長編連作小説#1 六脳(第13回〜第15回)
第13回 万物は流転する(1)
まず第1回目のゼミで最初にしたことは,ゼミの幹事,略して「ゼミ幹」を決めることだった。
ゼミ幹とは,ゼミのまとめ役でリーダー格で,ゼミの行事の世話役,調整連絡が仕事であった。これをやっていると就職活動の時箔がつくらしいが,みんな就職活動をしないで司法試験を受ける坂元のゼミでは,何のメリットもない単なる下働き役と見なされて,なかなかなり手がないのもまた間違いのないことであった。
例年ゼミ幹は男女一人ずつで,一般的なゼミ幹の条件としては,世話役・連絡調整を面倒がらずに出来ること,ゼミ生をまとめ切れる統率力があること,そして何より,ゼミをさぼらずにちゃんと出て来られることであった。
今年のゼミ幹選びは,思いの他すんなりと決まった。
まず小林が自ら立候補し,それに次いで小松が立候補した。
他に立候補者はなく,拍手を持ってゼミ幹はこの二人に決まった。
小林は確かに世話好きだったし,まとめ役もそれなりにこなす適性があったし,ゼミにちゃんと毎回出て来るだけの真面目さ,責任感も持っていた。
しかし,理由はそれだけではなかった。
今の4回生のゼミ幹の女性の方が小林好みの美形であったのだ。小林とて聖人君子ではない。基本的に一人の男である。その美しい人に惹かれ,ゼミ幹の仕事について教えてもらうことを通じてあわよくばお近づきになりたいっ,という下心を持ってゼミ幹になったとしても,それを真っ向から非難できる男性読者はきっと少ないだろう。
それを言うなら小松だって,好きな小林と一緒にやりたいという下心を持って立候補したのだから恐らくは同罪であろう。
しかし,それが後々彼らの運命を更にぐるぐる回すことになるという事をこの時の彼らは知る由もないのだが…。
小林は予想通り,先輩のゼミ幹の彼女に,あれやこれやと話しかけ,何とか近づこうとした。しかし,彼女は仕事上のアドバイスをするだけで,決してそれ以上彼との距離を縮めようとはしなかった。
7月のある日のことだった。
次回のゼミの発表に当たっていたのは,4回生の男(ゼミ幹ではない)と,小松だった。
二人は教授の研究室に,次回の発表についての相談をしに行った。
そこへ,何の関係もない,小林のお目当ての4回ゼミ幹の彼女がついてきたのだ。
何でや?
小林は,かつて久我山にそうしたように,こっそりと彼らの後を追った。
彼らは研究室に入った。
中から何事か声が聞こえて来るが,外の小林には聞き取ることができなかった。
小一時間ほど待っただろうか。
まず出てきたのは,4回の前出の男と,小林お目当ての例の彼女だった。
二人はとても楽しそうに何事か話をしていた。
小林はなおも二人を追った。
二人は同じ道を同じ方向に歩を進め,見えなくなった。
小林はゼミ幹の仕事としてゼミの名簿をまとめていたから,二人の住所は知っていた。
二人は本来,反対方向に帰っていくはずなのだ。
この二人はできている。
小林は直感した。
そうでなければ,何の関係もない彼女がわざわざ研究室までついてくるはずがないし,本来反対方向に帰るはずの二人が一緒に帰るはずもないのだ。
小林は少しがっかりした。
ま,仕方ないか。
そう思った時,目の前に小松がいた。
「小林君,一緒にお昼食べよ」
もはやその言葉に逆らう元気は,今の彼にはなかった。
小松と一緒に学生食堂で昼食を取りながら,小林はある物思いをしていた。
久我山にしても4回ゼミ幹の彼女にしても,俺がどんなに好意を寄せてみたところでどうにかなる相手じゃない。
久我山は彼氏と別れたらしいが,栗山がいる限り彼女の心をこっちに向けるのは難しい。
4回ゼミ幹の彼女にはれっきとした彼氏がいて,俺のことなんて後輩のうちの一人としか思っていないようだ。
そうすると,俺にとって最善の選択は,今俺に好意を抱いてくれているこの女―小松唯とくっついてしまうことじゃないだろうか。
久我山や先輩にはかなわないが,小松だって眼鏡を外したらまあまあきれいだし,そもそもいつもスッピンの彼女のことだから,ダイヤの原石のように,化ければいい女に変身する可能性のある女だ。もし俺がその魅力を引き出せるとしたら,こんな嬉しいことはないじゃないか。誰一人としてその魅力に気付いていないこの女を…
だいたい俺自身,あの居酒屋の一件で小松のことを一人の「女」として意識するようになっているのは否定しようのない事実だった。あの夜小松のあの色っぽい表情を夜のおかずにしたのは他ならぬ俺自身なのだ。
もう,この女に決めてしまおうかな。
そう思いながら,じっと小松を見ていた。
そんな小松に,一人の男が肩を叩いて声をかけた。
4回生のゼミ幹男だった。
「小松さん,ちょっとええ?」
「仕事の話ですか?それなら小林君も」
「いや,そう言う訳やなくて…君にちょっと話が」
「は…はあ」
小松は不安そうな目で小林を見た。
小林は敢えて目をそらした。
小松は彼に連れられて外に出ていった。
小林は一人でバカみたいにボケっとして,小松の消えて行った方を見ていた。
「小松さん,俺は貴方が好きです。俺と…付き合ってもらえませんか」
男は単刀直入にそう言った。
小松は,ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
「あの…突然言われても…ちょっと考えさせてください」
そう言って逃げるのが,彼女には精一杯だった。
小松は今まで男性と付き合ったことがなかった。
女子高出ということもあったが,その内気な性格と近寄りがたい雰囲気が災いして,男と付き合うきっかけさえこれまではつかめなかったのだ。
そんな小松に突然訪れた愛の告白。
心を動かされない方がおかしいだろう。
確かに私は,小林君が好き。
でも小林君は,いつも他の誰かを追いかけている。
たとえ私と一緒にいる時でも,その目は他の誰かを見ている。
私の方なんて,見てくれてさえいない。
小林君は私なんかよりもっと明るくて可愛くて,魅力のある女性と付き合った方が幸せなのかもしれない。
私なんかがずっと付きまとうのは,迷惑なのかもしれない。
そして私にとっても,こうして私なんかのことをいいと言ってくれる男性が現れた以上,その人と付き合うのが幸せなのかも知れない。
小林君にとって,そして何より私にとって,本当に幸せな方法って何なのだろう…
1週間後。
小松は,4回のゼミ幹男に交際OKの返事をした。
第14回 万物は流転する(2)
小松は小林に,4回のゼミ幹男と付き合い始めたことを話していなかった。
その必要もない,と考えていた。
小林が異変に気付くのに時間はかからなかった。
いつも自分につきまとい,図書館とか食堂とかに行こうとすると必ず現れて自分について来ていた小松が,最近それをしなくなった。
そして,ゼミに出てくると,自分のほうを見もしないで,いそいそと4回のゼミ幹男の方へ行って何事か話をしている。
そしてゼミが終わると,自分ではなくその男についてどこへともなく消えて行ってしまう。
おかしい。
仕事上の話だけでそこまで親しくはならないだろう。
かく言う自分だって,先輩のゼミ幹女に一時惹かれ,近づこうとしたがうまくいかずに今はろくに話さえしてはいない。
「小松さん」
ある日とうとう,小林は小松を呼び止めた。
真実を尋ねるために。
小松はあっさりと,真相を話した。
「そうか」
小林は思わず知らず,あからさまに落胆した表情を浮かべた。
「どうしたん,小林君」
小松は不思議そうな顔で訊いた。
「いや…ちょっと」
「何,ちょっとはやきもち焼いてくれたん?」
小松は苦笑いをして言った。
「友達やろ」
小松は続けた。
「私だって小林君のことは好きよ。でも,小林君にはもっといい女性(ひと)がきっと現れるって。だから…友達でいよ」
そこまで言うと,小松は小林に背を向けて走り去って行った。
小林は取り残されて,その場にしばらくたたずんでいた。
何でや。
何で俺は,いつだってこんな役回りになるんや。
せっかく気が付いて,せっかく心を決めたのに。
俺の求めた女性(ひと)は,いつもこうやって俺の前から逃げて行く。
何でや…
「小林君」
女の声がした。
振り向くと,そこには木下が立っていた。
「お昼,付き合って」
彼女は言った。
小林は同意した。
「そうか,唯に彼氏がなあ…小林君,ふられたんや」
「ふられたんやない,俺は初めから彼女のことは…」
「嘘ばっかり」
木下は遮るように言った。
「私ずっと,全部見とったんやから」
小林は全てを悟り,無言で下を向いた。
「でも今回は小林君が悪いなあ。何で最初から唯の気持ちに応えてやらへんかったん」
小林は下を向いたままだった。
「言うてもなあ,小林君気ぃ多かったもんなあ。ある時は京子,ある時は先輩,またある時は…」
「言うな」
怒ったような声で小林は言った。
「でもな,唯がほんまに好きなのは小林君のはずやから,自分が素直になれば最後にはうまいこといくはずやで」
「何でそんなことが言えるんや。現にあいつ,いまあの先輩と付き合うとるやないか」
「…」
木下は下を向いてしばらく黙り込んで,数刻後大袈裟に顔を上げた。
「よし,話してやるか。唯には内緒やで」
木下は,あの日の―基礎ゼミの新歓コンパの後で小松が話した,彼女の小林への想いの丈を小林に話した。
「そうか」
さして感慨もなさそうに小林が言った。
「でもそれは,もう2年も前の話やろ」
彼は立ち上がった。
「遅すぎるんや…もう何もかも」
言うと,彼は振り向きもしないでその場を立ち去った。
木下はため息をついて,食器を片付けに席を立った。
その夜。
予備校の自習室で,小林は勉強をしていた。
かくなる上は,俺に残されたものはこれしかない。
俺は勉強して勉強して,栗山を,先輩を,そして全てのゼミの奴らを蹴落として司法試験に受かってやる。
俺の前から逃げていった全ての女性達を見返すために。
俺から幸せを攫っていったすべての男たちとの勝負に勝利するために。
しかし,そのうちの一人,栗山一路は既に彼より1歩先に進んでいた。
彼はこの5月に行われた択一試験に既に合格を決め,間もなく行われる論文試験に挑戦するのだ。
小林は勉強不足から,今回の受験を回避した。即ち,不戦敗である。
一年だけ待っていろ。
そうしたら,必ずお前に追いついてやる。
そう考えながら,ふと外を見た。
栗山が久我山と,何事か談笑しながら行き過ぎるのが見えた。
そしてそれに続いて,小松とその彼氏が…
それは現実なのか,それとも小林の見た幻想だったのか,それは知らない。
しかし,それが現実であろうがなかろうが,小林に火をつけたことには違いなかった。
今に見ていろ。今に…
自習室の閉まるぎりぎりの時間まで一歩も外へ出ないで勉強し,掃除のおっさんに半ば追い立てられるように勉強を終えて外へ出た小林に駆け寄る者がいた。
木下だった。
「小林君お願い,今日一緒に帰って」
「どしたんや」
「訳はええから,お願い」
第15回 万物は流転する(3)
小林の予備校と木下の予備校は近く同士で,K市の中心部,私鉄のS駅から程ない距離にあった。小林も木下も駅から電車に乗って大学近くのD駅で降りて,そこからバスに乗って帰る。
小林は怪訝そうな顔をしたが,木下が真剣に頼むので,その勢いに押され,断る訳にもいかず承知した。
駅に近づくにつれて,木下の表情が硬くなった。心なしか,顔が青ざめている。
「どしたん?」
小林が聞いた。
「何でもない…そうやね,今日は小林君おるもんね」
何やねん。
訳がわからないままに,二人はS駅に着いた。
改札口をくぐってホームに出ようとした刹那,二人…いや,正確に言うと三人の表情が固まった。
改札口の手前に,加藤宏がいた。
彼は何をするでもなく,ただその場に突っ立っていた。
「何や,小林。何で木下と一緒やねん」
「何で言うてお前,そりゃたまたま一緒になったからやないか。自分こそなんでそんなところで何もせんと突っ立っとんねん」
加藤は苦しげな表情になった。
「知らんわ」
そう言い捨てて,彼は小走りで改札をくぐり,ホームの向こうに姿を消した。
「どうなっとるんや?」
小林が今度は木下に聞いた。
「…」
木下はしばらく黙っていた。そして,時を置いて切り出した。
「ちょっとお茶でも飲んで行かへん?…相談したいことがあるから」
加藤が執拗に木下に付きまとっていた,という事実は,小林には少なからず驚きだった。 彼女の話によると,1回生の終わりくらいから既に学生食堂などで加藤のストーキングは始まっていて,2回生の冬には自分の通っているのと同じ予備校に通うようになり,最近では殆ど毎日駅の改札でああやって待ち伏せをしているのだという。
「おかしいな…何であいつはそんなことするようになったんや…大体あいつは,1回生の時基礎ゼミの連中に露骨に敵意を丸出しにして,ゼミにも授業にも全然出て来うへんかったやんか。あいつと木下さんには何の接点もなかったはずやのになあ。どこであいつ,木下さんに惚れたんやろなあ」
「嫌や。信じたくない」
木下は大きくかぶりを振った。
「私はあの人好きやなかったんよ。せやから私何回も言うたんよ。やめてって。でもやめてくれへん…もう気味が悪うて…あの人の顔も見たないし…予備校も行きたない…あの人が怖いねん…」
小林は小さくため息をついた。
いくらやめてくれと言われても,本当に好きな人のことは気になってしまう。相手のことを知りたい。彼女は今どこにいて,何をしているのか。恋人がいるんじゃないだろうか。そしてそいつと今逢っているんじゃないだろうか。そう考えるだけで落ち着かなくなって,ずっとついて見ていなければ落ち着かない精神状態になってしまう。それは他ならぬ小林自身にも経験のあることだった。
加藤の行動を肯定する訳じゃない。しかし気持ちは分からなくもない。
でも,こうして彼女が困っている以上,とりあえず加藤のストーキングをやめさせないといけない。このままでいることは,木下は勿論,加藤のためにもならないだろう。
「しゃあないな。俺が一肌脱いだるわ」
その日から,二人は示し合わせて一緒に帰るようになった。
加藤は毎日,S駅の改札口で立っていた。
そして,一緒に帰る二人を見るたびごとに,驚きと,若干の苦悶の表情を浮かべた。
2週間も経った頃だろうか。
加藤はその日も待ち伏せをしていた。
いつもなら,一緒に帰る二人を見止めると,そそくさと逃げるようにホームに去っていた加藤だったが,その日は違っていた。
彼は何かを決意した,思いつめた表情で木下の名を呼んだ。
「何よ」
木下はあくまで冷たく言った。
「何やお前,何で二人いつも一緒なんや」
木下は見下げたような目をして答えた。
「私達,付き合ってるの。邪魔しないでちょうだい」
加藤の顔がみるみる青ざめるのが分かった。
「何でやねん,聞いてへんぞ,そんな話!そんなんあるか」
まるでだだをこねる子供のように,人目も憚らず泣きそうな声で,彼は叫んだ。
醜い。
あの1回生の時のクールな加藤は,どこへ行ってしまったのか。
恋というのは,ここまで人の人格を変えてしまうものなのか。
ふと小林は思った。
この姿は,一歩間違えれば俺の姿になっていたのかもしれない。
彼は微かに震えた。
そんな彼の思いを知る由もなく,下を向いて拳を握り締めて震えている加藤を,木下が相変わらず見下した目で見ていた。
「分かったわ,へっ,お幸せに」
加藤はそう言い捨てて,静かな足取り,それも覚束無い足取りで改札をくぐって,そして見えなくなった。
「ありがとう,小林君」
木下は心底ほっとした表情で小林を振り返った。
小林は下を向いたまま,それには応えなかった。
「どしたん?」
木下が不思議がって聞いた。
「いや,何でもない」
小林がやっと口を開いた。
「ちょっと…休んで行かへんか…何か…疲れたわ」
今度は小林のほうから,木下を喫茶店に誘った。