長編連載小説#1 六脳(第4回〜第6回)
第4回 出会い(4)
幹事男の思惑が必ずしも成功したとは思えないが,結果的にこのクラスコンパをきっかけに京阪大学法学部語学第二クラスは,「一人一人の集まり」から「いくつかのグループの集合体」という色彩を強めていった。
まず,栗山と久我山。
二人は既に公認のカップルといった雰囲気で,いつも隣同士に座っていた。
本来なら優等生の二人だけに,いつも一番前のど真ん中に座っていると思われがちだが,実はそうではなく,二人は語学の授業などではいつも後ろの隅っこに座っていた。
「俺は法律を学びに来た。それ以外の勉強は,時間と脳みその浪費でしかない。」
それが栗山の考えだった。
そして久我山も,その考えに必ずしも賛成だったかどうかは定かでないにしろ,常に彼について行動していた。
次に,小林,木下,小松。
この3人は,実際には3人ではなかった。
まず小林はその明るい性格(クラスコンパで加藤とけんかした事から一時「怖い奴」と思われたことがあったが,その誤解はすぐに解けたものだ)から,何人ものクラスメートと打ち解け,仲良くなった。小林ら三人の回りに多くの人が集まり,一大グループを形成していた。
ただ,この雰囲気に木下,小松は少なからず動揺を感じていた。
木下は大人しいながらも何とかついていこうとしていたが,無理をしている様子は否めなかったし,小松に至ってはただボーっとして,この集団の中にあっては本当に「ただいるだけ」という始末だった。
小林はそのことを気にしていた。
特に小松のことを気にかけた。
こいつ,このままやと孤立してまうぞ。
小林は時に,小松と二人で話をした。
それは他愛のない話だった。
そして,小林がいつも話を振って,小松はそれに一言二言応じるだけの,何とも味気のない会話ではあった。
ただ,その時だけだった。
小松が本当に緊張を解きほぐし,時に微かな笑みさえ浮かべて見せたのは。
しかし,小松の微かな笑みを横目に見ながらも,小林の目は別の方向を見ていた。
その視線の先には,久我山がいた…
相変わらず栗山と,夫唱婦随で歩く彼女の姿が。
さて,孤立と言う点で小松よりもっと深刻だったのが,クラスコンパでいきなりもめ事を起こした加藤だった。
「グループの集合体」となっていたクラスの中で,彼だけはいつも一人で,栗山・久我山とは反対側の隅っこの一番後ろで,やっぱりタバコをふかしていた。
教授に注意されると,反抗的な上目遣いをして,無言で教室を出ていった。
その姿はまるで,中学か高校の不良のようだった。
それ以来,クラスで彼を見たものはいなくなった。
京阪大学に入学した一回生は,ほぼ例外なく「基礎ゼミ」と言うものに入れられる。
本格的に法律を研究するゼミナールに入るのは3回生になってからだが,それ以前の早い時期から基本的なリーガル・マインドを身に付けさせるべく,法律のさわり,基礎の基礎をまず勉強し,研究の真似事をさせようというのが目的だ。
初めに各教授によるオリエンテーションがあって,それを元に学生が自分の属する「基礎ゼミ」を選択する。
勘のいい読者の皆さんならお分かりだろう。
またしてもこの6人…一緒の基礎ゼミ「民法第1ゼミ」に入ってしまったのであった。
しかも,混じりっけなしの,純度100%のこのメンバーだけで。
このゼミの教授,45歳の新進気鋭の坂元忠志(さかもと ただし)は,基礎ゼミのオリエンテーションでこんなことを言った。
「俺はやる気のある奴でもない奴でも喜んで迎える。勉強したい奴は俺の所に来れば司法試験に合格するだけの基礎力はつけさせてやる。勉強したくない奴は来なくていい。それでも単位はやる。」
民法という法律は,1000以上の条文からなる結構厄介な法律だ。
それをわざわざ選択しようという奴は,何らかの目的―司法試験とか司法書士試験とか公務員試験とか―を除けばなかなかいるものではない。
しかし,その「何らかの目的」を持っている奴―栗山は迷うことなく彼のゼミを選んだ。そして,それにくっついて久我山が,そしてさらにそれについて小林が,小松が,木下がこのゼミの門を叩いた。
そして,クラスでは孤立の一途をたどっていた加藤も,「どこかの基礎ゼミには所属しなければいけない」という事情に背中を押され,「来なくても単位はやる」という誘い文句に誘われてこのゼミを選んだ。勿論,彼も法学部に来ていた訳で,法律に対する熱意が完全に失せた訳ではなかったこともまた事実ではあったが。
ただ,1回目のゼミが始まるまで,誰がどこのゼミに所属しているかというのは,友達同士の情報交換がなければ分からなかった。
だから,1回目のゼミのために集まった時,「またこの6人が集まった」という事実に対して,6人は6人ともある動揺を感じていた。
ここまで偶然が続くなんてただ事じゃないぜ。
小林は少し興奮気味に,そう言った。
加藤は少々ふてくされて,また煙草に火をつけた。
とにかく,新生「坂元基礎ゼミ」は,この6人でスタートを切った。
第5回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(1)
「今日は法律に関する話は一切するつもりはない。君達に俺のこと,俺のゼミのことを少しばかり知ってもらいたいのと,あと俺の方でも君達のことを知っておく必要がある。今日は簡単な自己紹介と,あとはディスカッションだ。内容は自由だ。真面目な話である必要もない。悪態をついても構わない。今日は無礼講だ」
第1回目の基礎ゼミの冒頭,指導教官・坂元忠志教授(45歳・民法専攻)はこんなことを言った。
基礎ゼミ―前回までの話を読んでいない人のためにもう一度説明すると,まさに読んで字の如く,本来3回生から始まる本来の「ゼミナール」の前に,1回生時から,いわゆる「リーガル・マインド(法律的な考え方)」とやらの素養をつけさせるために大学側が設けた,法律の基礎の基礎を学ぶゼミナール形式の授業だ。そして京阪大学の新入生は,ほぼ例外なく全員この「基礎ゼミ」への登録を義務付けられる。
「それじゃあまずは,自己紹介といくかな」
6人のゼミ生を前にして,坂元は言った。
狭い教室の前の黒板にでかい字で「坂元忠志」と書いた後,
「俺は坂元忠志。民法専攻だ。あと質問のある奴は手を上げろ」
といきなり聞いた。
10秒ぐらい沈黙があった後,小林が先頭を切って恐る恐る手を上げた。
「あの…このゼミに申し込んだんはぼくら6人だけやったんですか?」
何訊いてやがる。そんな目で栗山と加藤が小林を見た。
「そんな訳ないだろう」
坂元は眉一つ動かさず言った。
「言っておくがな,こう見えても俺様のゼミは人気が高いんだ。まあ出なくても単位はやると言ってるんだからサボり目的の奴も多いがな。3回になってから本式のゼミがあるが,やはり俺のゼミは人気がある。その時は俺が成績表とかを見て,法律に関して素養のありそうな奴を厳選する」
しばらく間を置いて,続けた。
「しかし,君らの場合は,まだ一回生だから,そういった判断基準が全くない。強いて言えば入試の成績だが,あんなものは何の役にも立たないことは経験上知っている。入試がトップでも馬鹿な奴もいれば,入試の成績がぎりぎりでも優秀な奴もいる」
そしてまた黙った。しばらく後,少々ばつが悪そうに下を向き,さっきまでより遥かに小さな声になった。
「あまり大きな声では言えないが,俺は某法律予備校で講師のバイトをしている。それを見ていて思うが,一流大学の奴が必ずしも優秀な奴とも限らない。一流大学でも馬鹿はいるし,三流大学でも優秀な奴はいる。入学試験,あんなものはクソの役にも立たない」
そこまで言うと,彼はもう一度大きな声になった。
「そういう訳で,今回基礎ゼミを開く時も俺のゼミには多くの申し込みがあった。そういう訳で,ちと申し訳ないが,何も判断基準がない以上,無作為抽出で抽選で選ばせてもらうしかなかった」
無作為抽出の抽選の結果がこれかよ。
小林は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
これってもしかして,何か縁があるんやないのか,俺達6人は。
そこまで考えて,愉快さを覚えたのか,こらえきれないように笑みを漏らした。
それをまた栗山と加藤が,見下げたような目で見ていた。
ただ,小林が口火を切ったおかげで他の5人が話しやすい雰囲気になったことは事実だった。
以下はこの時にゼミ生から坂元教授に出た質問と,その回答である。
栗山:「やる気のある奴には司法試験に受かるだけの力をつけてやる」という言葉に嘘はないですね。
坂元:俺は嘘はついたことがない。事実,俺の認めた奴は全員,しかも在学中に受かっている。つまらない心配をする暇があるなら,俺に認められる力をつけろ。
小林:司法試験に受かるにはどのくらい時間がかかるんですか。
坂元:本人次第だ。できる奴は明日にでも受かるし,できない奴は一生受からん。
久我山:私は法律が全然分かりません。そんな私でもついていけますか?
坂元:まともに学んでないんだから,分からないのは当たり前だ。授業に出てからそういう心配をしろ。授業に出ても分からないならそれは教授の授業が悪い,ひいては学校が悪い,ひいては俺にも責任の一端があるんだから,俺の所に聞きに来れば分かるまで教えてやる。
小林:基礎ゼミって一体どんなことをするんですか?
坂元:今までの裁判の例(判例と呼ぶ)を元にして,法律に照らし合わせて「自分ならどう裁くか」ということを一人一人に考えてもらう。そして議論をしてもらう。難しそうに聞こえるかもしれないが,やっているうちに追々分かるから安心しろ。
木下:私はおとなしいせいなんか,議論とかになるとどうしても負けてしまうんですけど…
坂元:議論に性格うんぬんは関係ない。言っていることが正しい奴が勝つんだ。ただ,「自分の言っていることが正しい」という自信だけは常に持つようにしていろ。
加藤:俺はこうやって人と群れるのが嫌いや。(残り5人を見渡して)こいつらは特に嫌いや。だからこのゼミにも出てくるかどうか保証はせえへん。それでも単位はくれるんやろうな(原文ママ)。
坂元:俺は嘘はついたことがないとさっき言ったはずだ。ちなみに俺はお前のような奴は嫌いじゃない。その気になったらいつでも出て来い。
小松:あのー…何で標準語なんですか?関西なのに。
坂元:(苦笑)俺は元々関西人じゃない。東都大学を出て,司法試験に受かって,東都大学で教授になる予定だった。ただ,あそこの教授は石頭ばっかりだったから,俺はぶち切れて喧嘩して辞めちまった。それを拾ったのがここだった。君らも社会に出たらいろいろあるだろうが,喧嘩はしないほうがいいぞ。これが俺が君らにまず最初に教えることだ。
ここまで出たところで,教授への質問は出尽くした。
次は,6人の自己紹介の番になったのだが,このことについてはまた次回。
第6回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(2)
「栗山一路です。司法試験,目指してます。できるならば大学在学中に合格したい,そして将来はそれを踏み台にして天下を取りたい,それがぼくの夢です」
華々しく,いの一番に自己紹介でぶちあげたのは栗山だった。
そして,それを頼もしげに見ていたのは,久我山。
彼女は次の番だったのだが,栗山に見とれていた所為でそれをすっかり忘れてしまっていて,隣の木下につつかれてはじめて我に返り,少しばつの悪そうな表情を浮かべて立ち上がった。
「久我山…京子です。えと…将来とかはあまり考えてないんですけど…とにかく頑張ってついていこうと思いますので,よろしくお願いします」
誰について行く気やねん。
少し嫉妬深い,彼にしては嫌な感じの目をして小林は斜に構えて彼女を見ていた。
次は,隣の木下の番だった。
「木下晴海です。あんまり議論とか法律とか自信ないんですけど…頑張ります。よろしく」
小さい声でそう言うと,彼女はそそくさと座ってしまった。
次は,小林。
「小林陽一です。ぼくも司法試験を目指します。負けたくないです」
そこまで言うと,彼は栗山に視線を向けた。
彼は小林の方を見ないで,正面の,何もない窓の方を見ていた。
「でもまあ…焦らないで,少しずつやっていきます。皆さん,仲良くやっていきましょう」
我ながら支離滅裂やな。
彼は少しうつむいて,腰を下ろしながらまた栗山と,久我山を交互に見た。
栗山は相変わらず,彼を無視するかのように正面の窓を眺め,久我山はそんな彼をまだ見つめ続けていた。
小林は誰にも気付かれないような,小さなため息をついた。
次は,小松。
「小松唯です…えと…よろしくお願いします。よろしく」
よろしくを二回繰り返す変な挨拶に,教授の坂元自身が,吹き出しそうになるのを懸命にこらえていた。
小松は座った後,何かにすがるような目をして小林を見た。
しかし小林は,栗山と久我山の観察に忙しくてそれに気付く気配さえなかった。
仕方なく彼女は,その視線を木下に向けた。
木下はそんな小松に気付き,目配せをした。
そこでやっと小松は微かに,安心したような,リラックスした表情をした。
最後は,加藤。
「加藤宏。俺にはゼミは要らない。仲良くしようというバカな考えも持っていない。所詮食うか食われるかだ。俺は俺で,俺のやり方でお前らをぶっ潰してやるからそう思え」
加藤は咥え煙草で,睨むように全体を見回して,低い,呟くように小さな声で吐き捨てるように言った。
そしてそのまま出口のドアに向かい,そのまま出て行ってしまった。
全員何が起こったか分からず,ぽかんとして彼を見送るしか術がなかった。
彼はそれっきり帰って来なかった。
「よし,自己紹介は終わりだな,なかなか面白い奴が揃っている。こいつは楽しみだ」
坂元は口元に笑みを浮かべて,愉快でたまらない気持ちを抑えきれないような口調で言った。
その瞬間,一時限,90分の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「いいタイミングだ。今日はここまでにする。次回はとりあえず俺が課題を持ってきて,それを元に,みんなに議論をしてもらう。法律の予備知識は一切要らない。むしろそういうものは邪魔だ。法律に囚われない,君らの考え,君らの良識に従って考えを述べ,それだけを拠り所にして議論をしてもらう。予習は一切しなくていいし,どんなにとんちんかんな意見を言っても構わないし,気にする必要もない。テイク・イット・イージーだ。気楽にやればいい。以上」
坂元はそこまで言うと,でっかいカバンを片手に教室を出た。
少し間を置いて,栗山と久我山が教室を出た。
それを追うかのように,小林が小走りに出て行く。
行こうか。
木下が小松に声をかけ,最後に教室を出た。
今日の法学部一年生の授業は,午前中のこの授業でおしまいだった。
後は昼飯を食べて帰るだけだ。
小林は,まるでつけまわすように,栗山と久我山の3メートル後ろを歩いていた。
こいつら,帰る方向一緒やし,絶対一緒に帰るつもりや。
こいつらが何するか,見とかなあかん。
栗山と久我山は対面(といめん)に座って,何やら話をしていた。
栗山は相も変わらずクソ真面目にすまして,久我山に何やら話をしていた。
久我山もそのクソ真面目が伝染したかのように真剣な顔でそれを聞いていた。
小林はその2つ後ろの席で二人を見ていた。
色気のある話をしているわけじゃ,なさそうやな。
しかし,油断でけへん。
ああいう奴ほどほんまはドスケベエで,帰りに女をホテルに連れこんだりするんや。
小林はあたかもスパイの如く,唇の動きから何を喋っているかを探ろうとしたが,悲しいかな彼にそこまでの技術はなかった。
そして,それをするには二人の時間はあまりに短かった。
二人は20分ほどで昼食を済ませ,さっさと食堂を後にしてしまったのだ。
小林は残っていたラーメンを速攻ですすり上げ,二人の後を追って走った。
次に二人は学生会館に行って,テキストを買った。
小林自身もまだテキストを買っていなかったので,これ幸いに買うことにかこつけて二人を観察していた。
二人はひたすら法律や司法試験といった,真面目な話しかしていなかった。
そして二人はさっさと必要なテキスト,六法を揃えてしまってレジに並んだ。
小林は二人の二つ後ろに並んだ。
これだけ執拗につけまわしているのに,全く二人は小林の存在に気付いていないようだった。
それは小林にとって幸運でもあったが,逆に淋しいことでもあった。
何たってそれは,気付きもしないほど彼の存在価値は低いものであるという事実と同時に,二人が何の邪魔立ても許さない二人だけの空間を形成していることを嫌でも認識させられるものであったからだ。
俺,何やってんだろ。
もう,帰ろうかな。
小林はそう思いながら,下を向いてとぼとぼと校門に足を向けた。
その時だった。
思いもよらない光景が展開された。
同じ方向に帰るはずの栗山と久我山が,じゃあね,と行って別々の方向に別れたのだ。
栗山は自宅の方向に向かったが,久我山は家とは反対の方向に向かって歩き始めた。
何かある。
直感した小林は,久我山の後を追った。