長女は闘う


大きな忘れ物

妹が長女(みのり)と一緒に車で帰ってきた。家について妹は先に車から降りた。みのりは後席に乗っていた。チャイルドロックがしてあるので、後席は中からは開かない。みのりは「開けて」と言おうと思ったが、いつも「ちょっと待って」と言われるので、今回は言うのをがまんした。

妹は庭から大根を抜いて、家の中に入った。みのりは車の中で外からそのうち開けてくれるものとずっと待っていた。そうこうしているうちに、換気扇が回る音がして、トントントントン、大根を切るような音がしてきた。みのりは事態に気がついた。
「母さんは私を忘れている。」

みのりは前席に行って、自分で戸を開けて車から出た。台所に行って
「母さん、忘れとったろう。」というと、妹は
「一緒に帰って来たのに、どこへ行ったんかなーと思うとった。」
まったく呑気な親である。


なくしたはずの手袋

この冬は暖かかったが、冬休みがあけて急に寒くなった。みのりは学校に行くのに手袋をしようと思ったが、手袋がない。母親に言うと「あるまで探せ」と言われるのがわかっているので、黙っていた。みのりの妹の志保は、みのりが手袋を探しているのを知ってはいたが、母親には何も言わなかった。

そうこうするうちに暖かくなったある日、妹がタンスに丸めたみのりのエプロンを見つけた。中を開けてみると、みのりの手袋が入っていた。妹は年末の餅つきのときに、汚れなかったか使わなかったかで、エプロンをそのまましまった事を思い出した。そして不思議に思った。
「3学期の初めごろ寒かったのに、みのりはどうしていたのだろう。」
そこでみのりに話をきいて初めて、新学期になってなくなっているのに気づいたこと、志保が知っていたけど黙っていたことなどを知るのだ。子供のしかられ慣れとはこういうことか。姉妹のチームプレーに母親が一点取られた形になった。


分別ゴミで発覚

母の家にみのりたちを連れて遊びに行っていたときのこと、母が、
「ワサビのチューブはどうやって捨てるんかね。やっぱり横からチューブを開けて洗うんかね。」
と聞いた。岩国市では最近ゴミの分別が厳しくなって、特に不燃ゴミの分け方が細かくなって大変だ。プラスチック類は洗って「プラスチックの日」出せ、との事なのだが、プラスチックと金属の複合材の物や、どうやって洗ったらいいか困るものもあって、新たな物を捨てる度に市がくれた小冊子で確かめなければならない。私は、
「うーん、そうしかないみたいだね。…それはそうと、ひろみ(妹)はワサビのチューブを開けて、中をスプーンで取って使いよるんじゃなかろうね、みのちゃん。」
冗談のつもりで言った。みのりは平気な顔で答えた。
「母さんはいつもそうしよるよ。」
子供の頃からそうだったが、妹のケチは今も健在である。


妹の長女、みのりは日々闘っている。長女ゆえにガマンしたり気を使ったり。たまに3番目の話のような逆襲もあるが、兄弟の一番上というのは大変なもの。私も一番上なので気持ちはよーくわかる。がんばれ長女、がんばれみのり。みのりを見ていると、人ごとなのでおもしろいのだが、自分の子供時代のこととなるとそう楽観的なものではなかった。
私の子供時代

私が小さい頃の話。私には年子の妹、4つ下の弟がいて、あまり母にかまってもらえなかった。母の両手は弟と妹が取り、私は4才にして母と手をつなぐ事が許されぬ身となった。私が母と手をつないでいようものなら、そこは自分の指定席とばかり、左手なら妹が、右手なら弟が飛んできて割り込んだ。

父は兄弟の末から2番目、母は末っ子である。そういうわけで、長女の苦しみなどわかろうはずもない。
「お姉ちゃんだからがまんしなさい」
が両親の口癖だった。「お姉ちゃん」と言われればうれしい位に思っていたのだろうか。私は子供の頃「お姉ちゃん」という言葉が大嫌いだった。「お姉ちゃん」の後には、必ず「嫌なこと」がくっついているからだ。最初はその不満を妹や弟に対する暴力で晴らそうとした。赤ちゃんだった弟のミルクを取り上げて飲んだり、先に生まれた体格の差を生かしてケンカなど、私は悪ガキであった。

そして親のやり方で絶対気に入らない事があった。「連帯責任制度」だ。弟や妹が何かやっても、まず私が叱られる。私がまるっきり関係なくても私が代表で叱られるのだ。私はたまったものではない。そのうち弟や妹は、何をしても叱られるのは姉で、自分たちはお咎めなし(この点は今でも親の方が間違っていると思う)という事に気づき、やりたい放題。腹がたつので、私は弟や妹をよくいじめた。しかしこれではますます私が叱られる事になり、割が合わない事に気づいた私は、攻撃の矛先を兄弟から親に変更した。

子供の私は口が達者で、親のやり方で理不尽な点があると指摘した(前出の連帯責任制はもちろん抗議)。「親の方が間違っていた」と認めよ、と詰め寄りもした。親は絶対、非を認めようとはしなかった。しかし全部が全部、親のいうことが正しい訳ではない。痛いところを突かれた親は、しまいには
「子供のくせに誰に食べさせてもらってるんだ。」
と言いだした。私は
「それなら年をとってから面倒みてやらないぞ。」
と、子供(幼稚園〜小学校低学年頃)とは思えないケンカを親に売った。親にかみついていく分、当然、シバかれる回数が兄弟で一番多かったのは私である。

私は子どもながら
「めちゃくちゃな親の論理を暴力で通すのはよくない。大人になってもこんな親にはなるまい。」
と思っていた。私は批判的で冷めた、変な子供だった。「抗議しなきゃ、認めた事になる」と、最初は叩かれても叩かれても食らいついていったものだが、なにせ親との体力差が大きく、暴力ではとてもかなわない。私は作戦を変えた。今度は「右から左に聞き流す」事にした。どっちみち自分の要求が通らないのなら、シバかれる分だけ損じゃないかと思った。私が悪い意味でちょっとだけお利口さんになった瞬間。ただ、聞き流していても納得しているわけではないので、不満はたまる。そしてついに爆発するときが来る。

何で叱られた時かは忘れたが、私が親に向かって言った事がある。
「私は好きで一番上に生まれたわけじゃない。お姉ちゃんお姉ちゃん言われて、喜んどると思ったら大間違いじゃ。末と末から2番目のあんたらにはわからんじゃろう。」
親はこれを聞いたとき、何の事を言われたのかわからなかったという。それから10年以上たって、親は私の言った事の意味にやっと気づくことになる。

ガマンガマン、ガマンガマン、子供時代に言われ続けたおかげで、私は大抵のことは辛抱できるようになった。しかしガマンでよかったのか、悪かったのか、今はまだわからない。

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