長編連作小説#2 聖人同盟(第25回〜)

#25 審判下る(2)

「…区,ここは本当に激戦になっています。開票率91%,宮田昇・民自前,4万5200票,鈴木大助・民政新,4万4700票,堀和歌子・無所属新,4万3350票,まだ当確は出ていません。終始宮田候補が首位を守っていますが,鈴木・堀の両候補も食い下がっており,まだまだ予断を許さない状態です。ここの議席は最後まで決まらないかも知れません。…」
「えらいことになってんなあ」
 享野が言った。開票率30%の頃までは出ていた下品な冗談も,この緊迫した状況で出てこなくなっていた。
 殿井が出てきた。幾度か堀のいる奥の部屋に行って何事か話をしてはまた出てくる,そういうことを繰り返していた。
「どうや,堀ちゃんの様子は」
「うん,全然変わりない。もう少し緊張してたり不安だったりするんじゃないかと思うんだが」
「おっさんの方が緊張してんちゃうか」
「そうかも知れない」
 殿井は珍しく享野の言葉に素直に同調した。
 不意に,殿井は大きな欠伸をした。
「全然緊張してへんやないか」
「いや…これは違う。何だかな,凄く眠いんだ…」
「死なないで下さいよ」
 毛利が言った。
「お前に言われるとは思わなかったな」
 殿井は苦笑いをした。
 日田も笑った。
 平井は部屋の隅で,独り法律の本を読んでいた。

「…区,開票率は99%です。宮田昇・民自前,4万8600票,鈴木大助・民政新,4万8480票,堀和歌子・無所属新,4万6920票です。まだ当確は出ていませんが,ここも宮田・鈴木両候補の一騎打ちの様相になってきました。無所属で健闘した堀候補,旋風を起こしましたが及びませんでした…」
「あかんのか?」
 享野が,信じられない,といった風に言った。
 ええと,3人全部足して14万ちょっとやろ,あと残り1%やから1400票開くから,それ全部足して4万8300…
 そこまで計算してから,やっぱあかんか,とまた呟いて,溜息をついた。
 殿井は堀と携帯電話で話をしていた。
 出て来れるか?
 大丈夫。
 ほどなく,堀が敗戦の弁を述べに出てきた。

「やっぱ凄かったんだなあ,堀さんは」
「何が?」
「だってさ,普通ビリで負けた候補にあれだけマスコミ集まんないじゃん」
「まあ,全国でも注目の候補って出てたからな」
「俺たちだったらどうだったかなあ」
「…話にもならなかったと思うよ」
 毛利と日田は,遠くで堀のインタビューを見ながらそう言って笑い合った。

「悔しくないんすか」
 平井は顔を真っ赤にして,そう叫んだ。
「まあ,落ち着きいな,平井ちゃん」
 享野がそう言って,平井をなだめた。
「これが落ち着いていられますか。何でそんなに素でいられるんですか。悔しくないんすか」
「そりゃあ悔しいさ」
 殿井が口を開いた。
「しかし,審判はもう下ってしまったんだ。それは受け入れないといけない」
「分かってますよ。でも,悔しいじゃないですか」
 平井はさらに食って掛かる。
「平井ちゃん」
 享野が言った。
「気持ちは分かるわ。俺も負けるのめっちゃ嫌いやしな。でもなあ,もうこれからなんぼ頑張ってもどうにもならんから」
「分かってないでしょ。この中にいる人誰も悔しそうな顔してないじゃないですか。あそこの二人なんて,さっきまで笑ってたんですよ。負けたのに。信じられないですよ」
「平井」
 殿井が普段より二割方小さな声で言った。
「正直,俺はお前ほど悔しいという気持ちを持っていないのかも知れない。堀さんは全力で頑張ったし,俺も普段の自分からはとても信じられないくらいここまで走ってきたと思っている。燃え尽きたっていう言い方はしたくはないが,そうなのかも知れない。それに」
 殿井が一呼吸置いた。
「勝ち負けということに対しては,正直言ってそれほどこだわってなかったのかも知れない。こうやってみんなで一緒に戦って,それで満足してしまっているのかも知れない。勝つ,ということに対してイメージがなかったし,こだわりが足りなかったのかも知れない。選対責任者の俺がこんなざまだから負けたんだ,と言われたら返す言葉がない」
 殿井は平井に頭を下げた。
「すまなかった」
「やめてください」
 平井は叫んだ。
「そうやって,堀さんのことの全てが自分の責任だっていう,その言い方はやめてください」
 殿井は平井を黙って見た。
 平井は相変わらず,真っ赤な顔をして殿井を睨みつけていた。

 当選者の決定は,開票率が殆ど100%になった午前0時過ぎだった。
 勝ったのは,宮田だった。
 鈴木は敗れたが,惜敗率によって比例代表制での復活当選を果たした。

 選挙のほとぼりが冷めた頃,堀の事務所に秘書らしき若い男を二人従えた40前の男性が現れた。
 民政党代議士・鈴木大助だった。
 彼は堀に,ある提案を持ってきた。

「あんたのせいで,宮田さんを落とし損ねたじゃないか」
 開口一番,鈴木はそう言って笑った。
「私と貴方との政策の差はそれほど大きくはなかった。もしも貴方が出ていなかったら,貴方が得た票の多くは私に入っていたはずで,そうすれば宮田さんは惨敗して比例での復活当選もできなかったはずだから」
 堀は鈴木の真意を測りかねて,黙ったままでいた。
「いや失礼。冗談です」
 鈴木は真面目な顔になった。
「ただ,私と貴方との政策の差が大きくない,というのは本当だと思う。勿論完全に一緒ではないし,だから貴方は自分で無所属で出たんだろうけどね。ただ」
 鈴木は出されたお茶で口を潤した。
「ご存知の通り,今二大政党制の中にあっては,多少の政策主張の差はあっても,それに目をつぶって大きな勢力を作ること,そして政権交代を達成することによってそれらを現実的に実現していくことが必要なんだ」
 堀はまだ黙っている。
 鈴木は大きな目をさらに大きく見開いて堀を見つめて言った。
「堀さん,うちの党に入らないか」
 へ?
 堀は,普段は決して言わないような,あまり上品とは言えない頓狂な声をあげた。

「衆議院はしばらくないと思うし,参議院ならばあなたが30歳になるまで待たないといけないが,うちとしてはなるべく早く堀さんを立てて国政選挙を戦いたいと思っている。無党派は堀さんを求めている。100%勝てる」
 鈴木の顔は,自信に満ちている。
 堀は気圧されて,何も言えないでいた。

 いい返事を待っていますよ。
 鈴木はそう言って帰って行った。

 その日の夕方だった。
 貫禄と恰幅のある老人が,1人で堀の事務所に現れた。
 この男が1人でいる姿を見る機会は,堀自身も,そしてほぼ全ての日本国民にとってもそれほど多くはないだろう。
 民自党の大物代議士であり,今回堀の前に立ちはだかった男,宮田昇だった。
 宮田もまた,堀にとって意外すぎる提案を持ってきたのである。

 私の秘書にならないか。
 宮田はいきなり,そう切り出した。
「今回選挙を戦って,私は初めて,本当に負けるのではないかと思った。正直,鈴木に負けるとは絶対に思わなかった。ただ,堀さん,あんたが怖かった」
 宮田の目は真剣だった。
「あんたには荒削りなパワーと,若さと,情熱と,そして何か得体の知れない力があるように見えた。それはかつて私が持っていたもので,今は失ってしまったものかも知れない。あるいは,私が持ちたくても持ち得ないものなのかも知れない」
 彼はさらに続ける。
「ただ,堀さん,年寄りが説教をたれるようで申し訳ないが,貴方にはまだ経験も,勉強も,全てが足りない。若すぎる。私が貴方に勝ったのは,それだけの差だ」
 さっきまでと比べ,穏やかで優しい口調に変わった。
「だから堀さん,私の元で修業をしないか。政治の勉強を本気で,本格的にやってみないか。勿論,我が党の主張は貴方の主張とは違うかも知れない。その違いに耐えられないと思えば,いつでも出て独立してもらっていい。民政に行ったって構わんさ。ただ私は,貴方という人材を,政治の世界で生かさなければならないと思っている。それは日本のためだ。政治的な立場の違いはこの際どうだっていい。貴方はどう思っているか分からないが,どこの党にいても,政治の世界に身を置く以上,私も含めて皆この日本を愛し,大切に思っている。それは信じてもらいたい」
 彼の口調は熱を帯び,どんどん早口になっていった。

 すぐには結論が出ないだろう。
 もしもその気になったのなら,いつでも連絡をいただきたい。
 彼は最後にそう言って,深々と頭を下げた。
 いつの間にか事務所の前に来ていたリムジンに乗り込んで,彼は去った。

 次の金曜日の夜,急遽聖人同盟の緊急オフ会が開かれた。
「とりあえず宮田は怪しいな。堀ちゃんが可愛いから,秘書という名の愛人にしようとしとるんや」
 既にほろ酔い加減にある享野が,確信に満ちた口調で言った。
「それはないと思うけど」
 堀は苦笑いをした。事実,彼女自身,宮田からそのような雰囲気は感じていなかった。
「いや,怪しいで。いかにもやらしそうな顔しとるしな。政治家の女性スキャンダルとかめっちゃ多いやないか。宮田はやめた方がええで。その日のうちにやられるで。なあ,平井ちゃん」
「何で僕なんですか」
 いきなり話を振られて,平井は少々狼狽した。
「いや,やられるとかやられないとか,そういうのは分かんないですけどね」
 平井は下を向いて,少々小さめの声で言った。
「僕も,その秘書ってのは嫌ですね。大体,民自党が,まあ民政党もそうなんですけど,今の政党や政治に我慢ができないから堀さんが立候補したんじゃないですか。それをスカウト,なんですかね。しにくるっていうのが,何となく嫌らしさを感じるって言うか,取り込もうとしようとする魂胆が見えて,それが嫌ですね」
 平井は普段のオフ会より2割増くらいの饒舌で,一気にまくし立てた。
「でも,現実考えたら,本当に政治家になるんならですよ,宮田はともかく,鈴木の言ってきた話は悪くないと思うんだけどなあ」
 毛利が言った。
「でも,宮田の言うことも一理あるとは思いますよ。やっぱり今政治家で偉い連中って,秘書とかそういうところから叩き上げてきたところがあるじゃないですか。何も分からないまま手探りでやるより,少しでも勉強してから次を狙った方がいいような気がするんですけどねえ」
 日田が反駁した。
「そうかあ」
 享野が疑問の声をあげた。
「今の政治家って結構二世多いやん。まあ親父が政治家やったら自然にいろんなこと頭に入って分かるようになるのかも知れへんけど,別にそこまで遠回りせんでもええと思うけどなあ」
「僕は次また出るべきだと思うけどなあ。せっかくのチャンスじゃないですか。別に民政じゃなくってもさ,供託金返ってくるんだから,また無所属の聖人同盟代表で出てもいいんだし」
「せやなあ,大臣や党幹部みたいな大物さえおらんかったら,今回あれだけ名前売ったんやから,鉄を熱いうちに打っとけば次はいけるかも知れへんしなあ」
「少なくとも,宮田のところには行って欲しくない」
「異議なし」
 日田はまだ若干不満そうな顔をしていたが,衆議は決したようだった。
 ただ,まだ1人意見を言っていない人間がいた。
「おい,選対本部長。あんたの意見はどないやねん」
 殿井は,何も言わなかった。

 オフ会は一旦お開きになった。
 堀はみんなと別れた後で,殿井の後を追って,呼び止めた。
 二人は,例の喫茶店に入った。 

 

#26 夢のつづき(1)

 喫茶店に入ってから数刻,殿井と堀は言葉を交わすこともなく,ただ黙っていた。
「どうしよう」
 最初に切り出したのは,堀だった。
 殿井は黙っている。
「何か言ったらどうなんですか」
 少々苛立ったように,堀は言った。
「あんたがどうするか,というのはあんたが決めることだ。本来なら誰にも相談する必要などなかった。自分のことは自分で決めればいい。それが大人というものだ」
 殿井が,この日初めて言葉を発した。
「どうしてそうやって突き放すかなあ」
 堀は頬を膨らませた。
「だから結婚できないんだ,とでも言う気だろう。言いたければ言えばいい」
 殿井は堀と目を合わせることもせず,横を向いていた。
「じゃあいいです。私,宮田さんの秘書になります」
 殿井は一瞬,傍目で見てもそれと分かるほどびくりと身体を震わせた。
「冗談です」
 堀は平板な口調で言った後,意地悪な微笑を浮かべた。

「あんたには政治家になるという夢があるんだろう。だから,それに忠実であるべきだ」
 殿井は初めて,意見らしい意見を言った。
「選択肢はありすぎるほどある。民政から出てもいいし,供託金が返ってくるんだから,再チャレンジしたっていい。あんたが本気で考えるならば,宮田のところで修業したってそれは悪すぎる選択ではないかも知れない」
「本当はね,…もう断っちゃったんですよ,あの二人の話」
 殿井は,怪訝な顔で堀を見た。
「何故それを先に言わない。…じゃあ,また無所属で出るんだな」
「私,もう300万は使う気はないんです」
 堀は言った。
「私は聖人同盟にいたお陰で,当選こそできなかったけれど,政治家になるという夢に挑戦するチャンスをもらえたと思っています。感謝しています。だから,次は私じゃなくて,私以外の別の人の夢のために,この300万は使って欲しいんです」
「じゃあ,政治は諦めるのか」
「諦めません。でも別に,今すぐじゃなくてもいいと思ってます。宮田さんに言われたことは,確かに正しいと思うんです。私はまだまだ勉強が足りないし,気持ちだけで突っ走ってきたような気がします。これから弁護士の仕事を一生懸命して,勉強もして,自分で政治家としてやっていける自信がついたら,その時は自力でやってみるつもりです」
 堀はきっぱりと言い切った。
「その時はまた,選対責任者をお願いしますね」
 堀は目配せをした。
 殿井は,苦笑いをして言った。
「本当は,もう二度とやりたくないんだがな,あんなきつい仕事は」

「殿井さんは夢はないんですか」 
 堀は言った。
「夢?」
 いきなり言われ,殿井は一瞬,何も考えられなくなり,言葉が出なかった。
 しばらく考えて,彼は言った。
「とりあえず,皆に読んでもらえるような小説家になることかなあ」
 殿井は腕組みをした。
「しかしそれは別に300万は関係ないからなあ。要るのは紙と鉛筆だけで,あとは俺の能力次第だからな」
「他には?」
 殿井は暫く言葉を発するのを躊躇した。
「あとは…可能ならば,信頼できるパートナーを見つけて,真っ当な家庭を築くことかな」
 その種のことを言う時にいつもする癖のように,彼はぼそぼそ声になって,下を向いた。
「しかしそれも,別に300万は関係ないだろう。それ以前の問題だしな」
「え?でも,それこそお金が必要な夢なんじゃないんですか。殿井さん,貯金あるんですか」
「ある訳ないじゃないか,売れない物書き稼業で」
 堀は首を傾げ気味にしながら,殿井の目を見た。
「私も貯金,ないですよ」

 堀の真意を悟った殿井は,不機嫌な顔になった。
「あんたねえ」
「何ですか」
「…その,なんつうか,そういうことを女の方から言うもんじゃないんだよ。それは男に対して失礼っつうか,侮辱ですらある」
「あ,そういうこと言うかなあ。殿井さんが根性なしでなかなか言わないからこっちから恥ずかしいの我慢して言ったのに。言わせよう,言わせようと思って一生懸命振っても,ちっとも応えてくれなかったくせに」
「分かった,分かりました」
「はい,どうぞ,殿井さん」
「私と,結婚してください。お願いします!」
 そう叫んでしまった後で,真っ赤な顔をして,ああかっこ悪,と呟いた。
 堀は,声をあげて笑った。
 目尻には,笑った所為とも感極まった所為ともつかない,奇妙な涙が光っていた。

 殿井と堀の結婚式は,可及的速やかに行われた。
 招待されたのは聖人同盟の4人だけ。小さな街の教会での挙式と,招待客わずか4人の結婚パーティーだけの,地味に過ぎる結婚式だった。
「殿井さんと堀さんて,付き合ってたんですか」
 毛利が訊いた。
「別にそういう関係やなかったけどな。でも,おっさんが堀ちゃんにべた惚れなのは見とってバレバレやったからな」
「でも殿井さんはそういうことは」
「言うわけないがな。でも途中から見とって,堀ちゃんも結構その気っぽかったから,俺と浅見さんとでメールで連絡取り合いながら,一生懸命二人を焚きつけたんや。選挙でおっさんが選対責任者やったのも,そうするように俺らで差し向けたからやで。結局まあ最終的にはそれが縁でこうなった訳やな」
「浅見さんが糸を引いていたのか…そういうことしそうな人には見えなかったけどなあ」
「いや,それがおかしいんや。すごい大人しい文章で打ってくるかと思えば,同じ人間が打ったとは思えへんような…何て言うか,時々めっちゃ強気な書き方してくる時があんねん。二重人格ちゃうんか,あの娘は」 
「でも,そういう人じゃないと,300万出して選挙出ろなんて,そんな無茶苦茶なことはしないでしょう」
「それもそやな」

「大丈夫か,平井君」
 黙々と目の前のコース料理を消費する手を休め,日田は隣の平井に声をかけた。
「放っておいてください」
「放っておくも何も,そんな滅茶苦茶な飲み方をしたら身体に障るぞ。大体あんた,未成年だろう」
「日田さんは大学出てるんでしょう」
「出てるけど,それがどうかしたのか?」
「大学出てるんなら,少なくとも19の時から酒は飲んでいるはずです。だから貴方には僕を非難する資格はありません」
「まあそらあそうだけどさあ」
 掛ける言葉を失った日田の横で,ビールとウィスキーとワインをチャンポンで飲んでいる平井。
「平井ちゃん!!」
 やたらにでかい声で,殆ど耳元に近いポジションで叫んだのは,享野だった。

「全く,余計なことをしてくれるよなあ」
 平井はビールを一気に飲み干して,そう享野にぼやいた。
「俺だって堀さんに惚れてたんですよ。それはあんただって分かってたはずだろう」
「まあな」
「悪いと思わないんですか」
「思わへんな」
「何でですか」
「あの二人は俺らが何もしなくても,遅かれ早かれくっついとったわ。あんたがそれを引っ繰り返そうと思うとったんやったら,もっと努力せなあかんかった。それをせんかったのは,あんたが悪い。それを俺らのせいにするのは,甘えやな」
 平井は何も言い返せず,下を向いた。拳を握って,目をぎゅっとつぶっている。
「平井ちゃん,あんたいくつや」
「17ですよ」
「あんたなあ」
 享野が笑った。
「…まあな,あんたの年齢(とし)やったら,ああいう年上のな,きれ〜なな,お姉さんに憧れるかも知れへんな。それは分かる。俺かてそやったわ。でもな,考えてみ。10歳ちゃうんやで。あんたが25の時,向こうは35やで。自分よりすっごいスピードで,向こうは歳食っておばはんになっていくんやで」
「堀さんだったら,35だろうが45だろうが愛せます」
「若いのう」
 ほっほっ,とは笑わなかったが,そんな声を出しそうな顔で享野は微笑んだ。
「でもな,あんたはまだ他にいろんな女との出会いが待っているはずやねん。まだろくすっぽ女と付き合うたことあれへんやろ。あんたはまだまだこれからや。1人に決めてしまうには早すぎる。まだまだいっぱいチャンスあるやろうからな。あのおっさんはあれが最後のチャンスやねん。あれを逃したらほんまに生涯結婚できへんかも知れん。それこそ男に走って」
 次の瞬間,享野は新郎に後ろから平手で突っ込みを入れられた。

 三次会と称して,享野と平井は居酒屋で飲んだ。
「そういや,平井ちゃんも童貞やんなあ。ええ店教えたるさかい,オトナになって来(き)いや。そうしたら,全部忘れられるで」
「そんなの要りません。好きでもない人として,何が面白いんですか」
 平井は即答で退けた。
「頑固やなあ。おっさんにそっくりや。あれみたいに40前まで童貞でもええんか」
「いいです。て言うか,堀さんと結婚できたんだから,人生代わりたいくらいです」
 享野は笑った。
「いやなあ,まあええけどな,でもあれはあれで,結構辛い思うで。今まで相当辛抱してきたと思う。その意味では,尊敬に値するかも知れんな。今回結婚できたのは,そのご褒美と言えんこともないかな」
「そういうことにしといてください。そうじゃないと,俺が辛すぎるから」
 平井はここに来て,初めて笑みを浮かべた。勿論,寂しい笑みだった。

「平井ちゃんなあ,夢とかないんか」
 享野が訊ねた。
「僕の夢は,堀さんと一緒になることでした。もう叶いませんけど」
「あのなあ」
 享野が,心底呆れた顔をして言った。
「そんなんやなくてやな,将来俺はこんなにビッグになったんぞ,とかなあ,そういう夢はないんか」
「そうだなあ…」
 少し考えて,平井は言った。
「堀さんのところで法律の仕事手伝ってるじゃないですか。そうしたら,法律家って言うんですか,そういうのやってみたいなあって,そんなのはありましたけどね」
「弁護士かあ…司法試験やろ,難しいぞ。ちょっとやそっとじゃ受からん。…でも,あれ学歴関係ないからな。高校中退でも試験さえ受かればなれるから,案外ええかもな」
「享野さんはどうなんですか」
 平井が訊き返した。
「俺か?」
 享野も少し考えた。
「俺は別に金も要らないし,特にこれと言ってやりたいこともないしなあ。俺の方こそ夢のない人間なのかも知れんなあ」
「先生とか,いいんじゃないですか」
「はあ?」
 享野は間抜けな声を出した。意外過ぎる提案だった。

「あのなあ自分,どっから出てくんねん,そんな発想が。漫才師とかお笑いとか,そんなんやったら分かるけどなあ,こんな先生がどこの世界におんねん。俺なんて不真面目やし,勉強なんて大嫌いやし,何より頭悪いで」
「そんなことないでしょう。聞きましたよ。享野さんは一流大学の理工学部を出て,コンピュータはプロだって。数学や物理なら教えられるはずですよ。何より」
 平井はさらに声のボリュームを上げて言った。
「こんな僕みたいな奴にずっと付き合ってくれて,愚痴聞いてくれて,相談にも乗ってくれて,ってそんな人はなかなかいないし,そういう人こそ先生に向いてると俺は思うんですよ。俺は高校時代,なぜか突然みんなから無視されたり殴られたりするようになって,それで俺の味方になってくれる人なんて,学校に1人もいなかった。先生もみんな,見て見ぬふりして誰も助けてくれなかった。俺,本当に学校が,先生が,信じられなくなった。法律の仕事するために高校やめたって,あんなの嘘。本当は,あんな学校に1秒だっていたくなかった。だからやめたんだ」
 平井は一気にまくし立て,コップの3分の1くらい残っていたビールを飲み干した。
「でも,享野さんみたいな先生がいたら,俺,学校やめなかったと思うんです。だから,俺みたいな奴のために,本当にいい先生になって欲しいって」
「見込まれたなあ。でもなあ,俺,その気ないねん。ごめんなあ」
 平井の演説を遮るように享野は言った。
 その後,二人とも言葉を発することなく,三次会は終わった。

 

#27 夢のつづき(2)

「そうですか…」
 浅見は静かに,呟くように言った。
 堀(※)は浅見の部屋で,彼女と会っていた。
 次の選挙に,聖人同盟からは立候補しないこと。
 他党からも立候補や入党の要請があったが,断わったこと。
 しばらくは自分で政治の勉強を続けていきたいという意思。
 それらを堀は,浅見に伝えた。

「では,政治への夢はしばらくは封印するのですか?」
 浅見は言った。
 堀は,それは結婚のために夢を犠牲にするのか,という意味に取った。
 やはり貴方も,自分の夢よりも女性としての幸せ,普通に家庭を築いていく方を選択するのですか,と言われているようだった。
 それは堀の本意ではなかったし,そう思われるのは若干腹立たしかった。
「そういう意味ではありません」
 堀はやや強い口調で言った。
「ごめんなさい」
 浅見は全てを察し,詫びた。
 しかし堀はそれさえも,浅見が自分の気持ちの全てを見透かした上での言葉として,若干の薄気味悪さを感じていた。
 浅見はそれを堀の表情から感じた。
 もう,これ以上喋らない方がいい。
 浅見はそう思い,お茶でも飲みましょう,ケーキもありますから,と言って奥へ引っ込んだ。

 堀は若干ナーバスになっていた。
 選挙戦という激闘を終え,燃え尽きたような状態になっていた。
 政治は進む。当然ながら,堀の意思とは関係のないところで。
 政治は,日本は,日々進んでいく。
 その方向は,選挙前,堀が不満を感じ,立候補を決意した時とまるっきり変わってはいなかった。
 まるであの選挙なんて,なかったかのように。
 自分が出た意味は,何だったのだろう。
 自分が叫んだことは,結局何にもならなかったのだろうか。
 自分がすぐ次の選挙に出馬せず,おめおめと身を引いたことは,間違っていたのだろうか。

 ただ堀は,選挙戦を通じて,そして,実際に政治家―宮田や鈴木と会って話をして,その大きさ,いや,物理的な背の高さとか恰幅とかそういうことではなく,そのスケールというか存在感というか,そういったものに圧倒され,自分自身との差を痛感した。
 負けたのはたかだか数百票の差だった。
 しかしそれは,選挙というある種人気投票のような仕組みの中で,目新しさや物珍しさ,そしてタレント的な人気から票を集めることができたに過ぎない。
 自分の政策を支持し,自分を心から政界に送り出して政治をやってもらいたい,そう思って自分に投票してくれた人がどれだけいただろうか。
 そう考えると,堀にとって政界に出て行くことは夢であり,逆にあくまでも夢でしかなかったのだ,と思った。少なくとも,宮田や鈴木には,この後何回突っかかって行っても簡単に跳ね返されてしまうように思われた。
 よしんば今参院選に出て行って運良く当選し,国会議員の座を手にしたとして,今の自分に何ができるだろうか。
 自分は法律については人並み以上の勉強をしてきた自負がある。
 しかし,それだけだ。
 自分の思いを立法に託し,法律として成立させて世の中を良くしていく。
 それができないのなら,国会議員になる意味はない。
 しかし,今の自分にそこまでの仕事をする姿を想像できなかった。
 信念だけでは通用しない。
 数,力―
 そういう現実が,厳然として存在する。
 宮田も鈴木も,そういった現実を乗り越えてきた政治家なのだ。
 それを想像すると,気が遠くなりそうだった。

 家に帰ってきた堀を,殿井が迎えた。
 この家では,弁護士として仕事をして食い扶持を稼ぐのは堀の役目で,殿井は主夫として家事をやりながら,いつか芽の出る日を夢見て,空いた時間でしこしこと小説を書いていた。
 選挙が終わってから,結婚など諸々のことがあったため,事務所は実質休業状態だった。
 供託金は聖人同盟に返してしまった上,結婚の費用も自分たちのなけなしの貯金でやったため,生活に余裕はなかった。
 早く仕事を再開しなければ,生活ができなくなる。
 頭では分かっているのに,今の堀は何もできないでいた。
 夫である殿井は,何も言わない。
 ごめんなさい。
 そう言えれば,どんなに楽だったろう。
 しかし,それを彼に言えば,不機嫌になることを知っていた。
 妻に稼がせている,という男としての負い目が,やや古い型の人間である殿井にある,ということもある。
 しかし,それよりもむしろ,一緒に戦ってきた彼が,堀の気持ちを痛いほど分かっている,ということがそうさせるのだ。
 だからこそ,何も言わない。
 叱咤も激励もしなければ,慰めもしない。
 ただ,疲れてしまったままで立ち上がることのできない堀のために,毎日ごはんを作り,掃除をし,洗濯をする。
 いつもと同じ二人の風景を,夫が準備して待っている。

 その夜は,一つだけ違っていたことがあった。
 堀がぼんやりと政治の番組を見ている時,殿井はずかずかと歩み寄ってきて,スイッチを切ってしまった。
 寝るぞ。
 そう言って布団に彼女を寝かせると,自分もその中に入った。
 ぎこちない手つきで,夫は妻の肩を抱いた。
 堀は,今までの心細さが一気に爆発したように,夫の胸の中で泣いた。
 泣くだけ泣いてしまってから,そのまま眠ってしまった。
 殿井は彼女の頬を伝う涙の跡を指で拭って,そのままの格好で眠った。
 翌日,約2ヶ月ぶりに,堀の事務所は再開した。

「どうしよう」
 か細い,透き通るような女の声がする。
「今,彼らは自分の夢,信念がどこにあるのかを見失ってしまっていて,日常の中に埋没してしまおうとしているようです」
「まさか『彼女』が落選するとは予想外だったなあ」
 もう一つ声が聞こえる。先ほどの声よりは少しよく通る,若干鼻にかかった女の声だ。
「『彼女』が当選すれば,それを突破口にして次々と私たちが見込んだ『信念の人々』が表舞台に出て行く,そこから世の中は変わる」
「そう思っていたんだけどなあ」
 まるでハモるように,二人は同時に言った。
「政治という舞台を使うのは現実的じゃないのかな」
 鼻にかかった声が言った。
「『彼女』が立ち直り,再びその気になるのを待つしかないでしょう。ただ,それにはまだ相当時間がかかりそうです」
「あまり時間が経ち過ぎると商品価値がなくなってしまう…すぐ参院選に行けば良かったと思うんだけど」
「この間会ったんだけど…無理でしょう。相当堪えていた,というか,疲れたように見えたから」
「『彼女』の亭主はどうなのさ」
「『彼女』をサポートしながら自分の夢を追っています―作家としての夢をね」
「そっち方面かあ…やっぱりな」
 鼻にかかった声が笑った。自嘲気味に聞こえた。
「他の連中は」
「無理でしょう。『政治家は嫌いだ』と公言するのもいますし,何より『彼女』が落選してしまったので,皆『自分には無理だ』と思い込んでしまっているようだから」
 透き通る声が言った。溜息を一つついた。
「彼らにはもっと別の舞台を用意してやらないといけないのかな」
「何を?」
「…まだ考えてないんだなあ,これが」
「…いつも行き当たりばったりなんですね。見込まれた6人がラッキーなんだか気の毒なんだか,分かりゃしない」
 鼻にかかる声が何かを言い返したが,そこまでで二人の声は聞こえなくなった。

 平井はいつものように,司法試験予備校の自習室から,警備員に追い立てられるようにして出てきた。
 彼は本格的に司法試験の勉強を始めた。
 堀の事務所での仕事も続けていたが,選挙後に堀と相談をして受験の意思を伝え,仕事の時間を減らすことにした。そして仕事の後で予備校に行って授業を受け,授業が終わると自習室にこもり,閉まるぎりぎりまで勉強をする。
 ただ,合格までの道程があまりにも遠いことを彼は漠然と自覚していた。
 自分が働いて稼いだお金だけでは,受験のための資金にはとても足りなかった。
 両親の反対を押し切って高校を中退して今の道を選んだ以上,親に援助を頼むことも難しかった。
 何も考えずに走り出してしまったけれど,この先どうしたらいいんだろう。
 平井は,自習室で勉強しながらも,漠然とした不安の中で,迷いを感じ始めていた。

「平井さん」
 ある日,例によって自習室から夜遅く家路につく平井を,若い女の声が呼び止めた。
「堀さん」
 平井は思わず叫んだ。
 そこには,紛れもなく,堀が立っていた。
 しかし,そこに堀がいるはずがなかった。
 彼女は多忙な仕事をぼちぼち終えて,旦那の待つ家に戻っているはずだからだ。
 目の前の女は,くすりと笑った。
「そう思った?」
 言いながら彼女は,1枚の名刺を差し出した。

 渡された名刺の名前を見て,平井は目を疑った。
 浅見 零。
 そこには,そう記されていた。
「浅見さん?まさか,そんな」
 それもそのはずである。平井は以前,実物の浅見を見たことがある。その時に見た彼女は,今目の前に立っている女とは似ても似つかない,か細くて気の弱そうな,透き通るような声と肌をしたお嬢さんのような女だったからだ。
「本当のことを教えてあげようか。平井さんだけに」
 半信半疑の平井を連れて,浅見と名乗る,堀そっくりの女は近くの喫茶店に入った。

 「浅見 零」は二人いる。
 その話を聞いて,平井は卒倒しそうになった。
「私の本名は宇田 玲。もう一人―あなたたちが選挙前に顔を合わせた『浅見 零』は,本名が矢野 麻美。二人合わせて『浅見 零』。どこかの漫画家みたいでしょう」
 そう言って「宇田 玲」は,例の鼻にかかった声でけらけらと笑った。
 平井は笑えなかった。何となく,バカにされているような気がした。
「あら,うけなかった?ごめんなさい」
「帰ります」
 平井は立ち上がろうとした。
「まあまあ」
 宇田は少々困った顔をして,平井の両肩に手を置いて止めた。
「そんなにつんつんしないの」
 宇田はそう言って,おでこがつくくらいに顔を近づけて平井の目を見た。
 平井は少々動揺した。堀その人ではないことが分かっていても,大好きだった女性と同じ顔が至近距離にあるのだから,それは無理からぬことだったかも知れない。
「顔が赤いよ」
 宇田が言った。
 平井は何も言い返せず,黙っていた。
「そんなに好きだったんだ,彼女のこと」
 平井はやはり黙っている。
 宇田はふふと笑った。
「ねえ」
 次の瞬間,さっきとは打って変わって真剣な表情になって,彼女は言った。
「堀さんの夢,継ぐ気ない?」

 小1時間ほど経ってから,二人は店を出た。
 最後に平井は宇田に尋ねた。
「政治って,難しいんじゃないんですか?」
 数秒ほど二人は動くことも言葉を継ぐこともせず,黙っていた。
「―難しいよ。…でも,案外単純だから」
 宇田は悪戯っぽい笑みを浮かべて,そう応えた。

 平井は堀の事務所を辞めた。
 風の噂で,彼がどこかの政治家の秘書見習になった,という話が伝わってきた。
 それ以上のことは,他の聖人同盟メンバー5人にも知らされなかった。
 そして,「浅見 零」の片割れ,矢野 麻美にさえも。
「ねえ,平井さんは今どこにいるんですか?5人が心配していますよ」
「今は言えないわ。心配は要りません。そう伝えておいてください」
 宇田はそう言って,いつもするように悪戯っぽい微笑を浮かべた。

(※)堀は結婚後姓が変わりましたが,便宜上旧姓で表記します。

 

#28 夢のつづき(3)

「ふう」
 無精ひげ面のその男は,汗を拭いながら一息ついた。
 ここへ来てから,もうどのくらい経ったのだろうか。
 10年くらい経ったような気もするし,3日くらいしか経っていないような気もする。
 とにかく,無我夢中でやってきた。

 最初は何も持たず,何も知らずにやってきた。
「浅見 零」の紹介で引き合わされたのは,同様に都会から帰農したという,50絡みの男だった。
 その男は,かつては食品業界に勤めていたという。
 しかし,職業柄「食」ということと密接に関わっているが故,食の安全性についての関心は人一倍高くなり,職業柄様々な情報に触れる機会が多いという状況故,不安も人一倍高くなった。
 このまま何も考えず,与えられるものを食べ続けたら,死んでしまうのではなかろうか。
 それが帰農のきっかけだった,と彼は言った。

 彼と話した若い都会から来た男―日田一誠は,その話と,自分が今の思いがシンクロするのを感じていた。
「今はこういった試みは,個人的でごく少数の有志がやっているに過ぎない。ただ,今後を考えると,自分で食べるものを自分で賄う,それが最も安心・安全なのだという考えは広がっていくと思う」
 50男は日田を見た。
「恐らくあんたは,今まで本当に美味いものを食べていないと思う。そりゃあいい店に行けばそれなりに美味いとされているもの,は食べることができるだろう。本当にいい材料を使っていれば,それは本当に美味い料理になる。材料が悪ければ,いくら調味料で誤魔化したところで,本当にいい料理はできはしないさ」
 日田は,かつて食べ本当に美味いと唯一感じた,「本物のステーキ」を思い出した。

「ちょうどいい具合に昼飯の時間になったな。食べてみるといい」
 50男の妻と思しき女性が,お盆を持ってやってきた。
 米飯と,味噌汁。
 これだけか?
 日田は少し怪訝な顔をした。
 50男はそれを見透かしたのか,ふふと笑みをこぼした。
「まあ食ってみろ」
「はあ…いただきます」
 少々気乗りしなさそうな風で,日田は箸と茶碗を持った。
 しかし日田は,茶碗に盛られた白飯を見て,目を見張った。
 今までの人生で嫌と言うほど見てきた白飯とはまるっきり違う。
 何と言うか,透明感のある米が,滑らかに輝いているように見えた。
 一口食べてみた。
「…」
「どうだね」
 言葉を失った日田に,50男がにやにや笑いながら尋ねた。
「…今までこんな飯は食べたことがありません…何と言うか…甘味があって…これだけでおかずなしでいくらでも食べられるような…素晴らしい米ですね…」
「はは,浅見さんの言った通りだな。伊達にグルメを自称しちゃいないね。まあ白飯ばかり食ってるのも何だから,忘れんように味噌汁も食べてみてくれ」

 味噌汁と言うのは普通「飲むもの」だと思っていた。テレビで「食べる味噌汁」を推奨するCMを見たことがあるが,自宅で過ごしていた時分から今に至るまで「食べる」と称するような味噌汁は実際には食べたことがない。
 しかし,今目の前にあるのは,紛れもなく「食べる」味噌汁だった。
 少々無造作なほどに詰め込まれた,野菜,豆腐,豚肉,魚…味噌汁と言うより,小さな土手鍋のようですらあった。
 そしてその一つ一つが,日田をいちいち驚かせるのに十分なものだった。
 野菜の切れの良さ,豆腐のしっかりした形と味わい。とろけるような豚肉。身の締まった魚。味噌の素晴らしさも相まって,他のどんな調味料を使っても出せない味がそこにあった。
 日田は夢中で貪り食った。
 飯と味噌汁をそれぞれ3杯ずつお代わりした。
「ここで,やってみるか?」
 日田は迷いなくうなずいた。

 50男―いやさ,田辺平蔵は,そのあたりで比較的大きな農場を持っていた。
 皆時折笑顔を見せながら,真剣に作業に取り組んでいた。
 農場は20代から50代までの男女10人ちょっとが働いていて,彼らは田辺のことを「教授」と呼んでいた。
「別に俺が呼べと言った訳じゃない。昔いた奴が勝手にあだ名をつけたんだ」
 田辺はそう言って恥ずかしそうに下を向いた。
「そいつも今はここにはいない。実家に帰って農業をやっている。毎年ふざけた年賀状をよこすからまあ飢えて死んではいないようだな」
 そう言って愉快そうに笑った。

 最初は試行錯誤の連続だった。
 よく「教授」に叱られたが,彼の指摘する部分は的を得ていて,また憎めない上手な叱り方だったのでストレスにはならなかったし,何より美味い米,美味いものを作れるようになりたかったから,とにかく彼のどんな指摘も全て吸収してやりたい,という強い思いがあった。
「あんたは上達が早いなあ。こんな奴は初めてだぞ」
 3ヵ月後,めっきり叱られることの少なくなった日田に,教授がそう言った。
 彼は心からそれを嬉しく思った。
 その直後,他の実習生から,教授は誰にでもそう言うのだ,ということを教えられるまでは。

 教授が褒めたのは,今にして思えばその1回きりだった。
 教授が褒めるのは,「これでお前はもう一人前なんだから,そう扱うぞ」というサインなのだ。
 だから,いくら上手にやっても,「お前ならばこれくらいやって当然だ」ということになり,決して褒められることはない。
 逆に,基本的なこと―農場の整地だの水の管理だの施肥だの,そういったことがきちんとできていなかったら,こっぴどく怒られた。
「これはお前が食うものなのに,こんないい加減なことをやっていたら,お前は食うものができなくて飢えて死んでしまうぞ。そして今後,お前の作ったものをお客様に食べさせることになった時にこんなことをやっていたら,お客様に大変な迷惑がかかる。それをわきまえろ」
 教授はそう言って,涙を流しながら怒鳴りつけた。
 日田も泣いた。
 悔しいからではなかった。
 嬉しいからでもなかった。
 何となく,教授の涙が伝染ったように,涙が流れた。 

 教授は時々,日田ら実習生を集めて,酒を飲んだ。
「酒も自家製ですか」
 見たことのない銘柄のラベルが貼ってある酒瓶を見ながら,日田が言った。
「そうだ。俺は酒造免許を持っている。自分で作った地酒も売っている。勿論合法だぞ。税金も納めている」
 そう言って大笑いをした。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「いやね,米とか野菜とかは分かるんですよ。でも最初いただいた味噌汁の中の豚肉と魚はどうしてるんですか。それがずっと気になっていて」
「何だ,そんなことか」
 教授は不意に立ち上がった。
「来てみい」
 半ば強引に,教授は日田を連れ出した。

 農場から丘を少し登ったところに,豚舎があった。
「こいつがまた大飯は食らうし水は飲むし,金ばかりかかってかなわんのだ」
 教授はそう言った後,すぐ隣とはるか向こうを指差して,
「あれが鶏舎であれが牛舎。昔は馬も鹿も飼っていたが,全然売れずに『馬鹿らしい』からやめたんだ。わっはっは」
 教授は一人で喋って一人で笑った。
「失礼」
 我に帰って照れた教授に,今度は日田が笑った。
「魚はもう少しこっちだ」
 案内されてやってきたのは,大きな水槽の中で泳ぐ魚たちだった。
「養殖の魚,というと海から獲って来る天然の魚より生きが悪くて安全性がどうなんだ,という話になるが,俺が育てた魚は決してそんなことはない。水に人一倍気を使っているから病気などにはならないし,餌も完全に管理している。まだまだ規模は小さいが,品質は天然物に負けない魚を育てているつもりだ」
 日田は,それは間違いない,と思った。あの味を,まだ舌が覚えているのだ。
「ただ,うちでやっているものはまだまだ規模が小さすぎる。これから様々な研究を重ねて,どこでも誰にでも,そしてより大きな規模でできるようにしていかないといけない。それは俺の個人的な力では無理だ。いろんなところと協力してやっているが,まだ時間はかかるよ」
 そう言ったところで,教授の携帯が鳴った。
「ああ,明日。見にね。いいよ」
 簡単な会話だけで,彼は電話を切った。
「大学の教授からだった。教授やら学生やら,研究機関の研究員やら大勢連れて話をしに来るそうだ。明日は俺は忙しいから,万事よろしく頼むよ」
 さっきまでほろ酔いだったはずの教授の顔は,いつものプロフェッショナルの顔に戻っていた。
 日田もすっかり酔いが覚めてしまって,神妙な顔で彼を見ていた。
「じゃあ帰るか。夜風に当たって酔いが覚めてしもうたわい」
 教授はにやりと笑って言った。

 あれから何年経っただろうか。
 日田は今でも,一日に一回は教授のことを思い出す。
 農作業をしていく中で,必ず教授に教わったことを思い出さなければならないこともあるのだ。
 それらの多くは既に身体が覚えていることだったが,時々その教えを「言葉で」思い出すことがある。
 そのたびに教授の怒った顔だの声だの,酒を飲んだ時の豪快な語り口だの大笑いだの,そういったことを思い出して,何となく胸が締め付けられるような気分になる。
 傍らでは,実習で知り合って結婚した妻が,ふうと言いながら額の汗を拭っている。
 その仕草は夫のそれにそっくりだった。
 結婚してからそうなった訳ではない。
 昔からずっとそうだった。
 それを教授に指摘されて笑われたことが,二人がお互いを意識するきっかけになったのだ。

 教授の農場を卒業してから,初めて二人で育てる作物。
 見にくるからな。
 教授は春先,電話でそう言っていた。
 それ以後,連絡はない。
 忙しい日々を過ごしているだろうか。
 身体を壊してはいないだろうか。
「何やってんの!」
 気の強い妻の一言で,日田はやっと我に返った。

 日田の新しい夢。
 それは,安全で安心で品質の良い,そして美味い,そんな食糧を自分の手で作り続けること。
 今は自分自身が美味いものを食べたいためにやっていることだ。
 しかし,教授の思い描くビジョンはもっと大きい。
 大きいとはいえ一個人の農場程度のレベルではダメで,全国に同じ志を持つ人たちのネットワークを広げ,より良い食糧をより安く,皆に食べてもらえるようにすること。
 つやつやと輝く米やしゃきしゃきした新鮮な野菜,そういったものがスタンダードになるように,というのが教授の願い。
 そこまで大それたことは,まだ日田には考えられなかった。
「しかしなあ,日田さん」
 教授はよく言っていた。
「日本の将来を考えると,それは夢だとか何だとか言って諦めてちゃダメで,絶対にやらなきゃならない,俺たちの義務なんだよ」
 9月上旬とはいえ,この山奥の村では日が暮れると,吹く風も秋の涼しさ,というより若干の肌寒ささえも感じられる。
 帰ってから,一汁一菜の食事を済ませ,風呂に入る。
 まだ新婚に近く子供のいない二人にとって,夫婦水入らずの幸せな時間だ。
 そんな気分をぶち壊すように,日田の携帯が鳴った。

「もしもし,日田ちゃんか。俺や,享野や」
 その声が,彼を一気に「あの時」に引き戻した。
「おお,享野さんか。懐かしいなあ。今何やってるんだ」
「ええと,まあ積もる話は後や。今度の土日暇か」
「俺には暇なんてないぜ。でも時間を作れと言われれば作れないことはない」
「聖人同盟のオフ会や。浅見も来るらしい」
 日田は享野の話し方に,尋常ならざる雰囲気を感じた。
「オフ会はいいが,何かあったのか。様子が変だぞ」
「今度話す。ええか,土日やぞ。絶対来いよ」
 それだけ言って,電話は切れた。
 日田はぽかんとして,しばらく携帯電話を握り締めたままだった。



#29 夢のつづき(4)


 
この店に入るのは,何年ぶりだろうか。
 日田は少々ドアを開けるのに臆していた。
 思えば,あの日からずっと田んぼと畑と,牛やら豚やらの家畜と,そういったものたちに囲まれて,背景がいつも緑色の中で生活していたので,このような場所に出てくることそのものに,場違いな違和感を感じていた。

「日田ちゃんか」
 聞き覚えのある声だった。
 そこにいたのは,享野。
 その横にはもう一人の女性が立っていた。
 浅見 零。
「入りましょう」
 彼女が言った。
 相変わらず静かな声だった。しかし,声は心なしか震えているようだった。

  日田は,変わったのは自分だけだと思っていた。
 しかし,自分がいない間に,聖人同盟の6人,いや「浅見 零」も含めた全ての面々にも,同じだけの時が流れ,それは当然のように彼ら一人一人の運命を弄んでいた。

 そこで聞かされたのは,日田にとって信じられない話ばかりだった。
 「浅見 零」は二人いて,そのうちの片割れ,ここにいない方の「宇田 玲」が平井を政治の道に導いたこと。
「最近まで私も…知らなかったんです」
 もう片割れの「矢野 麻美」が言った。
「玲さんは…この聖人同盟を使って『何か』をしようという野望をずっと持っていたようです。私も最初,その壮大な計画に興味を抱いて,彼女の話に乗りました。玲さんはコンピュータに関しては全く素人でしたから,チャットルームの作成などの作業は全て私がやりました。ただ,皆さん方6人を集めたのは彼女です。どこからどうやって選んだのかは私には分かりません。ただ,この6人の思い,信念,そういったものをもってすれば,『何か』ができるだろう,という確信を抱いていたようです。お金も彼女が全て工面しました」
「平井君は?」
 日田が尋ねた。
「居場所は…分かりません。ただ言えることは,そこに玲さんもいます」
「どういうことだ」
「玲さんは…近い将来選挙に立候補するつもりです。平井さんは恐らく,今彼女の手伝いをしています」
 日田は訳も分からず聞いていた。あまりにも,今の自分自身からかけ離れた話だった。

 集合時間から小1時間が経とうとしていた。
「他の人たちは来ないんですか?」
 日田が訊いた。
「来ないと思います」
 即答だった。
「殿井のおっさんは金山掘り当てたで」
 それまで黙っていた享野が,突然口を開いた。
「文芸誌の…芥川とか直木とかそんなんやなかったけど,そこそこ有名ななんとか文学賞を取ってな,仕事がちょいちょい来るようになった。それがまた売れてな,今は売れっ子作家や」
 まるで自分のことのように,自慢げに話した。
「そうそう,あのおっさんな,エッセイとか言うてくっだらない文章書いてんねんで。自分が童貞やったこととか,俺とかと一緒におった時の話とかな。せやからこないだ,印税半分よこせって言うたったんや。ほんまなら今日も来て,おっさんの全おごりで飲めるはずやってんけどな。忙しゅうて来れんとかぬかして逃げよった」
 享野が笑った。
「堀さんは?」
「弁護士の仕事があるし,おっさんが忙しゅうなったから暇作れへんみたいやな」
「それだけじゃないでしょう」
 麻美が言った。

「実は…玲さんが,もう一回政治をやらないか,と彼女を誘っているんです。殿井さんはやりたければやればいい,ということを言っているらしいんですが,本心ではやってもらいたくないようです。だから彼女悩んでいて」
「毛利さんは?」
「玲さんのところにいます。どう説得したかは分からないんですが,毛利さんの方が玲さんの『野望』に共鳴したらしいです」
「あれから毛利さんは,自分だけ身の置き所がない言うて随分悩んだらしい。それこそ『死に場所』を求めたんか知らんが,海外の軍隊に入って訓練して,傭兵みたいなことをやった時期もあったらしい。しかしそれもじきに空しくなって」
 日田はかつて,毛利とチャットで話したことを思い出した。
 毛利だけは,あの時点から何も進んでいなかった。そして自身もそれを自覚し,生き方を求めてもがき苦しんでいたというのか。
「そんな時に玲さんが,毛利さんに声をかけたんです」
 麻美が複雑な表情を浮かべながら続けた。
「さっきも言いましたが,どう説得したかは『片割れ』である私にも分かりません。ただ,毛利さんは玲さんに共鳴し,彼女の『野望』に命を懸ける,と決めたようです」
「ボディーガードですか?」
「政治も時に命がけですから。ただ,毛利さんも玲さんの『野望』に役立つ,とあれば,彼女の駒となって自ら身を擲って政治の世界に身を投じることでしょう」
「数は力,ということですか」
「…一人や二人増えたところでどうなるものでもないでしょうが,少なくとも今の彼女にとっては,同志は一人でもありがたいはずです。そこから全てが始まる訳ですから。逆を言えば,それすらなければ何も始まらない,ということです」

「そう言えば」
 日田が言った。
「享野さんと浅見さんは,今何をしてるんですか」
 享野と麻美は顔を見合わせた。
「アメリカでな,コンピュータの会社をやってる。ベンチャーで」
 享野は,少しばつが悪そうな顔で下を向いた。
「社長っすか。凄いじゃないですか。何でそんな恥ずかしそうなんですか」
「…でな,俺が社長で,…こいつが専務や。二人の会社や」
「…?もしかして…」
「それ以上言わすなや」
 享野は顔を真っ赤にして,手洗いに向かった。
 よく見ると二人の左手の薬指には,お揃いのリングが光っていた。
 麻美はふふと静かに笑って,名刺を2枚取り出した。
「これ,一応日本語バージョンだから」
 見ると,1枚の方には,「エンジョイ・エンタープライズ 取締役専務 享野麻美」と書かれていた。
 もう1枚の方には,「エンジョイ・エンタープライズ 代表取締られ役社長 享野楽太郎」と書いてあった。
 日田はそれを見て,大笑いをした。

 手洗いから帰ってくると同時に,享野の携帯電話が鳴った。
「もしもし…おう,おっさんか,何しよんねん。暇空いたんなら来いや。今?ええと,俺とかみさんと,あと日田ちゃんや。絶対来いよ。かみさんも連れて来い。おっさんのおごりやぞ。散々人のことネタにして稼いどるやないか。嫌とは言わせへんで」
 一気に言ってしまうと,一方的に電話を切った。
「いいの,殿井さん?忙しいのに悪いんじゃない?」
「アホ抜かせ。何年かぶりに集まるんやで。これ逃したら今度いつ集まれるか分からん。もしかしたらもう最後かも知れへんやろ。仕事だか何か知らんが,1時間かそこらの時間も取れへんなんて言わせへんわ」
 享野が言った。
 心なしか,少し寂しそうな顔をしていた。
 それに気付いたから,麻美も日田も何も言えなかった。

 殿井と堀がやってきたのは,それから1時間ばかり経った頃だった。
「終電までには帰してくれよ」
 殿井が言った。
「何言うてんねん。一番遅うに来て,一番早う帰るちゅう法があるかい」
 享野が突っ込んだ。だいぶ顔が赤くなっている。
「今日は平井さんがいないから,潰されることはありませんよ」
 日田がからかうように言った。
 殿井は苦笑いをした。
「いや,今思い出したよ。そもそも未だに分からないんだが,何故平井はあんなおかしな物を飲ませて俺を酔い潰したんだろうなあ」
 知らんのはあんただけやで。
 享野はそう思ったが,口に出しては言わなかった。
 堀は少し苦しそうな表情になった。
 平井のこと。政治のこと。そして玲の「野望」のこと。
 そういったことをいっぺんに思い出してしまったから。
 堀の様子を悟った面々は,しばらくの間何も喋れなくなってしまった。

「政治に対する思いがなくなった訳ではないんです」
 堀は言った。
「でも,一度立候補して,いろんな方とお会いして,そういった経験を積んでいくうち,自分がいかに無力で,勉強が足りないか,政治をやるために必要なものが不足しているか,そういったことが分かってしまったんです」
 皆黙って聞いている。
「今はそれなりに人生の経験も積んで,ある程度はできるのではないか,という気はしています。でも,それはまだ漠然としたものじゃなくて,あの時感じた無力感を完全に引っ繰り返すほどのものではないんです。それに」
 堀は殿井を見た。
「夫に…また迷惑をかけると思うと,それが申し訳なくて」
「俺はやりたきゃやれ,と言ったろう」
 殿井は少し不機嫌になって言った。
「俺は作家としてそれなりに仕事が入るようになったから,前みたいに手伝うことはできないかも知れない。しかし,妻の思いが本物ならば,可能な限りで手伝いたいと思っている。いざとなれば多少の融通は利くし,どうしてもダメなら全部放り出して」
「それはダメ」
 堀が大きな声をあげて言った。
「政治は私の夢だけど,作家はあなたの夢だったでしょう。私の夢もあなたの夢も,どっちも同じように大切。どっちかの夢のためにどっちかを犠牲にするなんて,それは絶対にダメ」

「まあまあ」
 日田が言った。
「堀さん…じゃないんだよな,今は。まあいいや」
 独りごちた後,続けた。
「正直俺の意見を言うと,今はまだ玲さんの『野望』の正体が分からない。彼女がどんな人間を集めてどんな政党を作って,どんな政治をやろうとしているのか分からない。そんな中で堀さんが…今飛び込んで行くのは,反対,じゃないけど,どうか,と思う」
 皆の視線が自分に集中するのは,普段妻以外に人間のいないところで暮らしている日田には少々面映いことだった。ちょっとつっかえながら,彼は続けた。
「玲さんがどんなことをやろうとしているのか,それに共鳴することができれば,堀さんの夢をかなえるためには,悪くない話だと思うよ。ただ,きちんと話を聞いて,自分の中で考えないと,いけないと思う。正直毛利さんや平井君は,自分のやりたいこと,『自分の存在価値を見出せること』に過剰に飢えていたから容易に玲さんに心酔したのだと思うけれど,堀さんにはもっと冷静になってほしい。殿井さんもいるんだから」
「ええこと言うなあ。どこで修行したんや」
 享野が言った。隣で麻美がしっ,という仕草をした。
「多分」
 日田が続けた。
「俺も含めて,ここにいる皆,そしてあっちにいる毛利さん,平井君,浅見さんの片割れ,みんなみんな,今のままでいるということは多分ないと思う」
 殿井が怪訝そうな顔をした。日田は構わず続けた。
「多分…これから先,いろいろなことがある中で,僕らが,今自分が持っている個性,特技,そういったことを世の中から必要とされる時が来ると思う。個人としてではなく,それこそ集合体―聖人同盟として」
「つまり…聖人同盟として集まって,それぞれ今は別々の道を進んでいるけれども,最後には一つに結集して,それが大きな力となって,将来日本なり世界なりを救うための役に立つことになるだろう,ということですね」
 麻美がつないだ。
「そうか,それが聖人同盟の目的であり,『浅見 零』の野望だった訳だな」
 殿井が麻美を見ながら言った。
「殿井さん」
 麻美が下を向いて,甘えるような上目遣いをして言った。
「私はもう,『浅見 零』ではないです。もうやめたんです。信じてください」
 そして横に座っている享野の方を向いて,ねえあなた,と言った。
 享野はまた下を向いて真っ赤になり,手洗いに行ってしまった。
「これがあの享野か,って感じだな」
 殿井が言った。
 麻美はくすりと笑った。
「人は変わるんです。これからもね」
 殿井はふうと言って,これまでついぞ飲まなかった日本酒を一気に喉へ流し込んだ。

 あの日以来,聖人同盟が一堂に会する機会はまだない。
 その日は来ないのかも知れない。
 あるいは,もうすぐ近くまで来ているのかも知れない―

(完?)


 

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