長編連作小説#2 聖人同盟(第7回〜第9回)

7 秘密のチャット・ルーム

 はじめまして。突然のメールで失礼致します。
 このような言葉で始まる電子メールをもらったことが,きっと読者の皆様にもあることだろう。
 こういうのは,大抵企業とか団体とか個人とかが自分の所で持っているホームページを宣伝し,一人でも多くの人に見てもらって,あわよくば顧客になってもらおうとして送る,言ってみれば電子メール版のダイレクト・メールのようなものである。興味のある人はそれをたどってホームページを見るだろうし,興味がなければ速攻削除である。どれくらいの人間が削除せずに考慮のうちに入れてくれるかは分からないが,恐らくその確率は相当低いに違いない。だからこそ送る方としては,一人でも多く,と半ば無差別絨毯爆撃的にメールを送るのであろう。
 彼らが受け取ったメールは,文面としてはそれらのものに非常に似ていた。
 だから,例えば6人にしか送らなかったとするならば,それに興味を持ってくれる人は多くて一人,かなり高い確率でゼロだろう。
 本日は,私達がこのたび始めました新規のチャット・ルームのご紹介をさせていただきたくメールを差し上げた次第です。
 ここまで読んでくれる人が果たして何人いるだろうか。仮にここまで読んでくれたとしても,チャットというものに興味がなければやっぱり削除されるだろう。
 このチャット・ルームは,選ばれた方にだけ開放された,「秘密のチャット・ルーム」です。あなたはその「選ばれた方」の一人です。
 「選ばれた方」というのがまた怪しい。これでは,「おめでとうございます,あなたは当社の抽選で海外旅行が当たりました」という言葉で巧みに誘って最終的に英会話の高い教材を売りつける,違法すれすれの訪問販売とさして変わりがない。「秘密のチャット・ルーム」という文言が怪しさにとどめを刺している。
 この部屋にはあなたと同様に「選ばれた」方があと5人集っております。
 6人にしか送っていないのだから,自分以外にあと5人いることには違いない。しかし,自分以外にメールを送られた5人がみんなそのチャット・ルームとやらに集うとは限らない。と言うより,残りの5人がみんなそれを無視してしまう可能性の方が遥かに高い。ということは,仮に自分がそのチャット・ルームに興味を持ってやってきてみても,自分しか来ていないために話し相手がいない,という悲惨な状況も十分に考えられるのである。
 あなたも是非当ルームにお越し頂き,「選ばれた方々」同士の質の高いチャットを体験されてはいかがでしょうか。
 選ばれた方々の質の高いチャット。
 せっかくここまで読んでくれた人でも,よほど自分の能力に自信のある人間でない限り,「選ばれた方々同士」の「質の高いチャット」に参加してやろう,と思う人間が果たしているのだろうか。もしいるとしたら余程本当に質の高い人間であるか,さもなくば余程傲慢な人間であるか,どちらかであろう。
 勿論,参加は一切無料です。是非お越しください。
 無料なら暇潰しに来てもいいかな,という気はしなくもない。しかし,来るのだけは無料だがその先はクリックすればするほど金がかかる有料サイトは多い。まあそこまでは疑わないにしても,たとえ無料だとしてもたったこれだけのダイレクト・メールまがいの電子メールにつられて訪れる人間がいるとは思えない。しかもこのメールの宛名の欄には,ご丁寧に本当にメールを出した人間のアドレスが全部載っていたのである。それを見ると,本当に6人にしか出していない。本気!?
 堀和歌子はそのチャットルームのアドレスを打ち込み,実際にそこを覗いて見た。

「ようこそ,秘密のチャット・ルームへ。あなたは6人目の会員です」
 そこでは,既に来ていた5人が,とりとめもない話をしていた。
 ナンパセックスの面白さを自慢し,会社組織のつまらなさに愚痴をこぼす男。
 ナンパは良く分からないけど,組織のつまらなさには賛意を示し,そんな中で潰されそうになっている自らを嘆く男。
 それに対し,女性と結ばれて子孫を残すのが男性としての務め,そんなことに貴重な精子を浪費する奴があるかと吐き捨てる男。
 死の意味を訥々と語り,命を捨てるべきものがどこにあるのか教えてくれと懇願する男。
 それに対し,せっかくの一度しかない人生,美味い物を食って死ななきゃ意味がねえじゃねえかと諭す男。
 和歌子は戸惑った。
 メールを送られた人間がみんなここに,しかも同時間に集まってこうやって話をしているのだ。
 話の質はどうか分からないが,少なくともこのことは驚嘆に値する出来事だった。
 どうです,堀 和歌子さん。
 声を掛けてくる者がいた。
 私は浅見 零。
 当チャット・ルームのオーナーです。
 ついていらっしゃい。
 私と少し,話をしましょう。
 下をクリックすれば,オーナーズ・ルームに入ることが出来ます。
 まだあの5人には知らせていないんですけどね。
 和歌子はまるで催眠にでもかかったかのように,指示された部分をクリックした。
 ここは確かに自分の事務所の一室のはずだった。
 しかし,彼女は今,自分があたかも別世界にワープしたかのような,奇妙な錯覚を覚え始めていた。
 彼女は彼らが今この時に何を話しているかを知りたいと思った。
 しかし,彼らの声はもう彼女には聞こえなかった。

 オーナーズ・ルームは真っ白な画面で,何もない部屋だった。
 ここへ来て良かったのだろうか。
 和歌子は不安に囚われた。
「大丈夫ですよ,安心なさってください」
 オーナーの言葉が画面に現れた。
「来てくれて,ありがとうございます」
「え…ええ」
「緊張していますか?」
「まあ」
「大丈夫です。私はこのチャット・ルームのオーナーとしての名誉に賭けて,ここに来てくださったお客様に不利益を及ぼすようなことは決して致しません。もちろんこのチャット・ルームのどこをクリックしてもお金を1銭でもいただくようなことはありません。断っておきますが,宗教や政治その他に関わるようなこともありません」
「あの,これって本当にただのチャットなんですか」
「そうです」
「それにしては何だか,普通のチャットとは違う。奇妙に大掛かりだし,しかも私達6人しか呼ばれていないみたいですし,しかもその6人がみんな来てここにはまっていってる。これって怖くないですか」
「それは,…今は信じてもらえないと思いますけど,あなたたち6人は本当にここに集うべく選ばれた方々だからです。そういう風にできているのです」
「本当に信じられない。私,帰ります。忙しいんです,これでも」
「そうですか」
「止めないんですか」
「私はお越しになる方は拒みませんし,去られる方は追いません。右上の×をクリックすれば回線が切断されますから,退出されたければご自由にどうぞ」
「そうします」
 堀 和歌子さんが退出されました。
 その時,彼女のパソコンは元の壁紙とウインドウが並ぶ,いつもの光景に戻った。

 そうそう,言うの忘れてました。
 あなたを含めた6人が選ばれた理由。
 私はあなたたちがここに集うことを確信して,あのメールを出したのです。
 何故なら,あなたたちにはある共通点があるからなんです。
 そして,それを通じてあなたたちが,オーナーである私も含めて,お互い高め合っていくことを目的に,私はこのチャットを旗揚げしたのですよ。
 その共通点というのはね…
 あ,いなくなっちゃったか。
 浅見さん,とっくの昔に帰っちゃいましたよ,彼女。
 あんた,説得するの下手糞やからなあ。
 俺に任せてくれれば良かったのに。女性のことならこの俺が…
 お前は単に女に声掛けて股開かすのが得意なだけじゃねえか。
 何,てめえみたいなムッツリスケベエに言われたかあねえや。
 やんのか,てめえ。
 あああ,また始まったよ。落ち着いてくださいよ,二人とも。
 はっはっはっは。
 ああ,もう,笑ってないで止めてくださいよ,浅見さん…!

 

#8 忘却

 日本各地では,故郷でお盆休みを過ごした人たちのUターンラッシュがピークを迎えています。各地の高速道路では,中央高速道路の河口湖インター付近で43キロ渋滞しているのを筆頭に…
 仕事に一区切りをつけ,コーヒーを飲みながらニュースを見ていた彼女は,ふと意識を失うかのようにぼんやりとしていた。
 そして,まるで夢でも見ているかのようにぼんやりと考えていた。
 そろそろ,あれが来るのかな…

 堀 和歌子が在籍していたゼミナールでは,毎年8月の下旬から9月の上旬あたりにOB会が行われる。そして毎年今くらいの時期に,出欠を尋ねる案内状が届く。
 彼女はOB会に出席したことがなかった。仕事が忙しかったし,昔付き合って別れたあの男に会うかも知れないと考えるのも嫌だった。何より,貴重な一日を潰して顔を出すほどゼミナールに愛着を持っていなかった。
 無論彼女とて自分をある意味育ててくれたゼミナールに恩義を感じていないわけではなかったから,毎年教授には年賀状くらいは出していたが,安くない金をはたいてまであまりいい思い出のない場所に出かけていって愛想を振りまくほどの人好しでもなかった。
 よって,彼女にとってその案内状はあまり歓迎すべきものではなかった。
 欠席,と書いてポストに放り込むか,さもなくば無視してしまえば良いのだからさして苦痛という訳でもないのだが,少なくともそのはがきが郵便受けに入っていたその日だけは,大学時代のことを思い出して物思いにふけり,自分の中のもやもやとしたものがよみがえって来てため息をつくのだ。
 やれやれ。
 テレビのスイッチを切って,再び彼女は机についた。
 多くの,しかも勝ち目の薄い裁判を多く抱えていた。
 一人ではこなしきれないので,アルバイトを雇って凌いでいたが,それでもとても追いつかなかった。かえって給料を払わなければならない分,経済的には苦しくなった。
 困ったなあ。
 頭ももう働かなくなっていた。
 この3日間,ろくに寝ていなかった。
 ともかく,何か体を動かさないとその場に倒れそうだった。
 そうだ,新聞を取りに行かなきゃ。
 ついでに郵便も。
 「あれ」が届いてるかも知れないから,本当はあんまり行きたくないんだけど。
 彼女は酔っ払いのような千鳥足で玄関に行き,ドアを開ける。
 ドアには3社の3日分の新聞が入っていたが,郵便物は入っていなかった。
 なしか。
 安心したような,拍子抜けしたような,そんな気分だった。

 そのまま時が流れて9月も終わりに近づこうとしていた。 
 例の手紙は,未だに彼女のところには届いていなかった。
 どうしたのだろう。
 毎日のように郵便受けを覗いては,そう思うようになっていた。
 その気持ちは,安心から不安に変わりつつあった。
 住所は教授を通じてゼミナールには伝わっているはずだった。だからこそ去年までは毎年案内が来ていたのである。それが引っ越した訳でもないのに今年から急に来なくなったのはどういう訳だろうか。今年はOB会が行われないとか,時期が遅れるとかそういう事情でもあるのだろうか。そうだとしてもそれはそれで一報あってもいいんじゃなかろうか。
 ばかばかしい。
 何を気にしているんだろう,私。
 あんなもん来なくて,せいせいするわ。
 忙しいんだから,そんなもんに構っている暇なんてないんだから。
 彼女はきびすを返して,事務所を兼ねた自宅のドアを開けた。

 10月になってからだった。
 彼女の元に一通の葉書が届いた。
 差出人は,一人の男と一人の女だった。
 男の名は,ゼミナールで一緒だった元彼氏のものだった。
 女の名は,彼女の知らない名だった。
 「私達,結婚しました!!」
 そこには,心底嬉しそうに写真に収まった二人と,それを囲む友人達の写真だった。
 そこには,ゼミナールにいた元同級生達がいた。
 二人の新しいアドレスの下に,見覚えのある筆跡でこう書いてあった。
 元気にしていますか。今年もOB会に姿を見せなかったね。友人として心配してます。たまには連絡をくださいね。またみんなで飲みましょう。
 え?
 彼女は明らかな動揺を覚えた。
 あの男への未練なんてこれっぽっちもなかったから,彼が結婚しようが,「友人」呼ばわりされようがそれは大した問題ではない。むしろウエディングドレス姿の彼女を見て,私のほうがちょっときれいみたい,と悪態をつくくらいの余裕さえあった。
 この明らかに均衡を失した奇妙な気持ちの原因は,彼のコメントの前半分と,写真に収まった同級生達。
 ゼミナールのOB会は既に自分の知らないところで行われていて,そこでみんなで集まっていた。そして彼の結婚式にも招かれて,みんなでああして写真に収まっている。そして,自分はそんな中でのけ者にされて,こうして一人でそれを見ている。
 去る者は日々に疎し。
 確かに自分はゼミナールを疎んじてきたけれど,それはあまりにも冷たい仕打ちではないだろうか?
 昨夜は7時間眠ったはずなのに,自室に戻る彼女の足取りは,やはり千鳥足だった。

 

#9 現実

 堀 和歌子は一時期に比べて暇になっていた。
 訴訟に負けつづけているものだから,弁護士仲間の間での評価が下がっていたのだ。
 彼女は決して無能な訳ではなかった。しかし,自分が正義であると認めた人の弁護しか引き受けないというポリシーが彼女の邪魔をした。以前にも触れたが,結果として彼女が弁護をするのは,金も力もない社会的弱者であった。そういった人達は,自らの権利を侵害されて困っていることには違いないのだが,訴訟に持ち込んで闘い抜くことには逡巡していた。それはとりもなおさず,社会的に強い,力のある者―それはたとえば自分のいる会社だったり,あるいは地域の実力者だったりした―を敵に回すこととなり,ひいては訴えることにより,会社だの地域だのの中にあって却って不利益をこうむる可能性が高かったからである。それを彼女が半ば無理矢理に説得して闘いへと向かわせていたのだ。
 しかし,せっかく説得して闘いへ向かわせても,彼らは多くの場合,相手の巨大な力に恐れをなして口をつぐんだ。道理が通っていれば,正義があれば勝てるはずの闘いも,こちらが黙っていては勝てる訳がない。彼女はそのたび,両者の間にある圧倒的な力の差を感じた。アナクロな言い方をすれば,核ミサイルに竹槍で立ち向かうようなものだ。勝てる訳がない。
 彼女は負けても負けても自らの正義を信じて立ち向かっていった。
 何度やっても,結果は変わらなかった―

 暇になった分,彼女がさる政党の集会に顔を出す回数は増えた。
 それが単なる自己満足だと分かるまでに時間はかからなかった。
 今回行われた市長選挙でも,彼女達が応援していた候補は,与党相乗りの現職候補に圧倒的大差で敗れた。
 圧倒的な保守王国であるこの街で,しかも現職を向こうに回し,始めから苦戦は予想されていた闘いだった。
 負けたのはある程度仕方がないと言わなければならなかった。
 しかし,彼女が落胆したのはそのことではなかった。
 彼女は先頭に立って,声を嗄らして支持を訴えた。
 そんな中で,全くと言っていいほど手応えをつかむことができなかった。
 声援は確かにいくらかは受けた。
 握手を求めてくる支援者ももちろんいた。
 しかし,それは殆ど候補者の内輪の人々のものに過ぎなかった。
 内々だけで満足してしまっていて,外部に自らの声を発信しようという意欲が,陣営の中から見られなかったのだ。
 こんなんじゃ,勝てるわけがないじゃないの。
 彼女は幾度口に出して言おうとしたか知れないその言葉を,必死になって自分の喉の奥に閉じ込めていたのだ。
 案の定,負けた。
 負けたのは仕方がない。しかし負けたのならば,そこには何らかの敗因があったはずだ。
 それを徹底的に分析し,次回闘う機会が訪れた時のための糧にせねばならないはずだ。
 それなのに,選対本部長を始めとするその政党の幹部達は言ったのだ。
 我々は○○氏を候補とし団結して闘い抜き,一定の成果を得た。
 敗れたのは残念であるが,与党陣営の選挙妨害の中でこれだけの票を得たのは収穫だ。
 今後も民主勢力の結集を目指して共に頑張ろう。
 何が共に頑張ろうだ。
 自分が支援した候補が負けたのであるから,己の闘いぶりの至らなさを反省しなければならない立場であるはずの者がこんな呑気なことを言っている。なけなしの成果ばかり強調して,誰も責任を取らない。
 それは,この中にいた者ならば誰もが感じている歯がゆさのはずだった。
 しかし,それを口に出して言う者はなかった。
 口に出して言えなかったのだ。
 いや,言う気にもならなかったのかも知れない。
 その政党は民主主義を標榜していた。 
 しかし,同時に党として,常にトップダウンの硬直化した組織となっていた。
 中央から地方へ,上層部から下っ端へ,決まった方針の元に動くのみであり,それに異を唱えることが許されなかった。仮に異を唱えたとしても,その場で握りつぶされるのがオチであった。運動の方針は「民主的」に「審議」された。しかし,それはあくまで形式的に,審議をしました,という事実を得るためだけのもので,単に人を集めて拘束して,これでいいですかいいですね,というだけで終わってしまうものでしかなかった。たまに意見を述べる者がいたが,それは漢字が違うだの文章のてにをはがおかしいだの,そういったレベルの日本語の手直しに過ぎなかった。
 自分がこの党にいる意味は,いったい何なのだろうか?
 単に名目上の「組織」のため,人数集めのためだけの要員でしかないのだろうか?
 この「組織」の中にいながら何かを主張し,「自分」というものの存在意義を強調するのはわがままでしかないのだろうか?
 大体こんなことをしていたところで,自分の理想をかなえることができるのだろうか?
 そのために一歩でも進んでいるのだろうか?
 毎日弁護士の仕事の合間をぬって走り回って,何の成果も得られないで,すずめの涙ほどの満足感も得ることができないのならば,自分がここにいる意味なんてないじゃないの。
 彼女は集会に顔を出さなくなった。
 最初のうち頻繁にかかってきた電話も,そのうち鳴らなくなった。
 結局,自分は彼らにとっても用無しになってしまったんだ。
 自分では何も出来ない。
 自分は誰からも必要とされていない。
 鳴らない電話とにらめっこしながら,またため息をついた。
 携帯電話が鳴った。
 電話への着信ではない。電子メールが来たことを知らせる呼出音だ。
 「堀さん,お久しぶりです。元気でいらっしゃいますか。気が向いたら,またいらしてください。チャットルームA・オーナー 浅見 零 拝」

 

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