長編連作小説#2 聖人同盟(第13回〜第15回)

#13 男と女

 誰もいないか。
 ここ1週間というもの,暇を持て余して毎日のように来ていた彼は,今日もここを訪れてそう思った。
 殿井 浩二さんが入室されました。
 その字面を眺めながら,何となく空しい気分に捉われていた。
 そうだよなあ,みんな忙しいもんなあ。
 仕事もろくすっぽ来ないで暇なのは,俺くらいなもんさ。
 退出しようとしたその時だった。
 堀 和歌子さんが入室されました。
 殿井 浩二>堀さん。
 堀 和歌子>あれ。来てらしたんですか?
 殿井 浩二>来てらしたんですか?…って。随分ご挨拶じゃないですか?
 堀 和歌子>別に他意はないんですけど。今まで私が来た時に他の方が来てらっしゃったことってないものですから。
 殿井 浩二>それはあなたが来ないからじゃないですか。現に私はここ一週間,毎日のように来ていたんですから。でも誰も来なかったんですよ。
 堀 和歌子>毎日…ですか?よほどお暇でらしたんですね(笑)
 殿井 浩二>ひどいなあ。まあ確かに暇なんですけどね。
 堀 和歌子>お仕事はどうなさったんですか?
 殿井 浩二>来ないんですよ。自営業なものでね。発注が来なければ暇なだけです。
 堀 和歌子>あのー,何屋さんでしたっけ?
 殿井 浩二>あのねえ(苦笑)小説家ですよ,小説家!!ちゃんと申し上げておいたはずなんですけどねえ。お忘れになったんですか?
 堀 和歌子>そうでした。いやらしい小説書いてるって,享野さんが仰ってらしたっけ。
 殿井 浩二>書いてませんよ!あんな奴の言うことを信用しないでください!
 堀 和歌子>そう言えば,30過ぎて独身で,男性が好きなんですってね。
 殿井 浩二>だからさあ,あいつの言うことを信用しないでくださいよ!!私は確かに独身ですが,そんな趣味はありません!!失敬千万な。
 堀 和歌子>それは失礼。でもそんなにむきになって否定しなくってもいいんじゃないですか?どうせ享野さんのいつもの冗談なんですから,笑って済ませれば。
 殿井 浩二>冗談じゃありませんよ。ホモ呼ばわりされるなんてまっぴらごめんだ。気色悪い。醜い。汚らわしい。
 堀 和歌子>それって,同性愛に対するいわれのない偏見や差別の心に基づくものなんじゃないんですか?それは良くないと思います。
 殿井 浩二>差別だろうが何だろうが,嫌なものは嫌なんです。あんな連中に差別だの何だの言われたかない。人間として本来持つべき,子孫を残すという目的を忘れ,単に欲望の赴くままに男の尻を追い掛け回しているような奴らですよ。
 堀 和歌子>ひどい言い方をしますね。作家の方の言葉とは到底思えないわ。作家の方は小説を通じて世間にメッセージを発信するべき立場でしょう。それだけ重要な役割を負う人がそんな考え方をしていたら,世間に差別意識を流布し,人権を侵害する引き金にもなりかねません。極めて危険な考え方ですわ。
 殿井 浩二>そんなことを言ったって,嫌いなものはしょうがないだろう。俺はあいつらのために実際に実害を蒙ったんだ。精神的に大いに傷つけられた。いわば被害者だ。あなたは被害者よりも加害者の人権を大切にせよと言うのか。それは本末転倒だ。
 堀 和歌子>議論をすりかえないでください。あなたと彼らの間にどんなことがあったか知りませんが,それは個人的な怨恨に過ぎないのではないですか?
 殿井 浩二>そう言ってしまったらそうかも知れない。しかし,誰しもどうしても受け入れられないものはあるだろう。世の中の大多数の人間がゴキブリを受け入れられないのと同じように。あなただって嫌いなものが全くない訳じゃないだろう。
 堀 和歌子>彼らをゴキブリと一緒にしないでください。人間とゴキブリを一緒にするなんて,最悪の侮辱だわ。それに私は,受け入れられないほど嫌いな人間はいないです。強いて挙げるなら,正義にもとるものを憎みます。差別,戦争,権力…
 殿井 浩二>はいはい,そうですか。それはご立派な心がけ,真に結構。確かにそれは理想かも知れん。しかし,人間は奇麗事だけでは生きていけないんだよ。人間には感情というものがあるんだ。おつむ,理性で考えた理想,正義,そういったものだけでは世間を渡ってはいけないんだ。人間には理屈では片付けられない思いというものがあるんだ。だからこそ人間らしいと言えるんだよ。あなたのように理屈だけで物事を片付けようとするのは,人間らしさのない,ロボットの所業だ。
 堀 和歌子>確かに人間には感情がありますわ。どうしても受け入れられない,理屈では片付けられないことがあることも承知しています。しかしそれが悪い方に進めば差別になり,戦争になり,悪い結果しか招かないことになるでしょう。それを防ぎ,統御するのが理性であり,正義なのではないですか?それを防がないことこそ,あなたがまさにさっき仰った,欲望の赴くままに云々,というお話になるのではないですか?
 殿井 浩二>可愛げのない奴っちゃな。だから結婚できないんだ。
 堀 和歌子>女は可愛げがなきゃいけないなんて,誰が決めたんですか?それは「女は女らしく」と強要する,女性差別の考え方じゃないんですか?あなたこそ,そうやって女性を軽視する考え方に捉われているから時代についていけなくなって,今の女性に受け入れられなくて,だからいつまでも結婚できないんだわ。
 殿井 浩二>余計なお世話だ。女性に女性らしさを求めてどこが悪いんだ。男らしい女がいたら気持ち悪いだろうが。あんただって,女みたいな男がいたら不快感を感じるはずだ。少なくともそういう男と付き合おうとは考えないだろう。
 堀 和歌子>それは個人の自由じゃないですか。女性でも男性的なパーソナリティを求める人はいていいし,逆もまた然りだと思います。そういう女性,男性を求める人だっていていいし,それも個人の自由だと思うわ。
 殿井 浩二>自由を求めるのもいいだろうがね,そうやって自由自由と言い続けて,自由を履き違えた人間が数多く現われて,その結果伝統だの文化だの,そういったものが破壊されて,平気で人を殺したりする連中が出て来るんだ。
 堀 和歌子>伝統だの文化だの,そういったことに縛られるのは古臭いと思います。伝統にも正の側面とともに負の側面があったのではないですか?そういったものの影で,女性差別などの多くの差別が温存され,人権が軽視されてきたのではないのですか?確かに今,少年犯罪などが深刻な問題となっているけれど,それは個々の家族の問題であって,だからイコール自由が悪いってことにはならないのではないですか?
 殿井 浩二>そうやって個々に責任を押し付けて,自分は悪くないからいいんだと開き直る,その姿勢が問題なんだ。伝統を全て古臭い,悪だと決め付ける態度は改めた方が良いと思うが。
 堀 和歌子>別に全て悪いと切り捨ててる訳じゃありません。ただ,全てが良いというのが間違いだと言っているだけです。昔の風土が差別の心を温存してきたというその事実を指摘しているだけです。そしてその風土にどっぷり浸かって差別の心を根深く持っているのがあなたであると指摘しているだけです。そしてそれが今の日本人の典型的な姿でもあるんです。日本にはこの種の理不尽な差別があまりにも多過ぎます。そういう人権侵害がまかり通っている限りは,日本はいつまでも文明国と言えないと思います。
 殿井 浩二>あなたと論争をするつもりはない。そこまで話が飛躍すると元の話を忘れてしまう。要は,人間が男もしくは女に生まれてくる,これは決まっていることなんだ。そのどちらかに生まれてきたならば,男は男として,女は女としての役割を果たすのが人類の義務ではないのか,ということだ。生まれついたものはどうしようもできないではないか。男と女が結びついて子孫を残す,これが人類の義務なんだから,男が男の,女が女のポジションを逸脱するようなことは,人類の与えられた摂理に反することであって,神に対する挑戦になるのではないか,ということだ。
 堀 和歌子>何を仰りたいのか,良く分からないんですが,人間が体の性と心の性と必ずしも一致しない場合だってあるんです。生まれながらに,体は男性であるのに心が女性であったり,もしくはその逆といった例だって実際に少なからずあるのです。そういった人たちにも自分の体に心を合わせるように強要するんですか?そしてそれができない人たちを変態と呼んで差別するんですか?それが自然の摂理なんですか?生まれながらにして差別される,それを神が望んでいるとでも言いたいのですか?
 殿井 浩二>差別が悪いということくらい,私にだって分かっている。誰も差別を肯定したりはしないさ。しかし,「自分と違うもの」に対してはある程度身構えなければならないことは事実だ。
 堀 和歌子>「自分と違うもの」を認めない態度,それがすなわち差別なんです。
 殿井 浩二>それも分かっている。しかし,そういったものが自分に損害,危害を加えてくる可能性がある場合,少なくともその疑いが消えるまでは心を許す訳にはいかないのだ。向こうにも人権があるのかも知れないが,こっちにだって人権はあるのだ。
 享野 楽太郎>せやな,ほられずに平穏に生きる権利がな。侵害すんなや,おっさん。
 殿井 浩二>あ,享野,てめえ,いつの間に入って来やがった!
 享野 楽太郎>へへ,全部聞いとったで,なかなかおもろい話しよるやん,堀…あれ?
 堀 和歌子さんが退出されました。
 殿井 浩二さんが退出されました。
 享野 楽太郎>あれ,おっさんもおらんようになってもうた。おもんないなあ。
 享野 楽太郎さんが退出されました…

 

#14 生と死

 毛利 明人>…
 日田 一誠>あ,毛利さん。お久しぶりです。日田です。
 毛利 明人>…
 日田 一誠>どうされたんですか。さっきからずっと「…」ばっかりで。
 毛利 明人>君はいいよなあ,悩みがなくて。
 日田 一誠>???何なんですか,いきなり。喧嘩売ってんすか?
 毛利 明人>いや,そういう訳じゃないさ。…ただ何つうか,本当に君が幸せそうに生きているように見えただけでね…君は美味しいものを食べていられれば,それで人生満足なんだったよね…
 日田 一誠>毛利さんみたいにいつも「死にたい,死にたい」言ってる方が変なんですよ。それに私だって悩みの一つや二つない訳じゃない。日々ストレスを感じながら生きているんです。それを解消するために美味しいものを食べるという楽しみを見出しているんです。
 毛利 明人>私はもうそういったことには楽しみを見出せなくなってしまった。いくら美味い物を食ってもその時限りの楽しみじゃないか。腹が膨れてしまえばそれでおしまいだ。クソしてしまえば身にもならないじゃないか。
 日田 一誠>何でそう虚無的というか,身もふたもないことばかり言うんですか。一度しかない人生,楽しく生きなきゃ意味がないとは思わないんですか?
 毛利 明人>楽しく生きられればそれでいいというその考えの方が私には理解できませんよ。せっかく一度男として生を受けたからには,その命を何か有意義なことに使いたいという風には考えられないかなあ。
 日田 一誠>そもそも私はそんなに自分自身のことをそんな大した人間だとは思っていませんから。そんな命を何かに役立てようとかは考えたことがないですね。
 毛利 明人>…
 日田 一誠>ていうか毛利さん,あの「自殺ごっこ」はもうやめたんですか。
 毛利 明人>…
 日田 一誠>単なる「自殺ごっこ」ならば単に人の迷惑にしかなってない。本当に自殺したところでそれは自分で自分の命を絶つだけで何の役にも立っていない。むしろ死骸の片付けをしなきゃいけない分やっぱり迷惑だ。その行為に意味があるとは私には到底考えられませんがね。
 毛利 明人>…
 日田 一誠>毛利さん?
 毛利 明人>…それが分からないんですよ。だから…俺はね,あんまり自分が今,この世に生きていることに意味を見出していない。だから俺,こないだまでは本当に死ぬことばっかり考えてて,どうやって死んでやろうかとか,俺が死んだら周りはどうなるんだろうかとか,そんなことばっかり考えてた訳よね。
 日田 一誠>鬱なんじゃないんですか,毛利さん?病院に行った方がいいですよ。俺,いい医者,紹介しますよ。
 毛利 明人>…俺は,気違いじゃない。
 日田 一誠>気違いだとかそういうことを言ってるんじゃないんですってば。心の病ならば今はちゃんとした治療受ければ治るようになってきてるんですから。きっとそれは毛利さんの気の迷いですよ。死んじゃったら全部おしまいなんですから。
 毛利 明人>だからなあ,俺は病気だからとか感情だからとか,そういったことでやってた訳じゃないんだって。俺は…
 日田 一誠>何か信念があってやってたとでも言うんですか?今まで見てるととてもそうは見えなかったですよ。僕たちにも何も話してくれなかったばかりか,ここにも本当に1回か2回しか来なかったじゃないですか。話してくださいよ。何かあるんなら,僕たちにできることなら何とかしますよ。
 毛利 明人>…
 日田 一誠>毛利さん!
 毛利 明人>いや,ごめん。俺,やっぱ変なのかも知れない。
 日田 一誠>!??
 毛利 明人>今考えてみると,俺は必ずしも何かの信念を持って自分の身の振り方を考えていたのではなかったのかも知れない。何だか…俺の中でも分からなくなりつつあるんだ。自分が,どうしたいのか。
 日田 一誠>…
 毛利 明人>どうした,日田さん。俺をどうにかしてくれるんじゃなかったのかい。
 日田 一誠>毛利さん!!
 毛利 明人>なんだよ,びっくりするじゃねえか。
 日田 一誠>何を甘えたことを言ってんすか!!自分の人生なんだから,自分でどうにかしなさいよ!!何のために生き,何のために死ぬのか,それ考えるのは自分じゃないですか,自分の人生なんだから!!
 毛利 明人>…
 日田 一誠>日田さん!?
 毛利 明人>すまんなあ,俺,こういう風に叱咤されたことってなかったんだな。ずっと一人でいたもんでな。悪かったな。ありがとう。
 日田 一誠>日田さん…
 毛利 明人>俺もここに来るまでは胡散臭そうなところだなあと思ってたんだが,捨てたもんじゃねえな。ここでなら,俺のやりたいことが見つかるかも知れない。
 日田 一誠>…見つかるっすよ。絶対。
 毛利 明人>お前,俺を自殺させないために調子のいいことを言ってるんじゃねえだろうな(笑)
 日田 一誠>違いますって…僕だってそれを探しにここに来たのかも知れないし(笑)
 毛利 明人>(笑)
 日田 一誠>もう大丈夫ですね,医者を紹介しなくても(笑)
 毛利 明人>大方大丈夫だろう。また俺が死にたくなったら,その時また頼まあ。
 日田 一誠>それならそれは引き受けましたよ。その代わり…
 毛利 明人>何?
 日田 一誠>東京近辺で美味い店があったら紹介してくださいよ(笑)
 毛利 明人>俺だって知らねえよ。あんたみたいに食うことを趣味にしてる訳じゃねえからな。むしろ俺の方が教えてもらわんといかんぜ。俺も趣味を持たないとまずいみたいだからな。
 日田 一誠>僕を満足させてくれる店なんてありませんよ。もう今となってはね。
 毛利 明人>別の種類の店を探した方がいいんじゃねえのか。30分9000円で満足させてくれるような。
 日田 一誠>そんな誰かみたいなことを言わないで下さいよ。僕はもうそっち方面には興味を無くしかけているところなんですから。
 毛利 明人>何だお前,まだ若いのにそんな寂しいこと言っちゃって。
 日田 一誠>そんなことを言うんなら毛利さんこそどうなんですか。いくら死にたい死にたい言っててもそういう気持ちはあるでしょうに。
 毛利 明人>俺はもういいんだ。…
 日田 一誠>毛利さん!?俺,何か悪いこと言っちゃったかな。すいません…
 毛利 明人>いや,いい…
 毛利 明人さんが退出されました。
 日田 一誠>???
 享野 楽太郎さんが入室されました。
 享野 楽太郎>こら,日田ちゃん!また俺の悪口言うとったな。さっきからずっと見とったんやで!!
 日田 一誠>え!?ええと…30分9000円は享野さんのことじゃないっすよ。本当。信じて?
 享野 楽太郎>じゃあ誰のことやねん。俺も違う,毛利さんもあんたも違う,堀ちゃんは女やから違う,平井ちゃんは高校生やから考えられん,誰や。浅見さんか?もう一人おるがあいつはどっちかと言うと2丁目の方に…
 殿井 浩二さんが入室されました。
 享野 楽太郎>やばっ,悪口言いよるとすぐこれや。ずっと入らずに見よるのがおっさんの根性悪いところや。いつも見とるんやからほんま暇人やで。よっぽど仕事ないんやな。
 享野 楽太郎さんが退出されました。
 殿井 浩二>くそっ,逃げられたか。いつもいつも俺の悪口ばっかりぬかしやがって。しかも根も葉もないことばっかり。やいこら享野,見とるか!!いい加減なことばかり抜かすんじゃない!!いつかぶっ殺してやる。覚悟しろ!!
 「おお怖。こいつストーカーちゃうんかい。いつもいつも俺が何か言うと出てきやがる。ずっと監視しとるんやな。こういう奴とは関わり合いになりとうないわ」
 享野はパソコン画面を眺めながら独りごちた。

 また何かやってるみたいですね。
 最初はどうなるかと思ったんですけど,そろそろ見えてきたんじゃない?
 いや,まだ分からないところがある。今のままじゃここまでが限界かも。
 …

#15 楽しいオフ会(1)

 男は,指定された駅前で周りを見回しながら,苛立ったようにタバコを吸っていた。
「おかしいなあ,ほんまにここなんかなあ」
 関西弁のその男は,胸につけた薔薇の造花を所在なさげに指で弄んだ。
「大体今時待ち合わせの目印にこんなんつけて来い言うのがそもそも…」
 言いながらまた周りを見回す。
 待ち合わせ,と言ってはいたが,彼の目は特定の個人を探すと言うよりも,不特定多数の視線を気にするような視線のようだ。
「恥ずかしいてしょうがないわ。大体こんなん付けとる奴なんてどこにもおれへんやん。俺,かつがれたんかなあ」
 視線を気にするほど彼の格好は人目を集めてはいなかった。行く人行く人皆,いい意味でも悪い意味でも彼に関心を持つほど暇ではないようである。その事実はある意味で彼にとっては救いであったろうが,ある意味では彼の気持ちを滅入らせた。
「あーあ」
 彼はため息をついてまた所在無く正面を向いた。
 ふと目が合った。
 運の悪いことに,数メートル離れたところにいる視線の先の主は,制服姿の―婦人警察官だった。
 しかも彼女はこちらの方に向かって歩み寄って来るではないか。
「やばっ」
 彼は咄嗟に視線をそむけた。
 ちょっと待て。
 冷静に考えたら,俺はここで待ち合わせをしとるだけやないけ。別に何もやましいことをした覚えは…
 …いっぱいある…かつて手を染めていた「例の商売」のことを挙げられたら,申し開きはできない。当時使っていたパソコンは,ハードディスクもCD-ROMもあの時のまま始末しないで部屋の押入れの中にしまってあるのだ。
 逃げようと思えば出来る。しかし,逃げたら余計に怪しまれる。自宅を突き止められたらどっちみち一巻の終わりだ。
 彼はその場から動くことも出来ないで顔面蒼白で突っ立っていた。
 彼女は彼のまん前までやって来て,ポケットの中に手を突っ込んだ。
 逮捕状か,あるいはいきなり手錠か?
 東都弁護士会 弁護士 堀 和歌子。
 彼女が取り出したのは,そう書かれた名刺だった。
 よくよく見ると,彼女の着ていた制服は,精巧に出来たレプリカだった。
「享野さんですね。はじめまして。どうぞよろしく」
 そう言って彼女は大笑いをした。
 まんまとかつがれた男―享野は,未だ何が起こったのか掴めなくて馬鹿みたいにぽかんとその場に立ち尽くしていた。

「何やあ,そういうことやったんか。ちっくしょう,まんまとかつがれたなあ。浅見さんも人が悪い。最悪やわ」
 全てを明かされた享野は,駅前の噴水広場のベンチに堀と二人で腰を下ろして,ふてくされるように口をとがらせた。
「ごめんなさいね。でも悪気はないのよ。浅見さんも単なる悪戯のつもりだったのよ」
 二人とも,聖人同盟の初めてのオフ会,というオーナー・浅見からのメールを受けて,待ち合わせ場所のこの駅前の噴水広場にやってきたのだ。ただ一つ異なっていたのは,待ち合わせ時に指定された服装。享野は白いスーツに胸に薔薇の花をつけてくること。堀は婦人警官のコスプレをしてくること。堀はメンバー全員の服装を知らされていて,メンバーの取りまとめ役を依頼されていた。
「でも堀ちゃん,よう婦警の制服持っとったなあ。そういう趣味があるんか?」
 上目遣いで享野は言った。口の端に品のない笑みが浮かんでいる。
「秘密です」
 堀は流すように笑った。
「そうそう,他の人たちはどこかしら」
 まだ妙な視線で嘗め回す享野を無視して彼女は立ち上がって言った。
「そんなん知らんで。なあ堀ちゃん,そんなん放っといて俺らだけでオフ会しようや」
 言いながら立ち上がって肩に手を回そうとする享野に肘鉄を食わして,彼女はすたすたと歩き始めた。
「待ってや,堀ちゃん!」
 彼女はしばらく辺りを見回した後で,ぱっと目を輝かせた後,方向を定めて早足で歩き始めた。
「堀ちゃーん!」
 享野は気の弱い犬が遠吠えをするような情けない声で呼んだが,反応はなかった。
 数刻後,彼女が連れてきたのは,グレーのスーツ姿にベレー帽をかぶった背の高い男だった。
「こちらが『男色』の殿井さんよ。彼はさすがに堂々としてたわ。私がこの格好で近寄って行っても表情一つ変えなかったもの。誰かさんは真っ青になってたのにね。よっぽど心にやましいことがあるのね」
 彼女はそう言って笑った。
「殿井さん,こちらがあなたの宿敵の『女ったらし』の享野さんよ。せっかくの記念すべき初対面なんですからね。喧嘩は禁止。握手握手」
 堀は享野と殿井の手を取って無理やり握手させようとした。堀に手を掴まれて,殿井は少々狼狽した。赤くなって下を向いた。
「しゃあないなあ。男の手ぇ握る趣味はないねんけどなあ」
 言いながら,享野の方から殿井に握手を求めた。
 殿井は無言で手を出して,享野の手を握り返した。
「いたたたたっ,おっさん,手痛い痛い!!」

「残りの3人はどこにおるんや?この調子やとみんなこん中に隠れとるんやろうなあ」
 独り言を言うように,享野は尋ねた。
「他の人はここにはいないわ」
 堀は言いながら歩き始めた。
 享野と殿井は後に続いた。

 交差点を渡ると,市役所,各種企業の支店,大規模百貨店のビルが建ち並ぶ繁華街である。その中にひときわ高く聳え立つのが,東都ロイヤルホテルである。地上40階,地下5階。この街に来たVIPが必ず利用する高級ホテルだ。
 堀は全く躊躇なく,その高級ホテルに入っていった。
「おいおい,堀ちゃん,ええんか,こんなとこ入って。俺,何か怖いで。気ぃ引けるわ」
 享野が怖気づいて言う。腰を低く構えて,落ち着かないように揉み手をして,いかにも卑屈な格好である。
「やれやれ,これだから若造は。大方ホテルなんて,ご休憩とご宿泊しかない低級ホテルにしか泊まったことがないんだろう」
 殿井はぴっと背筋を伸ばして,ベレー帽を片手に持って泰然自若として言った。享野を見るその目は,明らかに軽蔑の眼差しである。
「何やとてめえ」
 大きい声を出したのでホテルマンが駆け寄ってきて,お客様とか何とかいいながら享野にシーをした。ばつの悪そうな顔をして首をすくめる享野の肩をぽんと叩いて,早く行けと殿井がせかす。
 3人はエレベーターに乗り込んだ。堀は,最上階のボタンを押した。
 ぐんぐんと昇っていくエレベーターを,珍しいものでも見るかのように眺め回す享野。それを背の高い殿井が見下ろすような格好で,静かに微笑みながら見ていた。

「おいこら,これ非常階段やないけ。ええんか?」
 享野は一番後ろから叫んだが,堀は構わず駆け上った。  
 屋上に一人の男がいた。柵にもたれかかって,外を眺めている。
「自殺はだめよ」
 堀が話し掛けると,男は振り向いて頭を下げた。
 毛利明人だった。

「あとの二人は地階にいるわ。今日の会場にね」
 さっき昇ったエレベーターを今度は逆に降りながら,弾んだ口調で堀は言った。
 地下4階まで降りて,洒落た木のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。ご予約の堀様で御座居ますね」
 店員らしき若い男がにこやかに話し掛ける。
 横ではもう既に料理を貪っている男がいた。
「こちらが日田さんね,平井君」
 平井君,と呼ばれた店員(の格好をした男)は,にこりと微笑んで頷いた。

 

 

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