長編連作小説#1 六脳(第10回〜第12回)

第10回 基礎ゼミと彼らのプライベートについての簡単な説明(6)

 坂元が帰り,残された3人は,初めは遠慮がちにちびりちびり飲んでいたが,次第に酔いが回るにつれて,ペースが上がってきた。
 クラスコンパではみんなにある意味遠慮があったので3人も同様に遠慮していたのだろうが,今回はそれなりに3人ともリラックスしていたのだろう。小林はすでにビールから日本酒に移行して徳利を3つ空けていたし,木下と小松もそれなりに飲んで頬を赤く染めていた。
「ああ,酔っちゃったみたいやなあ」
 小林が言った。
「そうなん?そうは見えへんけど」
 木下が言った。
「そうやで,小林君。男が酔ったなんて弱音吐いとったらあかんわ」
 小松が,いつになく明るく,というか,これがあの小松かというくらい,人前では見せないくらいの高いテンションで,けらけら笑いながら言った。
「小松さん,いつもとちゃうわ」
 小林も陽気に笑いながら言った。
「唯はいつもこうよ,飲んだら」
 木下が言った。何故か彼女一人冷静だった。というか,むしろ暗かった。
 そんな木下に気付くはずもなく,小林は笑い茸でも食ったかのように,けらけら笑い続けていた。
「そうなんや,そうなんや。ええなあ,唯ちゃん,こっち来(き)い」
 小林が小松を呼び寄せた。
 時計は7時半を回っていた。
 そろそろ客も増えてきて,あっちからもこっちからも飲んではしゃぐ声が聞こえていた。
 だから少々騒いだとしても,全く目立ちはしなかったのだ。
「はーい」
 小松は嬉しそうな声をあげて,小林に寄り添った。
 小林は悪乗りをして,小松の肩を抱いた。
 小松も酔っていたのだろうか。それとも,確信犯だったのか。
 彼女は小林の顔を見つめて,唇をすぼめて目を閉じた。
「んー」
 小林は明らかに酔っていた。
 彼は彼女の唇に己の唇を近づけた。
 おいおい。
 木下が止めようとしたその時だった。
「あのー,すいません,そろそろラストオーダーなんですが」
 店員の乱入により,彼らの狼藉は未遂に終わった。
 二人は急に我に返り,毒気に当てられたような,なおかつばつの悪そうな顔を浮かべ,まるで磁石の同じ極同士のように,ぴょんと座敷の両端に飛び退いた。

「もう,唯ったら恥ずかしいったらありゃしない。よくあんなことを公衆の面前でできるわねえ」
 店を出た後,小林は飲みすぎたと言って,彼女達と別れて先に帰った。木下と小松は二人で,どこへ行くともなくぶらぶらと歩いていた。
「ええやない」
 小松からは,そして酒に酔っている人からは信じられないくらい強い,確固とした口調で言った。
「私,小林君のこと,好きやもん」
 小松ははっきり断言した。
 酒の勢いでなければ,決して彼女からこんな言葉を聞くことはできなかったろう。
 木下は少なからず驚いたが,すぐさま納得した。
「そうなんや」
 彼女は少々気落ちしたようにそう言った。いや,この時に限った話ではなく,彼女はこの飲み会では当初から少々暗いように見えた。
「どうなんかなあ,小林君」
 独り言のように木下は言った。
「どうなんかなあ,ってどう言うこと?」
 小松が少々不服そうに言った。ケチをつけられている,と彼女には思えた。
「いや,小林君がどうこう言うわけやないけどな」
 一息ついて,木下は続けた。
「男なんて信用できひん。所詮男なんて,女のことをアクセサリーだとか,セックスをする道具くらいにしか思ってへんのやないのかなあ」
「何で?何でそんなことが言えるん?」
 小松は気色ばんで言った。
「分からへん?」
 木下は小松の目を見て言った。
 小松はある事実に思い当たり,はっとした。
「そやったね。晴海は…そやったんやね」
 木下はため息をついた。
「ごめん,晴海。変なこと思い出させて」
「ええんよ」
 今日初めて,木下が笑った。
「うちは男なんて信用してへんけど,唯が小林君のことが好きや言うんならそれは応援するよ。唯の目が確かなら,小林君に限って言えばそんな男やないかも知れへん。でも,やっぱりうちは唯が心配やねん。うちのような思いをさせるのは,そんな唯を見るのはうちも嫌やからな」
「小林君は…大丈夫。何たって,あの坂元教授に見込まれた人柄やもん」
 唯はきっぱりと夜空を見上げて,そう言った。
「そうなんや」
 木下は言った。
「よし,飲み直しや。きっちり聞かせてや,唯ちゃんの恋物語を」
 そう言いながら二人は,女が二人で行くには少々不似合いな,うらぶれたネオン街へと消えて行った。

 その頃。
 小林は買ったばかりのシングルベッドに横たわり,ぼんやりと物思いをしていた。
 酒の所為で頭がはっきりしない。
 そして,無性に思い出されるのは,宴席でのあの奇妙に色っぽかった,小松唯の酔態だった。
 彼女は俺に,確かに唇を求めた。
 奪おうと思えば奪えた,あの唇。
 夢想していると,不意に下半身が反応してきた。
 おいおい。
 俺が本当に好きなのは…
 しかし,男の悲しさ。
 本能には逆らいきれなかった。
 彼はその夜,自分で自分を癒した。
 小松唯の,あの姿を供にして。

 おはよう,小林君。
 木下が挨拶する。
 ああ,おはよ。
 小林が返す。
 木下と一緒にいた小松は,ちょこんと小林に頭を下げる。
 小林が微笑んだ。
 それはいつもの光景だった。
 あの日のことなんて,まるで無かったかのように。

 

第11回 そして月日は流れ去り(1)

 時は常に,淡々と流れて行く。
 そして彼らも入学してからその流れに押し流されるままに齢を重ねて行くのだ。
 時ははや,2回生の秋を示していた。
 俗に,司法試験に合格するためには,最低でも2年半はかかると見て間違い無いだろうと言われる。
 無論例外的に,一年かそこらの勉強であっさり在学中にパスしてしまう強者もいるが,それはごく一部の,才能に恵まれた例外的人種に過ぎない。
 よく予備校の教師などが,「私の授業を受けて効果的に勉強したA君は3年次に合格しました」などと言って自慢しているが,それは確かに教師の教え方によるところも大いにあるのかも知れないが,大部分はその「A君」とやらの努力と才能の賜物である。合格したのはA君の栄誉であって,教師の栄誉ではない。相対的に教師間という観点で言えば,あの教師は優秀だ,ということになって一定の評価は得られるだろうけれど。
 さてさて,何故こんなことを書いたのかというと,司法試験を本気で(記念受験者は除く)受け,在学中に合格しようとする人にとっては,2回生の秋というのが一種のターニングポイントになるのだ。つまり,在学中合格を目指すなら,2年次秋に勉強に本腰を入れないとまず受からない,というのが司法試験界の常識である。従って,在学中の司法試験合格を目指す優秀な学徒どもは,2年次秋から,それまでどんなに遊び呆けていた奴でも,人が変わったような猛勉強に入る。
 京阪大学や,東の名門の東都大学が多くの司法試験合格者を輩出しているのは,別段彼らが特別優秀なオツムを持っているからではない。勿論ある程度オツムが優秀なのは間違いないのかも知れないが,オツムの優秀者だけしか受からない試験ならば,司法試験合格者,果ては裁判官・検事・弁護士の法曹三職はすべてこれら一流大学の学徒によって占拠されているはずである。しかし現実はそうでもなく,勿論こういった一流大学出身者の割合は高いが,そう言った人達を蹴落として合格したその他の大学の出身者だって決して少なくはない。いや多い。また,今まで受験とは縁の無かった,もしくは受験を離れて久しい主婦とかOLとかの合格者もいる。さらに,法学部出身でない受験生の合格者も少なからずいる。
 そういう訳で,司法試験というのは決して受験ヒエラルキーの一部特権階級にある者だけの試験ではない。まあそれでも一流大学出身者の方が合格者数が多いのは,この2年次後半の,いわゆる「勉強をしなければならない雰囲気」が学校中を支配するようになるからなのだろう。こういう雰囲気は一流大学独特のものだ。そうでない大学ならば,「4年間のモラトリアム期間をめいっぱい楽しんで,勉強は単位を取るためにとりあえず必要最小限にやって,就職活動してどこか就職先をさがしてもぐりこんで,一生そこで面倒見てもらえばそれでいいだろう」という雰囲気が支配するようになるから,ある日突然「さあ勉強だ」という気持ちに自分を追い込むこと自体が難しい。
 まあ勿論,司法試験を目指して勉強することがその人の人生にとって本当に正しいことかどうか,という事に関してはまた別の問題である。勉強だけが大学生活じゃないし,法曹だけが職業ではない。百人いれば百通りの生き方があるわけで,サラリーマンの道を選ぶ人もいれば,官僚を選ぶ人もいるだろう。音楽だの小説だのを生業とする人もいるだろう。その人が信念を持って選んだ道は,その人にとって最終的には必ず正しいのだ。たとえ1回や2回や10回や20回の遠回りがあったとしても。
 ただ,この小説に登場する6人は,最終的には司法試験を目指すことになる。
 だからこそ,この2年次秋が,世の司法試験受験者と同様,彼らにとってもターニングポイントになるという,それだけを言っておきたかったのである。

 1回生割当の「基礎ゼミ」が終わり,6人は表面上接点を失った。
 栗山一路は,既に1年次から法律の予備校に行って知識を蓄えていた。
 彼にとっては司法試験に在学中に合格することはいわば規定路線で,失敗の許されない戦いであった。
 確かに1回生の時は,彼女と遊びに行ったりそれなりに遊びもエンジョイしていたようだが,それでも勉強だけは一日も欠かすことは無く,2回生になると短答式の模擬試験で60点満点で40点前後は取れるレベルになった。大体普通の年で合格最低点が45〜6点であり,普通模擬試験ではやや難し目に問題を作るのが常だったから,既に合格レベルにかなり近付いていたことになる。
 久我山京子は,栗山の影響で司法試験を意識してはいたものの,その時点では大学の講義に出席する以外何の対策も立てていなかった。しかも彼女は,学校の講義よりも,しばしば彼氏とのデートを優先させた。夜のK町の繁華街にしばしば久我山が男と二人でいたという目撃情報が大学構内を駆け巡った。今まで彼女の美しさに惹かれていた大学の男どもはそれを耳にすると,逆に久我山を敬遠するようになった。栗山の耳にその噂が届いていたかどうかは知らない。
 加藤宏は相変わらず,授業には出ない,期末試験にも来ないで,単位不足の警告の掲示の中に彼の名前がしっかりあったほどだった。彼の消息を知るものはなく,「独学で司法試験の勉強をしている説」「バイトに明け暮れている説」「遊び呆けている説」「怪しげな団体の勧誘に捕まってメンバーに入れられた説」等々様々な噂が流れた。しかし事実は,まさに本人のみぞ知る,といった状況だった。
 木下晴海は,実に真面目な学生生活を送っていた。司法試験がどうの,というところまではまだ行っていないにしろ,きちんと出席してノートを取っていたし,予習・復習もやっていた。だから期末試験の成績はいつも優秀で,最高評価を示す「優」が全科目中の7〜8割方を占めていた。
 小林陽一もそれなりに授業に出て,真面目にノートを取っていたが,要領が悪い所為か試験の成績は芳しくなかった。自分がノートを貸してやった奴が単位を取ったのに,貸した彼自身が単位を落とすことさえあった。勿論それなりに勉強はしていたから取り立てて卒業が危なくなるほどのことではなかったのだが,彼は焦燥感を感じていた。何故なら,栗山の優秀さを風の噂に聞いていたから。
 あいつにだけは負けたくない。
 そんな思いが,小林を「2年次秋の猛勉強」に駆り立てるきっかけとなった。
 そんな小林に,何も分からずついてきたのは小松唯だった。
 小松は本気で小林に想いを抱くようになっていた。
 小林が図書館にこもって基本書・テキストを開いて勉強していると,必ずと言っていいほど小松がやってきて,隣の席に座ってそれを覗き見た。
「なんやねん,邪魔すんなよ」
 小林はむっとして言った。
「ええやん,一緒に勉強しよ」
 小松は悪びれもせずに言う。
「…ちぇっ」
 小林は断り切れなくて,一冊の本の片方を小林が,もう片方を小松が持つような格好で,二人でぶつぶつ法律の条文だの何だのを呟きながら勉強していた。
「一緒に…受けような,司法試験」
 帰り際,不意に小松が言った。
「あ…ああ」
 一瞬たじろいだ小林は,そう答えるのが精一杯だった。
「一緒に…受かろうな,司法試験」
 小松がまた言った。
「いや…俺の方が早いで。俺はあの栗山に勝たへんといかんからな」
 小林が今度は,はっきりとした口調で言った。
 小松が微笑を浮かべた。
 小林も微笑んだ。
 その様子を,後から出てきた木下が,5メートル後方からじっと眺めていた。
 彼女もまた,司法試験を目指す学徒となっていた。
 ただ,彼女だけが一人だった。

 

第12回 そして月日は流れ去り(2)

 2回生の秋から,木下晴海は司法試験予備校に行くようになった。
 栗山の行っているところとは別の,小規模の所だった。
 それには理由があった。
 最初彼女も,栗山の行っている大きな予備校を見に行った。
 するとどうだろう。100人からいる受講生に一人の講師。これでは一番後ろの席になってしまうと講師は豆粒ほどにしか見えないし,何より目の悪い木下にはホワイトボードの板書が読めない。勿論質問もままならない。
 自習室に行けば,やはり室内は生徒達で埋まっていて,席が全く空いていない。さらに,室内では勿論静かにみんな勉強していたのだが,外では勉強に疲れて休憩していると思しき学生達が,室内に聞こえるような大きな声でお喋りをしている。しかも彼らは,5分たっても10分たっても一向にお喋りをやめて部屋に帰る気配がない。木下は一旦そこを離れ,食事と買い物をして1時間半後に帰って来たが,その時もまだ同じ奴らがお喋りをしていた。
 いったい彼らは,勉強の合間にお喋りをしているのか,お喋りの間に勉強しているのか。
 そんな雰囲気が,真面目な木下には気に障った。
 そういう訳で彼女はそこをやめ,小規模予備校の門を叩いた。
 そこは,かつて一流予備校でその指導法で定評のあった講師が自ら開いた予備校で,短期合格・高い合格率を謳い文句にしていた。
 勿論彼女自身がそのような謳い文句を鵜呑みにしていたわけではないが,自ら見学して,その「少数精鋭」が真摯に勉強に取り組む姿に惹かれたのだ。
 そして,彼女の心の中に,このような小さな所ならば知っている人間に会う気遣いもないだろう,という気持ちがあったことも,また間違いのないことだった。
 3ヶ月ほど経ってからのことだった。
 いつものように木下は,少し早めに予備校に行ってテキストを開き,予習をしていた。
 今日から新しい科目の講義が始まるのだ。
 授業が始まる直前,彼女はトイレを済ませておこうと席を立った。
 ドアを開けると,一人の男が立っていた。
 見覚えのある顔。
 長らく姿を消していた,加藤宏だった。
「よお」
 あっけにとられて何も言えない木下に,加藤の方から挨拶をした。
「今日からここに来ることになった。よろしゅう頼むわ」
 何で?
 何でコイツがいるの!?
 その時の木下の,偽らざる気持ちだった。
 加藤は木下のバッグを見て,彼女のすぐ隣に席を取った。
 何で?
 何でコイツがあたしの隣に!?
 その時の木下の,偽らざる気持ちだった。

 時を同じくして,栗山と同じ大手予備校に,小林,小松,久我山の3人が入学した。
 小林は,栗山と同じ土俵で勝負するため。
 小松は,小林と一緒にいたいため。
 久我山は…
 あたし,彼氏と別れたの。
 久しぶりに顔を合わせた時,挨拶の次に,久我山は栗山にこう言った。

 受験体勢に入った6人。
 そして時間は,運命は,容赦無く彼らをぐるぐると回していく。
 いつしか彼らは,3回生となっていた。

 3回生からは「基礎」のつかない,ほんまもんのゼミナールが始まる。
 坂元のゼミには,6人のゼミ生が選ばれ,入った。
 もう説明の必要はないだろう。
 あの6人である。
 3回生6人,そして4回生も6人。
 総勢12名で,新生坂元ゼミはその幕を開けた。

 

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