長編連作小説#2 聖人同盟(第19回〜第21回)

#19 聖人同盟,起つ!(1)

「さて,今回の統一地方選挙の結果について,政治評論家の中村太郎さんにお話を伺います。中村さん,今回の選挙,与党の連立政権の候補が勝利したということで,政権が信任されたと言ってよろしいんでしょうか?」
「そうですね,確かに結果を見ればそうです。ただ,投票率が過去最低をまたまた更新したということで,国民の政治離れが加速した,と。そういった中で,他に選択肢がないから,他よりましだから,という消極的な理由で与党に投票した有権者が多かった,ずばり言えば,与党にも期待が持てないが,野党が余りにもだらしなさすぎたことが今回の結果につながったと言えます。ですから,与党の側も必ずしも自らが信任された訳ではないということを肝に銘じてですね…」
 プチッ。
 堀はリモコンを取ってスイッチを切り,椅子に腰掛けた。
「必勝」と書かれた半紙がゴミ箱に無造作に放り込まれていた。

 彼女は今回,同志として一人の候補者を応援した。
 同じ県内で弁護士をやっている男だった。
 彼は現在の世の中の矛盾を―弱いものが虐げられ,強いものだけがますます増長していく姿を糾弾し,変えていかなければならない,と訴えた。
 しかし,彼が属し,堀が応援していた党は,内部対立を繰り返して分裂し,党勢は衰退の一途を辿っていた。相変わらず組織の論理・組織の都合を優先させ,国民が何を求めているのか,どう変わっていくべきなのか,といったことには全く思いを致していない。少なくとも堀にはそう思えた。

 候補者の彼は,実直な政党人だった。党の指示に忠実に従い,党のために仕事をした。今回の選挙で党の公認が得られたのも,そのおかげだった。
 しかし,それは当選にはつながらなかった。実直さだけが売りの地味な候補者に有権者の支持は集まらなかった。
 堀は既に党からは距離を置いていた。ただ,同じ県内で自分に代わって自分の信じる道を進んでくれる同志。そう思ったから,彼を応援した。

 彼は敗れた。彼はあまりに淡々と,自分の力不足を謝罪した。党はいつものように,敗れたとはいえ何万何千票の支持があったのだから実質的には勝利である,と負け惜しみの裏返しでしかない,自己満足の談話を述べた。 

「さあ,仕事仕事」
 わざと明るい声で,堀は言った。
 数は少ないとはいえ,彼女のもとには今も,本当に困っている名もなき市民が訪れる。
 今の自分にできることは,彼らの助けになること。
 彼らが自分の力で生きていけるように,力を貸してあげること。
 落ち込んでいる暇はない。
 そう思うと,自然に力が湧き,微笑が浮かぶ。
「平井君,今日花田市の吉田さんが土地の所有権のことで来るから,書類用意しといて」
「はい」
 沈んでいた堀の表情が元に戻った。
 平井はその表情を見て,却って彼女の心情を案じた。しかし,それを悟られると余計に彼女の精神に負担を掛けることを察し,何もなかったような顔で書斎に消えた。

 仕事が終わったのは夜遅くになってからだった。
 堀は書類を片付けると,一つ溜息をついた。
 疲れたな…
 最近,いつも思う。
 労力の割に,報われない。
 弱い立場の者が,法律によって守られない。
 彼女の受けた依頼人が裁判に勝つことは,現実には殆どなかった。
 今携わっている「花田市の吉田さん」も,率直に言えば敗訴濃厚であることは分かっていた。
 彼が悪い訳ではない。
 堀が無能な訳でもなかった。
 ただ,法律が,弱い者の味方をするようにできていない。
 ただそれだけのことなのだ。

 彼女はいつもこの時間,事務所で一人になるのが常だった。
 スタッフは決められた時間に出てきて,決められた時間に帰る決まりになっていた。
 平井は18歳になっていなかったので,労働基準法で夜9時までに帰らなければならなかった。
 何を考えているの。
 10歳近くも年下の高校生の男の子を頼ろうとするなんて。
 堀は一生懸命自分を戒めようとした。
 しかし,今や最も腹を割って話をすることのできる仲間である平井が抜けた後,どうしようもない心細さに囚われるのはもはや否定できない事実だった。

 不意に,堀の携帯が鳴った。
「平井です。仕事終わったっすか?」
 堀はその声を聞いて,一瞬胸が詰まった。
 一回息を吸ってから,彼女は応えた。
「終わったわよ」
「今ちょっと出てるんですよ。お茶でも飲みませんか?おごりますよ」
 堀はまた言葉に詰まった。本当に泣いてしまいそうだった。
「…もう,どこでそんなこと覚えたのよ。子供のくせに」
「ナンパじゃあないっすよ。ひでえなあ。せっかく仕事が終わって疲れてるだろうからいたわってあげようと思ったのに」
「ありがとう。行くわ。どこにいるの?」
「こないだ皆で行った喫茶店があるじゃないですか。レンガ造りの。そこです」
 電話を切るが早いか,彼女はコートとハンドバックを掴んで,駅前に走った。
 中に入ると,平井はもう席に就いていて,アイスコーヒーが二つと,小さめのデコレーションケーキが一つテーブルの上に乗っていた。
「堀さん,今日誕生日だったでしょう?おめでとうございます」
 その言葉で,堀は本当に泣いてしまった。

「堀さん,いくつになったんでしたっけ?」
 ケーキを切り分けながら,平井が突然そう訊いた。
「もう,女性に年齢を聞くもんじゃないわよ。失礼だわ」
「聞いて失礼になるような歳じゃあないでしょう」
 堀は笑った。
「そう見える?でもね,そうだとしても,エチケットとして訊かないものなの。あなたはまだ子供だから分からないかも知れないけどねえ」
 そう言われて,平井は不服そうに頬を膨らませた。
 それを面白がるように,堀は平井の頬をつついた。
「まあその度胸に免じて教えてあげましょう。本日,晴れて26歳になりました」
「26ですか?もっと若いと思ってた」
「そんなことはないわよ。お世辞がうまいわねえ。将来が怖い怖い」
 茶化すように,堀は言った。
「そんなことないっすよ。まだ24とかかと思ってた」
「だって22で大学出て,その歳に司法試験受かったけど,その後1年半司法修習生やって,裁判所に入って,辞めて,その後弁護士やって…なんだかんだでもう4年経ちましたから」
 彼女の顔を不思議そうに見た平井。
 次の瞬間,彼は思いもよらないことを口走った。
「じゃあ堀さん,次の選挙出られますね」

 堀はコーヒーを噴き出しそうになってしまった。
「いきなり何を言い出すの,君は!」
「でも次に衆議院の選挙があったら出られるじゃないですか。あれは確か被選挙権が25歳以上だったから」
「もう,変な冗談はやめてちょうだい」
「結構本気ですよ,俺」
 言うとおり,平井の目は大真面目だった。
「だっていつも堀さん,他の人の選挙手伝って,それでいっつもその応援した候補落ちちゃって,そのたびに候補者の人より悔しそうにしてるじゃないですか。私が出てたらこんなことにはならないのにっていつもそんな顔してるもん」
 言うと,にらみつけるような目で彼女を見た。
 堀は一瞬笑い出しそうになった。しかし,彼の目を見ていると,笑い飛ばすのが悪いような気がした。確かに彼の言うことは,ある程度本当かも知れなかった。

 毎回,他人の応援役に回ってきた。
 しかし,当選という形でその努力が報われたことは,一度もなかった。
 彼らは,余りにも淡々と選挙に臨み,淡々と敗れていった。
 その姿に歯がゆさを感じることも少なからずあった。
 彼が,私ならば良かったのに。
 無意識のうちにでも,そういう気持ちを抱くことがなかったとは言えない。
 ただ…
 今は現実として,自分が本当にそうなることを想像することができない。
 それは,あまりにも突拍子もない,荒唐無稽なことのように思えた。
「バカなこというんじゃないわよ。そんなこと…考えてないし,考えられないもの」
 堀は冷たく突き放すような口調で,そう言った。
 平井は肩をすくめて下を向いた。

 政治の話はそれで終わった。
 その後は,他愛のない話をして過ごした。
 難しい話はしたくない。
 堀はそう思っていた。
 平井はそれを悟っていたのか。
 それは分からないが,平井も決していわゆる「堅い話」,「仕事の話」を彼女にしようとはしなかった。趣味の音楽の話とか,最近のテレビドラマの話とか。
 堀はその時だけは,弁護士の肩書きを捨てたただの26歳の女性であり,平井もまた,ただの少年に戻れる時であった。
 ただ,平井がそのことを後悔する瞬間が一度だけ訪れた。
 堀が―その時だけは耳年増の姉貴になって,彼にこう尋ねた時だ。
「平井君ねえ,…彼女いないの?」

 いる訳ないじゃあないですか。
 平井は頬を膨らませて言った。
 どうして?
 尋ねる堀に,平井は何で分からないんだ,という顔をしてなおも続けた。
 大体,高校も辞めちゃったし,ずっと仕事してんですから,女の子と知り合う機会だってないんですからね。
 堀は少し申し訳なさそうな顔をして下を向いた。
「いや,でも,どうせ男子校に行ってたんだから高校続けてても彼女なんてできっこないんですけどね」
 彼はフォローするように,後に続けた。ばつの悪そうな表情を浮かべながら。
 俺なんて,もてませんから。
 堀はそれを聞いて,少しむっとしたような顔で言った。
「そんなこと,自分で決めるもんじゃないわよ」
 平井は堀の顔を見た。
「あなたが魅力的かそうじゃないか,それを決めるのはあなたじゃない。あなたのことを魅力的だと思う女性,好きになる女性はきっといるわよ。でも…」
 堀は一つ息をついた。
「どうせ自分なんてダメだって,そう自分で思ってるような男に,女がついて行く訳がないじゃない」
 そこまで言って,彼女は平井を見た。
 どう?文句ある?
 彼女の表情は,そう語っていた。
 平井は何かを言い返そうとした。
 しかし,それは言わなかった。

 堀は自分の言葉の意味を自覚してはいなかった。
 ただ,平井に対するある種の「責任」を感じていた。
 自分が彼に高校中退の道を選ばせ,自分の仕事を手伝わせていることに対して。
 堀は平井に言った。
 大検を受けて,大学には行っておいた方がいい。
 恋愛もそうだけれど,それ以外にもいろいろな出会いがあって,きっとあなたの将来のためになるから,と。
 平井はそれには反論しなかった。

 彼らが店を出たのは,日付が変わろうかという時間だった。
「こんな時間まで夜遊びをするなんて,ご両親は何も言わないのかしら」
 別れ際,堀が言った。咎めるというより,からかうような口調だった。
「うちは放任主義ですからね。親には高校のクラスメイトと久しぶりに会うから,と言ってあります。ちゃんと連絡していれば大丈夫ですよ」
「高校のクラスメイトねえ…本当は女と会ってるって言うのに」
 堀はなおもからかうような口調で言った。
「親も僕のこと,そんなもてる男だと思ってませんよ。早いとこ彼女の一人でも作って家に連れて来い,ってよく言われますから」
 皮肉っぽく言った。
「じゃあ,今から私,平井君の家に行こうかしら」
 堀が言った。
 平井は目を見開いて,何も言えずに堀を見た。
「冗談よ」
 堀はくすりと笑った。

 終電に揺られながら,平井は堀との会話を反芻していた。
 何故だか溜息が出て,心が乱れた。

 翌朝,堀はいつものように一番に事務所に来て,コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
 自分と同じ年齢で,亡き父の後を継いで国会議員となった女性のインタビュー記事が載っていた。
 それを見ながら彼女は溜息をつき,心が乱れるのを感じていた。

 

#20 聖人同盟,起つ!(2)

 堀の政治への思いは,日を追うごとに強まるばかりだった。
 仕事の合間にコーヒーを飲んで一服していても,今ここで自分がコーヒーを飲んでいる間にも,日本は実力のある―それは殆ど間違いなく,彼女から見れば人間的,道義的には信頼のおけない人種であることを意味していた―政治家の手によって,自分が,そして多くの名もなき庶民たちが望まない方向へ導かれていこうとしているのだ…そう思うと,叫びだしたいほどの焦燥に囚われるのだ。
 とはいえ,今の自分には何もできないことを彼女はまた承知していた。

 この間新聞に載っていた,あの自分と同じ年の女性の国会議員―彼女は,我が国の最大与党の実力者,一度は総理総裁まで務めた男の娘だった。父親であったその男は,必ずしも娘に政治の道を歩んでもらいたいと思っていた訳ではない,と聞いたことがある。彼女自身も,必ずしも父親の跡を継ぐことを意識していた訳ではない,ということも。しかし,娘が本来跡を継ぐべき婿を娶る前に,父は急病で世を去った。半ば彼らの意思とは関係なく,彼女は政界への道を歩み始めた。

 堀の家庭は,政治とは完全に無縁だった。父親はノンキャリアの国家公務員であり,保守的で,悪い言い方をすれば古臭い男だった。娘が一流大学に入って弁護士となり,いわゆるキャリアウーマンとなることは,彼にとってはむしろ望まないことだった。可能ならば女子大にでも入り,自分のような堅い職業の男と見合いでもして結婚し,自分の目の届くところに家庭を作って慎ましく暮らしてくれればいい,と思っていたから。
 彼女が今の道を選んだのは,そんな父に対する反発の気持ちからだったのかも知れない。彼女から見れば父は,頭の固い,古臭い,事なかれ主義の,さして取るに足るもののない平凡で退屈な男であり,そのくせ自分を束縛しようとする鬱陶しい存在でしかなかった。
 彼女の政治活動を知った時,無論父は猛反対をした。しかし,父が反対すればするほど,その反動で彼女はますます活動にのめり込んだし,父が保守的であったがゆえ,その政治的志向は革新的な方向へ向かったのだろう。

 堀は心底,件の二世女性議員の彼女を羨んでいた。
 議員の娘として生まれた,それだけで,あたかもエスカレーターのように自動的に国会議員への道が開けている。
 自分の方が絶対に,勉強しているし,苦労しているし,熱意も持っている。何より,議員として「なすべきこと」をいくつも持っている。
 彼女を国会中継で見たことがある。
 その時の彼女は,与党席に座って,何を発言するでもなく,ただ座っていた。
 彼女にとっては,今の日本の政治は,「そのままでいい」のだ。
 そして政府与党にとっては,彼女は「座っていてもらえればそれでいい」のだ。
 彼女が動いたのは,採決のときに与党案に賛成のために起立したときだけだった。
 それでいいのだ。それが彼女の仕事だから。
 堀はそこまで考えて,ふっと溜息をついた。

 いわゆる「地盤,看板,カバン」のない彼女が政界に打って出るには,残された道は一つしかない。政党の公認をもらって,党の力で選挙に勝つことだ。
 事実堀は,ある政党で活動をしていた。選挙の手伝いもした。応援演説もしたことがある。その党は,大部分において堀の志とほぼ共通の政治公約を謳っていた。
 ここでやっていれば,いつか道が開けるかも知れない。
 そう思えたのは,しかし最近までだった。
 党勢は拡大の気配なく,選挙では毎回大差で敗れた。淡々と。
 毎回自己弁護と自己満足の総括が続いた。
 それが歯がゆくて,物を申したこともあった。
 それが二度三度と続くごとに,しかし彼女の立場は悪くなった。
 うるさい女だ。
 そう思われていることに彼女が気付くまでに,そう時間はかからなかった。
 党にとって重要なのは,いかに一枚岩の組織を作っていくか,ということだった。
 それはそれで大切なことである,ということを認識はしていたが,そちらを重視するがために,党は硬直化した組織となっていった。党中枢を占める一部幹部の指示が党の方向性の全てであり,下からの反論は許されなかった。
 うるさい「女」だ。
 口では男女平等を謳っているくせに,党内部は完全な男社会だった。
 女性幹部は皆無であり,表向き作られていた党の女性会は形だけで,彼女たちの意見は上に届くことはなかった。
 いつだったかの新聞で,党の有力女性議員が離党した,と報じられた。
  党はその後,四分五裂の内ゲバに明け暮れることになる。
 そりゃそうよね。
 堀はそう呟いたものだ。
 すっかり冷めきってしまっていて,その他の感想がもう頭に浮かばなかった。

 あとは…自力でやるしかない。
 しかしそれは堀にとって,至難の業であった。
 まずそもそも,立候補するための供託金300万円が大きなネックだった。
 弁護士なんだから金はあるだろう,とよく言われるが,まだ駆け出しであり,また勝ち目のない訴訟ばかり手がけていたから,なかなか報酬が得られなかった。また,弁護士費用の支払いにも困窮する依頼人も多く,支払いを先延ばししたり,棒引きにしたりすることさえあった。よって,堀自身も決して経済的に楽とは言えなかった。スタッフへの給料と事務所の賃貸料を払うと,後にはいくらも残らなかった。彼女にとって300万円は,途方もない大金に思えた。

 地盤と看板がないのは何とかなる。
 今,有権者は従来の政治のあり方に不満を抱き,新しい選択肢を求めている。
 現に,政党の公認を受けない新進の候補が続々と当選し,政界に新風を吹き込んでいるのだ。
 自分でも立候補さえできれば何とかなる。
 あとは,300万円だけ。
 しかし,彼女にとっては,その300万円の工面そのものが夢物語のように思えた。
 がめつく稼ぐしか,ないのかしら。
 冗談のようにそう考えて,向こうに座っている平井の方に目配せをした。
 彼はそれに気付かず,何やら一生懸命調べ物をしていた。

 仕事を終えて部屋に戻ると,堀はパソコンのスイッチを入れた。
 電子メールをチェックする。
「3通の新着メッセージがあります」
「絶対儲かる!ネットでお金!!」
 おあいにくさま。いくらお金が欲しいと言ったって,こんな出所の知れない怪しげなビジネスに手を出す気は毛頭ありません。開くこともなくごみ箱へ。
「理想の彼・彼女に出逢えます!」
 間に合ってます。嘘。そんな暇はないし,興味だってありません。ごみ箱へポイ。
「お元気ですか?」
 見覚えのある送信先のアドレスを見て,そのメールを開いてみた。
「ご無沙汰しております。お元気ですか?先のオフ会の際は参加できず申し訳ありませんでした。何しろ多忙なものでして…」
 嘘ばっかり。暇なんでしょう。変な悪戯ばっかりして。
「実は堀さんに大切なお話があります。是非直接お会いしてお話がしたいのです。待ち合わせは,この間のあの場所で。時間はいつでも結構ですので,いつ来られるかメールをください。浅見 零 拝」

 待ち合わせに指定された場所に来て,堀は自分の目を疑った。
 そこにいたのは,二人の男。
 享野楽太郎と,殿井浩二。
「あら…何故,ここに?」
「何故もクソもないわ。浅見にここ来いって呼ばれたんや。メールで」
 面白くもなさそうに,享野が答えた。
「一体何の用なんだ。俺ら3人だけ呼んで」
 小声で呟く殿井の前に,一台の車が止まった。
 軽自動車である。
 そこから出てきたのは,一人の若い女だった。
「浅見さん」
 堀が言った。
 横では二人の男が,間抜けな顔をして二人をまじまじと見ていた。

「享野さん,殿井さんははじめまして,ですね。浅見と申します」
 浅見と名乗ったその女性は,髪の長い,色の白い,物静かで少し頼りない感じだった。
 とても「聖人同盟」などという大掛かりなものを作ったり,性質の悪い悪戯をしたりするような風には見えなかった。
「あんたが…浅見かい?」
 殿井が,間抜けな顔で間抜けな質問をした。
「そうです」
 浅見はにこりともせず,車に乗り込んだ。
「行きましょう」

「すると,堀さんは彼女の…浅見の正体を知っていた,っていうことか?」
「そうです。ごめんなさい。黙っていて。秘密にしておいてくれ,って言われていたので」
「オフ会の時か。とすると,あの婦人警官の服もお前の差し金やな。どうもおかしい思うたわ。堀ちゃんがあんなマニアックな服持ってる訳ないもんな」
「ふふ」
 浅見が笑った。初めて見せる笑顔だった。
「でもねえ,享野さん」
 ちらりと横を向いた。
「確かにあの服は私が用意したものですわ。でも,もしかしたら堀さんもそういう服をお持ちかも知れません」
「持ってませんよ」
 堀は少々怒ったような声で言った。
「ごめんなさい。そういう意味で言ったんじゃないんです。ただ」
 信号待ちで車を止めると,彼女は今度はゆっくりと顔を彼らの方に向けた。
「人を外見とか,社会的地位とか,普段の言動とか,そういったことだけで判断しては見誤ることがある,ということです。その証拠に」
 青信号で車がゆっくりと滑り出す。
「私が…若い女性であるということを,あなた方は想像さえしていなかったでしょう?」

 1時間も走っただろうか。
 着いたのは,高原の中の別荘,といった風情の一軒の山小屋だった。
 入ると,中は薄暗い。外から見るよりも広い印象を受ける。天井は吹き抜けのようだった。今4人がいる部屋と,向こう側にもう一つ部屋があるようだ。
 カチャ。
 向こう側のドアが開き,入ってきた人影が3つ。
 それは,彼らとは別に招かれていた,日田,毛利,平井―25歳未満の3人だった。
 彼らは,浅見らと差し向かいのような格好で並べられている椅子に座った。
「ちょっと待っていてくださいね」
 浅見がそう声を掛け,隅にあるクローゼットに駆け寄った。
「準備がありますから」 
 独り言のように言いながら引き出しを開け,何やら紙袋を3つ取り出した。
「プレゼントです」
 浅見はそう言うと,必要以上に恭しげにそれを堀,享野,殿井の順で手渡した。
「何やこれ…たすき?」
 享野が声をあげた。
「これは…」
 堀が全てを悟ったように,生唾を飲み込んだ。

 選挙に出ませんか?
 その言葉に,堀以外の2人,いや,日田ら3人を含めた5人は呆気に取られて言葉も出なかった。
「何やねんいきなり選挙て。訳分かれへんわ」
 享野が素っ頓狂な声をあげた。怒気を含んだ声だった。
「どうですか,堀さん」
 浅見は静かに堀に振った。心なしか,救いを求めているようにも見えた。
「…え?…えーと…」
 堀も少々狼狽した風で,少し間を置いた。
「…私は…確かに,選挙に出たいという気持ちが…確かにありました…いや,あります」
 他の5人が堀を見ている。視線が痛い。
「…まあ…私がそう思っているだけで…皆さんは関係ないかも知れないけど…」
「確かにな」
 享野が言った。
「俺らには関係ないやん。堀ちゃんが出たい言うなら一人で出れば」
 全員黙ってしまった。数秒間,沈黙が続いた。
「いいえ」
 言葉を切り出したのは,浅見だった。
「この春,衆議院は解散になります。そしてあなた方3人は,必ずや新政党・聖人同盟の候補者として,政界に打って出ることになるでしょう」
 その外見と,今までの話し方からは想像できないようなよく通る,はっきりした声で,彼女は言い切った。
「まだ時間があります。皆さんでまた話をされてはいかがでしょうか」
 言うと,浅見は堀に紙片を渡した。
「こないだオフ会をやった店がありますよね。あそこのサービス券です。お一人様千円で食べ放題,飲み放題です」
 言うと,一人ずつに千円札を手渡した。
「もう一つのプレゼントです。2度目のオフ会をお楽しみください」
 向こう側の大時計は,午後5時を指そうとしていた。
「今から行けばちょうどいいですね。タクシーを前に待たせてあります。お名残惜しいですが今日はこの辺で…」
 彼女はそう言って,彼らを玄関先に誘導した。

「じゃあね」
 そう言った悪戯っぽい表情は,確かにあの浅見零に相応しいものかも知れない。
 殿井はぼんやりと,そんなことを考えていた。

 

#21 楽しいオフ会(2回目の1)

「訳がわかんねえな」
 浅見に渡されたたすきを手に取って,殿井は言った。
「何なんだ,いきなり選挙だ,新政党だと」
 1回目のオフ会をやったのと同じ店で,6人は再び集っていた。
 ただ,1回目の時とは席が少々違っていた。
 カウンター席に年長組―殿井,享野,堀がいて,彼らの背中を,テーブル席の日田と毛利が少々心配げに眺めている。唯一変わらないのが,カウンターの中でカクテルだの何だのを作る,マスター役の平井であった。
「そんなんどうでもええやん,なあ,おっさん」
 享野がビールを殿井のグラスに注ぎながら言った。
「俺らには関係ないもん。さっきも言ったけど,堀ちゃんが出たい言うんなら一人で出ればええ。それやったら俺らも止めへんし,応援したろう思うよ。でもなあ」
 続いて自分のグラスに手酌で注ぎながら続ける。
「俺らを巻き込むのはやめにしてもらえへんか。俺は政治家になろうなんて全然思わへんし,逆にそんなん真っ平御免や。勉強もしてへんし。大体俺政治家嫌いやしな」
「お前みたいな奴が政治家になったら日本は破滅するな」
 享野に視線さえくれないで,殿井は言った。
「…言うようになったなあ,おっさん」
 享野が苦笑いを浮かべながら言った。
「真面目な話」
 殿井が堀の方に目を向けた。
「堀さんさあ,…何かやりたいことっていうか…公約,って言うのとは違うかも知れないが…そういうのがある訳?」
 急に話を振られた堀は,口に含んだビールを,のどを鳴らして飲み込んだ。
「選挙に出るだの何だの言う以上は,自分が議員になったら日本をどうしてやるとか,何か自分の中であるはずだろう?それがなかったら議員になる意味なんてないし,そもそも有権者に訴えることさえできなくて選挙で落ちるはずだろう」
 殿井は堀の目をしっかりと見つめていた。厳しい顔つきで。
「俺は今のところ…まあこれは,さっきいきなり話を振られたからそうなだけかも知れないが…そんな大それたことを自分の中で想像さえできない。そんな状態で選挙に出たって勝てる訳がない。供託金をどぶに捨てるだけで終わるのがオチだ。大体,そんな気持ちで選挙にのこのこ出て行ったら,有権者に失礼だろう」
「ありますよ」
 応えたのは堀ではなく,カウンターの中にいる平井だった。
「お前には聞いていない」
 殿井はそっけなくはねつけた。
 平井はむっとした表情をして,何かを言おうとした。
「俺は堀さんの口から聞きたい。そうでなかったら,意味がない」
 相変わらず厳しい口調だった。平井は,何も言えなくなってしまった。

 嫌な沈黙が流れた。
 皆が堀の口元に注目している。しかし,堀は言葉を発することができない。
「すぐには出てこないか」
 殿井が,まるで助け舟のように言った。
「…いきなりこんなところで所信表明演説をしろって言われても,それは無理な相談だっただろうか」
 独り言のように,彼は続けた。
「ごめんなさい」
 堀が言った。
「…あのね,勿論…ない訳じゃない。それこそ,…話し始めたらきりがないくらいあるんです」
 苦しそうな声である。
「でも,それを自分の中で上手く表現することができないんです」
「それじゃあかんやろ」
 享野が言った。
「だってなあ,政治家なんて,たとえ嘘八百でも偉そうなことを口八丁で言うのが商売やろ。喋られへんかったら,商売あがったりやないか」
 堀は黙ってしまった。
「…いや…それは少し違うと思う」
 殿井が言った。
「恐らく,あんたは自分のやりたいことをある程度考えて,固めているはずなんだ。ただ」
 一呼吸置いた。
「…ただ,それらが余りにも漠然としていて,または余りにもあちこち,四方八方に飛びすぎていて,自分の中でうまいこと消化し切れていないんだろう」
 殿井はそこまで言うと,ウイスキーのロックを自分で作って,堀の目の前に置いた。
「もう少し飲んだらどうだ。顔が暗いぞ」
「…」
「あの時の…俺とチャットでやり合った時の,あの威勢のいいお嬢さんはどこに行ってしまったか」
 殿井はそこまで言って,ゆっくりと微笑んだ。
 堀は表情を変えなかった。
 からんからんと音を立ててグラスを回した。
 唇を当ててグラスを傾けたが,琥珀色の液体はその手前で止まった。
 その姿を,殿井と平井はじっと見ていた。
 お互いがそれに気付くと,殿井は下を向いた。
 平井は少々むすっとして,またカクテルを作り始めた。

「私ね…300万円さえ何とかなれば,自分は絶対に選挙に出て,人々の支持を得ることができて当選して,国会に打って出て,自分の理想としている,国民の国民による,国民のための政治を,できると思っていたんです」
 堀がまくし立てるように言う。
 その対面にいるのは,殿井。
「でもね,さっき殿井さんに言われて…何だか自信がなくなっちゃって…今更こんな初歩的なことで詰まっててどうするんだろう,って」
 活字にすると愚痴にしか見えないが,彼女の声はかなり明るかった。テンションが高いのは,恐らくは酒の所為だろう。
 集まって飲み始めてから,2時間が過ぎようとしていた。
「私が目指してるのは,ひとつ,清潔な政治。ひとつ,正直者が馬鹿を見ない政治。ひとつ,弱い人が泣かない政治。ひとつ,女性の権利の確立。ひとつ,…ええと,何だっけ」
「差別をなくそう,…だったかな」
「そう,差別をなくそう。ひとつ…」
 殿井はもう1時間以上にわたって,まるで壊れたテープレコーダーのように同じことを繰り返す堀の話をひたすら聞いていた。
 不思議な気分だった。
 はっきり言って,自分の考えと堀の考えは水と油だと思っていた。
 いや,チャットで「話した」限りでは,間違いなくまるっきり間逆で,相容れないもののはずだった。
 自分の思想信条に反する意見を聴いていると,普通ならば違和感を覚えたり,苛立ったりするだろう。それは違うだろう,と言い返したっておかしくはない。
 しかし,彼女を見ているとそういう気持ちが消えてしまうのが分かる。
 同じ言葉であっても,彼女が語る主張であれば,仮にそれが自分のそれと相容れないものであったとしても,スムーズに聞くことが出来る気がする。それに賛同するかどうかは別としても,少なくとも話を聞こう,という気持ちにはなることができる。
 それが彼女の一生懸命さ,不器用ながらも懸命に気持ちを伝えようとするその真摯な態度から来ているものなのか,それとも,彼女がそもそも持ち合わせている能力によるものなのか。それとも…
 そんなことを考えているうち,堀は急に立ち上がって,外に出て行った。
 トイレだろう。
 殿井は彼女の出て行ったドアの方をぼうっと見ていた。
 その時である。
「おっさん,堀ちゃんに惚れたやろ」

 後ろからナイフで突き刺すように声を掛けられて,殿井は思わずぎゃあと叫びそうになるくらい動揺した。
 驚いて振り返る彼の後ろでにやにや薄ら笑いを浮かべているのは,享野である。
「な…何だ,お前か。いきなり変なことを言うんじゃない。心臓が止まるかと思ったぞ」
「それは驚いたからやなくて,図星突かれたからちゃうんかい」
「馬鹿なことを言うな」
「馬鹿なことやないと思うがな。さっきのおっさんの堀ちゃんを見る目は恋する男が恋人を優しく見守るような目やったなあ。おっさんでもあんな目するんやなあ。ほんまにびっくりやで」
「酒の所為だ」
 殿井はまた後ろを向いてしまい,ワイングラスを傾け白ワインを気持ちだけ口に含んだ。
「ほう,おっさんはビールコップ1杯とワイン数滴で酔うんかい。それは知らんかった。前はもっと飲めたような気がしたけどなあ」
「うるさい奴だ。ストーカーじゃあるまいし,俺のことなど放っておけ」
「殿井さん」
 カウンターの中から,平井が声を掛けた。
「どうぞ」
 彼は殿井の目の前に,自作と思しき透明な色のカクテルを置いた。
「何だ,これ?」
「平井スペシャルです」
 平井は笑って言った。
「?」
 殿井は訝りながらも,そのカクテルを一口飲んだ。

「殿井さん?…あれ,どうしたの?ねえ,どしたの?」
 ハイテンションの堀がトイレから帰ってきた時目にしたのは,「平井スペシャル」なるカクテル一口で酔い潰された,殿井浩二の姿であった。

「よく考えたら,俺たち今回関係ないんだよなあ」
「ん〜…そう言われれば…そうですよねえ」
 テーブル席では,半ば強制的に二人きりにされた,毛利と日田が話をしている。
「俺たちもさあ,25になったら選挙出ろとか言われんのかなあ」
「どうなんでしょう…そう言えば,毛利さんていくつなんですか?」
「24だよ」
「あ,じゃあ僕と1つしか違わないんだ」
「ああ,日田君はじゃあ23か」
「社会人1年生ですよ」
「俺ってそんなに老けて見えるかなあ」
「老けてるとかそういうんじゃないですけど…大人に見えるって言うか…何かだいぶ苦労されてるように見えますよね」
「そりゃそうだなあ。毎日毎日死ぬことばかり考えてるんだからなあ」
「まだそんなこと考えてたんですか」
「う〜ん…でもあれだなあ,最近はあまり考えなくなったなあ」
「それはあれですか,やはりこの『聖人同盟』が良かったんですか」
 笑って日田が尋ねた。
「そうだなあ…確かに,ここに出入りするようになってからだな,そうなったのは」
 毛利は酎ハイを飲み干した。
 少し二人の言葉が途切れた。
「何かさあ」
 毛利が切り出す。
「俺も選挙に出てみたくなっちゃったな…主張は何もないけど」

「堀さん見てるとなあ,羨ましいんだよね。自分の信念に殉じて自らの身を政界っていう…それこそ一歩先が分からない,そんな世界に投げ出すっていう生き方がね」
「堀さんは自殺する訳じゃないんですから,一緒にしちゃあダメです」
 日田がたしなめた。
「…でも,似たようなものかも知れないすね」
 そう付け足して,笑った。
 毛利が後を続ける。
「俺もね,そういう…何か自分の中のこれだって決めた,その何かのために自分の生命を使いたいんだよね。いや,生命って言うか,人生をね。せっかく生まれてきたんだから,無駄にはしたくないんだ」
「毛利さん」
 日田が言った。
「俺,ずっと毛利さんのことを誤解していたみたいです。俺は毛利さんはただ徒に,闇雲に命を粗末にしようとしている人だと思っていた。でも,今の話を聞いていると,本当は毛利さんほど命を大切にしている人はいないんじゃないかって,そう思いましたよ」
「気付くの遅いよお。俺,こんなに身体に気ぃ使って,今烏龍茶なのにさ」
 二人は笑った。

「日田君さあ,もし選挙出ろって言われたら…言うことある?主張っての」
「…何だろう。思いつかないっすね」
「俺もねえ,今そういうの探してる。いや,堀さんが言ってたようなね,あんな高尚なことじゃなくってもいいんだと思う。自分が今疑問だったり不満だったりしてさ,ここを直してやりたいって思うとことか,…ないかなあ」
「ん〜…別に日々の生活でこれと言って不満なんてないですよ。多分」
「…そう?自分の興味のあることとか…日田君だったら,美味しい物食べることとか」
「ああ…そう言えば,最近美味しい物にめぐり会えなくなった気がするなあ」
「それってさ,美味しい物が周りになくなったってことじゃないか?だから,環境の悪化とか,食料事情とかでさ」
「ああ〜…そうかも知れないっすね。でも,それっていいのかなあ」 
「立派な公約になるだろう?日本の食糧を守りますって。だからさあ,堀さんみたいに高尚なことを言わなくっても,自分の身の丈に合ったことで十分主張になると思うよ」
「当選できますかね?『グルメ万歳!日田一誠』」
「ああ,完璧。トップ当選する」
「絶対嘘。目が笑ってるもん」
 日田の突っ込みに,毛利は笑った。ただ,目は笑ってはいなかった。

 

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