連作長編小説#1 六脳(第16回〜第18回)
第16回 万物は流転する(4)
喫茶店に入った小林と木下は,最初は他愛のない話をして過ごしていた。
コーヒーを飲みながら行き過ぎるこの時間は,予備校で過ごす時間よりもゆっくりと,静かな音を立てながら流れて行くように思われた。
さっきまで緊張に引き攣っていた木下の表情も,まるで別人のように安らいでいた。
それはきっと,ストーカー加藤から逃れることが出来た安心感なのだろうと,小林は解釈した。
40分くらい話してからだろうか。
不意に木下が言った。
「不思議やなあ」
「何が?」
小林が聞いた。
「うん,あたし…男って正直あんまり好きやないっていうか…関わりたくない人のはずやのに,小林君にはそんなアレルギーみたいなものを感じひんのよ」
小林は笑った。
「それはよう言われるわ…でもそれはあれやで,女性にとって俺は男と思えないっていうか,同性と同じ感覚で話せるってことやろ。せやからあれや,俺はいつも“友達”で終わってしまって,なかなか彼女できひんのやわ」
木下は首を横に振った。
「そういうことやないと思うわ…話しやすいのはほんまやけど,小林君には何て言うのかなあ,どんな人でも惹き付けてしまうような,そんな親しみやすさがあると思うねん。それがきっと魅力なんやないのかなあ」
「魅力か…そんな風に言われたら何か照れるやん。ええよ,お世辞言わんでも」
「そんなことないって」
木下は静かに微笑んだ。
それは,今まで見たことのない類の笑顔だった。
それは慈悲に満ちていて,何だか仏様かマリア様のようだった。
小林もそれを見ながら,ふふと静かに笑った。
それを2つ奥の席で見ていた二人がいた。
それはやはり予備校を終えて出て来た小松唯と,その彼氏だった。
小松とその彼氏は,小林・木下より先に店を出た。出掛けに彼女は二人に挨拶をした。
木下は少々驚いたような顔をしていた。小林は関心もなさそうに簡単に返した。
小松は木下に一枚の紙切れを渡した。
何やろ。
木下は不審げにそれを開いた。
そこには,こう書いてあった。
うそから出たまこと。
ひょうたんからこま。
「それで,あれからどうなったん?」
翌日,会って挨拶するや否や,小松は目を輝かせて木下に聞いた。
「どうなったん,ってどういうこと?」
木下は聞き返した。
小松は,何を今更,という顔をして,
「決まってるやん,小林君とのことや」
「小林君?」
「そうや,あれだけ仲良さそうに話しよったやん。私全部聞いとったんやで。小林君にはアレルギーを感じない。小林君には誰をも惹きつける魅力がある」
木下は顔を赤らめて下を向いた。恥ずかしいからなのか,怒ってるからなのか,それは分からなかった。
「ごめんごめん」
小松は小声になった。
「でもあれやろ,晴海も小林君やったら大丈夫やなって…思ったやろ?」
「そ…そりゃあまあ…そうやけど」
木下も小声になった。
「ええよ,行きいや。応援するで」
そう言われた木下は,真顔で正面に小松を見つめた。
「ええの?唯…あれだけ小林君,小林君言うとったやんか。ええの?」
「ええよ」
あっさりと小松は言い切った。そして,内緒話をする,手に口を添えるあの格好を作って,本当に消え入りそうな小さな声で続けた。
「私…あの後な…彼と…行ってもうた」
「どこへ?」
「いややなあ…そこまで言わす気?」
「え?自分まさか…」
「…行ったよ,ホテル。最後まで」
「何で?そんなにあっさりと…処女やったんやろ?」
「うん。でも…彼,すっごく優しくしてくれてるし,この人やったらええかな,後悔せえへんかな,と思って。もう21やし,ずっと取っとくのもカッコ悪いし」
「ばっかねえ」
木下はバカみたいにでかい声で言った。
「男なんてみんな,やるまでは優しいのよ。やりたいから優しくするのよ。やったらそれでおしまい,一気に冷たくなって捨ててしまうんやから」
「それは晴海の昔の彼の話やろ?あの人は…ていうか,大多数の人はそんなことない。晴海はたまたま悪い人に当たったからそう思うだけ。少なくとも彼は大丈夫。あたし,信じる」
「…」
「晴海は前ひどい目に遭ってるから,男の人のことを信用できなくなってるんやろうけど,信じることができんようになったらおしまいやで。せやから」
「小林君なん?」
「そうや。あの人は信じるに値する人やと思う。あたしは小林君のこと好きやったし,本当のことを言うと今でも好きやけど,でも彼にはあたしなんかよりもっと似合いの人が現れるんやないかな,って思ったから諦めたんよ。晴海なら自信を持って薦められるし,譲ってもええかなって思うんよ。せやから」
「もうええよ…あたしのことはあたしが決めます。唯は自分のことだけ考えてちょうだい」
言うが早いか,木下は小松に背を向けて走り去ってしまった。
第17回 戦場に懸ける橋(1)
小松に言われた時は否定したものの,その時から木下は小林を意識するようになった。
するとどうだろう。今まで予備校の帰りに一緒になったことなんて一度もなかったのに,その日から毎日彼女と小林は帰りに会うようになった。
それはあくまで偶然に過ぎなかった。小林自身が,
「よう会うなあ。でもストーキングしてる訳やないで。木下さんもそやんなあ」
と笑うほどの偶然だった。
木下も不思議なほど,小林を怪しむ気にならなかった。
むしろ会うと多少なりともテンションが上がり,明るい気持ちになれるのだ。
帰りに彼らは他愛のない会話を楽しみ,時にはあの喫茶店で二人きりの時間を過ごすようになった。
名目は勉強で疲れた体を休憩させること。ただその実は,二人で話をすることが目的だった。
それが1ヶ月ほど続いたある日のことだった。
何がきっかけだったかは分からない。
昔の自分の異性遍歴の話になった。
小林は,俺は男子校出身やったし,もてへんかったから,と言って笑った。
木下は傍目で分かるほどに,沈鬱な表情になった。
どしたん?
その優しげな言葉に触れられて,木下は堰が切れたように,かつての暗い過去を彼に話した。
そうか。
小林は言った。
ええよ。
何故か,そう付け加えた。
木下は向かいの椅子から小林の隣に座った。そして,ひとしきり,声にならない声で泣いた。
抱いて。
彼女は泣き終わると,突然そう切り出した。
小林君やったら,ええよ。
忘れさせて欲しい。
小林はその時,やけに冷静だった。
何かに操作されるように,優しく肩を抱いて,彼女を誘(いざな)った。
男と女がくっつく時なんて,このように呆気ないものだ。
喫茶店での「休憩」は,ホテルでの「ご休憩」になった。
こんなもんか。
全てが終わった後,小林はふと思った。
彼は女性と付き合ったことがなかった。
恋愛をするとか,キスとかセックスとかの恋愛に付随する一連の行為とか,そういったものに,彼は焦燥にも似た憧れを抱いていた。
しかし。
こんなもんか。
終わってみれば,こんなもんか。
こういった一連の行為に,新鮮な感動を求めるには,彼はあまりにも年を食いすぎていたのかも知れない。
ただ,彼は木下の貞操を奪った件の男のような無責任さは持ち合わせていなかった。
こうなった以上,自分にはこの女―木下晴海を,男として大切にし,守ってやる義務がある。
彼はいささか古い観念の人間だった。
彼はともかく覚悟を決めた。
久我山も,先輩のあの女性(ひと)も,そして小松も,全てを諦めよう。
今はただ,この女のために。
目を半目にして,眠っているのか恍惚に浸っているのか分からない,奇妙にエロティカルで美しい木下の顔を眺めながら,小林は思った。
そして彼女に近寄り,今一度彼女に口付けをした。
ベッドに身を横たえ,全てを投げ出した木下の裸身が,心なしか少し微笑んだ気がした。
その日から,小林はますます受験勉強に打ちこむようになった。
今まではただ自分のため,それも自分の将来のためと言うより,自分のプライドを守るために,ライバルとなる人間を打ち負かすために勉強していた。
しかし,今は違う。
大切な人が出来た今,自分は自分だけのためにやっているのではない。自分を選んでくれた女性に報いるため,自分を選んだことを後悔させないためにやっているのだ。
もちろん交際が進んで結婚にまで至れば,彼女の生活を守るためという側面も加わるだろう。しかし,まだそこまで考えるほど彼は年を重ねてはいなかったが。
木下はあの日から,明らかに明るくなった。
そして,化粧その他の容姿にしても,少々垢抜けたようだ。
そんな彼女は,傍目から見ても魅力的に映ったようだ。
その後,そんな彼女を求めて,周りに男が群がるようになった。
勿論木下には小林がいる。彼女はそんなアプローチを悉く跳ね除けた。
小林はそんな木下を見て,心から満足していた。
ただ,一つだけ引っかかることがあった。
本来この中にいるべきはずの加藤宏の姿がなかったことだ。
彼は完全に学校から姿を消していた。
ゼミの際自宅に電話しても留守番電話のアナウンスが流れるのみ。
生きてるのか死んでるのかさえ分からなかった。
彼らが彼の名を見るのは,しばらく経ってからのことになる。
しかも,他の人間が全く想像だにしていなかったところで。
第18回 戦場に懸ける橋(2)
一応彼らの受験情報について確認しておこう。
彼らは今現在3回生である。今年の司法試験は,5月に行われた短答式試験(五者択一)が終わった時点で,受験者は栗山だけ。栗山は短答式には合格した。次に待っているのは,司法試験の天王山と言われる論文式試験だ。これは7月下旬にあって,発表が9月下旬。そして最後の口述式試験(口頭で法律的な質問に答えるもの)を経て,これに合格すれば晴れて最終合格ということに相成る。栗山は現時点では論文試験の発表待ちである。
論文試験をクリアすれば,口述で落ちるのは1割ほど。ほぼ安全圏突入と考えて間違いあるまい。栗山としては,論文をクリアすることに全てを賭けなければならなかった。
彼の論文は,彼の持つ知識をフル稼働させ,彼なりの法律的な考え方を完璧に表現した,彼に言わせれば全力を挙げた,悔いのない答案だそうだ。
彼は言った。これで受からなかったら,今後合格する自信がない,とまで。
さて,他の面々はどうか。
以前書いたが,小林は受験そのものを回避した。久我山も木下も小松も然りだった。
司法試験というのは何回受けたっていい試験だし,受験資格その他は全くと言っていいほどないのだから,試しに受けてみれば良さそうなもんじゃないか,と世間は思うかも知れないが,そうはいかない側面がある。
実は司法試験には「合格優先枠」なるものがあり,論文試験の場合のみ,合格者の7分の2を,過去3年以内に受験を開始した人の中から選ぶ,という仕組みになっている。つまり,短答式試験に自信がないのならば,3年間きっちり「合格優先枠」を使うためにその年の受験を断念する,という作戦もありなのだ。
そして,論文式試験の合格発表の日がやってきた。
栗山の名前は…なかった。
「落ちたのはしょうがない。自信のあった答案だったからショックだったけれど…まあ,落ちたという事は俺に至らない所があったんだろう。そこを教授と相談して直していけば来年には絶対に受かる。在学中合格にはまだあと1年あるしな,頑張るだけだ」
栗山は久我山にそう言った。
「私も来年は受けるからね。覚悟しときや」
右手で銃の形を作って,彼女はそれを栗山の胸の前につきつけた。
栗山は笑った。
その笑いは,心なしか,疲れているようだった。
小林は栗山の不合格を確認すると,ほっとした表情になった。
勿論栗山の不幸を喜ぶ気はない。
ただ,小林は身体が震えるような興奮を覚えていた。
あの男と,最強のライバル・栗山一路とこれで同じ土俵で勝負できるのだ。
見ていろ栗山。
俺はいつかお前に追いつき,追い越し,先に栄冠を手にしてやる。
見ていろ栗山。
俺のライバル。
そう考えるだけで,不思議と身体が震えてくるのだ。
そして全員を確認しようと合格者名簿を眺めていた彼は,一人の男の名前を見た。
衝撃が走った。
その男の名は…
南幸太郎。
もう忘れている読者が殆どだと思うが,第1回目に登場した小林の親友であり,大学受験では京阪大学不合格の辛酸をなめ,私立大学に進学した南幸太郎である。
あいつが…
たしかに南は暗記物(日本史・世界史)には驚異的な才を発揮していた。国語も苦手ではない。だから法律を覚えて理解するのにはあるいは向いていたのかもしれない。しかし,あの難関の司法試験の論文試験に,3年次であっさり合格するなんて…。そして論文試験を突破した以上,かなり高い確率で最終合格の栄冠を手にするはずなのだ。
小林は確かに,自分が京阪大学という名門大学に受かったことから,南に対してはある優越感を持っていた。それは否定できない事実だ。しかしそれも木っ端微塵に打ち砕かれた。司法試験という土俵に上がった以上,学歴なんか関係ない。そんな当たり前の事実を残酷な形で目の当たりにし,小林はしばらくその場から動くことが出来なかった。
その年の10月。
南幸太郎は,大学3年時という驚異的な早さで最終合格を手にした。
おめでとう,南。
小林は電話で祝福した。
その声は,心から親友の成功を祝う人間の声ではなかった。
南は恐らく,京阪大学に落ちたあの日から,俺を含む受かった連中への4年越しのリベンジを賭けて勉強に勤しんだに違いない。
それこそ,大学生活の全ての楽しみを犠牲にして。
それに引き換え,俺はどうだったか。
女の尻ばかり追いまわして,つまらないことで悩んでエネルギーを使って,結局先を越されてしまったんじゃないか。
小林はその日,どうしても寝付くことが出来なかった。
勿論小林にしたって,決してサボっていたわけじゃない。起きている時間の多くをかけて勉強に勤しんでいたことは間違いなかった。
しかし,こうして自分のごく身近な人間が早くも合格を決めている以上,自分の勉強の仕方はまだまだ足りないのだ,甘いのだ,という自責の念が彼を苛んだ。
寝ている場合じゃないだろう。
不意に布団をはぐった彼は,参考書を開いて勉強を始めた。
同じ時間,栗山一路も,翌年の合格に向けての勉強をしていた。
彼は論文試験の不合格が決まった日から,毎日眠れぬ夜を続けていた。
何故俺は落ちたのだ。
受験対策には何の抜かりもなかったはずだったのに。
俺の答案は自分では完璧だったはずだったのに。
眠れぬ床の中で彼は日々,苦悶していた。
その苦悶からいささかでも解放されるためには,1分1秒でも勉強して一つでも多くの知識を蓄えるしかなかった。
自己満足でも構わない。
こうしていれば,少しでも合格に近づいて行ける。
そう考えれば不思議に精神は安定し,安心立命を得られるのだ。
そして続ければ続けるほど,それは快感へと変わっていく。
読者諸君は「ランナーズ・ハイ」というのをご存知だろうか。
長距離ランナーなどが,長い距離を走る時に,その苦痛の果てに脳内麻薬・ドーパミンが放出され,一時的に快感を得られる,その状態。
栗山はこの境地に達していた。
彼は,もはや歯止めが利かないほどにその快感にのめりこんでいった。
彼は首にロケットをぶら下げていた。
そこに映る女性は―久我山京子だった。
彼は前の彼女と別れていた。
久我山との男女の付き合いはなかった。
久我山は栗山に惹かれ,栗山は久我山に惹かれていた。
来年受かったら,全てを打ち明けよう。
それまでは。
栗山はこれまで,自らの野心・プライドのために勉強してきた。
こういうタイプの人間は,挫折するともろいものだ。自尊心を修復するのに時間がかかる。最悪,立ち直れなくなって道を誤る場合すらある。
しかし今の彼は,歯を食いしばって勉強を続けている。
今の俺には,あと1年ある。
そして,心の支えがある。
大学受験の時に比べれば,まだ恵まれているのだ。