長編連作小説#2 聖人同盟(第22回〜第24回)

#22 楽しいオフ会(2回目の2)

  殿井が目を覚ましたのは,市内のとあるビジネスホテルの一室だった。
 何故自分が今ここで,よれよれの背広を着て寝ているのか,すぐには思い出せなかった。
 緩んでしまって今や首に引っかかっているだけになってしまった一張羅のネクタイを乱暴に外して床に放り投げると,強烈な頭痛が襲ってきた。
「何してたんだったかなあ…」
 殿井はそう呟きながら腕組みをして,真剣に当時の記憶を辿り始めた。

 とりあえずオフ会と称して聖人同盟の6人で店に入ったのは覚えている。
 何で6人で店に入って話をすることになったのかというと…
 ああ,選挙がどうこうと。
 あれは本当の話だったのだろうか。
 どうも現実の方が現実離れしてしまっていて,それが実際にあったことなのか,それともさっきまで見ていた夢であったのか,今ひとつ判別がつきづらい。
 それはいいとして,選挙がどうこういう話と,今ここで俺がよれよれの背広を着たままここに横たわっていて,なおかつ起き上がった瞬間,恐らく二日酔いと思しき強烈な頭痛に襲われているという事実に何の関係があるのだろうか。
 選挙と言えば,堀のお嬢さんが何か出るような出ないようなことを言っていて,公約がどうのこうのとかいう話をしていて,享野の奴が俺が堀さんに惚れてるの惚れてないの…
 そこまで考えて,やっと思い出した。
 そうだ,あそこで平井に何か飲まされたんだっけ。あれから記憶がないんだ。
 しかし何だって,俺が平井に変なもの飲まされて潰されなきゃならないんだ。
 俺はあいつに何か恨まれるようなことでもしたっけか。
 まあいいや。考えるのが面倒くさい。
 つうか,気持ち悪い。
 殿井はトイレに入り,周りに散らないように気を遣いながらのどに指を突っ込んで,ひとしきり吐いた。

 時計を見ると,朝の5時半である。
 じじいじゃあるまいし,何が哀しくてこんな時間に起きないといけないんだ。
 二度寝をしようともう一度ベッドにもぐりこんだ。
 しかし,二日酔いの頭痛と気分の悪さがまだ残っている上,頭が妙に興奮してしまっていて,とても寝付けない。
 テレビをつけた。
 朝一番のニュースが始まっていた。
「国会では各党の代表質問が行われ,衆議院の解散・総選挙を睨みながら,各党の党首クラスが激しい論戦を繰り広げました…」
 ついこないだまでは全く興味のなかった政治のニュースを,今は食い入るように見ている自分がいる。選挙に出る出ないの話なんて,自分の中で現実として全く受け入れていないと思っているはずなのに。
 殿井はそこに思い当ると,思わず苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
  それにしても不思議である。
 衆議院はまだ解散されてはおらない。
 首相もまだ公式には,解散するとは一言も言ってはいない。
 それなのに,もう何月何日解散,何月何日選挙というところまで新聞やテレビのニュースで既成事実の如く報じられていて,現に次は誰々が出馬するとかしないとか,明日あさってには誰々が出馬表明をするとか,そういう話が飛び交っているのだ。
 何より,もう各党は選挙をする気満々で,街宣の選挙カーが街を走り回っているのだ。
 わが党もそろそろ準備を始めた方が良いのではないだろうか。
 わが党,かよ。
 殿井はまた苦笑いをした。
 堀さんはどうするのかな。
 適当な時間になったら,電話をして聞いてみよう。
 そこまで考えたら小便に行きたくなった。
 もう一回トイレに入って,明らかにアルコールの臭いのする小便を搾り出すと,さっきよりは幾分楽になった。
 これなら二度寝ができそうだ。
 横になると,強い眠気に誘われた。
 次に気がつくと,10時前だった。

 起きてすぐに,殿井は堀の携帯に電話をしてみた。
 彼女は,出なかった。
 どうしたんだ。
 殿井は少々気持ちが塞がった気がした。
 今日が平日で,彼女が仕事中であることに気がつくまでに,少し時間がかかった。
 どうかしているな,俺は。
 背広もネクタイも皺だらけになっていたが,それでも可能な限り体裁だけ整えて,彼はホテルをチェックアウトした。
 数分ほど歩いたところにある喫茶店で朝食兼昼食を摂っていると,殿井の携帯が鳴った。
 堀からだった。
「ごめんなさい。電話されましたか?」
「ああ,…いや,こちらこそ。仕事中だってのを忘れてた」
「そうなんですよ,普段ならそれでも出られるんですけど,今日は立て込んでて」
「うん。今は大丈夫か」
「はい。今は昼休憩です。ご飯食べてます」
「そうか。…あのさ,選挙の件」
「あ…ああ,あれですよね,ええと」
「本気で出るつもりならさ,そろそろ準備しないとやばいぜ」
「う〜ん…ちょっとまだ考えてない…どうしよう」
 二人は黙ってしまった。
「とりあえずさ,今日仕事終わったら会わないか。何時でもいい。ゆっくり考えよう」
「遅いですよ,私」
「大丈夫だ」
「堀さぁ〜ん」
「…あ,平井君だ。ごめんなさい。また後で」
 それで電話は切れてしまった。
 殿井はまた少し気詰まりになった。
 俺,鬱なのかなあ。それとも,昨夜の酒の所為かしら。
 携帯をポケットに放り込んで,残っていたサンドイッチを口に入れ,コーヒーを流し込んだ。
 店を出る間際,殿井の携帯が鳴った。
 メールの着信だった。
「待ち合わせの場所は,駅前でいいですか?時間は分からないので,仕事が終わったらまた連絡します」
 了解,と打って返信すると,殿井はふうと息をついた。

 幾度か来たことのあるその駅の噴水広場で,殿井は堀を待っていた。
 時計は午後11時を回っていた。
 つい10分ほど前に,今仕事が終わりました,というメールが届いた。
 事務所から駅まではどんなに急いでも30分はかかるはずである。
 こんなに早く来てもしょうがなかったな。
 思ったが,もう来てしまったものは仕方ない。
 それにしても,この時間だと妙に辛気臭いな。
 目の前にやたらだだっ広い大通が通っていて,橋を渡った向こうには街の明かりが見えるが,こっち側は商社や銀行,デパートといったビルが並んでいるものの,その多くは電気が消え,街灯だけで人通りも少なく,閑散としている。
 電車が15分に1回は来るから,その時だけは人がちらほら出てくるが,その数もまばらになっている。堀が来る頃には,もう最終が出てしまっているだろう。
 それにしても寒いなあ。
 暖を取るための缶コーヒーももう3本目である。
 こんなに飲んだら,後で小便に行きたくなって困るんじゃないだろうか。
 やだなあ,若い女性の前で。
「殿井さん」
 後ろを振り返ると,そこにはコートを着てマフラーを羽織り,手袋までした,若い女性の姿があった。

「用意がいいんだなあ,堀さんは」
「何がですか?」
「いや,コート着てマフラーして,完全防備じゃないか」
 堀はくすりと笑った。
「慣れてますから。まだ寒いんですよ。春だと思って甘く見たらダメです」
「ごもっともで」
 橋を渡り終えると,それでも少しは賑やかな町並みになる。
 とはいえ,飲食店はもう閉まってしまうか,開いていてもラストオーダーになってしまうか,それくらいの時間である。
 あと開いているのは喫茶店か居酒屋かカラオケボックスか,あとはラブホテルくらいしかあるまい。
 後ろ2つは論外だ。真面目な話をするのに居酒屋で一杯,という訳にもいかないだろう。何より昨日やられているから,とても酒を飲む気にはなれない。
「喫茶店でいいか」
「あれ?今日は飲まないんですか」
 冗談めかして言う堀に,殿井は無言で突っ込みを入れた。

 殿井がここにしよう,と言って入った喫茶店は,この間のオフ会の際に集まった,そして誕生日の時に,平井に誕生祝をしてもらった,あの喫茶店だった。
 この辺で遅くまで開いている喫茶店というのはそう多くないから,たまたまそうなったとしても全く不思議ではなかったが,堀は少々気後れがした。
 別に普通に考えれば,意識をする必要など何もないのだが。
「どうした?」
 不思議そうに自分の方を見る殿井に,何でもない,と言いながら堀は後に続いた。

「あんたの相棒は今日はどうしたんだ?」
 本題に入る前に,殿井は堀に聞いた。
 堀はびくりとした。
「え?ええ,いや,あの,別にそれは,何でもありませんから」
「誰も疑ってやしない」
 殿井は下を向いて,無表情でコーヒーを啜って言った。
「え?そうですよね,そんなの,当たり前ですよね,どうしたんだろう,あたしったら」
「変なお嬢さんだ」
 堀は照れ隠しの笑みを浮かべたまま固まってしまって,下を向いた。
「子供は早く帰らせないとな」
 殿井は言った。
 堀は何かを言おうとしたが,言わないでそのまま下を向いていた。

「どうするよ,選挙」
 本題に入った。
「う〜ん…どうしよう」
 堀は昼時と全く同じ回答をした。
「出るんだろ?」
「はい…でも,どうしたらいいんだか分からないんです」
「どうしたらって…」
 言いかけて,やめた。
 よく考えたら,殿井自身も,選挙に立候補してから投票日を迎えるまで,どのような手続があってどのような流れで進んでいくのか知らない。選挙に関するノウハウが全くない。だからこそ,大きな政党の候補者がなんだかんだ言って有利で,どこにも属さない新参者は苦戦を強いられることになるのかも知れない。
 しかし,そんなことを言ってはいられない。と言うよりも…
「そんなことを考えて気にする候補者はいないだろう。候補者は,自分の主張をどれだけ有権者に伝えるか,それだけを考えていればいいはずじゃないか」
「でも,私たちには選挙のプロになるようなスタッフがついている訳じゃないじゃないですか。殿井さんも出て,あと享野さんも出るんでしょう。浅見さんや他の人にさせる訳にいかないし」
「あんたの相棒は」
「そこまで…平井君にさせたくありません」
「でも彼はやりたがるだろう」
「やりたがっても,止めます。彼にこれ以上負担をかけたくはありませんから」
 負担をかけたくない,か。と言うよりはむしろ…
 殿井は何かを言いかけたが,やめた。
「ならば,俺がやろう」
「え?でも,殿井さんも」
「俺は議員のイスに興味はない。あんたと違って,これと言った主張がある訳でもないしな。俺とあんたの考えは水と油だと思うが,あんたの信念は好きだ。出来ることがあるのなら,俺が協力する」
「でも…」
「まあ俺もそんな勉強はしちゃあいないが,これから始めて死ぬ気でやれば何とかなるだろ。あんたは要らないことを考えないで,自分のことだけ考えていればいい」
「…」
「俺を,信用しなさい」
 そこまで言われたら,肯くしかない。そしてこう付け加えた。
「すみません…」

 翌日,浅見にメールが届いた。
 最終的に出馬するのは堀1人で,殿井は選挙参謀として,堀の応援に回る。享野は,自分は政治には興味がないから,と不出馬を表明。年少組の毛利と日田は,「面白そうだから」と選挙スタッフへ参加を表明した。
 平井は選挙スタッフにして欲しい,と申し出たが,事務所の仕事に専念しなさい,と堀に断られてしまったので,仕方なく今回は関わらないことになった。最後まで不満を述べていたが,結局は諦めるしかなかった。
 聖人同盟は,堀和歌子を擁立して,初めての選挙に挑む―

 

#23 堀 和歌子(無所属・新)

 …日本国憲法第7条第3項により,衆議院を解散する―

「自分でやると恥ずかしいなあ…」
 選挙管理委員会から支給された本物の七つ道具を手にし,たすきをかけた自分の姿を姿見で眺めながら,堀は言った。
「よく似合うじゃないか」
 からかっているのか本当なのかはっきりしない口調で,殿井は言った。
 堀はまだ違和感を隠せない様子で,しきりにたすきの角度を直している。
 思えば今までは,応援していた政党の候補者のその姿を何の気なしに眺めていた。自分がその立場に立って,初めて何とも言えない緊張感,高揚した気分が自らを支配するのを感じていた。

 選挙事務所は,堀の事務所の中に置いた。今までも政党の事務所に使っていたから,それまでと同様にしていれば良かった。ただ,今回は,今まで一緒にやっていた,選挙のノウハウを知る後援者はいない。まともに選挙を知るのは候補者自身だけで,その他の運動員は全員素人ばかりである。
 参謀である殿井を始めとする聖人同盟の運動員たちも,衆議院が解散されるずっと前から,公職選挙法などそれなりの勉強をしていた。しかし,どれだけ法律を読んでも,どれだけハウツー本を読んだとしても,頭で覚えるのと実際にやるのではまるっきり違うということはやる前から大体想像はつく。全ては手探りから始まるしかない。

 テレビをつけると,地元小選挙区の候補者の紹介をしていた。
「候補は次の3人です。宮田昇,民自・前,厚生大臣や総務大臣を歴任してきました。6期目を狙います。次に,鈴木大助,民政・新,参議院からの鞍替え出馬で民自の議席独占の阻止を狙います。39歳の党のホープです。最後に堀和歌子,無所属・新,今回候補者中最年少の26歳の女性候補です…」

 宮田は保守・自由主義を掲げる政権政党に属し,大臣を歴任してきた大物である。近い将来の首相候補でもあった。保守王国である土地柄,今回の選挙も楽勝と見られてきた。
 そんな中で,宮田の当選を阻止するために参議院から鞍替え出馬したのが,民主・リベラルを旗印とする野党第1党の鈴木であった。30代という若さながら党の重職にあって知名度もある。宮田楽勝・無風選挙の状況は一変した。

 そして堀である。はっきり言って,今の状況では全くノーマークの泡沫候補に近い状態であった。出たのはいいが,知名度も地盤も何もなく,二大政党の大物の一騎打ちに半ば埋没しかかっていた。
 今回の選挙の争点とされていた政策については,宮田と鈴木が,有権者から見れば極めて分かりやすい形で相対する公約を出していた。そんな中で堀陣営は,有権者にアピールする独自の政策を打ち出すことに苦心していた。

「厳しいなあ…」
 殿井は選挙事務所で一人うめいていた。
「厳しいのは初めから分かっていたじゃないですか」
 日田が言った。
「まあそりゃそうだけどさ」
 殿井は,競馬場によくいるオヤジのように耳にボールペンを挟んで,大きく伸びをしながら言った。
「せめて鈴木がいなかったら,無党派取り込んで何とかなるんだけどなあ。宮田が喜んでるぞ,きっと」
 ごめんなさい。
 堀は思わず,そう言ってしまいそうになった。
 しかし,思いとどまった。自分がそんな弱気では,いけないのだ。
 ここは,自分がしっかりしないといけない。
 少なくとも,今ここで問題になっていることは,自分の政策に関する問題なのだ。
 それは,候補者である自分自身がしっかりと考えてものにしなければならない。
 立候補前に訴えようとしていた主張は,既に宮田と鈴木が語り尽くしてしまっていた。
 自分にあって他の二人にないもの。
 それを考えていけば,答えは自然と出る―
「ちょっとだけ,時間をくれる?まとめてみるから」
 堀はそう言い残し,奥の書斎に消えた。

 パソコンに向かい,何気なくネットにつなぎ,メールをチェックしてみた。
 立候補してからそれまでに比べメールの数は増えていたが,その中に一つ,堀の目を引く名前があった。
「浅見 零  元気?」
 怪訝な顔をして,堀はそれをクリックしてみた。
「ご苦労様です。苦労しているみたいですね。余計なお世話かも知れませんが,いくつかの助言をさせてください。勿論貴方が気に入らなければ,無視していただいても結構なんですが,一つ二つくらいはお役に立つものがあると思いますよ―」

 浅見のメールには,添付ファイルが付いていた。
 開くと,
A4の1枚分に相当する文書だった。
 そこには,聖人同盟の6人の特徴と性格,及び過去の履歴が断片的に書かれていた。
 享野楽太郎。遊び。女性。セックス。残業拒否。会社告発。…
 殿井浩二。…
 日田一誠。…
 …
 堀は自分の名を探した。
 文書の一番最後に,それはあった。
 堀和歌子。
 その続きは空白になっていた。
 自分で埋めなさい。
 浅見がそう言っているのだと,堀は思った。
 堀は文書をプリントアウトし,シャープペンシルを手にとって,その空白を埋めるための格闘を始めた。

 翌朝。
「遅まきながらですが」
 堀は,パソコンで打った
A4の紙切れを恭しく掲げ,5人の仲間の前に立った。
「私,堀和歌子,いや聖人同盟の選挙公約を発表します」

 1 清潔な政治のため,地盤もカバンも看板も要らない選挙制度を作る。
 2 全ての差別・いじめを許さず,全ての人の基本的人権を守る。
 3 女性の立場から,女性と男性が互いに価値を認め合う世の中にする。
 4 欧州並のバカンス休暇など思い切った労働時間の短縮を図り,労働条件を改善する。
 5 国内の第一次産業を重視し,国外からの食品を含め安全で美味しい食糧を確保する。
 6 全ての人が経済的にも精神的にも余裕を持てる社会を作り,自殺者を0にする。

「5は俺のための政策みたいだなあ。で,6は毛利さんか」
 日田は笑った。
「4は俺か?」
 享野が言った。
「俺の言うこととあんたの言うことを混ぜて上手いことまとめたら3になるってこったな。悪かったな,一応尊重していただいて」
 殿井が言った。
「平井ちゃんは?」
 享野が訊ねた。
「僕は…いや,別にいいっすから」
 平井は下を向いて手を左右に振った。
 享野はある事実を思い出した。しかし,それを口に出して言うことはできなかった。
「…まああんたは大人になってからじっくり考えればええわな」
「どうですか,殿井さん。参謀としては」
 日田が訊いた。
 殿井は何も言わなかった。

 公約が決まり,選挙区内を回って政策を訴える。
 街頭演説の数だけは,とにかくこなさなければならない。
 堀にとっては,とにかく自分の政策を有権者に訴えて共感を得,票に結び付けたい,その一心での遊説だった。
 遊説を繰り返す日々。
 堀は徐々に奇妙な苛立ちを隠せなくなっていた。
 自らの政策を訴えるために毎日,それこそ倒れそうなほどハードな活動を行っている。
 しかし,周囲の見方は堀の意図とは少々ずれていた。

 「26歳の『美人』女性候補」―
 世間の見方はそうだった。
 中高年以上の男性ばかりの候補者の中にあって,1人だけ若くて,人並み以上に美しい女性がいれば嫌でもそれが目立つことになる。それがたとえ,容姿の良し悪しなど全く関係のない政治の世界,選挙であったとしても。
 堀は自分の政策で認められたかった。
 しかし彼女がそう思えば思うほど,それと裏腹に,彼女が望むのとは全くずれた方向で彼女は注目を浴びるようになる。そしてそうなるほど,彼女の機嫌は悪くなっていった。

 その日,時間になっても,堀は事務所から出てこなかった。
「まだか堀さんは?早くしないと最初の演説に間に合わないぞ」
「中央公園だろ?あそこは人がたくさん集まるしちゃんとやらないと」
「もう結構人来てる」
 口々に落ち着かない口調が飛び交う。
「何で来うへんねん。アレちゃうか」
 享野がへらへら笑いながら言った。
「享野」
 殿井がたしなめるように言った。
「冗談やがな」
 享野が首をすくめて殿井を見上げた。
「言っていいことと悪いことがある。大体お前の冗談は品がない」
「ひどい言われようやな。可哀想な俺」
 享野がひとりごちたが,殿井は反応しなかった。ただ,彼女がいるであろう2階の窓を見上げていた。
「天の岩戸か」
 殿井が言った。
 不意に彼の携帯の着メロが鳴った。
「ん」
 堀からではなかった。しかし,見覚えのあるアドレスからだった。

「堀さん」
 殿井の低い声が事務所のドアを叩いた。
「…ん」
 声にならない声がした。
「そろそろ行かないか。皆が待っている」
「…行きたくない」
「それじゃあ,通らないぜ」
「…いいです,もう」
 少しずつ,声が小さくなっていく。
「…やる気,なくなっちゃった」
 悲愴な感じではなかった。むしろ,小さく,ふふと笑うような感じだった。
「…入っていいか」
「いいよ」
 殿井はゆっくりとドアを開けた。鍵はかかっていなかった。

 堀が話すのを,殿井はひたすら聞いていた。
 どれくらい経っただろうか。
 ひとしきり話し終わり,二人の間に沈黙が流れた。
「…ごめんなさい」
 堀が言った。
「何故謝る」
 殿井が表情を変えないで言った。
「気持ちは分かる」
 少し間を置いて続ける。
「…というのは嘘だ。俺は君じゃない。君は俺なんかよりずっときつい状況でやってるんだ。そんなことを気安く言えるはずがない」
 堀は下を向いている。
「あんたは政治をやりたいんだろう」
 堀はうなずいた。
「…ならば,使えるものは全部使って,何が何でも議員になるしかない。美人だからだろうが何だろうが,議員になってしまえば勝ちなんだ。格好つけて負けても何も残りはしない。武器になるものがあるだけ,ありがたいと思うくらいじゃないとダメなんだ」
「…」
 堀は何も言わなかったが,その顔からわだかまりはなくなっていた。
「by 浅見 零」
 殿井は言って微笑んだ。
 堀は笑った。

 二人で階段を下りながら,堀は小声で呟いた。
「馬鹿ねえ。全部自分で考えて言ったことにすれば,私あなたのことを好きになっていたかも知れないのに」
 冗談よ。
 堀は殿井を見た。
 彼は一瞥だにせず,そのままばたばたと駆け下り,慌しく選挙カーのエンジンをかけた。
 堀はふうと一つ息をつき,続いて駆け寄って飛び乗った。

 

 

#24 審判下る(1)

 衆議院議員選挙の投票日が間近となり,各新聞及びテレビ局が世論調査を基に各選挙区の結果の予測を発表した。
 全国的には,政権政党である民自党の勝利が確実とされていたが,党の幹部はこの報道に対し,「そんなに楽観的な状況ではない,アナウンス効果により我が党が不利になる」と不快感を表明していた。
 さて,問題の堀の選挙区であるが,記事の内容は次のとおり。

<毎朝新聞より引用>
 …区は,当初当選確実と思われた宮田(民自・前)が鈴木(民政・新)の激しい追い上げに遭っており,予断を許さない。堀(無・新)は無党派及び女性の支持を広げており予想外の健闘。二強の争いに割って入れるかどうかが注目される。

 当初無風と言われていた選挙区であるが,二大政党の対決となり,さらに堀が(取り上げられ方はともかく)注目を集めるようになったために,あるいは三つ巴になるのか,という状況に変わりつつあった。

「あと一歩,なんだけどなあ」
 殿井が言った。
「もし俺がもっと有名な作家だったらさ,名前使って派手に応援演説して,ってやってやるんだけどなあ」
「そんな応援なら要りません。私は自分の政策で選ばれたいんです」
 後ろで聞いていた堀が毅然と言った。
「…って言ったらまた,当選するためならなりふり構わずやらなきゃダメだ,って怒られるんでしょうけどね」
 さっきとは打って変わったおどけたような口調で続ける堀に,殿井は思わず小さく笑った。

 日本では,アメリカほど露骨に相手候補を名指しに矛先を向けて批判を加えることはあまりやらない。自分自身の政策を実直に訴える方が有権者に好感を与える風土であり,あまり相手を悪く言うことは逆に自身の人間性を疑われる危険があって得策ではないと考えられるからだ。
 相手候補の政策について,暗に批判を加えることはそれでも今回の選挙でかなり行われていた。ただそれは,あくまで宮田と鈴木の二大政党の一騎打ちという構図の中,二人がお互いに丁々発止でやり合っているにとどまっていた。
 しかし,選挙戦の終盤に入り,いわゆる無党派層,特に女性や若い人たちの間で堀の支持が拡大する中で,宮田や鈴木も彼女の存在を無視しきれなくなってきたようである。
「顔で政治ができますか」
「いかに立派な政策を掲げても実行できなければ意味がない」
「理想を述べるだけなら誰だってできるのです」
 宮田や鈴木の個人演説会で,このように堀を標的とした批判が徐々に現れるようになった。
 特に宮田の方が,この種の批判を頻繁に行うようになった。これは恐らくは政策の距離が,鈴木より宮田の方が離れていることによるものであっただろう。

 投票の前日まで,3候補の必死の訴えは続いた。
 直前の調査では,宮田が若干リード,鈴木が僅かの差で追い,堀がさらにもう僅かの差で後ろについている,という按配であったが,選挙当日の投票率などのファクター次第でどうにでも変わる,という状況であった。
 そして投票日。
 全てを終えた堀の陣営は,事務所で審判の時を待つ。

「終わったね」
 堀が細い声で言った。
「変な声だなあ」
 日田が笑った。
「仕方がないじゃない,毎日毎日一日中叫んで回ってたんだから」
「それ以上喋るな」
 殿井が言った。
「のどが潰れてしまうぞ。もう喋らなくていいんだからのどを休めた方がいい」
「色っぽい声が台無しやからな」
 享野が笑った。
「もう」
 堀は膨れっ面をしたが,目は笑っていた。
「堀さんは奥で休んでいるといい。結果が出たらまたいろいろあるから」
 堀は少々躊躇して周りを見たが,うん,と言って奥へ引っ込んだ。

「どうなんですかねえ,当選しますかねえ」
 日田が殿井の方を見ながら訊いた。
「分からん」
 殿井はぶっきらぼうに言った。
「嘘でも大丈夫だ,って言えないんですか」
 平井が不服そうに言った。
「そんなこと,軽々しく言える筈がない」
 殿井はそう言った後,トイレに行くと言って席を立った。

 5分経った。
「まだ出てこないのかな。長いトイレだなあ」
 平井が言った。
「さっきから僕も行きたいんですよ。ちょっと見てきます」
 トイレの前に立って,ノックをしようとしたが,思いとどまった。
 低いうめき声が聞こえた。
 殿井は,嘔吐していた。

 投票が締め切られて間もなく,地元のテレビ局のレポーターが,選挙事務所に集まり始めた。
「選対責任者の方はいらっしゃいますか」
「すいません,えと,今,ちょっとトイレに」
 はよせえ,と享野にせかされて,殿井が駆け寄ってきた。
「すみません,お取り込み中に。西海放送の西田と申します。カメラが回りましたら,インタビューをさせていただくことになりますので,よろしくお願いします」
「大丈夫か,ちゃんと喋れるんかいな。俺が代わりに喋ったろうか」
「お前に喋らせると放送禁止になる。要らんことはしなくていい」
「ちぇっ」
「あの,いいですか,私は新西日本テレビの吉原と申します。ちょっとお話を」
「テレビWESTの北村です。こちらよろしいですか」
「ちょっと待って,すいません,お1人ずつお願いします」

「えらいことになってるなあ」
「それだけ注目されているってことですよ。当選の可能性が高いっていう…落ちるような候補だったら初めから相手にされませんもん」
「じゃあ,当選の期待していいのかな」
「分からないですけどね。結構いい勝負はしてるみたいだけど」
 事務所に備え付けられた5台のテレビは,各テレビ局の選挙特番を流していた。
「…区,開票率は1%,宮田昇・民自・前,500票,鈴木大助・民政・新,500票,堀和歌子・無所属・新,500票…」
「まだ殆ど開いてないなあ。大勢が分かるのはまだ先だな」
「でも首相とかはもう当確出てるぞ。開票始まって1分だ。本当に調べてるのか?首相が落ちる訳ないからって適当にやってんじゃねえのか?」
「出口調査とか何とかから一応調べてるらしいけどな。でも1分で当確出たら確かにちょっと興ざめだよなあ」
「堀さんもそんなだったら楽なんだけどなあ」
「でもそんな奴だったらさ,俺たち応援したか?」
「しないなあ」
 日田と毛利はそう言って顔を見合わせ,大笑いをした。

「今回の選挙の推定投票率は57.45%と,過去最低だった前回の52%を上回ったものの,過去3番目に低い投票率となりました。不在者投票も伸び悩み,さらに当日が晴天だったということで,行楽に行った有権者が多く…」
 このニュースは,浮動票に頼るところの大きい堀の陣営には悪いニュースだった。
「まいったなあ。もう少し上がると思ったのに」
「結構関心は高かったって聞いたんだけど,投票率にはつながらなかったのか」
「冗談じゃないですよ」
 苛立ちを隠せない声で叫んだのは,平井だった。
「僕みたいに,投票したくってもできない人だっているんですよ。それなのに,権利があるのに遊びに行くとか言って捨ててしまうなんて,信じられない」

 平井が怒っていたのは,投票権がないからという理由だけではない。
 平井も,堀の選挙に可能な限りの手伝いをしたかったし,そう申し出た。しかし,未成年の彼に,事務所の仕事以外の負担をさらにかけることに堀が同意しなかった。彼の仕事はあくまで堀がいない間の事務所の留守番であり,時々選対を訪れて皆の話を聞いたり喋ったりすることが唯一の選挙との接点だった。平井は堀の当選という目的のために日々駆けずり回る彼らを羨んでいた。特に,参謀として陰になり日向になり堀をサポートする殿井を…
 ただ,そこまで直接言うのは憚られた。
 少なくとも,さっきのトイレでの殿井の姿を目の当たりにしてしまうと,それは決して口にしてはいけないことのように思えた。

「…区,開票率は55%,宮田昇・民自・前,2万7550票,鈴木大助・民政・新,2万6650票,堀和歌子・無所属・新,2万4900票。まだ当確は出ていません。現在は前職の宮田さんがリードしていますが,予想以上の大苦戦を強いられています。これから大票田の西海市の票が開きますので,浮動票次第では鈴木さん,そして堀さんにも逆転の可能性が残されています」
「こちらは堀候補の選対事務所です。選対責任者の殿井浩二さんにお話を伺います。殿井さん,まずはここまでの状況をどのようにご覧になりますか」
「…そ,そうですね,あの,まあ,厳しいということはね,覚悟してやってきた訳なんですけど,ここまでは思った以上に支持が集まっているということで,希望を持って見ている状況です」
 おっさん緊張しとるで。享野が周りの連中に目配せをした。
「それにしても,花輪もだるまもありませんし,失礼ながら随分質素な事務所だと…支援者の方もまだあまり集まっていらっしゃらないように見えますが」
「いや,これで全部ですよ」
「え?だって1,2…5人しかいないんですか,スタッフが」
「まあ5人ですけど,他の何十人や何百人よりも頼りになる素晴らしいスタッフですよ。本当にそう思います。堀とこの5人でね,日本を変えようと」
「日本を変える,と。そのためのまずは第一歩ということですね」
「そうですね。堀を当選させる,させたいという声が集まれば,その声が日本を変えることになると思うんです。堀はその声に支えられて,これから仕事をやっていきます」
「勝算は」
「…信じています」
「ありがとうございます。堀候補の選対事務所でした」
 インタビューが終わると同時に,殿井の携帯が鳴った。

 堀は事務所の奥の部屋で,テレビを見られるパソコンで選挙特番を見ていた。
「ごめんなさい。呼び出して」
 堀は小さく微笑んで言った。
「ねえ,私もそっち行っちゃだめかなあ」
「将は軽々しく出てくるものじゃあない。結果が出て,それを全て背負い込んで出てくるのが将の役目だ」
「固いんだなあ。そういうところ直さないと,女の子にもてないよ,殿井さん」
「そんなこと,あんたに心配される筋合いじゃあない」
 しばらく間が空いた。
「さっきいいこと言ってたね」
「何が?」
「インタビュー」
「見てたのか」
「当たり前でしょう。うちの選対責任者が喋るんですから」
「恥ずかしいな。緊張してたからな。柄にもなく」
 本当に恥ずかしそうに下を向く殿井を見て,堀はふふ,と笑った。
「殿井さん」
「何だ」
「もし,あなたが結婚して,その奥さんが選挙に出たいって言ったら,どうします?」
「へ?」
 殿井は頓狂な声を出した。
「最初の頃の殿井さんだったら絶対反対したと思うんです。でも,今だったらどうかなって」
「昔も今も変わっちゃいないさ」
「ダメなんですか?」
「誰がダメだと言った」
 殿井は堀の方に向き直って,言った。
「男には男の,女には女の役割がある。男にしかできないことも,女にしかできないこともある。女が女にしかできないことを世の中のために生かすってことだったら,それは素晴らしいことだと思っている。政治をやるのが男ばかりだったら女性には住みにくい国になってしまうだろうしな。それに…何より…」
 殿井はまたさっきと同じような恥ずかしそうな顔になって,さっきより小さい声で言った。
「愛する人がそうしたいと言うのなら,俺はその夢を叶えてやりたいと思うから」
 殿井はそこまで言うと堀の方を見ないで,じゃあ戻ってるからと言い捨てて部屋を出た。
 堀はちょっと不服そうな顔をして,退屈そうな顔に戻って特番に再び目を向けた。

 

 

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