長編連作小説#1六脳(第7回〜第9回)

第7回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(3)

 久我山が向かったのは,最寄りの私鉄の駅だった。
 大学から駅までは,だいたい100mくらいの見当だった。
 駅についた彼女は,切符を買うでもなく,改札をくぐるでもなく,駅前のロータリーに突っ立っていた。
 何や?
 小林は駅前のコンビニに入り,その窓から雑誌を立ち読みするフリをして彼女を見ていた。
 異変は,その10分後に起きた。
 白の外車(しかもそれが改造車であることは,車にさして詳しくない彼にも一目で分かった)が彼女のまん前に止まり,彼女に向けて手を振った。
 彼女は表情をほころばせ,いそいそとその車に乗りこんだ。
 小林は,持っていた雑誌を取り落とし,なおかつそれにも気付かず呆然とその様子を眺めていた。
 彼は,何とかその運転手の顔を見定めようとした。
 それが栗山でないことは分かった。
 栗山は短髪の黒髪だったが,その運転手は茶髪の長髪で,耳にはピアスと思しき金属の光沢が見えた。
 久我山はその男と楽しそうに何かを話しかけ,笑っていた。
 男はK市一番の若者の街であり,夜の繁華街でもあるK町のある方向へと車を走らせた。
 小林はその場もわきまえないで,座り込んでしまった。
 おったんや。
 しかもあんな遊びまくり,やりまくってそうなチャラチャラした不良そうな奴と…
 確かに久我山はもてるだろう。
 顔も美しいし,性格も明るく,社交的である。
 彼女に今更清純さ,ヴァージニティを求める方がそもそも間違っている。
 しかし,よりにもよってあんな男―デートでもした日には1回目からホテルに連れこまれそうな,あんな男と…
 あいつのどこがいいんだろうか。
 どこが良くて,久我山ほどの女があんな男と…
 これなら,栗山とくっついてくれた方がまだましだ。
 栗山が相手なら,仮に敗れたとしても,まだしも自分でも諦めがつく。
 しかし,あんな…人生のことなんてなーんにも考えてなさそうな奴に負けたとなっては,俺はあまりに惨め過ぎるじゃないか。
 そこまで考えた小林の顔に,ふと栗山の顔が浮かんできた。
 もし栗山がこの事を知ったら,彼はどう思うだろうか。
 栗山だって久我山に気があるはずだ。
 しかも,「天下を取る」と公言するほどプライドの高い男だ。
 そのプライドの高い男が,お目当ての女をあんな男に取られていると知ったら,彼は何を思うだろうか。
 そこまで考えると,小林はこれまでの沈んだ気持ちからは考えられないくらい愉快な気持ちになった。
 高慢ちきなプライド野郎め,地獄に落ちるがええわ。
 小林はこの事実を,明日にでも,いや,可能ならば今日今すぐにでも,栗山に喋ってやりたい衝動に囚われた。
 断っておくが,決して小林は本来はこんなに性格の歪んだ,性根の悪い男ではない。
 恐らく明日小林にこの事を言えば,彼は真っ青な顔をして,あの時は自分の精神状態がおかしかったのだ,なぜそんな事を思ったのか説明できない,と言うだろう。それほど今繰り広げられた光景は,彼にとってはショッキングで,できるなら悪い夢であればいい,と思うような残酷な現実だった。
 そんな悪魔の衝動は,再び破られた。
 駅前に現れた一人の男。
 それは紛れもなく,栗山一路その人だった。
 栗山は駅前に立っていた女性の一人―それは久我山と違い,どっちかというと大人しげな,控えめな感じの,いわゆる「大和撫子」という形容がぴったり来そうな女性だった。化粧も施さず地味な感じだったが,久我山の華やかな魅力とはまた違った物を持っていた。
 目鼻立ちは整っていて,もし化粧を施していれば,恐らく久我山に勝るとも劣らない美人に化ける,そんな予感を漂わせる女だった―に声をかけた。
 栗山は彼女と二人で切符を買って,改札の中に消えて行った。
 おったんや。
 あいつにも。
 栗山と久我山。
 二人が仲良くしていたのはあくまで友人,クラスメートとしてのことであって,お互いにはお互いの恋人がいたというのか。
 それとも二人は,今の恋人は恋人として,新たなる関係を結ぶことを模索しているのか。
 だとすれば,それはモラルに反することのように小林には思われた。
 男子校出身で男と女のことに疎い小林にとって,恋は一度,恋人は一人,ということは当たり前のモラルとして頭に染み付いていた。
 卑しくも恋人のある身であるなら,その人一人を大切にすべきだ。それ以外の人と男と女の関係になることを考えるなんて,そのこと自体不埒で,彼には許しがたいことだった。
 小林は考えた。
 もし栗山が今の彼女と男と女の関係であるなら,彼はその女と幸せになればいい。
 そして,俺は…今のあの不良から久我山を奪ってしまえばいい。
 俺は栗山に勝てるかと言われれば―それは彼にとって認めたくないことであったが―かなり難しい。
 しかし,相手があの不良気味の男なら,何とかなるかもしれない。
 そもそも,あんな将来のことなど何も考えてなさそうな男について行けば不幸しか待っていないことくらい,久我山にだって分かっているだろう。
 今の女は昔の女のように一途ではない。恋愛は恋愛,結婚は結婚,遊びは遊び,生活は生活とシビアに考えているはずだ。
 久我山にしたところで,今は一緒にいて楽しいから遊びのつもりで彼と付き合っているのだろうが,最終的には将来,生活を考えた相手を選ぶはずだ。
 栗山がもしこのレースから消えてくれるなら,俺はまず将来性ではあの男には勝てるはずだから,最後に勝利を掴む可能性が少なからずある。
 よし。
 今はとりあえず我慢の時。
 いつか俺にも,久我山をものにするチャンスは巡ってくるはず。
 そう考えると,不思議に元気が湧いてきた。
 小林は,さっき取り落とした雑誌を丁寧に棚に戻して,コンビニを出た。
 そこに彼は,見覚えのある女の姿を見た。
 それは…
 小松―小松唯だった。
 彼女は意味もなく道端に突っ立って,真っ直ぐに小林のほうを見ていた。

 

第8回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(4)

 小松は,道路を挟んで反対側に立ち,じっと小林の姿を見ていた。
 小林は,横断歩道を渡って小松に歩み寄った。
「何や自分,何でこんなとこにおるんや」
 小林は全てを見られていたかもしれない気まずさに,責めるような口調で小松に食って掛かった。
「わかんない…」
 小松は一言だけ言った。
 そして,言うが早いか,普段のおっとりした彼女からは考えられないくらい俊敏な動きできびすを返して,逃げるようにその場を走り去った。
 小林は何も出来ず,ただ彼女の後ろ姿を眺めていた。
 何やねんあいつは。
 ただ,そう思っていた。
 小松の家は,大学の前からバスに乗らなければ帰れないほど遠い所にあった。
 本来なら彼女は,とっくの昔にバスに乗って家路についているはずだった。
 それなのに彼女は,全然何のゆかりもないこの駅の前で,しかも小林の姿をずっと見ていたのだ。
 小林はある種の疑問,そして気味悪さに近い気持ちを感じていた。
 前々から変わった奴やと思うとったが,あの行動は明らかに変やで。
 しかし小林は,そう思いながらも,逆に彼女の行動に対し,悪い気のしていない自分を感じていた。

 その後1週間,彼らは直接顔を合わせることはなかった。
 栗山と久我山は相も変わらず二人いっしょに行動していたが,他の4人はばらばらだった。
 加藤に至っては,授業に出て来すらしなかった。
 小林はあの時のことを気にして,小松に近づこうとはしたものの,小松が彼を避けるように一人で行動していたので,小林もそれ以上追及しようとはしなかった。
 小松はその1週間,明らかにおかしかった。
 いつも一緒であったはずの唯一の理解者である友人,木下さえも彼女には近づけなかった。
 彼女が怒っているとか,そういう訳ではなかった。
 むしろその逆で,小松は何だか魂の抜けたような,死んだ魚のような目をして単に授業に出ているだけ,ただいるだけ,という体で,そういう意味で誰も近づけない雰囲気を持っていたのだ。

 1週間後,2回目の基礎ゼミの日がやってきた。
 加藤を除く6人が集まった。
「何だおい,一人足りねえじゃねえか」
 教授・坂元は不満そうに独りごちた。
「あいつか,はは,有言実行て訳か。やるねえ,あの野郎」
 自分で言って自分で納得していらっしゃるご様子。
「まあいいや,いねえものは仕方ねえ。始めるか」
 例のべらんめえ調で,自分で自分を慰めるかの如く声のトーンをあげて開会を宣言した。
「今日の議題は昭和7年の判例だ。古いねえ。何たってまだ最高裁が大審院と呼ばれてた時代だからな。タイトルは」
 坂元はそこまで言うと,でっかい字で前の黒板にこう書いた。
「胎児の権利能力・未認知子の損害賠償請求」
 これを見て小林が思わずくすりと笑った。
「おいそこのお前,今笑っただろう。何故笑った。このどスケベエめ」
 坂元がそう言うと,横の小松がくすりと笑った。
「こらそこのお前,何で笑うんだ。お前ら二人身に覚えでもあるんじゃないだろうな。このすけべどもめ」
 そう言って坂元はがははと笑った。今度は同調して笑う奴はいなかった。
 小林は思わず赤くなり,うつむき加減に小松を見た。小松は反応しなかった。
「まあ胎児だの認知だの言うとこの二人のようにいやらしい想像をする奴がいるが,この判例に限って言えばいたく真面目な話だ。残念だったな」
 言うと坂元は後ろを向いて,黒板にA,B,X1,X2,Yと書いてそれらを線で結び始めた。
「先生,何ですかそれ?」
 木下が尋ねた。
 その時,栗山が木下を見た。心なしか軽蔑したような眼差しだった。
 それを久我山は見逃さなかった。
 彼女が何を思ったかは知らない。
「まあ初めてだから分からんだろう。まさか予習してきたバカはいねえだろうしな」
 坂元はそう言って栗山を見た。
 栗山は心なしかむっとした表情になった。
「このA,B…てのは今回の登場人物だ。まず原告,即ち訴えたのはX1とX2,訴えられたのはYだ。Yは電鉄会社で,このAがYの会社の電車に撥ねられて死んだ。X1はAと結婚はしてなかったが同棲していて,Aが死んだ時おなかにAとの子供であるX2を身ごもっていた。AはまだX2を子供として認知していなかったが,生まれたら自分の子供であると認知するはずであった。そこで,X2が生まれた後,X1は自分の夫となるはずだったAを殺されたことについて,X2はAが生きていれば認知を受けられ,育ててもらえたはずだったのに,Aが死んだために養育を受けられなくなりなおかつ生涯私生児として暮らさなきゃいけなくなった,どうしてくれる,ということでYを訴えた」
「認知がなくて私生児だったらどう具合が悪いんですか」
 久我山が訊いた。
「認知を受けていない私生児は法律上の子として認められないんだよ。だから法律上いろいろと権利を制限されて不便なことになるんだ」
 教授の代わりに栗山が答えた。そして,ね,という目で坂元を見た。
「予習してきたバカが約一名いたらしい。それともそういう経験があってそれでやけに詳しいのかな」
 坂元がからかうように言った。
 栗山が再びむっとして坂元を睨んだ。
「さて」
 構わず坂元が続けた。
「そういう訳で裁判になったが,実はここに書いてあるBという奴が,X1,Aのお父ちゃん(即ちX2のおじいちゃん),その他親族に依頼されて,損害賠償についてYと和解してしまっていたんだ。そうなると当然Yにとってはもう終わった話を今更蒸し返されるのは迷惑な話で,そういう訳で争いになった」
 栗山だけがうんうんと頷いていて,あとの4人はぽかんとしている。
「ちと難しい話になってきたな。まあX1の請求については,もう自分で頼んだBが和解しているから当然ダメよ,ということになった訳だが,問題はX2の方だ」
 坂元はぽかんとしている4人を見ながら,さすがにちと困った顔になって,それでも説明を続けた。
「このような場合は胎児にも誰かに代わってもらって損害賠償請求をする権利があると民法では見なしているんだが,今回のようにまだ生まれていないうちに勝手に和解されてしまうと胎児,即ちX2にとって逆に損になる場合が考えられる。そこで判決は,Bが当時胎児だったX2の代わりにYと和解したことについては間違っている,と言った訳だ」
 そこまで言うと,坂元はふうと息をつき,一同を見まわした。
「さて問題。君達はこの判決についてどう思うだろうか。はい,まずそこのスケベ」
 そう言って坂元は小林を指差した。
「スケベじゃありません。小林です」
「いいから質問に答えろ」
「…」
 しばらく沈黙があった。
「ん…んと,いいんじゃないでしょうか。その方が子供にはありがたいし」
「おい,小林」
 栗山が口を挟んだ。
「感情で言うんじゃないよ。これは法律の問題なんだ。法律にきちんとのっとって,それではじめて判断しなきゃだめなんだぜ」
「ほう,言うな,未婚の父。じゃあお前の考えはどうなんだ」
 坂元が言うと,栗山はあたかも坂元に殴りかかるのではあるまいか,というほどの怒りを帯びた勢いで立ち上がり,まくしたてるように言った。
 曰く,X2にとっては確かに利益かもしれないが,Yにとっては,せっかく一度和解したのに再び蒸し返されて訴えを起こされるのは迷惑である。さらに,法律上では認知していない子には権利能力はないはずだから,それをひっくり返すような判決を裁判官の一存できめるのはいかがなものか,などと等々とまくしたてた。
 その時だった。
 不意に小松が立ち上がり,叫ぶ様に言った。
「だって,それじゃ,子供がかわいそうやない!!」
 栗山は妖怪でも見るような目で彼女を見た。
「全く話にならない…」
 彼は吐き捨てるように言って座った。
「やれやれ」
 坂元が疲れ切ったような顔で言った。
「ま,今は死後認知という実に便利な制度があってな,死んだ後でも制度上認知は可能だから,さっきこの未婚の父が指摘したような,認知したしないの問題は起こらない。死ぬことを案ずることなく安心してセックスするこったな」
 そこまで言った時,狙い済ましたようなタイミングでチャイムが鳴った。
 栗山と久我山が先に出て行き,木下と小松も出た。
 最後に残った小林に,坂元が声をかけた。
「おい,そこのスケベ…じゃなかった,小林君」
 小林は驚いたように振り返った。
「飲みに行かないか…おごってやるぜ」
 小林はますます驚いたが,断る理由もない。
「はい」
 彼は言った。
 廊下に出ると,再び小林は目を丸くした。
 さっき出たはずの木下と小松が,まるで待ち伏せでもするように突っ立っていたのだ。
「君達も来い,ゼミの新歓コンパだ」
 坂元が,普段の彼からは信じられないほど静かな口調で二人に言った。

 

第9回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(5)

 その日の夕方,K市内の居酒屋に,一風変わった集団が現れた。
 一団は総勢4人で,内訳は中年男1人,若い女2人,若い男1人である。
「いらっしゃいませ,何名様ですか?」
 店員がそう言うと,坂元は低く渋い声で,
「4人だ」
 と言った。
 そこはクラスコンパのあった居酒屋よりも狭いが,4〜6人の座敷が個室のように区切られていて,静かに話をするには向いているように思われた。まだ時間が早いこともあって,客の姿も少なく,落ち着いた雰囲気であった。
 まず坂元が奥の上座に座り,その隣に小松が座った。坂元の向かいには木下が座り,その隣の小松の向かいに小林が座った。
「ところで小林君」
 坂元はおしぼりを取り出して手を拭きながら,対角線上の小林に言った。
「今日君を誘ったのは他でもない。今日の俺のゼミについてだ」
 小林はきょとんとしていた。
 何でそんなことを俺に聞くのか。
 もっと相応しい奴がいるだろうに。栗山とか栗山とか栗山とか。
「何で俺を選んで訊くのか,と思っているだろう」
 坂元が悪戯っぽく言った。
 小林はごまかし切れなくて,微かな苦笑いを浮かべた。
「栗山とかいう奴は確かに優秀だ,それは俺も認める。ただ,今現在ではあんな知識は無用だ。むしろそういうものは邪魔なんじゃないかと俺は考えている」
 坂元がそこまで言った時,店員のお姉ちゃんが注文を取りに来た。
「全員ビールでいいか。それじゃ大瓶を…とりあえず3本,食べるものは後で頼むからまた来てくれ」
 ほどなく,ビールの大瓶が3本と,グラスが4つ届いた。
 まあ飲め。
 そう言って坂元はまず木下のグラスにビールを注いだ。
 そして小林にビール瓶を渡した。
 小林は坂元に注ごうとした。すると彼は,
「俺は男に注がれるのは嫌いだ。向かいの彼女に注いでやれ」
 そう言って,小松を示した。
 断る理由もないので,小林はあたかも儀式のように小松に注いだ。
 ご返杯しろ。
 坂元の指令で小松が小林にビールを注いだ。
 木下も慌てて坂元にビールを注ぐ。
 乾杯。
 坂元が発声して,4人はグラスを合わせた。
「小林君,さっきの続きだ」
 ビールをちびりちびり飲みながら坂元が言った。
「俺が君を選んで訊くのは,君が知識的に普通の1回生のレベルにあることと,人柄を考えて君の意見が訊くに値すると考えるからだ。いわば,俺は君を信頼して訊いているのだ。お世辞は要らないから,忌憚のない意見を聞かせてくれ」
 小林は驚き,戸惑ったような表情をした。
 彼は瞬間,小松を見た。
 彼女は微かに頷いたように見えた。
「うーん…」
 小林はしばし沈思黙考した後,
「分からないっすねえ」
 絞り出すように言った。
「そうか」
 坂元はまるでそれが予期した答えであったかのように,冷静に呟いた。
「いや,先生の授業が分からないんじゃなくて,どう言っていいか…」
 小林は慌てて,フォローするように言った。
「はっはっは,いや,正直に言えばいいんだ。どう言っていいか分からないということは,即ち授業そのものが分からない,理解できてない,ということなんだ。そうだろ」
 小林は黙っていた。
「まあ今日に関して言えば俺が悪い。何の法律的知識もない奴にいきなり判例を持ってきて,意見を言え,ディスカッションしろ,と言ったってそれは無理な注文だった」
 坂元は一息ついた。そして続けた。
「ただ,何の法律的知識もない奴だからこそ,難しい判例に対してどんな反応を示し,どんな意見を言うか,それを知りたかった」
 そう言うと,彼は今度は小松を見た。
「だから貴方が子供が可哀相,と言ったのは俺にとってはすごく救いだった。確かに裁判だの何だの言うのは,法律に依拠してなされなければならない。でも,時には思いやりだの感情だの,そういったファクターがどうしても必要になることもある。法律的知識オンリーの,融通の利かない機械人間ではいい法律家にはなれねえんだよ」
 そこまで言うと,坂元は立ち上がった。
「俺の訊きたかったこと,言いたかったことはそれだけだ。俺はこれで失礼する。後は君らで楽しんでくれ。これは資金だ」
 そう言って,彼は一万円札を4枚テーブルに置いて,出口へ向かった。
「先生,まだいいじゃないですか。それにこんな大金を」
 小林がそう言うと,坂元は,
「4万が大金だなんて言ってるうちはまだまだ子供だな。それに俺はもう君達に付き合う暇がない。家に帰って,愛する家族のお相手をしなきゃならん」
 そう言うと,彼は3人に一瞥もくれないで出て行ってしまった。
 残された3人は,半ば呆然としてテーブルの真ん中の4枚の紙幣を眺めていた。
「どうする?」
 木下が言った。
「どうするって言われてもなあ…」
 小林は腕組みをした。
「とりあえず折角来たんやし,飲むだけ飲もうよ。お金は使わないでおいて,後で先生に返せばええやない」
 小松が言った。いつになくしっかりした口調だった。
「そうやな」
 小林が同調した。
 木下も頷いた。
「よし,そうと決まれば」
 小林が立ち上がった。
「すみませーん,注文お願いしまーす」

 

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