1.弥生時代と銅鐸

さて銅鐸を使用していたという弥生時代はどのような時代であったのか。弥生時代は日本に稲作が伝来し、これまでの狩猟、漁労、採集といった移動型の生活から定住型の生活に移行していく時代といってもよい。

弥生時代に稲作が伝来したという説は今となっては疑わしい。最近では縄文時代から稲作が行われていたという証拠も見つかっている。ただここではっきりとしておかねばならないことがある。稲作には陸稲と水稲が存在するということである。おそらく縄文時代から栽培されていたのは陸稲の方であろうと思われる。水稲栽培はご存知のようにあぜを作ったり水を引いたりと栽培技術と共に導入されなければうまくいかないものである。しかし一度水稲の栽培方法が解ればこれほど日本に適した栽培作物はない。この事は歴史が証明している。思うに弥生時代とは一つに水稲栽培が日本に広がっていく期間と見ても差し支えないであろう。

ここで銅鐸はやはり農耕祭祀の道具ではなかったのかという説が登場する。しかしここでみなさんは疑問に思わないのであろうか。農耕祭祀の道具として使用されていたとしたら何故銅鐸は弥生時代の終わりにぷっつりと姿を消してしまうのか。これから盛んになっていく水稲栽培に即したものであれば次々と世代を超えて伝わっていくのが理である。しかし銅鐸及び青銅器はそのようにはいかなかった。そこに謎がある。確かに弥生時代とは水稲栽培の拡大期間であったといえる。ただそれだけではない。

一つの時代が終わる時には前時代の文化は最盛期を迎えている。つまり弥生時代でいくと縄文時代から脈々と流れてきた文化の最盛期があってもおかしくはない。いや当然あったはずである。

そこで弥生時代に発展した場所を地図の上で確認してみる。そうすると面白いことに気づく。繁栄した場所のほとんどは近くに潟湖をもっているのである。このことは道路がまだ獣道のような時代に海上交通がより盛んだったことを示している。そして舟の到着できる場所、つまり潟湖付近に集落が築かれていった事の証明にもなる。このことから古代の人々は我々の想像以上に広範囲にわたって交流をもっていたと考えられる。そしてそれは当然確かな航海技術と造船技術に支えられていたことは言うまでもない。

近年、弥生時代の環濠集落跡が見つかり、様々な職業集団が生活の場を共にしていたということも分かってきている。お金がまだ存在せず、物々交換が主だった時代にも独特の社会形態が存在していたということである。その物々交換の流通航路の一つが海であった。
航海に必要な技術は多い。もし彼らが船団を組んで遠洋航海をしていたとしたらさらに高度の技術を要したであろう。しかし残念なことにその物的証拠はいまだにあがっていないし、一度途絶えたら容易に復活できないものである。ここに弥生時代を解く鍵があると思われる。

弥生時代の中頃から水稲栽培の広がりと共に安定した定住型の生活が始まる。この事は権力の集中を容易にしやすい。この流れから古墳時代を経て大和朝廷が出来上がる。おそらく銅鐸はこの権力構造に組するものではなかったのであろう。だから消え去る運命にあったのではないか?よって共に消え去る運命にあった移動型の社会体系により強く関わっていたのではと考えるのが道理である。

謎の多い銅鐸といわれる所以はここにあるのではあるまいか。つまり銅鐸は航海のために使用されたものでなかったかと思われる。
これは推測にすぎない部分もあり、またそうでない部分もある。それでは実際の銅鐸を考えてみよう。

戻る