大人の粘土遊び


私は妹の子供とよく作陶に行く。私は職場の陶芸部に入っていて、1〜2カ月に1回ぐらい作陶日がある。自分の作りたい物を思う存分作りたいなら子供をつれていかない方がはかどるのだが、子供も粘土遊びを楽しみにしているようなので、最近は毎度声をかけるようにしている。他の部員も家族連れで来ていたりするのだが、幼稚園の年少組ぐらいの子が2時間いい子に作っているのには驚く。もちろん作品は「子供の粘土遊び」状態だが、2時間騒がずに粘土だけで遊ぶのはすごい。よほど粘土好きの子なのか。

妹の子供を連れて行くときは1時間半〜2時間位作る。形はメチャクチャだが「父さんの灰皿」とか「父さんの刺身の皿」とか「父さん関係」の作品が多い。なぜか「母さんの〇〇」はあったことがない。私は「これ、贈られて父さん(妹の夫)は本当にうれしいのかなあ。」と思うが、妹の家にどうしようもないガラクタ陶器がいっぱいたまりつつあるんだろうなあと思うとおかしくなる。

ガラクタといえばうちにもガラクタ陶器がたくさんあった。「あった」というのは、先日フリーマーケットに売れそうなガラクタを出したので、今はかなり減った。焼き物は土に合った焼き温度がそれぞれあって、低温で焼く土と高温で焼く土を一緒の窯にいれて高温で焼いたりすると、著しく変形したりすることがある。一つだけは変形がおもしろかったので花器として使っているが、あとは使えない泥の器。砂利のかわりに、何個ガラクタの作品を鉢底石として植木鉢の中に入れたことか…。この度フリーマーケットに私の作品を出したら売れた。植木鉢の底に沈めるにはもったいない、でも使い勝手はイマイチな作品たち。それで思ったのだが、売れるような作品をどんどん作って腕を磨き、本当にいいものだけを手元に置いて、後はフリマにだそうかなと。

陶芸を初めてかなりたつが、まだなかなか使い勝手のよい器はできない。重すぎたり、大きさがまずかったり、口当たりが悪かったり、洗いにくかったり、持ちにくかったり。何かがうまくできてもどれかが欠ける。日常使う事を考えると、収納の事も考えねばならない。スタッキングが悪いとかさばって困る。売っている陶器はそれらの事をすべてクリアしている。手作りは既製品にはない味わいがいい、と言うものの、使い勝手はかなり無視できない項目だ。私がフリマで手放した作品は、そんなこんなで私が使わずおいたもの。買って帰って「こんなもの買ってきて、どうしよう」と思われてなければよいが…。

陶器は焼くと2割程度縮む。実用サイズのコーヒーカップを作ろうとするとかなり巨大に作らねばならない。その加減が難しくて、なかなか思う大きさにならない。また焼けるまで何カ月かかかるので(窯いっぱいになるまで作品をためるため)、出来あがったものが手元に届いても、自分のかどうか自信が持てない時がある。焼き上がる頃には何を作ったのか忘れいて、裏のサインでやっと自分のだとわかる事もある。子供の作品も、子供が見れば自分のかどうかわかるのだが、親が見てこれがうちの子のだろうなと思うのを持って帰るので「持って帰ったが違った」と一旦持って帰った物を返されることがたまにある。

妹の子供を連れて行った時でも「名前書いた?」とよく尋ねる。裏を見ると、どっちが上だかわからないような字で名前が書いてある。2〜3回分ためて焼くと、出来上がりがかなりの数になるので、よほど特徴的でないかぎり、子供の作品の形まで覚えていない。また自分の物でも覚えてない事もあり、たいてい1つや2つは引き取り手のない作品が出る。そのなかにはサインがあったり、かなり特徴がある作品もあるが、たいていは無記名でクセのない作品。そういう器はクセがない分、使いやすいのか、「引き取り手のない作品はご自由にお持ち帰りください」と看板を出すとすぐ貰い手がつく。なかなか個性と使い勝手の両立は難しいようだ。私の作品も子供から見たら「大人の粘土遊び」かもしれない。うーん、陶芸家への道は険しい。

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