長編連作小説#2 聖人同盟(第16回〜第18回)

#16 楽しいオフ会(2)

 もう時計は0時を回ろうとしていた。
 今,俺は少々酔いの回った頭で,バー・スナックの建ち並ぶ繁華街から…ホテル街―それも今まで俺が「低級ホテル」と呼んで蔑んでいた,「ご宿泊」と「ご休憩」しかない,そういうホテルの建ち並ぶ方の「ホテル街」へと足を向けようとしていた。
 勿論,俺が男一人でこんなところを歩く筈がない。俺の隣には,腕を組んで,というよりはむしろ,俺の腕に掴まるようにして,一人の女がしなだれかかっているのだ… 
 何でこんなことになってしまったのか…

 もう今となっては随分過去のことのようにさえ思えるのだが―確かにあれは今日の夕方のことだった。確か俺は「聖人同盟」のオフ会とやらに駆り出され,堀という,若い,ちょっと今風の綺麗な顔をした,しかし少し高慢ちきで俺のタイプとは違っている,婦人警官の服を着た女と,いつもチャットで俺のことをホモ呼ばわりした生意気なる若造―享野楽太郎という関西弁の男と3人で何とか言う高級ホテルの地下にある小洒落たスナックに入った。そしてそこにいた,同じ「聖人同盟」の会員と名乗る,大食い男の日田,自殺志願者の毛利,高校生の平井という3人の男と,計6人で飲んでいた。

 俺は商売柄,あまり人と喋るのが得意じゃなかったから,部屋の隅で一人でピーナッツを食いながら酎ハイや軽いカクテルを飲んでいた。
「おっさん,飲んどるか〜?」
 そう言って俺の肩を叩いたのは,件の生意気なる関西弁の享野だった。
 俺は内心ではこの男を苦々しく思っていた。何せ,6人かそこらしか見ていないとは言っても,ネット上で散々俺のことをホモ呼ばわりしやがったからだ。俺は冗談でもそういう風に言われるのが嫌だった。俺はあまり歓迎しないような目つきで,奴を見た。
「怒んなよ,おっさん!今日は仲良く飲もうや」
 言いながら奴は,なおもばしばし俺の肩を叩いた。もう既に相当飲んでいるらしく,顔が赤い。
「とりあえず乾杯しようや」
 俺がうんともいやとも言う前に,この男はどこからかお猪口を持ってきて,日本酒をなみなみと注いだ。
「待ってくれ。俺は日本酒はちょっと」
「何やおっさん,そんなでっかい図体して酒飲めんとは言わさへんで」
 奴は俺のテーブルの,カクテルが真ん中まで入っているグラスを見た。
「そうか,おっさんは甘党か。ならワイン飲み。確か甘いのがあったはずや。平井ちゃ〜ん,ワイン持ってきて,ボトル!甘い奴!!」
 平井ちゃんと言われた,蝶ネクタイをしていかにも店員の格好をした高校生は,それまで飲んでいたジュースをテーブルに置いてカウンターの奥に下がり,大きなボトルに入った白ワインを持ってきた。
「これなら飲めるやろ」
 奴は言うが早いか,ワインをグラスにいっぱいに注いだ。
「かんぱ〜い!!」
 奴はビールの入った自分のジョッキを,俺のグラスにがちんと音がするほど勢いよくぶつけた。その衝撃で,いっぱいに入っていた俺のグラスのワインがこぼれた。俺は慌ててグラスに口をつけてワインを啜った。
「どやおっさん,飲みやすいやろ。超甘党用やで」
 奴の言うとおり,そのワインは飲みやすかった。実は俺もワインは嫌いではない。むしろ部屋ではよく愛飲しているのだが,ここで酔っ払うことに少し抵抗があったから抑えていたのだ。冷たく冷えていたそのワインは俺の飲酒意欲を著しく高めた。
 享野はその後も,グラスは空いてないか,つまみはあるかと何くれと俺に気を利かせた。何時の間にか俺は享野と二人で差し向かいで飲んでいた。

「お前,ネットで見た時にはとんでもない奴だと思っていたが,思ったよりいい奴だな」
 俺は享野に言った。普段ならばこんなことは絶対に言わないのだが,ワインで酔いが回っていたのだろう。
「何でやねん。おっさんに褒められると気持ち悪いわ」
 享野は照れたように下を向いて微笑んだ。
「いや,ネットの中で散々喧嘩したこの俺に,ここまで気を利かせてくれるんだからな」
「俺は前の会社で宴会部長やったからな。これくらいは当然や」
 享野はそう言って笑う。いい笑顔だと思った。
「何だ,お前,どっか勤めてたのか」
「まあな…いや,すんません,あまり話しとうない…勘弁して」
 その時だけ,奴の顔が少し曇った。
「すまん」
「いや,ええねんて」
 強引にその場を紛らわせるように,奴は俺の空いたグラスにワインを注いだ。
 それからしばらく,まるで旧知の友人のように,俺と享野は話した。普段めったに人と話さないこの俺が,しかもつい今日のさっきまで喧嘩状態だったこの男と話をしているのは何だか妙な気分だ。

「おっさん,何で女おれへんねん」
 いきなり奴はそう切り出した。
「何で言うたって,おらんもんはおらん。しょうがないだろう」
 享野は不意に俺の顔をまじまじと見た。
「何だよ,おい。気持ち悪りいな。俺のことを散々ホモ呼ばわりしておいて,お前こそそのケがあるんじゃあねえのか」
 俺が冗談ぽく言うのにも構わず,奴は俺の顔と言わず全身と言わずしげしげと眺め回した。
「あのなあ,俺ネットでおっさんの話聞いとって,よっぽどむさ苦しくて,太ってて,ハゲてて,ぶちゃむくれの顔をしたオヤジが出てくると思うとったんや。でも今日本物のあんたを見て,そんな捨てたもんでもないと思うで。背は高いし,髪はふさふさやし,まあまあ男前やし」
「気持ち悪いなあ。男に褒められても嬉かねえぞ。俺にはそのケはないんだからな」
「せやからなあ,いけるで,おっさん」
 奴は俺の腕を掴んで立ち上がった。
「ちょっと来,おっさん」
 振りほどきたかったが,奴の手には力がこもっていて容易にほどけなかった。

 連れて来られたのは美容院だった。
 俺は今までの人生で,床屋とおふくろのバリカン以外で髪を切ってもらったことは一度もなかった。ましてや都心の,こんなに綺麗で垢抜けた,流行の最先端を行くヘアスタイルを追求するようなタイプの美容院になんて生涯縁がないだろうと思っていた。
 本来ならばもう閉店なんですが,享野さんの紹介だから,と言って,その針金みたいな頭をした店員は俺の頭をカットし始めた。後で聞いたらこの兄ちゃんは,若い奴の間では有名なヘアデザイナーなんだそうである。
「あんまり過激な頭にはせんといてや。年齢が年齢やからな」
 にやにやしながら享野は俺の頭が刈られるのを見ていた。
 2時間後,カットが終わって店を出る俺を,享野は見違えた,男前やと散々誉めそやした。褒められているのかからかわれているのか分かったものではない。
 時計を見た享野は,店が閉まる,急ごうと言って走り出した。俺は訳も分からずそれに続いた。

 着いたのは,これまた本来ならば俺のような人間は絶対に近寄らないような,若くてファッショナブルな連中ばかりがたむろするファッション・デパートだった。時計は夜9時半過ぎを指している。この店は10時までやっているらしい。あと30分あるじゃないかと享野に言うと,30分しかないやないか,ほんまに似合うええ服選ぼう思うたら30分じゃとても足らんわと言い返された。俺は普段服を選ぶのに10分もかけない。サイズが合えばそれでいいのだ。俺は少々困惑した。
 慌しく入れ替わり立ち代り,まるで着せ替え人形のように何着も服を着させられ,やっとシャツ1着とブレザー1着,そしてスラックスを1本。普段の俺が着る服と比べたらどいつもこいつも値段のゼロが1つか2つも違うような服ばかりである。支払いは全部俺のカードだ。正直を言って俺は今日までカードなんて使ったことがなかった。そこまでして服を貪り買う必要があるのかと俺が不平を言ったら,自分への投資だと思えば高くない,それがあんたのためなんや,とマジ顔で説教された。
 髪型を変えられ服装を変えられ,もういいだろうと言ったら,何を言うてけつかんねん,これからが本番やないかいと言う。今度は何を買うんだ,とうんざり顔で言うと,奴は小指を立てて目配せをした。

 最後に連れて来られたのは,静かで落ち着いた雰囲気のショットバーだった。
 俺がテーブルに行こうとすると,カウンターがええんや,と奴は俺の服を引っ張る。
 程なく少し間を空けて,女2人が座った。
 享野は小さな声で,どうや,と言って来た。
 どうやも何も,と思ったが,どうしても目はそちらに向いてしまう。
 右と左とどっちがいい,と執拗に聞いてくる享野に,俺は少し静かにしろ,と諭す。
 すぐに声をかけるように思えたが,享野はしばらく何の動きも起こさず,マスターや俺と他愛のないことを喋っていた。
 30分くらい経ったろうか。不意に享野は彼女たちの隣に座って,何事か話し始めた。その手際は鮮やかとしか言いようがない。普通ならとてもあんなに自然にはいかないだろう。これは奴の天才の仕事である。
 彼ら3人はすばやく商談をまとめ,4人がけのテーブルに腰を掛けた。しばらく話していた享野は,ふと俺の方を向いて何事かを彼女たちに伝えた。彼女たちは俺の方を見た。
 享野が俺のことを彼女たちに紹介したのだ。彼女たちは俺を見て何を思ったろうか。そんなことを気にしながらぼうっとしていると,享野の,少し怒声にも似た声が飛んだ。
「殿井さん,ここ座って!」
 奴が俺のことを「殿井さん」と呼んだのは,これが初めてだった。
「はい!」
 俺は改まって,指示されたところに席を移った。
 彼女たちは静かに微笑んだ。

 何を話したかはあまりよく覚えていない。
 最初は享野が一方的に喋っていた。
 その後女性2人がぽつりぽつりと喋るようになり,3人で盛り上がっていた。
 俺は口をはさむことができずにいたが,女のうちの1人が俺に,何をしてらっしゃる人なんですか,と話をしてきた。小説を書いている,と正直に言うと,え〜すご〜い,と大げさに感心して見せた。俺はこの手の反応には慣れていたし,あまりにも大げさすぎる反応がすこし鼻につくように感じた。大方この分だと相手がプロ野球選手でもサラリーマンでも銀行強盗でも同じ反応をするに相違ない。そう思った。

 彼女はしかし,その後俺だけに話を向けてきた。何でも彼女も大学時代文学部で,小説を投稿したことがあると言う。今でも小説家に憧れていて,ネット上で小説を発表しているという。オンラインネット小説の鑑賞は俺の趣味の一つだ。URLを尋ねると,俺が今まで見た覚えのないものだ。今度見るよ,と言うと,じゃあ是非とも批評してください,メールください,と言って,メールアドレスを書いた名刺を俺に手渡した。

 どれくらい経っただろうか。享野はもう一人の女とすっかり出来上がってしまっていた。享野と女は双方もたれかかるような格好で立ち上がり,彼女の腰に手を回して店を出て行ってしまった。これからどうなるのかは容易に想像がつく。俺は狼狽した。享野はそんな俺に頑張れよ,とでも言うように,親指を立てるしぐさをして夜の街へ消えていった。
 俺はどうしていいか分からぬままに,もう少し隣の彼女と小説の話をしながら酒を飲んだ。
 そうこうしているうちに酔いが回って訳が分からなくなってきた。
 彼女も相当強いカクテルを飲んでいるらしく,顔が赤くなってろれつが回らなくなり始める。
 彼女は眠い,と言いながら俺にもたれかかってきた。
 ここで寝る訳にいかないことくらい俺にも分かっているし,この状況が何を意味しているのかは俺にも分かっている。
 俺は強引に彼女を立たせ,行こう,と囁きかけた。
 とろんとした目をして,はい,と彼女は言った。
 その表情が何とも言えず俺の心をかき乱した。
 ここまできて帰るほど俺は世間知らずの馬鹿ではない。
 正直を言うと,少々,いや,かなり怖い。
 しかし,もう引き返せない。
 いや,そこまで理性的な判断ができたかどうかも疑わしい。
 俺の全神経は,隣のこの女の身体へと向けられていた。
 酔いのせいで気持ちが高ぶっていた。
 今なら,何でもできそうな気がしていた。
 俺は店を出た。
 初めて,この女を抱くために。

 その後のことは,実は良く覚えていない。
 気がつくと朝で,隣で女が裸で眠っていたのだ。
 あの時は気がつかなかったが,化粧を落としたその顔は間近で見ると,かなり年を食っているように見えた。俺は30の後半だが,俺と同い年か,下手をすれば年上に見える。目尻のからすの足跡がなくっても,少しくたびれた感じのするその肌がそれを露骨に感じさせる。
 俺はため息をついた。
 もしかしたらダンナがいて,俺,刺されちゃったりしてな。
 自嘲気味に呟いても,ちっとも笑えない。
 彼女が目を覚ました。
 彼女は,昨夜は素敵だったわ,と型どおりの挨拶をした後で,俺に再びキスをせがんできた。そして半ば強引に,俺の上にのしかかってきた。俺の上で自在に動いて,俺を貪れるだけ貪った。
 ホテルを出て,彼女はメールちょうだいね,と言い残して去って行った。
 俺は帰りに駅の便所に入って,彼女のメールアドレスの書かれた名刺を,糞でも食らえと言いながら水洗便器に流してしまった。

 帰りの電車の中で,携帯にメールが入った。
 享野からだった。
 めげるな。こういうこともある。
 そう書かれていた。

#17 楽しいオフ会(3)

「でもなあ,ここでこうやって話をしたところでさあ,それが何になんのさ?」
 俺は言った。

 それは分かっていた話だった。
 この場を包んでいた雰囲気―傍から見ていれば,4人が集まって楽しく酒を飲んで,他愛のない話でお互いに笑いあう,そんな和やかな雰囲気。しかしそれは,あたかもぬるま湯のようで,上っ面で,お互いの本音が見えない―そして,全員がそのことを感じ始めていながら,この場の居心地の良さから逃れ難い,この場をぶち壊すような行動があたかも罪であるが如く憚られ,結局袋小路に入っていってしまうような,そんな状況。

 そう,皆そのことを言いたくて仕方がなかったのだ。今にして思えば。
 平井は下を向いた。
 日田は頭を抱えた。
 堀は相変わらず,まっすぐに俺を見ている―

 聖人同盟とやらのオフ会。
 過大な期待と言われるかも知れないが,俺―毛利明人は,ここに行けば何かが見つかるという思いを抱いてやってきた。
 ここにいる人間―俺を含めた6人は,皆何某か人と違ったものを抱えて生きている奴らであるらしい。それは主宰の浅見という男(ネットの上だから性別は分からないが)が言っていたことだ。
 そういう人間と話をすれば,何かがつかめるかも知れないと。

 チャットで話したことがあるとはいえ,実際にお互いの顔を見て話をするのは初めてである。しかも,ネット上でもこの平井という高校生と,堀という女とは話をしたことがない。しかも最も厄介だったのは,この堀という女が,俺が思っていたよりもずっと若くて,ずっと美人だったということである。率直に言うと俺の好みのタイプの顔をしている。俺が大学時代惚れていた女にそっくりだ。こういう女と一緒に酒を飲んでいると,彼女と一緒に飲んで口説こうとして口説き損ねた合コンを思い出す。

「趣味は何ですか?」
 まるで合コンそのままの言い方で,堀が訊いてくる。
 自殺ごっこです―言える訳がない。
 いや,或いはこの中の連中にはばれているかも知れない。日田は一緒に話をしたことがあるから間違いなく知っているし,他の奴にもそういう話が流れているかも知れない。
 しかし,この場で口に出して言える話ではない。日田は勿論言わないし,俺も言いたくなかった。

 俺は,自分自身で,この「自殺ごっこ」という道楽が馬鹿げていることは自覚していた。自覚しないほど世間知らずの非常識のバカではないつもりだった。
 そんな中で,俺は自分自身の中に,こういう馬鹿げた道楽に憂き身をやつさざるを得ない自分を,この中の連中にだけは―他の一般人には理解してもらえないとしても―知ってもらいたいという気持ちがあることを感じていた。彼らなら―浅見が言うところの,人とは違った何かにこだわりを持って生きている,もっと言うならば,人とは違った変な,屈折した,少し後ろ暗いところを持っていそうな,そんな奴らになら,俺という人間の素の部分を分かってもらえるんじゃないのか。そんな気がしていた。

「趣味は…読書と,映画を見ることです。日田さんは?」
「え?ええっと…美味しいものの…食べ歩き,かなあ?」
 言った後で,何で俺に振るんだ,というような恨めしそうな目で,日田が俺を見た。
 こういう話は,どっちかというと日田に任せてしまいたかった。
 趣味などと言うご大層なものは,実際には俺にはないのだ。
 何が趣味だ。馬鹿馬鹿しい。
 本来この手の話を得意としているはずの享野とか言う関西弁の男は,何の酔狂か隅っこで一人で飲んでいた殿井とか言う同性愛の小説家を連れてどこかへ言ってしまった。
 堀は大きな目を見開いて,どんな本を読むんですかとかどんな料理が好きなんですか,とか訊いてくる。私はフランス料理が好きで,と訊いてもいないのに一人で喋り,それで楽しそうに笑っている。
 そんなに楽しいか,お前は。
 俺は溜息をつきたくなったが,目の前の美女が笑っているのに一人で溜息をつくほど野暮でもないつもりだから,無理をして一緒に笑っていた。

 全く見知らぬ他人を分かり合おうと思ったら,段階を踏まないといけない。
 そのためには,上っ面の馬鹿げた話から入っていって仲良くなって,そこから徐々に内面を見せていき,そして本当に分かり合える関係を築いていくと,それに従ってお互いの醜いところ,見たくない,見せたくないところも曝け出していくことになる。それを受け入れられるようになれば,その人間関係は本物だ。

 実際にはそういう関係はなかなか築けるものではない。俺は,自分には恋人もいなければ友人もいないと信じている。それは,そこまでの関係を築ける相手でないと恋人・友人とは決して認めないからだ。親しく話を出来る奴は,男女を問わずかつてはいた。しかし,彼らは俺が自分の醜いところを見せてしまうと例外なく去っていった。俺が彼らに与えただけのことを,彼らは俺に与えてはくれなかった。彼らは俺が何かを与えることを当然だと考えていた。それができなくなると彼らは俺の元から去っていった。結局彼らは俺を友人とは考えていなかった。利用するだけの存在,自分の手駒くらいにしか考えていなかったのだろう。だから利用する価値,旨味がなくなるとさっさと放り捨ててしまうのだろう。

 俺は,どうせ命を使うのならば,何か価値あるもののために使いたいと思っている。
 しかし,少なくとも今俺の周りには,それだけの価値のあるものはない。
 俺の周りの人間たちは皆自分勝手で,わがままで,怠惰で,信頼に値しないバカばっかりだ。国家とか何とか,そんな漠然としたもののために使う気にもなれない。大体,そういったものにしたって,信頼に値しないバカが恣意的に作った装置に他ならないではないか。俺たちは皆,騙されているのだ。

 俺がそんなことをぼんやりと考えているのを,彼らは表面上無視していた。
 平井は店にあるリキュールを混ぜ合わせて得体の知れないカクテルを造るのに夢中になっているし,日田はそれを面白がって飲みながら堀と他愛のない話を続けている。
 俺は腹が立ってきた。無視されていることや,堀が自分の方を向いてくれないことや,日田が目尻下げっ放しで堀とのおしゃべりに夢中になっていることに対して腹を立てているのではないつもりである。俺の情緒はそこまでガキではないつもりである。
 ただ,今この場を包んでいるこの怠惰な空間―上っ面の人間関係をだらだらと作ることだけを目的とした,本質を見失った,そんな雰囲気が,そしてその怠惰に身を任せて無駄に時間を過ごすことを選ぼうとしている,この連中が癇に障る。何が「こだわりを持って生きている」奴らだ。その辺の愚民どもとどこが違うと言うんだ。こいつらのどこが「選ばれた」奴らなんだ。

 俺は胸がむかむかしてきたので,それを抑えるために手当たり次第に平井の作ったカクテルを飲んだ。時々妙に甘いのや,妙に苦いのがある。前者はオレンジジュースの入れ過ぎが原因で,後者はジンの原液に果汁をたらしただけのきついカクテルなんだそうだ。そんなことをいちいち気にしてはいられない。味噌もクソも一緒だ。
 こういう気分に囚われたとき,俺はビルの屋上に身を委ねたくなる衝動に駆られる。その衝動に正直に生きた結果,俺は何度も警察に叱られ,生きる意味とやらを説教されることになったのである。

 今はそれすら出来ない。いや,するのは簡単に出来る。ここは市内一高い建物のホテルビルディングの地下である。その気になればここを飛び出してエレベーターと非常階段で屋上まで行くことは可能である。
 しかし,今,俺以外の連中はそれなりにこの空間を楽しんでいる。それを自分一人の事情でぶち壊してしまうのはいくら何でも手前勝手に過ぎる気がする。それに,俺がそれをやったとして,彼らは俺の行動の意味を恐らくは理解できないだろう。狂ったと思われて叩き出されるかも知れない。それはそれでまた不愉快な話だ。
 幾度も幾度もカクテルを注いで,それを殆ど一気に飲み干すことを続けているうちに,だんだんと意識が朦朧としてくるのが分かった。俺は酒は弱い方ではないが,もう20杯以上は間違いなく飲んでいるから,普段の俺の致死量は完全に超えているはずだ。しかし,飲んでも飲んでも気分が楽しくならない。それどころか却ってイライラが募ってくるのだ。

 俺は酔うと気が大きくなる性質だった。
 普段は,他人がどう思うかということを気にするあまり言いたいことの半分も言えない性質であるはずなのに,酔うとその神経が麻痺するのか,余計なことまで言ってしまい,その場の雰囲気を悪くする悪い癖があるのだ。
 俺には,ここまでが限界だった。

「でもなあ,ここでこうやって話をしたところでさあ,それが何になんのさ?」

 俺は,今までぼんやりと考えていたことを彼らに全てぶちまけた。
 日田は手を組んで,黙って下を向いている。
 平井はぽかんとしている。
 堀は真顔で俺を見ている。
 俺から見たら,皆が各々のやり方で俺を責めているように見えた。
 何だよ,文句でもあるのか。
 言いたいことがあるならば,かかって来いや。
 酔いの所為で気が大きくなっていたのか。
 俺は自分の中で,全てに腹をくくる覚悟を決めたつもりでいた。

「本当に…私もそう思います」
 言ったのは,堀だった。
 平井と日田が,俺と彼女をかわるがわる見た。
「上手くは言えないけれど…私も,そう思うことがあるんです。私が弁護士をやっていたのも,政治活動をしていたのも…きっとそういう…貴方が抱えているような…もやもやした何かを晴らしたくてやっていたのかなって…思うんです」
 今までの流暢さが嘘のようなたどたどしい口調だった。今までまっすぐ俺を見ていた彼女が,初めて下を向いて,その一言一言が,考えて考えて,その中から搾り出したような言葉だった。
 そして,言い終わった彼女は,静かに顔を上げて,再びまっすぐ俺の目を見た。
 今まで見たことのない,慈悲に満ちた目をしていた。
 俺は―これはきっと酒に酔っていたからだと信じたい,そうでないと恥ずかしくってしょうがないのだが―不意に胸がどうしようもなく熱くなって,次の瞬間両の眼からぶわっと涙があふれてきた。そして,…これもきっと酒に酔っていたからだと信じたい,そうでないと非常に恥ずかしい行為であるのだが…彼女の胸にすがってひとしきり大声をあげて泣いてしまった。
 そんな俺を,平井と日田はただ見ていた。
 後で聞くと,日田はちょっとだけ不服そうな顔をしていたらしいが。

 俺たちは結局,朝まで話をしていた。
 何が出来るかは分からない。
 しかし,俺たちを包んでいるもやもやとした訳の分からない苛立ち,閉塞感の正体―それは共有できるような気がしていた。
 それを見つけ,克服するために,俺はもう少しこいつらと一緒に…「生きて」みることにした。

 

#18 楽しいオフ会(4)

「久しぶりですよ,朝まで飲んだのは」
 毛利が言った。ついさっきまでとは別人のような,晴れやかな笑顔をして。
「俺も大学時代以来だなあ」
 日田も同意した。
「私は生まれて初めてでしたよ」
 堀が言うと,日田と毛利は意外そうな顔をした。
「え〜?それは嘘でしょう。大学時代コンパとかやったでしょう」
「まあコンパとかは人並みには行ったつもりだったけど…でも女の子が徹夜して飲んだりしないですよ」
「そんなもんかなあ」
「でもいい男がいたら二人で抜け出してどっか行ったりしたでしょう」
 何の気なく言った日田に,堀は少し眉を顰めて見せた。
「そんなこと言うとセクハラですよ,日田さん」
 堀の代わりに,横にいた平井がたしなめて見せた。
「失礼しました」
 首をすくめる日田に,堀は思わず吹き出してしまった。
「平井君,良く分かってるじゃない。それに引き換え日田さんったら!もういい大人なんだから少しは平井君を見習ったらいかが?」
 ねえ,という顔をする堀に,今度は平井が眉を顰めて見せる。
「堀さん,頼むから『平井君』ってのやめてもらえないかなあ。何だか子ども扱いされてるみたいで…ちょっと嫌だなあ」
「ガキなんやからしゃあないやろ」
 後ろで皮肉っぽく呟く声が聞こえる。どきりとして後ろを振り向くと,よれたスーツを着たぼさぼさ頭の男が立っている。
「享野さん」
 4人が一斉に言った。
 享野はにこりともせず,頭をぼりぼり掻いた。

「どこ行ってたんですか,享野さん」
 皆が口々に聞いた。
「確か殿井さんと一緒にどっか消えたのが見えましたよ」
 平井が言うと,残りの3人は変な顔をした。
「男2人で消えたんですか?享野さん,そういう趣味が…」
「あほ抜かせ」
 冗談ぽく言う日田ににこりともせず,享野は吐き捨てた。
「何か嫌なことでもあったんですか?」
 堀が聞いた。
「女の子にそんなん言えるかいな」
「殿井さんは?」
「分からん…多分俺と一緒や。ひどい目に遭うた。俺の目も耄碌したわ」
 享野以外の4人は意味が分からず,享野の顔とお互いの顔を代わる代わる眺めながら,ただ首を傾げていた。

「かからんな」
 享野はそう呟きながら携帯電話を切り,胸ポケットに入れた。
 5人はとりあえず腰を落ち着けて話をしようと喫茶店に入っていた。
 駅近くの雑居ビルの2階。
 少し古ぼけているが,レンガ造りで,内装もそれなりに垢抜けている。
「もう寝とるんやろ…一日寝て目が覚めて,それで昨夜のことは全て夢でした,いうて頭の中で整理してしまえれば楽やねんけどな」
「何をぶつぶつ言うとるねん」
 享野の真似をして関西弁で突っ込むのは,日田であった。
「来ませんか?殿井さん」
「あかんわ。多分寝とる。俺かて寝たいわ。でも眠れそうにないけどな」
 享野は,さすがに自分でも要領を得ないことを喋っていると自覚しているのか,言いながら苦笑いを浮かべた。
「自分ら,眠たないんか?」
 享野はあくびを噛み殺しながら言った。
「…う〜ん…そうでもないっすねえ」
 平井が言った。
「まあ我々は若いですからね」
 茶化すように,日田が言った。
「そういえば不思議よね。徹夜のはずなのに,私たち」
 堀も言う。
「あまり眠たすぎるとナチュラルハイになるらしいけど,そんなこともないし。何だか冷静な自分が不思議ですね」
 毛利が口を開く。
「自分ら,魔法にでもかけられとるんちゃうか?あの浅見とか言う奴にさ」
 享野が言った。
「俺はちゃうぞ。俺は眠いからな」
 笑いながらそう付け足す。
「享野さん,変なアニメの見すぎじゃないですか」
「それか小説とか」
「殿井さんの影響とか」
 男3人が口々にそう冷やかした。
「そんなことあるかい…でもなあ」
 享野は真剣な顔を作って言った。
「浅見は一体どうしたんや?一応主宰やろうが。俺らの」
「そう言えば昨日もいませんでしたよねえ」
「て言うか,姿を見たことがない」
「大体なあ」
 享野は少し憮然とした顔をして続ける。
「あいつは何か魂胆があって俺らを集めたんやろ?何かその…こだわりがどうのこうのとか言うとったやん。でも実際には何か目的があってやっとるんか言うて聞いたら何も考えてないようなことを言うとる。あいつは一体何やねん。何を企んどるんかさっぱり分からへん。訳の分からん奴や」
「まあいいじゃないですか」
 平井が言った。
「理由や目的はどうあれ,僕らがこうやって知り合うことが出来て,そしてこうやって昔からの友達みたいに話をすることが出来るのはそれはそれで有難いと思わなくちゃ」
「あんたいい事言うなあ」
 日田が心から感心したように言った。
 堀は静かに笑っていた。
 享野はまだ少し不服そうだったが,それ以上は何も言わなかった。
「しかし,どんな人で今どこにいるんですかね,浅見さんって」
 毛利がぼそりと呟いた。
「今ここにおったりしてな」
 享野が同じような口調で呟く。
 皆がいっせいに周りを見渡す。


 日曜の午前中の喫茶店は割と人が多く,繁盛している。
 客層は,カップルが半分で,残りは女性の友達同士。あとは一組だけ家族連れがいる。
「ここにはいないな」
 平井が笑った。
「そんな怪しそうな奴,いないもん」
 日田も笑った。
「ええか。とりあえず浅見は放っとこう。どっかで出てくるやろうし,出て来なくても別に困ることもないしな」
 享野は,自分に言い聞かせるように呟いた。
「享野さん,今日は独り言が多いっすねえ」
 日田が突っ込む。
「何なら今日も飲みますか?肴の美味い店,知ってますよ」
 享野は手を横に振って,あかんあかん,のポーズをした。
「今日は二日酔いや。しかも悪酔いで」
 言うと,アイスコーヒーを一気に飲み干した。

 2時間ほど経っただろうか。
 彼らはらせん状の階段を下りて外に出た。
「ああ〜」
 平井は思いっきりのびをして,朝の空気を吸い込んだ。
「今,何時?」
 堀が訊ねた。
「何や,堀ちゃん弁護士のくせに腕時計も持っとらんのんか」
「昨日今日は仕事入れてないから持ってきてないだけよ。そういうあなただって持ってないじゃない」
「俺は自由業やから時計なんて要らんの」
「まだだいぶ早いんじゃないか?店もまだ全然開いてないし」
 毛利は言いながら辺りを眺め回した。
「7時50分ですよ。まだ8時にもなってない」
 平井が言った。指差した先には,大きな電光ビジョンがある。ニュースとか天気予報とか店の宣伝とかが代わる代わる流されている。その左上に,今の時刻が表示されていた。
「また政治家がパクられたんか」
 享野が呟いた。
 電光ビジョンではその時ニュースが流れていて,ちょうど前日大物政治家が汚職で逮捕されたことを報じていた。
「もう日本はだめだなあ」
 毛利が同じ方向を見ながら呟いた。
「政治が悪いんだ,政治が」
 日田が苦笑気味に言うと,その瞬間。
 ぷっつりと電光ビジョンの画像が消えた。
「…?」
 次の瞬間,5人は我が目を疑った。

 そこに現れたのは,画面いっぱいに映し出されたメッセージ。
 その映像はアメリカ大統領・ジョン・F・ケネディの大アップを映し出した。
 彼はこう言った。
「諸君が国に何をしてもらえるか考える前に,諸君が国に何が出来るかを考えろ」
 ケネディのアップはほどなく消え,次にマリリン・モンローの有名なシーン―地下鉄の通気口から吹き上げてくる風で彼女のスカートがめくれ上がる―あのシーンが映し出された。
 ほどなくその映像は消え,それまでがまるで嘘だったように,ニュースの続きを流していた。

「…?」
 5人はあっけに取られていた。
「なあに,あれ?」
 堀が呟いた。少々不快そうな声だった。
「あれってさあ,俺たちにやったものじゃないのかなあ?」
 毛利が言った。
「俺らにか?」
「誰が,何のために?」
 享野と日田が怪訝そうな顔で同時に言った。
「分からないよ。でも,何だかタイミングが良すぎるじゃないか」
 毛利はけちがついたことに少々不服な様子で,口をとがらせて言った。
「…浅見やな」
 享野が言った。
「やるとしたら,あいつしかおらんわ」
 そこまで言って,享野は大きく息を吸った。
「こらあ,浅見!どこに隠れとるんや!くだらない悪戯ばっかりしやあがって!出て来んかい!!」
 日曜出勤のサラリーマンたちがびっくりして,一斉に彼の方を見た。
「やめなさいよ。皆見てるじゃない」
 小声で堀が諭した。
 享野もやっと気がついたらしく,顔を赤くして下を向いた。

「何が言いたかったのかなあ」
 しばらく無言で歩いていた5人の中で,日田が思い出したかのように切り出した。
「何が?」
「さっきの映像。浅見さんが俺らに向けてやったとして,…あの人は俺たちに何を言おうとしたんだろう?」
 言った後,応える者もなく,しばらく沈黙が流れた。
「自分が…何を出来るかを考えろ…でしたよね?」
 平井が言った。
「何が出来るか…と言うより,何がしたいか…じゃないかしら」 
 堀が言った。
「あの人にとって,私たちを集めることに目的なんてなかったんじゃないかしら。だとしたら,あの人からしてみれば,私たちを集めた…というより,私たちにこういう…「聖人同盟」という舞台,というか遊び場を与えて…そのこと自体が目的だったのかも知れない。そこで私たちが何をするか,までは考えてなかったとして…でも私たちがこういう場所を与えられて,そこで何かをすることを…きっとあの人は期待しているんだと思う」
「何をごちゃごちゃ言うとんねん」
 享野が不快そうに呟いた。
「もう帰るわ。眠いからな」
 言うと,彼は踵を返して向こうに行ってしまった。

「帰りましょうか」
 残された4人の中で,平井が口を開いた。
 残り3人も同意した。

 電車から降り,駅前に降り立った堀は,時折怪訝な顔で後ろを振り返る。
 さっきからずっとつけて来ている―いや,確たる証拠はないのだが,行動を見るとそうとしか思えない―その男が気になって仕方がない。
 どちらかと言うと真面目そうな男だ。とてもそういう―女性を付回してどうかしようというような人間には見えない。歳も自分よりもずっと若い。
 そして何より…彼の顔を彼女はよく知っていた。
 何故なら,ついさっきまで一緒に行動していた人物だったから。
 彼女はついに意を決し,彼に問い掛けた。
「平井君,何付いて来てるの。君の家はそっちじゃないでしょ」

「あれ,新しいアルバイトさんを入れたんだね」
 政治活動で顔見知りの支援者が口々にそう言って笑う。
「それにしても随分若い子を入れたもんだね」
 そのたびごとに堀は静かに微笑み,「彼」はばつの悪そうな顔をして下を向いた。

 あのオフ会から2ヶ月。
 押し掛け亭主のように彼女の事務所に転がり込んできた彼―平井慎は,史上最も若いアルバイトとして,いや,今となっては彼女と唯一分かり合える「同志」として,あるのかないのか分からない給料で,彼女の弁護士活動,そして政治活動をサポートするようになっていた。
 高校も中退していた。
 それは,彼の覚悟と決意の証だった。
 今,自分に何が出来るのか。
 いや,自分は今何をやりたいのか。
 考えに考えた結果,彼が出した結論だった。
 無論堀だって,最初からこの突拍子もない決意を受け入れた訳ではない。
 大学だけは出ておけ,そうでなくってもせっかく入った高校ぐらいは卒業しておけ,と幾度も幾度も説得した。
 彼は頑として自らの意思を変えなかった。
 自分にこのような―「聖人同盟」という舞台が与えられたことの意味。
 それを彼は,彼女とともに理想の社会―弱者が泣き寝入りをしないで,堂々と生きていける社会,強者・権力の理不尽に屈せず,正義は正義,悪は悪と言える社会,そして正義は必ず勝利し,悪は必ず滅びる,その当たり前のことが実践できる社会―それを作っていくことである,と理解した。
 彼の思いに彼女が動かされるまでに時間はかからなかった。
 最後まで学校だけは出ておくよう説得したが,彼女は最早彼の気持ちは変わらない,と思うと同時に,そんな彼が自分について来てくれることを嬉しいと,そして頼もしいと思うようになっていった。

「親は説得しましたから」
 そう言って荷物を運び込む彼にもう何も言えず,堀は苦笑いをして肯くしかなかった。

 

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