国会、行政権が内閣にあります」
「まず、あんたの言うところの政治の問題というのがどこにあるのかが問題になるな」
「と言いますと?」
「例えばだ。どんなに素晴らしい教えがあってもそれを悪用して人を不幸にする宗教もどきがあったとする。その場合、問題は教えではなく、教えを捻じ曲げた形で実行する教祖にあると言えるだろう。政治に言い換えると…」
「法律がきちんとしていても、それを執行する行政に問題がある、ということになりますね」
「では、教えが間違っていたと仮定する。そうなると」
「問題は立法府である国会にあるということですね」
「司法だけは喩えが難しいな。仏教だと死んだ後で裁きを受けて極楽に往生するか地獄に堕ちるかが決まる訳だが」
「そうですね」
 男は笑いながら言った。

「なので、まず問うべきは法だな。あんたはさっき仏教の戒律の話をしたが、これは正しく生きるための最低限のルールであり、自身と他人を幸せにするための、少なくとも不幸をもたらさないためのものだ。その点では、細かい違いはあれど法律も戒律もその精神は同じだと私は思っている」
「はい」
「法律を全てチェックしてその不備を指摘するのは一般人には難しい。それは専門の法律家に任せればいいだろう。しかし、何らかの問題が起こった時、それに関する法律に着目してきちんとしたものになっているかどうかを確かめるということは国民として大切なことだと思う」
「そうですね」
「そしてもう一つ、問題が起こった時に見ておかなければいけないことは…もう分かるな」
「はい。為政者が法律を適正に執行しているかどうか、ということですよね」
「うむ。どんなにきちんと法律が整備されていたとしても、所詮不完全な人間が扱うものだ。扱う上で『私』の心が絶対に紛れ込まないという保証はない。しかし、それは『公』職にある者としてはあってはならないことだ。国民はそうなっていないかを厳しく監視する必要があるだろう」
「はい」
「そして、そうやって法律や為政者を監視する上で、より正しく生きるためのルールとして仏教の戒律をバックボーンとして考えることは決して間違ってはいない。むしろ仏教者としては奨励したいところだな」
「しかし、もどかしいですね」
「何がだ」
「そうやって監視し、不備や誤りを見つけたとして、声を上げる方法が私にはありません」
「それは選挙での清き一票しかないな。それが民主主義というものだろう。願わくば、一人一人の国民がさっき言ったような気持ちでもって、『私』を捨てて『公』の精神で一票を投じてもらいたいものだな」
 男はなおも不服そうな顔で黙っている。
「何ならあんたが立候補したって構わんのだぞ。金はあるんだろう。供託金くらいなら」
「いえいえ」
 男はばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。
 そこで夕焼け小焼けが鳴った。

「おい、得度する気はないか」
 私は帰りかける男にいつものように呼び掛けた。
「いやあ、もう少し考えます」
 男は煮え切らない様子でそう言った。
「おい、本当に政治家になるんじゃないだろうな」
 私が言うと、男は首を大きく横に振った。
「それならいいがな。いや、政治家になるのは構わんが、くれぐれも私や御仏の名前を使うんじゃないぞ。迷惑だからな」
 男は顔の前で激しく手を振りながら扉を開けて車に乗り込んだ。
 ほどなくけたたましい音と共に、車は去って行った。

 寺に戻ると、そう言えばまだ今日は新聞を読んでいなかったと思い、手に取って開いた。
 まず目に飛び込んできたのが、「政治とカネ」の記事である。
 私ならこんなことをして新聞に載ったら恥ずかしくて生きているのが嫌になると思うが、大した神経だと思う。
 私にはとても務まらないし、あの男でも多分無理だろう。

 そして隣の面には、とあるカルト宗教と政治家との関係を取り沙汰す記事が載っている。
 政教分離について長々と喋ったのが少々空しくなってきた。
 私はテーブルの上に新聞を放り投げ、瞑想をするために本堂に向かった。 




#22 御仏の救い

 今日も男がやってきた。
 今日のテーマは何だろうか。
 男がまず口を開いた。
「先生はよく私に得度を勧められますよね」
 私は頷いた。
「無論、あんたのように道に迷える者がいれば、御仏への帰依を勧めるのは仏教者としては当然だと思うからな」
「しかし、私はまだそこまでする気持ちにはなれないのです」
 私は顔を撫でながらほう、と言った。
「それは何故かな。私の不徳だろうか」
「いえ、そんなことはないのですが」
 男は下を向いた。
「…何と言うか、まだそこまで仏教に対しての思いが達していないように思えるのです」
 私は黙って次の言葉を待った。
「仏教によって救われる、その意味をまだ理解していない、できていないのかな、と」
 私は頷いた。
 男は続けた。
「仏教によって得られる救いとは何なのか、またどうすればその救いを得られるのか、それをお聞きしたく思います」
 私は虚空を見上げて呟いた。
「うむ、確かに私は今まで、仏教の教えに基づいて『良い生き方』をすることについては説いてきたが、具体的な『救い』についてはあまり話して来なかった気がするな」
 男は少々ばつが悪そうな顔で頷いた。
「では、今日は御仏の救いについて話そうか。それがあんたの背中を押すことになるのならばな」

「ただ」
 私は最初に断りを入れた。
「仏教には様々な宗派がある。宗派によって異なる部分は多い。それは理解しておいてほしい」
「はい。存じております」
「まあ、大まかなところは学校で習う日本の歴史で教えるだろうから、あんたも知っているかな」
「はい」

「では話そう。まず、具体的に『救い』とは何か、ということだが」
 男は無言のまま、じっとこちらを見つめている。
「簡単に言うと、前話したように悟りを開いて輪廻転生から一抜け、即ち『解脱』をして、苦しみの多いこの世からおさらばすることだ」
「極楽往生するということですか」
「浄土の教えで言えばそうだな。しかし仏教でも他の宗派ではそれを意味しない」
「では、そういった考え方であれば『解脱』をしたらどうなるのですか」
「敢えて言えば『仏になる』ということになるかな」
「仏に、ですか」
「うむ。悟りを開くことによって人は『仏』になる。それは浄土の教えでも同じだが、死後に極楽往生することを明確に示しているのは恐らく浄土の教えだけだろう」
「他の宗派では極楽というものはない、と」
「ただ、悟りを得て解脱することによって『苦しみのない世界』に行くことを意味するという点においては同じではないか、と私個人としては考えている」
「なるほど」
「そもそも、本当に悟りを得た者であれば、この世の苦しみ―四苦八苦を克服した者という言い方ができるから、生きながらにして『解脱』に限りなく近い境地に達しているという考え方も出来るがな」
「しかし、それは難しいことですよね」
「そうだな。そのための『方法論』としていくつかの方法が示されている。それがあんたが聞きたがっている『救いに至る道』ということになるだろう」

「では、救いに至る道についてはどうなんでしょうか」
「これは本当に宗派によって分かれるからな。まずは念仏の教えだ」
「南無阿弥陀仏ですね」
「うむ。念仏…浄土の教えにおいては、ただひたすらに『南無阿弥陀仏』と唱えることで救われる」
「本当にそれだけで良い、ということですか」
「そうだな。何せ親鸞聖人は、『善人でも救われる。況や悪人をや』と仰った」
「悪人正機説ですね。その意図するところは何なのでしょう」
「これは私の主観だが、悪人の方が『自分は悪いことをしてきたから地獄に堕ちるだろう。どうしたら良いのか』という苦しみを強く持っているのではないか。そのような者の方が、仏様…ここで言うところの阿弥陀様に帰依して救われたいという気持ちがより強く、救いへの道により近い、という解釈ではないかな」
「しかし、人を何人も殺しておいて笑っていられるような極悪人が救われるとも思えませんね」
「それは勿論、そういう人間が阿弥陀如来に帰依して救われたいと願うとは思われないからだろう。そういう者でも御仏の教えに目覚め、強い帰依の気持ちを持って日々念仏すれば救われる。これが阿弥陀様の教えだ」
「寛容なのですね」
「そう、御仏の慈愛は限りない。どのような者でも分け隔てなく救う」
 私は続けた。
「そう言えば、あんたは『悪人』という言葉にどのようなイメージを持っていなさる?」
「一般的には泥棒とか、殺人犯とか、そういう人を指しますね」
「そうだろうな。ただ、ここでの『悪人』は違うからな」
「そうでしたね。欲や煩悩に囚われている我々凡夫も『悪人』になるのでしょうね」
「そう思う。ただ、悪人正機説でも言われるように、そういった者の方が救いに近い、と親鸞聖人は仰られた。ということは、どういうことかわかるか?」
「どういうことですか?」
「少しは考えてから聞きなさい。まあ答えを言ってしまうと、今まで我々は煩悩や欲を『悪』『なくすべきもの』として捉えてきた。それは間違いないことだが、逆に言えば煩悩や欲に囚われその所為で苦しむことが、阿弥陀様に帰依することへの『きっかけ』『取っ掛かり』になるということでもある。だから、煩悩や欲があること自体はある意味当たり前のことであり、その事実を受け入れながら阿弥陀様におすがりする気持ちを強く持つことが救いにつながる。これが浄土の教えだと私は考えている」
「なるほど。他の宗派はどうですか」
 男は言いながら茶をすすった。私も一息ついて同じタイミングで茶をすすった。
 その様子が可笑しかったのか、男は声を殺して笑っている。

「次は…禅の話をしようか」
 私はその場の空気を戻すため、厳めしい顔を作って切り出した。
「あんたは座禅を組んだことはあるかな」
「いえ、ありません。ただ、動いたり笑ったりしたら警策で肩を叩かれることは知っています」
「貧相なイメージだな」
「あ、あと以前お話ししたかと思いますが、永平寺の雲水の様子を見たことはあります。あれは禅の教えですよね」
「うむ。あれを見れば禅の修行がいかに厳しいものであるかは分かると思う」
「はい」
「禅の教えにもいくつかの宗派があるが、共通していることは、そもそも人間の心の中に仏性が宿っていて、座禅に打ち込むことによって雑念などを取り払い、『無』の境地になることで悟りに近付く、ということだろう」
「はい」
「あんたが言う『動いたり笑ったりしたら叩かれる』というのは、そのようなことをするというのは心に雑念があって『無』の境地になり切れていない、ということですよ、という警告の意味で警策で喝を入れられるということだと思う」
「だから『警』策、と言うんですかね」
「そうかも知れんな」
「だとしたら、人間は元々仏となる存在、ということなのですか」
「確か臨済宗においては座禅によって仏性に近付くという考え方であり、曹洞宗においては既に仏性を持っている人間が座禅によって無我の境地に達して「仏」となる、という教えであると。その違いはあるが、基本的にはあんたの解釈で間違いないと思う」
 男は頷いた。
 私は続けた。
「ただ、そのためには、前も言ったと思うが、煩悩とか欲とか執着心とか、そういった邪な心を捨てる必要がある。私の考えで言えば、禅の教えにおいては、座禅を含めた厳しい修行によってこういった境地を目指すということになるのだと思う」
「そう言えば前永平寺の話をした時、先生はそのようなことを仰っていましたね」
「そうだったかな」
「確かあの時先生は、修行によってのみ悟りに至るという考え方には疑問を持っていらっしゃいましたね」
「うむ。私個人は、人生そのものが修行であり、生きていく中で仏性を得ていくものではないかと思っている。禅の修行に励む人たちも、座禅に打ち込むことによって無の境地に至ることを模索しながら、日々の生活も含めて仏性に目覚めていくのではないかと思う。永平寺の雲水たちも、厳しい修行をし、山を下りて僧として生活し、修行の経験を生かしながら自分なりの方法で修練に励み、教えに従って日々の生活を送り、時を経て今度は自らが師となり、後に続く者たちに教えを伝えていくことになるだろう。その人生の中で『仏』となる道を歩んでいく、というのが禅の教えだと私は解釈している」
「そうでした」
「ただ、特に曹洞宗の座禅は『仏性を得る』ことを目的とはしていない」
「どういうことですか」
「曹洞宗では人は既に『仏』である、と説く。そして、『座禅によって仏性を得る』ことを目的とはしていない。『仏性を得たい』という『欲』に動かされてする座禅では仏性は得られないし、仮に仏性を得られたと思ったとき、その人は座禅をやめてしまうだろうからな」
「なるほど」
 私は少々疲れたので、まあちょっと休もう、と言って座椅子の背もたれに身体を預けた。

 数分経った後、私は身体を起こしてまた話を始めた。
「次は、法華経について話そうかな」
「日蓮宗ですか」
「それだけではない。まず、法華経とは何か知っているか」
「学校の日本史の時間に日蓮上人の話で出てきましたが、詳しくは知りません」
「そうか。法華経とはざっくり言うと、お釈迦様が晩年にインドで聴衆の前で話された、広大な物語だ」
「そうなんですか」
「うむ。お釈迦様は聴衆の前で、ご自身の生涯についての話やその考え方、教えを説いた。時にたとえ話などを用いて分かりやすく説いているところもある。誰もが仏になれるとし、何より『今を大切に生きる』ことを説いたものだ。さっきあんたが言った日蓮上人だけではなく、聖徳太子に天台大師、曹洞宗の道元禅師、宮沢賢治などもその影響を受けている」
「なるほど。多くの仏教者に影響を与えた、いわば最高の経典とでも言えるものですね」
「ただ、法華経は『難信難解』とある。どうすれば仏になれるのか、という点については菩薩クラスのレベルの高い修行者でなければ難しいと解釈されている。なので、そのレベルに達しない我々のような者については直接の答えを示してくれるものとは言い難いのではないかと思う」
「簡単なものではないのですね」
「うむ。ただ、多くの仏教宗派がこの法華経に従いながら、どうしたら凡夫でも救いの道に至ることができるのか、ということをそれぞれの方法で説いているな」
「法華経と言えば日蓮宗だと思うんですが、それ以外の宗派でも重視しているのですね」
「そうだな。ただ日蓮宗は浄土の教えについては相容れないものとしているようだが」
「そうなんですか」
「うむ。日蓮宗ではあくまで重視すべきは『法華経』であり、法華経を学ぶことが救いへの道だと説いている。なので、阿弥陀様の名を唱えることで極楽往生できると説く浄土の教えは誤りだと説いた。ただ、法華経を学ぶことは非常に難しい。なので日蓮宗においては法華経に帰依し、題目である『南無妙法蓮華経』と唱えることで救われる、と説いている。また、法華経の教えに従って生きる人は全て『菩薩』たり得ると解釈しているようだな」
「なるほど」
「日蓮上人は法華経に従って生きることを奨励した。このこと自体は意義のあることだと思うが、国政についても法華経に従って行うべきだと主張して時の権力者である鎌倉幕府を痛烈に批判したり、他宗派を排斥して『地獄に堕ちる』と攻撃したので彼らには疎んじられた。ただ、法華経そのものは非常に意義深い教えだと思うし、興味を持って触れる人も多い。難解だと思うが、分かりやすく説いてある本もあるから、読んでみるのも良いのではないかな」
「あまりにも壮大に思えますね。私に分かるかどうか」
「まあ、『難信難解』だからな。最初から全部理解しようと思ってもそれは無理だろう」
 私は笑った。男は頭を搔いている。

 夕焼け小焼けが鳴った。
「本当はもっと話さなければならないことがあるのだが、まあこんなところにしておこう。得度する気になったかな?」
「いやあ…とてもとても」
 男は疲れ切った表情で、絞り出すように言った。
 私はその様子を見ながら、静かに言った。
「結局のところ、念仏にしてもそうだが、心からその信仰の対象となる存在に対して帰依できるかどうかが大切だということになるだろうな。そこに僅かでも疑いがあるのであれば、やめておいた方がいいかも知れないな」
「はあ」
「まあ誰もがすぐにそのような境地に至ることができる訳ではない。もしそうであれば、この寺だって信者さんたちでもっと賑やかになっているだろうさ」
 男は笑った。
「まあ、もう少し考えます」
 男は部屋を出た。玄関先で妻に挨拶をする声が聞こえ、しばらくして車のエンジン音が響いた。

 男が去って静かになった後、私はしばらく物思いをしていた。
 私自身、他の宗派を含めた仏教について人様に説くような知識と教養のある人間なのだろうか。
 人に物を教える時に、不意に己の無知を知ることがあるものだ。
 私は少々自らを恥じながら仏様の前に座り、目を閉じて瞑想をした。


#23 救いへの道

 次の週も男がやってきた。
「すみません、たびたび失礼をして」
「本当にそうだな。あんたと話すと普段の倍は疲れる」
「冷たいことを言わないでくださいよ。今日は…」
「いや、大体わかる。先週の話にまだ合点が行っていないのだろう」
「…はあ、まあそんなところで」
「まあ、先週は駆け足で話をしてしまったからな。言葉が足りない点も多かった。今日は続きと、補足の話をしようか」
「言葉が足りない点は大丈夫ですよ。もしこの話が間違って本にでもなったら、作者がこっそり修正しますから」
「メタいことを言うでない」

「さて、冗談はともかくとして、『御仏の救い』について、そして『救い』へ至る道についてもう少し話をしよう」
 私は姿勢を正し、座り直した。
「まず浄土の教えについて言えば、仏様―阿弥陀様は全ての衆生を等しく救ってくださるものだ。阿弥陀様に一心に帰依し、『南無阿弥陀仏』―即ち、『私は阿弥陀様に帰依します』、とひたすらに念仏することが救いへの道だ。念仏することで極楽に行ける、ということで、ある意味最もシンプルで分かりやすい教えだと思う」
「しかし、たとえば私が『南無阿弥陀仏』と唱えたとして、『救い』というものを実感できるのか、と言われると疑問です」
「確かに、念仏したからと言って現世的な御利益がある訳ではないから、『救い』を実感するということは難しいだろうな。ただ、念仏することで極楽に往生できる、その事実が心に安寧をもたらす。無論これは、浄土の教えを深く理解して信心していればの話だがな」
「なるほど」
 男は言った。ただ、なるほどとは言ったものの、それは口だけの納得に見えた。
「まだ合点しておらぬようだな」
 男は何とも言えない顔をしている。
「私見になるが、念仏を唱えることによる『救い』には2種類あると思う」
「はあ」
「まず何度も言うように、阿弥陀様に導かれて死後極楽に往生できるという安心がある。ただ、これはあんたがそれこそ『死』に直面しないと実感できないものであるかも知れないな」
「そうですね」
「ただあんたは時々『死』を想うが故に苦しむ、という悩みを私にしていたではないか。そのような心境に至った時、念仏によって救われる余地は大いにあると思う」
「はい。しかしまだ私は念仏によって安心する、というところまでは至っていないですね」
 男はやや俯いて言った。
「まああんたはまだ若いからな。本当に『死』に直面したことがないし、仮に『死』を想う時があったとしても、日常に紛れてすぐに忘れてしまうだろうからな」
「そうですね」
 私は一呼吸置いた。そして徐に切り出す。
「…そしてもう一つは、一心に念仏することによって『無』の境地に至ることだ」
「『無』の境地ですか」
「うむ。一心に念仏することにより、悩みや苦しみ、邪念が消え失せ、心が空っぽになる。これが『無』の境地よ」
「いつか仰っていた『四苦八苦』を心から消し去るという働きと言えますかね」
「そうだな。いつぞや『マインドフルネス』の話が出たと思うが、心の働きという点で言えば強ちハズレでもない」
「はい」
「ただ、浄土の教えの本来は、念仏することで広く衆生が阿弥陀様に導かれて極楽往生に至るというのが本道だ。現世的な『無』の境地に至る、悟りという点について言えば、禅宗の方が得意分野と言えるかも知れない」
「禅宗ですか。臨済宗と曹洞宗」
「そうだ。この二つについて、先週は少し説明が足りなかったから、今回はもう少し話をしようか」
「お願いします」

「禅宗はいずれも『座禅』によって『悟り』を開くことを目的としたものだ。これはまあ分かるな」
「はい」
「臨済宗は座禅しながら『公案』という問題―師が弟子に与える問題について思索する修行を中心とする」
「禅問答、というやつですか」
「そうだ。で、曹洞宗はひたすら心を無にして座禅に打ち込む、『只管打座』によって悟りの境地を目指す」
「しかし先生、たとえば臨済宗で『公案』ですか、問題を考えることで悟りの境地に至ることができるものですか?ひたすら心を無にすることを目指して座禅に打ち込むことで悟りに至る、という方が分かりやすく思えますが」
「『公案』を考える時、それは言葉によって考えるものではない、と言われる。言葉では表せない境地―いわゆる形而上の事柄について、『言葉』によって応答しなければならない。これは大いなる矛盾であり、非常に困難なことだ。しかし、その『言葉では表現できない何か』を『公案』を通じて掴む、その経験によって人は『苦』を乗り越えて仏の境地に至ることができる、ということではないかと私個人としては考えている」
「ううむ」
 男はしばし間を置いた後、呟いた。
「よくわかりませんね」
「そんなに簡単に分かれば世話はない」
 私は笑った。
 男は頭を掻いた。
「ちなみに、臨済宗以外でも『禅問答』は行われている。永平寺で雲水がやっているのを見ただろう」
「はい」
「なので、禅の教えにおいては方法は異なっていてもこういったことに対して思索するという点は共通しているのかも知れないな」
「そうですね」
「禅の教えは臨済宗と曹洞宗、あとは黄檗宗と言って江戸時代に隠元禅師が広めた宗派がある。方向性としては臨済宗の流れを汲むものだが、中国様式が特徴だ。あと、禅の教えでありながら念仏を取り入れている」
「そうなんですか」
「念仏と禅は対立するものと捉えられることが多いが、座禅と念仏の併修は決して珍しいことではなかった。大元が同じ仏教であるということもあるし、同時に行うことができないというものでもないからな」
「しかしそれは…大変そうですねえ。一つでも私には難しすぎるというのに」
 私はまた笑った。

「ところで、やはり仏教により救われるには、得度して仏門に入り、先生のような高僧に師事する必要があるのですか」
 私はお茶を噴きそうになった。
「気持ち悪いな。腹にもないおべんちゃらを言うでない」
「いえいえ。まあそれはいいんですが、どうなんですか。やはり出家というのは重要なことですか」
「師弟の関係を重んじるのは禅宗の方だな。禅で悟りを開くには出家が必須とされる。たとえば、道元禅師は『正法眼蔵』において、戒律を守る在家より出家した破戒僧の方が良い、とまで記されたほどだ」
「高僧に師事し、師の下で厳しい修行に取り組む、というイメージですか」
「その通りだ」
「浄土の方はどうですか」
「浄土は出家を重視していないと言っていいだろうな。阿弥陀様は出家か在家かに関わらず、全ての衆生に等しく慈愛を与え、極楽浄土に導いてくださるものだ」
「では先生は要らないのではないですか」
 私はまたお茶を噴きそうになった。
「酷い男だな。さっきとはえらい違いだ」
「いやいや…南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生出来るのであればそれが一番楽ですし、多くの…いや、全ての人に救いの扉が開かれている訳じゃないですか。だとしたら、出家して仏門に入らなくとも、普通に生活していても同じではないか、ということを言いたいのです」
「いやいや…じゃあまあ、私の存在意義について説明しようか」
「お願いします」
「簡単に言うと、阿弥陀様は現世にはいらっしゃらないだろう」
「そうですね」
「であれば、誰があんたのような迷える衆生を念仏の道に導くというのか。まさかあんたが、何もないところから突然念仏に目覚め、勝手に育って南無阿弥陀仏の仏教者になる訳ではなかろう」
「まあそうですね」
「あんたがこの寺に来るようになったのは、あんたの中に生・老・病・死の苦しみがあって、その苦しみをどうにかしたいという思いから、藁にも縋る思いで来たのだろう。そのことを思い出しなさい」
「はあ」
「現世であんたに仏の道を説き、南無阿弥陀仏を唱えなさいと教え諭す。それが私の役目だ。見てみなさい、これだけでも私が居る意味があるではないか」
「了解です」
 男は言った。
 しかし、一呼吸おいてまた言った。
「しかし、そうだとすれば、私は別に出家する必要がなくはないですか」
「本当に念仏を理解したとすれば、あんたには後に続く者を念仏の道に導く使命がある。言ってみれば伝道師、とも言える役割かな。その道を目指すものがいなくなれば、教えは絶えてしまうだろう。だからこそ仏教に専心して衆生を導く役割を担う者が必要だと私は思っている」
 言い終わったところで、夕焼け小焼けが鳴った。
「ちょうどいいところで終わったな」
 私は呟いた。

「という訳で、衆生を導く役割を担う気はないかな?」
 私は言った。
「新しい勧誘のフレーズですね」
 男は苦笑いを浮かべながら皮肉のようにそう言った。
「まあ、考えさせてください」
「あんたはいつもそうやって逃げるな。まあ別に急かすわけでもないし、強要する訳でもないからいいがな」
 男は同じ表情のまま、車に乗り込んだ。

 私はまだしばらくは大丈夫だと思うが、あと20年、30年したらどうなるだろうか。
 私自身、というより私がどうにかなった後、この寺と檀家さん、そしてこの界隈の仏の教えが絶えてしまうことがどうにも心配でならなくなってきた。
 私の後、私の意思を継ぐ者がもし現れなかったとしたら…

 縁起でもない。
 そもそも、あの男にそのような期待をしてどうするというのか。
 私は少々自分に腹を立てながら部屋に戻り、残ったお茶を思い切り啜った。


#24 此方と彼方


 暖かい日曜日の昼下がり、うとうとと眠りこけていると、けたたましいエンジン音がした。
 あの男である。
 別に来るのは構わないが、せめてもう少し静かな車に乗ってはくれまいか。
 あのような車は燃費も悪いし、環境にもよろしくない。
 あのような車を自慢気に乗り回している辺り、俗世の煩悩から逃れることができていない証左である。

「先生、こんにちは」
「おう、また来たか。せっかく昼寝をしようと思っていたのに、目が覚めたわ」
「冷たいなあ。せっかくこうやってご高説を拝聴しに来たのに」
「あんたの車はやかましすぎる。大体、この地球温暖化の折にわざわざ車で来る必要があるのか」
「近所じゃないんですよ。この寺はバスも電車も通ってないですし。よくこんなところで暮らせますね」
「大きなお世話だ。で、今日は何の用だ」
「ええ、前回先生から仏教のいろいろな宗派について教えていただきましたよね」
「まあ、全部ではないし、ざっくりとしか話していないがな」
「そのような中で、どうしても一つしっくり来ないことがあるのです」
「ほほう。それは何かな」
「我々が死を迎えた後のことです」
「ん?」
「仏教においては、多くの宗派において『死後の世界』『極楽』『地獄』というものが存在するとしていますよね」
「うん、それはそうかな」
「しかし、私は『死後の世界』というもの、死者の『霊魂』の存在についてどうも信じられないのです」
「ああ、そういうことか。なるほどな」
 私はしばし黙って顎を撫でた。

「そう言えばだいぶ前に、あんたは人間の活動の一つ一つは化学反応の結果に過ぎない、と言っていたな」
「はい、よく覚えておられましたね」
「まあ、その考えは私にはなかったからな。あんたが医者だと知って合点がいったが」
「その時に先生は、『死後の世界なんて死んでみないとわからん』と仰っていましたね」
「そんなこと言ったかな」
「言いました。都合の悪いことは忘れるのですね」
 私は頭を掻いた。
「まあ、そういうところに引っ掛かりがあって、私は『死んだら極楽浄土に往生するんだよ』と言われても、どうにも信用が置けないというか、リアルなものとして捉えられないのです」
「なるほどな。であれば、基本的には死後極楽に往生するという世界観がある浄土の教えには馴染まないかも知れんな。と言うより、仏教を含め殆どの宗教が『死後の世界』に関する考え方を持っているから、宗教そのものに馴染まないのかも知れない」
「仏教に帰依する者は皆、死後の世界を信じているのでしょうか」
 男は問うた。縋るような目に見えた。
「仏教徒の中でも仏教の解釈は様々だ。前にあんたに話をした『宗派』についてもそうだったようにな」
 男は黙って聞いている。
「仏教徒の中にも様々な死生観を持つ者がいる。それは自分が読んで影響された経典など、様々な要因があると思うが。仏教学者や知識人の中にも『釈迦は死後の世界を説いたことはない』と言う者もいるようだな」
「先生ご自身は…やはり心の底からは信じてはいないのですか」
「自分の心の拠り所としてはあるのかな、とは思う。ただ、あんたに対して自信をもって『ある』と言えるほどの確信は持ってはいないな」
「しかし、仏教において『輪廻転生』という教えがあり、人は解脱に至ることでその『輪廻転生』から一抜けをして仏となる、極楽浄土に至る、ということになっているのではないですか」
 私はまた少し考え、間を置いた。

「まず考えないといけないのは、『輪廻転生』の意味、ということになるかな」
 私が言うと、男は私の方をまっすぐに見て呟いた。
「意味…?」
「うむ。『輪廻転生』から一抜けをして解脱するのが仏教の目的である。ということは、『輪廻転生』をするのは、『解脱』をし損なった人間ということになる。『死後の世界』というのは、そういう人を対象にしていると言えるだろうな」
「なるほど」
「そうなると、ざっくり言えば解脱をし損ねた、仏教的に言えば『不完全な人間』が死後『輪廻転生』をして生まれ変わる。これが『死後の世界』と言えるものかな」
「解脱をした者は…どうなるのでしょう」
「釈迦は『死後の世界』については『説いても意味がない』とした、という話があるな。だとすれば、釈迦は『輪廻転生』は肯定したとしても、『解脱』をした者がどうなるか、ということについては語らなかった、のかも知れない」
「だとしたら、『死』に対する態度についてはどうだったのでしょう」
「解脱した者は死を恐れない。だから、死について殊更に考える必要はなかったのだろう」
 男は黙った。ただ、何となく釈然としない顔をしていた。

「であれば」
 男が切り出した。
「たとえば、浄土の教えにおいて『極楽往生』『無間地獄』というものがありますが、『極楽』は解脱した者が行く世界であり、『地獄』は念仏に帰依しなかったものが行く世界、ということになると思いますが」
 私は下を向いていた。
「その場合、念仏を唱えていれば阿弥陀仏によって極楽に誘われるという考え方に無理が生じませんか。釈迦はそのようなことを言ってはいないのではないかと思われますが」
 私は少し間を置いて、徐に言葉を出した。
「宗派によって死後の世界、地獄極楽の考えは異なる。それは釈迦が死後の世界についてはっきりと語ることがなかったからだと私は考えている。そもそも、釈迦にしたって現世に現れなすった方だから、『死後の世界』について語る術があったのか、という気もしなくもないが」
「であれば」
「まあ聞きなさい。そもそも『死んだことのある者』などこの世にいない。よって『死後の世界』がどんなものなのか、その正解を知る者はいない。同じ仏教徒であっても、宗派によって、またその人一人一人の考え方によって死後の世界や輪廻転生、地獄極楽に対する捉え方は様々だ。この狭い日本の中でさえ、その解釈の違いから様々な宗派が生まれている。どの考え方、どの宗派を選ぶかというのはその人の考え方次第だろう」
「自分で考えなさい、ということですか」
 男は少々落胆したような顔をした。
「まあそうだが、それはそれで良いことだと思うぞ」
「どういうことですか」
「だからこそ、人はどの教えを選ぶかを自分で選択することができる。初めから答えがあるのであれば、人は苦労をして努力をしたり考えたりすることはしないだろう」
「まあそうですけどね」
 男はまだ口を尖らせている。
「そもそも、人は…あんたもそうだと思うが、基本的に『死』から目を逸らしている。目を逸らしているからこそ、時に『死』が頭に浮かぶとその恐ろしさに恐れおののくのであろう」
「はい」
「仏教の教えに触れ、真剣に『死』と対峙することで『死』の苦しみを克服する。これが仏教を信仰する目的だと私自身は考えている」
「はい」
「そもそも『死後の世界』にしたって、『死』の苦しみから逃れるための方便である、と言えなくもない。本当に『死』の苦しみを克服して解脱した者にとっては『死後の世界』なんてどうでもいい。『死』すら超越している訳だからな」
「それはそうですが、我々…いや少なくとも『私』はそのような境地にはなれません」
 私は笑った。
「いやいや、私だってそうだから。まああれだ、どのようなプロセス、宗派であったとしても、真摯に御仏の教えに従って『より良い生き方』をするのであれば、死を含めた苦しみを克服して明鏡止水の心境に達することができるのではないか、それが『解脱』の境地に近いものではないかとは思う。そのために私は今も仏教者として教えに向き合っている」
「なるほど。しかし先生」
 男は今一度顔を私の方に向けた。
「解脱や極楽についてはそれで良いとして、『地獄』についてはどう考えたら良いのでしょうか」

 男は続けた。
「私の知り合いにとある宗教の熱心な信者から勧誘を受けている人がいて、『入信しないと地獄に堕ちる』と言われて困っている、と言っていました」
 私はため息をついた。
「無視しなさい」
 男もため息をついた。
「私もそう思うんですが」
「そもそも『地獄』で脅すなど、まともな宗教のやることではないよ」
 私は吐き捨てるように言った。
「しかし、仏教は『地獄』の存在を肯定していますよね」
「うむ。たとえば日蓮宗においては法華経への帰依を絶対とし、誤った教え、たとえば浄土の教えなどを敵視している訳だが、そのようなものに帰依することは最も重い罪とされ、地獄に堕ちるとされているな。また、以前話したかと思うが、一向宗においては『進者往生極楽、退者無間地獄』のスローガンの下で時の権力と激しく戦った歴史がある」
「はい」
「特に日蓮宗については、日蓮自身が他宗を激しく排撃し、国民全体が法華経に帰依しなければ日本は滅びるとまで言っている。それは彼自身の、当時の世相に対する危機感がそう言わせた側面はあると思うが、私自身は『入信しないと地獄に堕ちる』という言い方はあまり好きではないな」
「日蓮宗には与しない、ということですか」
「無論、法華経を仏教最高の経典としてその教えを尊重することは否定しない。ただ、帰依を強制し、帰依しない者は皆々地獄に堕ちる、というのは些か言い過ぎではないか、ということだけだ」
「一向宗についてはどうですか」
「前も言ったかと思うが、戦争というのはどのような理由があっても否定されるべきものだと思うし、宗教の名の下に信者に戦って死ぬことを強いるというのは決してあってはならないことだ。私はこのことについては明らかに間違っていると思っている」
「厳しいですね」
「宗教が人に対して財産や命を差し出せ、という権利なんてないよ。そこを勘違いしている『自称宗教家』が最近多すぎやしないだろうか」
「しかし先生、だとすれば『地獄』というものが持つ意味は、仏教においては一体何なのでしょう」
「仏教においても『罪』に対しては『罰』があるということだろう。仏教における『法』とは即ち『戒律』のことだ。戒律を破れば罰として死んだ後、輪廻転生の世界の中で最も苦しい『地獄』に堕ちる。それ自体は単純な話だろう」
「しかし、浄土の教えには『悪人正機』の考え方がありますね」
「そうだな。御仏は普く全ての衆生を救ってくださる。悪人こそが死を恐れ、地獄を恐れ、阿弥陀仏に帰依する心がけに近い、という考え方だ」
「であれば、少なくとも悪人に対しては『阿弥陀仏に帰依して念仏を唱えなさい、さもなくば地獄に堕ちるぞ』と言っているのと同じではないですか」
「それは少々違うな。少なくともいわゆる『悪人』に対して『地獄』を使って入信を迫ることはない。『悪人の方が…』というのは、あくまで『地獄』を恐れる悪人が『自発的に』阿弥陀仏に帰依する機会、可能性が善人のそれに比べて高くなるだろう、というだけのことだと思う」
 男は納得したような、していないような、難しい顔をしている。
「少なくとも『脅し』という手段を使って入信を迫るような宗教は私は嫌いだな。仏教にもいろいろな宗派があり、中にはそのような方向性を持つものもあるのだろうが、私個人としてはあまり認めたくない。信心というのはあくまでその人その人の中で自発的に起こるべきものだと私は思っている」
 そこまで言ったところで、夕焼け小焼けが鳴った。

「…ということで、私はあんたが『自発的に』仏門に帰依し、得度するのを待つことにするぞ」
 私は冗談めかして言った。
 男は何も言わず、苦笑いをした。
「そうだ、一つお聞きするのですが」
 男は振り返りざまに言った。
「先生は『臨死体験』についてどう思いますか。そういった経験をした人や、そういう話を聞いた人は『死後の世界』というものを信じる傾向にあると思いますが」
「私はそれは信じていないな」
 即答した。
「なぜですか」
「恐らくそれは、人が生死の境を彷徨った時に、自分が無意識のうちに思い描いている『死後の世界』というものが、朦朧とした意識の中で『夢』に近い形で投影されているだけなのではないかと思う。何故なら、日本の仏教徒が『臨死体験』の中で見る『死後の世界』は決まって三途の川が流れていて、向こう岸には蓮の花畑が広がっていて、というものだろう。外国人の異教徒が臨死体験をした話は聞かないが、それは日本人のそれとは違うものであるはずだ。『死後の世界』に国や宗教の違いはないはずだからな」
「なるほど」
 男はそう言うと、私に背中を向けた。
「するとやはり人間は、死んだら土に還るだけなのですかねえ」
 男は少々寂しそうに呟いた。
「だから前も言っただろう、死んでみなきゃわからんと」
 男は何も言わずに扉を開けて外に出た。
 私が扉を閉めるとほどなく、けたたましいエンジン音が響いた。
 そうだ、あの男にはもう少し環境に優しい車に買い替えるように言わないといけないんだった。
 そしてもう一つ思い出したことがあった。
 私は眠く、昼寝をしたいのであった。
 ないとは思いつつ、男が間違って引き返して来ないことを祈りつつ、私は部屋に枕とタオルケットを放り投げてその場に横になった。



#25 救いは何処に有りや


 久しぶりに男がやって来た。
「おう、来たか。随分久しぶりだな。生きていたのか」
「いえいえ、先生より先に逝く訳にはいきません」
「相変わらず失礼な奴だ。それが年長者に対して言う言葉か」
「いや、仏教的な意味で言ったのですよ」
「どういうことだ」
「先生は仏教者として成熟しておられ、解脱の境地も近いことでしょう。それに引き換え私はまだまだ悩みの中にあります。こんな中で死んだら、私は死んでも死に切れません」
「ふん。腹にもないことを言いおってからに。大体、死んでも死にきれないとは何だ。化けて出るつもりか」
 男は笑った。
「まあ、冗談はさておき」
 男は急に真面目な顔になった。
 私は少々怪訝な顔になった。
「さて、私はどのような方法で、どこに救いを求めたものやら、と。今日はその話をしに来たのです」

「先生は今まで、仏教の中でもいろいろな宗派があるという話をされて来ましたね」
「うむ」
「仏教においても、救いに至る方法やその対象は様々である、ということになりますね」
「まあ、そうだな」
「そうなると、救いへの道は一つではないと。では自分はどのような道を選べば良いのかと。それが今日の問いです」
 私は宙を見上げた。
「確かにあんたの言うとおり、仏教には様々な宗派がある。私がどうして今の道を選んだのか、というと」
 私は言ってからしばし腕を組み、黙って下を向いた。
「…難しいなあ。あの時はあまりそういったことを意識せず、さも当たり前のように今の道を選んだ気がする」
「それは…それがもしかしたら、御仏の導き、縁というものであったということでしょうか」
「うむ、そうかも知れん」
 私は息をついた。初めて男の言葉で救われた気がした。

「そうなると…たとえば私が救いを求めるとしたら、先生と同じ道を選ぶのが吉、ということになりますか」
 私はまた宙を見上げた。
「それは分からんな。あんたにはあんたの道があるのかも知れん」
「しかし、縁あって私は今、先生に教えを乞うています」
「そうかも知れないが、あんたは今迷っているのだろう」
「はい」
「であれば、迷うということであれば、あるいはこれはあんたにとって、今私が進んでいる道と違う道を進むためのきっかけである可能性があるということではないかな」
「ほほう」
「私はごく自然に、疑うことなく今の道を選んだ。あんたは今私と同じ道を進むことを躊躇っている。そこは決定的に私と違うところだから、あんたはあんたで自分の進むべき道を考えた方がいいと思う」
「なるほど」
 男は少し考えて、さらに問うた。
「では、たとえば子から孫へ代々受け継がれるお寺もありますよね。そのようなお寺であれば」
「恐らく、今の私のように自然に疑いなく、親と同じ道を選んでいるのではないかなあ」
 私は男が言い終わらないうちに答えた。
 男はそれ以上問わなかった。

「たとえば、浄土の教えについてですが」
 男が切り出した。
「阿弥陀様に帰依しなさい、これは分かります。しかし、南無阿弥陀仏を唱えることで誰しも救われます、これは少々私の中では合点がいかないのです」
「ほう。それは何故かな」
「一言で言うと、簡単すぎるということです。それで救われるのであれば苦労はしません」
「なるほど」
 私は顎を撫でてひとしきり考えた。
「なるほど確かに言わんとするところは分かる。しかしそれは少々早合点ではないか」
「そうですか?」
「うん。これは私の考えだが、単に口先でナムアミダブツと言ったとしても、それは単なる発音の羅列に過ぎない」
「違うのですか」
「違うな。浄土におけるお念仏というのは、阿弥陀様に帰依しますという思いを込めて南無阿弥陀仏を唱えることだと思う。もっと言えば、南無阿弥陀仏という言葉は、阿弥陀様に帰依するという気持ちの象徴ではないだろうか」
「気持ちを込めて唱えないと意味がない、ということですか」
「そのとおり。もっと言えば、私は阿弥陀様への帰依の気持ちを強く持っていれば、南無阿弥陀仏を無暗に唱える必要はないとさえ思っている。あくまでそれは帰依の気持ちの表現なのだから」
 男は黙って聞いている。
「まあそれはあくまで極端なことであり、南無阿弥陀仏を唱える行為を尊ぶということはあるだろうな。ただ、口先だけでなくそこには信仰の気持ちが必要だということは誤りではないと思うが、どうだろうか」
「はい、そしてもう一つ」
 男はさらに問うた。
「浄土の教えはあくまで、死後の世界での救いを対象としていますよね。前回もお聞きしましたが、果たして人間が死して後、救われることがあるのかと、そこに疑問が残ります」
 男は続けた。
「どちらかと言うと、人間として生きる以上、現世で幸せになりたいという方が自然だと思っています。死んだ後どうなるか分からないのに、死後の救済を求めて何かの教えに身を委ねるのは難しいことだと思います」

 私は少々落胆した顔をして話した。
「そもそも仏教においては、人間の一生は旅の途中に過ぎない。その目的は人間界を含めた輪廻転生から解脱するためのものである。それは恐らくどの宗派においても同じだろう。その目的を否定するのであれば、仏教者としては相応しくない」
 男は察し、下を向いた。
「すみません」
「いや、いい。人の考え方は様々だ。たとえば仏教なんてインチキだ!という者がいたとしても、私はその考え自体肯定はしないが、尊重はする」
「いやいや、そんなことは言いませんが」
 男は慌てて目の前で手を振った。
 私は表情を変えず、目線を落としたままで居た。
 男はばつの悪そうな顔をして黙っていた。
「いや、これは私が悪かった。あんたに『死後の世界』についての明確な答えをしてやれなかったからな」
 男はなおも黙っている。
 私も何を言えば良いか分からず、黙っている。
 気まずい時間が流れた。

「先生」
 男がこの沈黙に耐えかねたかのように切り出した。
「私は今申し上げたように、死後の世界に対して答えが出ない以上、それを目的とすることには懐疑的です。であれば、現世を充実させるために仏教を信じるというアプローチは出来ないのでしょうか」
 私は黙って顔を上げた。
「現世で…か」
 私は眉間にしわを寄せたままで呟いた。
 しかし、心の中では安堵した。
 今日再び、男の言葉で救われた。

「先生が以前から仰っているとおり、現世においては『四苦八苦』という苦しみがあります。その苦しみを克服するために凡夫は御仏の教えにすがるのではないですか。であれば、それは現世における利益であり、たとえ死んだ後どうなるか分からないとしても、信仰する価値はあるのではないかと思うのです」
 男は言った。
 私はようやっと表情を緩めた。
「うむ。確かにそういうスタンスはあって良いと思う。逆に言えば、そのようなアプローチから入って誠実な生を送れば、死を克服し、本来の仏教の目的である解脱の境地に近付くということは言えるだろうな」
「わかりました。ありがとうございます」
 礼を言いたいのはこちらの方であった。

「それを踏まえ、私は自分の進むべき道を考えているのです」
 男は改めて切り出した。
「宗派のことか」
「はい。目的は…完全にとは言いませんが理解したつもりです。問題はその手段、プロセスです」
 男は続けた。
「先ほど申し上げましたとおり、浄土の…南無阿弥陀仏と唱えることで救われる、この教えについては少々簡潔に過ぎないか、という疑問があります」
「であれば、禅の教えはどう思う」
 私は問うた。
「私の性分として、確かに座禅に打ち込んで自身と向き合い、心を無にすることで「仏になる」又は「仏性を得る」という方法の方が理解しやすいことは確かです。ただ、禅の修行は非常に厳しく、また俗世と隔絶されています。そうしなければ救われないのか、と考えると、逆にそのハードルの高さを感じますね」
「うん。さらに言えば、浄土の教えは阿弥陀様によって救っていただくものであるのに対し、禅の教えは自ら悟りを開くものだ。ざっくり言えばだがな」
「なるほど」
「あんたがさっき言ったとおり、そうしなければ救われないというのであれば、それはあまりに無慈悲だと思う。それに、俗世―一般の社会から離れて修行を積む、という状況を作ることそのものが凡夫にとっては非常に難しいと思う」
「はい」
「恐らくあんたは勤勉な人間であり、またあまり他者に依存せず自分の力で生きてきたのであろう。そうであれば、禅の教えの方が理解しやすいのかも知れないがな」
「いや…勤勉ではないと思いますが」
 男は恥ずかしそうに頭を掻いた。
 私は笑った。
 その時、夕焼け小焼けが鳴った。

「宗派については、確かに念仏と禅の二つが大きな流れであることは間違いない。ただ、仏教においても他に様々な宗派があることは事実だ。そういったものも含めて、もう少し考えてみてはいかがかな」
 私は別れ際、そう男に言った。
「はい。もう少しいろいろと勉強してみたいと思います」
「そうだな。私に訊くばかりじゃなくてな」
 男はまたばつの悪そうな顔をして車に乗り込んだ。
 私が奥へ引っ込むと、ほどなくけたたましいエンジン音がした。

 確かに私はあまり考えることなく、気が付けばこの道に身を投じていたのである。
 そのような者が安易に一人の人間を自分の道に引き込んで良いのだろうか。
 それはあまりにも無責任なことだったのではないだろうか。
 私は胸に少々重いものを感じた。
 そして、疑問を隠さず吐露し、今一度勉強すると言ってくれた男に今一度感謝したのである。




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