長編連作小説#2 聖人同盟(第4回〜第6回)

4 聖人#4 平井 慎

「こらあ,平井!!」
 監督の怒鳴り声がグラウンド中に響き渡った。
 怒鳴られたその男は直立不動で,
「はい,申し訳ありません!!」
 と叫び,何が悪いかも知らされないまま監督の平手打ちを甘んじて受ける。
 右の頬を打たれたら左の頬を出し,左の頬を打たれたら右の頬を出す。
 規則正しく果てしなく動くその姿は,あたかも電池で動くマリオネットのようだった。
 遠巻きで選手達が,その姿を怯えたような目で見つめる。目を逸らす者もいる。

 彼―平井慎は,私立高校の野球部に所属していた。
 彼の高校は,かつて県内で無敵を誇り,甲子園でも優勝経験を持つ名門野球部だった。しかしその後新興勢力が何校も興り,県内は戦国状態となっていた。そんな中で最近では準決勝や決勝までは駒を進めるもののその壁を破れずにいて,学校が甲子園を目指すべく招聘したのが現在の監督,戸塚三郎であった。
 戸塚はスパルタ方式の練習を掲げていた。
 しかし,誰彼ともなく同じように厳しく扱うことが出来ないことも知っていた。精神力の強いものもいれば弱いものもいる。今の世情であるから,下手なことをすれば自殺する人間がでないとも限らない。そこまでいかなくとも,最近の親は子供を溺愛しているから,ちょっとしたことで親に密告されて糾弾されて問題になり,監督の座を失うかもしれない。
 そこで,多くの指導者がやっているのが,いわゆる「叱られ役」を作り,そいつを代表で怒ることだ。「叱られ役」は,暗黙の了解の下で徹底的に叱られ,怒鳴られ,時に殴られたりもする。当然「叱られ役」を甘んじて受けられるのはある程度人間が出来ていて,チームのことを考えられる存在,そしてチームにある程度影響力のある存在,そして何より大事なのは,ちょっとやそっとのことではへこたれないだけの肝っ玉を持っていることだ。
 平井は,その高校で生徒会長を務めていた。学校は率直に言って少なからず荒れていた。
そんな学校で生徒会長として生徒と教師の調整役を務めるのは並大抵のことではない。彼は非常にしばしば,両者の矢面に立った。生徒に恨まれることもあったし,教師に「楯突いた」と見られ目を付けられることもあった。彼にとってみれば損にこそなれ,決して得にはならない。それでも彼はその役目,「調整役」,「憎まれ役」を自ら進んででも買って出る,そんな人間だった。
 彼自身,そんな自分自身をある種誇りに思う気持ちがあったに違いない。進んで人のために殉じる,その行動が彼のプライドだったに違いない。
 その彼のプライドを少なからず傷つけたのは,実は自身の体躯だった。彼は身長が1メートル50そこそこで体重も50キロなかった。もやしのような体つきの上に,顔色は常に青白く,その瞳はどことなく弱々しげだった。
 その容姿故に,彼が「叱られ役」「憎まれ役」を務めるその姿は,ともすれば「いじめ」を受けているように見えた。周りが自分に同情するようなことを言っているのも彼の耳に少なからず入っていた。
 自分は自分なりに信念を持って今の役回りを演じている。この役割が出来るのは自分しかいないのだ。それなのに周りはそれを「いじめ」だと見る。それは自分に対する侮辱ではないのか。俺はそんなにひ弱い人間ではない。しかし,この体躯では周りがそう見るのも無理からぬことだ。それが何より歯がゆいのだ。
 強くなりたい。
 しかし,いくら毎日牛乳を飲んだところで身長が伸びる訳でもなく,毎日肉を食ったところで筋肉がつくわけでもなかった。
 彼のプライドを守り続けているのは,精神力だけは誰にも負けない,人に役立ちたいという気持ちだけは誰にも負けない,ということだった。よって彼は今日もまた,監督に殴られ,人に疎んじられながらも,叱られ,憎まれ続けるのである。

 ある日のこと。
 平井は練習試合で平凡な飛球を落球した。
 バカ野郎。
 試合を終えてベンチに帰ってきた彼に,早速監督の罵声が飛んだ。
 しかし,その日はこれだけでは終わらなかった。
 あんなプレーをするのは精神がたるんでいて,野球をなめている証拠だ。
 やる気があるのか。
 やる気のない奴は使わない。
 とっとと辞めてしまえ。
 一言ごとに監督の拳と蹴りが飛んできた。
 一通り終わると,今度は遠巻きで見ていたチームメイトの方を振り返った。
 お前らも,やってみんか。
 お互い顔を見合わせ,躊躇する様子を見せる。
 いいから,やれ。
 出来ない奴は,使わない。
 戸塚はそう言って,微かに笑った。
 彼らは,決して遊びや青春の思い出のためだけに野球をやっているのではない。
 甲子園で実績を残し,名門大学に野球で推薦入学をする。ごく一握りながら,プロへの道を夢見るものもいるだろう。
 そんな輝かしい将来を掴むためには,甲子園に出場して活躍し,誇れる実績を作らなければならない。そのためには,監督に気に入られて使ってもらわなくては話にならない。
 彼らは恐る恐る,平井のもとに歩み寄る。
 震える拳を振り上げ,彼に振り下ろす。
 平井は決して反撃をすることはない。
 ただひたすらに殴られ,蹴られ続ける。
 これまでなら,こんなことはなかったのだ。
 選手達の気を引き締めるためにわざと怒鳴りつけたり,たまに鉄拳制裁が飛んできても,これほどのことはなかったのだ。
 その日の監督の虫の居所が極端に悪かったということは,あったのかもしれない。
 夏の県大会が近づいていた。
 鳴り物入りで迎えられた戸塚だが,昨年の4月に赴任してから,昨年夏,今年春と2回続けて甲子園を逃していた。
 今度の夏がラストチャンスとなることは,ほぼ確定していた。
 一発勝負の夏の大会。しかも敗れれば,罵声と嘲笑に送られて監督の座を去らねばならない。これまで他の学校で築いてきた,野球部の名伯楽としての名誉に大きな消えない傷がつくことになる。
 そんなプレッシャーの中,彼が尋常ならざる精神状態に置かれていたのは想像に難くない。時にイライラし,平衡を失った精神が肉体を本来あり得べからざる行動へ誘うこともないとは言えない。
 ましてこの日の練習試合の相手は,甲子園に行くためには決して負けることを許されない県内の学校,しかも恐らくその夢舞台に挑む前に立ちはだかってくることが確実な有力校の一つに数えられる学校だった。そして,試合はこの平井の落球をきっかけに大量点を奪われての無残な逆転負けだった。
 その日の「制裁」は,夜が更けるまで続いた。

 翌日。
 教室に入ろうとする平井を,二人の図体のでかい男が呼び止めた。
 彼らは半ば強引に彼を外に連れだし,人目のない非常階段下の溜まりに放り出した。
 いきなり,片割れの男の右足が飛んできた。
 それを合図に,彼らは速射砲の如く両足で蹴りを繰り出す。
 何が起こったのかを認識する間もなく,平井は意識を失った。
 保健室で目覚めた彼は,保健の先生が止めるのも聞かず,教室に戻った。
 帰ると,彼の机の上には花が置いてあって,なおかつ机の中はめちゃめちゃに荒らされていた。弁当はゴミ箱にぶちまけられていたし,教科書・ノートはびりびりに破られていた。カバンがなくなっているので探したら,トイレの個室の便器の中で汚物にまみれていた。

 どうやら,俺は本当に「いじめ」の標的になってしまったらしい。
 帰り道,痛む身体を引きずりながら,彼はぼんやりと考えていた。
 一体何がどう間違ってこんなことになってしまったのだろう。
 今までならば,野球部で監督に怒られたとしてもそれはチームのため,という暗黙の了解があったがゆえ,彼もプライドを持って,ある意味進んでそれを受け入れることもできたのだ。学校の中で「正しい」けれど「でしゃばった」,そういうことをしたとしても,そしてそのためにある程度人から好ましくないように思われたとしても,自分が正しい,人のためになることをしている,という信念ゆえ,それにも平然としていることができた。
 それなのに。
 狂った歯車。
 彼にはどうすることも出来なかった。
 それどころか,何が起こったのかさえ,彼には理解できていなかったのだ。

 

5 聖人#5 日田 一誠

 寮生活のその男は,最近寮の賄いを食べていない。
 社会人になって最初の頃は,それでも朝晩に出される食事を食べていたのだが,そのうち彼は,その食事を露骨にまずいと感じるようになっていた。
 思うだけならいいのだが,食べながら露骨に不快そうな顔をするものだから,それを見ていた賄いのおばさんたちもまた,その顔を不快そうに眺めるのだ。
 誰だって美味しいものを食べたいと思うのは人情だし,逆に自分の作ったものを美味しいと思って食べてもらいたいと思うのもこれまた人情である。
 しかし,職員寮の賄いとなれば,出来るだけ低予算で作らなければならないし,また大人数の食事をいっぺんに作らなければならないから,一人一人の味の好みだの,細かい味付けだの,そういったことにいちいち気を使っていられないのもまた事実だった。
 彼にもそれは分かっていたから,最近では食堂のおばちゃんたちに悪いと思って,また,自分の食べたい美味いものを食べるために寮に食事を頼んでいないのである。
 彼は別に,特段に贅沢者ではない。
 例えばフランス料理だのイタリア料理だのといったところの高級なディナーでなくっても一向に構わない。彼にとって「美味しい」ものでさえあれば,うらぶれた裏路地のラーメン屋のラーメンであろうが,お茶漬けであろうが,冷や飯にじゃこと醤油をぶっかけただけの猫まんまであろうが良かったのだ。
 彼も大学時代は貧乏学生だったから,「飯は腹に入ればそれで良い」という思想の元に,毎日のように学生食堂で,油の塊が浮いてきそうなギトギトの定食を毎日美味い美味いと言いながら食べていたのである。

 彼の転機は大学4年の時だった。
 彼に初めて彼女が出来た。
 彼女の誕生日に,どこか美味しいレストランを調べてやらなければならない。
 彼はその一心で,市内の美味しいと評判のレストランを,グルメ本といわれる本や,インターネットなどを使って情報を調べまくった。
 彼が選んだのは,市内のメインストリートから一本路地を入ったところにある小さなレストランだった。
 そこは,いわゆる「馬のわらじ」のような分厚い高級肉のステーキを食わせるという評判の店だった。
 彼は若かったが故なのか,やはり「肉」に目がなかった。
 逆に彼女も何度か一緒に食事をした時,よく肉料理をオーダーしていたから,彼女もやはり肉が好きなのであろうことは分かっていた。
 彼はその店で,コース料理を2人分オーダーした。
 そこで出された料理は,二人を大いに満足させるものであった。
 特に彼のほうは,こんなに美味いものは食べたことがない,と感動に近い気持ちを覚えていた。
 その肉は分厚く,しかし決して口に余ることはない。口に入れた瞬間にそれはとろけるように舌に絡みついて,心地よい感触を残してのどにあくまで自然に溶け沈んでいくのだ。
 彼は彼女とは結局長く続かず別れてしまったが,その時の味は,彼の舌に染み付いて,恋の思い出とともに,いや,むしろそれ以上のインパクトをもって彼の脳に深く深く残ったのである。
 しかし結果として,この経験が彼に,「美味い食べ物に対する異常なまでの執着」を残すことになった。
 彼はその後,たまたまファミリーレストランに行ってステーキをオーダーした。
 それは,彼にとってとても食べられたものではない代物だった。
 勿論,金を取って客に出すのであるから,そのレストランとしても,精一杯,予算の範囲でそれなりにいいものを作って出しているのだろうが,あの素晴らしいステーキを食べてしまった彼には,それは単なる硬くて茶色い味気のない塊に過ぎなくなってしまったのである。
 もっと美味いものを食いたい。
 彼は親からの仕送り,アルバイトで稼いだお金の殆どを食費に費やすようになった。
 いくら金を使っても良いから,美味いものを食べたい。
 彼のエンゲル係数は,そんな理由(わけ)で極めて高くなった。
 彼は就職し,自分で金を稼ぐ身になった。
 そうなると,ますます「自分で稼いだ金」という意識から,自分の好きなこと,すなわち,美味いものを食べることに金を費やすようになった。
 そもそも,人間は食べることによって栄養を得て生きているのであり,食べることは人間にとって最も本源的な娯楽なのである。
 そして,人間は食べれば満腹になって,それ以上食べることが出来なくなるようになるのだから,食べることは有限な楽しみである。
 人間が生きている間に食事が出来る回数はそうなると当然有限である。その限りある食事の機会に,わざわざ不味い物を食べるのに費やすのは勿体無い,というか,それはある意味犯罪である。
 生きていく上で,どうせ食べるのならば,美味いものをたくさん食べて死んでいきたい。
 彼はそう思うようになっていた。
 それより何より,美味いものを食いたい,というのと同時に,彼の舌は,いや,彼の身体は,不味い物を受けつけなくなりつつあったのである。
 彼は美味い食べ物,美味い料理の噂を聞きつければ,時間さえ許せば,新幹線に乗ってでもそこへ行って試した。 
 そうこうするうちに,彼の舌はますます肥えた。
 それを繰り返しながら,彼の病はますます膏肓に入る,という事態となった。
 そして,ちょっとやそっとの料理では彼を満足させることは非常に難しくなった。
 彼はそれ故,ますます美味いものを求めるが,そのハードルがますます高くなるが故に,彼の欲求不満はますます高まることになった。それと正比例して彼のエンゲル係数はますます高まり,それと反比例して彼の貯金は減った。
 彼は,美味しいものを食べるために金を惜しまなかったが,勿論金をかければいいというものでもないことは知っていた。
 繰り返すが,場末のラーメン屋でも,本当に美味いラーメンを食わせてくれればそれで良いのだ。
 しかし,それは木に魚を求むようなもので,「隠れた名店」というグルメ雑誌の文句に誘われて行った店は決して彼を満足させなかった。「隠れた名店」として紹介されているにも関わらず店の前に行列が出来ていて,しかも出された料理が期待外れもいいところだった,という目に遭わされたことも少なからずあった。その度ごとに彼は,こんな美味くない料理のために,貴重な食事のチャンスを一度潰されたばかりか,行列に並ぶ時間を食われた所為で自分の貴重な時間までも無駄に使ってしまったことを悔いた。
 ここまでに達すると,どんなに贅を尽くした料理であろうとも彼の舌を満足せしめるのは非常に困難であると言わざるを得なかった。
 普通の食事では満足できない。
 しかし,何か食べないと飢え死にすることも間違いのない事実である。
 そして,それを何とか「美味しいもの」を食べることに使いたい,と祈っているにも関わらず,それを得るための情報ももはやなく,あってもそれは彼にとっては信頼するに値しない情報だった。
 普通一般の料理では,もはや彼を満足させるのは不可能であるのかもしれない。
 彼はそのことに気付き始めていた。
 彼にとっての最高の幸せは,当然「美味しいものを食べること」である。
 それは,かつては簡単に手に入るものだった。
 しかし,今はその幸福を手に入れるのが非常に難しいものになっている。
 何たって,普通一般に出て来るいかなる料理でも,彼を満足させることは出来なくなっていたのだ。
 彼は今日もグルメ雑誌に目を光らせ,インターネットの名店紹介のページに目を光らせる。
 少しでも美味いものを求めたい。
 しかし,そうやって情報を集め,遠い道のりをたどってやって来た名店といえども,彼は満足できなくなっていた。
 彼は焦燥と無力感を覚えつつあった。
 もう,この世にある,自分が知る限りの全ての手段を尽くしたいかなる料理,食物といえども自分を満足させることはできないのか。
 自分の舌は,今までに食べたことのないような,斬新な,今までの殻を打ち破るような味を求めているのだろう。
 それを得るためならば,どれだけ金を払っても,どれだけの労力を使っても惜しくなかった。
 いや,もっと言えば,人の道に外れたことだって,彼はやるかも知れなかった。
 しかし,その時の彼はそこまで考えて自分を追い詰めるようなことは無論ない。
「どこかに美味いものないかなあ。腹減ったなあ」
 彼は食事の時間が近づくと,口癖のように呟いた。
 しかし,それはただ呟くのみで,もはやさしたる行動も起こさないで(かつては行動していたが,それを無駄と悟ったのか,最近では何もしなくなった),出される食物を不味い不味いと思いながら,生命を保つためにただ摂取するだけの日々に過ぎなくなっていた。

 

6 聖人#6 堀 和歌子

 彼女は今日も,ある政党の集会に参加していた。
 忙しい毎日の仕事の間を縫って参加するこの「イベント」はもはや,彼女にとってただ一つの「居場所」になっていた。
 3人が演説を終えて,彼女の番が来た。
 彼女は大袈裟に身振り手振りを交えて,熱っぽく演説をした。
 政治改革。
 男女共存社会の実現。
 女性の権利の実現。
 そして,司法改革。
 彼女は,弁護士だった。
 今のこの世の中を,どうぞ皆さんの力で,変えていこうではありませんか!!
 彼女はそう締めくくった。
 割れるような拍手が彼女を包んだ。
 彼女は恍惚の表情でしばし壇上に立ち尽くしていた。
 彼女は―「闘う」弁護士だった。

 彼女は,一流大学を卒業すると,その聡明な頭脳によって,難関の司法試験を一発でパスした。
 そして司法修習所での勉強を終え,裁判官への道を選んだ。
 それは,自分の判断で判決を下すことの出来る,直接的な力を手に入れるため。
 そしてひいては,自分の判断で下した判決によって,世の中を変えていくことを目指したから。
 彼女は,それができると信じていた。

 思いは,あっさりと打ち砕かれた。
 まず,経験の少なさの故に,新米の意見が受け入れられることそのものが難しかった,という事情があった。
 しかし,これだけなら幻滅はするまい。キャリアを積めばいいだけの話なのだから。
 彼女は,恐らく今後十年,二十年勤務し続けたとしても自分の意見が受け入れられず,ただの少数意見を形成するだけの存在でしかないということを漠然と意識していた。
 彼女の意見が,あまりにもドラスティックにすぎるものであることは間違いのないところだっただろう。しかし,「理想」というものを掲げる上では,その意見は間違いなく正当なものだったはずなのだ。それが,「理想的」かつ「正当」であるが故に受け入れられない状況が,そこにはあった。
 彼女が発言すると,失笑が漏れた。
 ある時,先輩の裁判官が言った。
 君,そんな事ばっかり言ってると,出世が遅れるよ。
 この一言で彼女の腹は決まった。

 理想と現実は違うんだよ。
 その日,先輩は言った。
 お世話になりました。
 彼女は応えず,にっこり笑って去った。
 彼女は裁判官を辞め,フリーの弁護士になった。

 大学時代,一人だけ付き合った恋人がいた。
 法学部の同じゼミナールの学生で,爽やかな印象を与え,聡明で,ルックスも男性の平均より遥かに上を行く男だった。
 彼女の方が思いを抱き,打ち明けて付き合い始めた。
 彼は女性関係に関しても手練を見せて,彼女をますますのめり込ませた。
 気の早かった,そして純粋だった彼女は,彼と結婚することを夢見るようになった。
 それは単純に過ぎる考えだった。
 2年もたった頃だった。
 ある日突然に,彼は彼女に対して一方的に別れを通告した。
 その過程で,彼には彼女以外に複数の女性がいたことを知った。
 最初は何故だろう,自分に至らないところがあったのではないか,可能ならば,機会が許すならばやり直したい,と思い詰めた彼女も,事の真相が明らかになるにつれて,もうどうしようもない,このままいたら自分までも不幸になってしまう,と割り切ってしまえる心境になった。
 さようなら。
 彼女は最後の最後,笑って彼に別れを告げた。

 その後,彼女は結局男性と付き合うことがなかった。
 彼女が特段もてなかった訳でなく,むしろ逆だった。
 しかし,彼女は言い寄って来た男性の交際の申し込みを悉く棄却した。いや,却下した。
 前付き合っていた彼氏の幻影に憑かれていた訳ではない,そうであってはならない,と思っていた。
 ただ,彼よりも魅力に劣る男性とくっついて満足してしまうことは,彼女にとっては妥協であり敗北であった。
 しかし,彼よりも魅力のある男性の多くは,女性遍歴を重ねていくことで狡さを覚え,女性をとっかえひっかえする軟派師と化していた。少なくとも彼女の目にはそう映った。
 逆に魅力に劣る男性は,女性に良く思われようとして媚びることしか頭になく,それは彼女にとって反吐が出るほど醜い行為に思われた。
 女々しい。
 こういう言葉を彼女は嫌っていたが,この言葉以外に彼らを形容する言葉が見つからない。
 少なくとも彼女の中では,男性という種族は二極分化されていた。
 どっちにも与することが出来ず,彼女はずっと一人でいた。

 その後彼女は司法試験に合格,司法修習を経て裁判官,それを辞職して弁護士,という多忙な日々を過ごすようになり,恋愛をしている暇がなくなった。
 いや,それは口実に過ぎなかった。
 彼女は恋愛をする暇がなくなった,と言うよりも,恋愛をする気がなくなった,と言ったほうが適切なのかもしれない。
 女性を惹き付ける要素を多く持つ男は高飛車な男権主義者となり,そうでない男は卑屈な奴隷と化す。
 そんな男たちにほとほと愛想が尽きていたのが本当のところだった。
 同じ年頃の女性たちが恋愛だの結婚だのに使っているエネルギーを,彼女は徹底的に仕事に費やすようになった。
 そんなものにかまけている暇があるのなら,自分の信念に基づいた理想の社会を形成するために一石でも投じられるように働く方が,自分にとっても,そして社会にとっても有益ではないのか。自分の生きる道は,こっちなのだ。
 それこそ馬車馬の如く,身を粉にして毎晩夜中まで働いた。
 身体を壊すなよ。
 家族や友人はしばしば,心配してそう言った。
 ありがとう,大丈夫だから。自分のことは自分で面倒見られるんだから,心配しないで。
 彼女は言った。
 しかし,本当はそうではなかった。
 仕事が元で身体を壊すことさえ,彼女はもはや何とも思ってはいない。
 どうせ一人の身体なのだから,潰れたところで別段誰に迷惑を掛ける訳でもない。
 仕事をしている時が一番充実していて,楽しい。
 それを他人にどうこう言われる筋合いはないんだし,過労だなんだとどうこう言う人の方が気が知れない。
 私は,仕事が好き―

 彼女のそんな努力は,多くの場合徒労に終わった。
 彼女の主張は悉く,最初の地方裁判所の段階で跳ね除けられた。
 跳ね除けた連中の中には,かつて一緒に働いた同僚もいた。
 彼らは判決言い渡し後,彼女に声をかけることなく,侮蔑の視線を向けて去っていった。
 彼女に弁護を依頼して敗訴した者―その多くは,女性とか高齢者とか,社会の中では発言力を持たない者だった―は,最後まで闘いましょう,という彼女の檄に応えるだけの気力も体力も財力もなく,一審で敗訴した時点で諦めて泣き寝入りする場合が殆どだった。
 彼女はそれが悔しかった。
 しかし,現実の法律,社会情勢,その他諸々のファクターを考え合わせると,彼女が目指すような社会の形成,という理想は勿論のこと,自分が共感し,応援したい,力になりたい,と思った人を弁護して勝訴に導くことさえも出来ない。
 悔しさは無力感に変わる。
 毎日こんなに頑張って働いても,結局自分は何の役にも立っていない。
 彼女は,「仕事」をするようになって初めて思った。
 何だか,疲れたな―

 

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