神在月まめ知識



神在月に神々は何をしに出雲に来るのか?
いろいろな諸説が地域にある。多くは縁結びの相談のためということになっている。他には酒作りや、交易をしにくる神もある。


いったいいつからこのような神在月が成立したのだろうか?
平安時代末(1177)の「奥義抄」にすでに神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。それ以前の成立であることは間違いないであろう。

この神在月伝承はどこまで広がっているのであろうか?
北は北海道を除く、青森の下北半島から南は沖縄・奄美・八重山諸島を除く、鹿児島県のトカラ列島に至るまで広がっている。

神々は出雲のどこに集うのか?

一ヶ所の神社に集まるのではなく何ヶ所かの神社を参集して回るとのこと。
出雲大社や佐太神社を中心として、繋がりを持っている神社は以下の通りである。
・朝山神社(出雲市朝山町)
・出雲大社(簸川郡大社町)
・万九千(まんくせん)社(簸川郡斐川町)
・神原神社(大原郡加茂町)
・神魂(かもす)神社(松江市大庭町)
・佐太神社(八束郡鹿島町)
・朝酌下神社(松江市朝酌下町)
(旧暦10月1-10日)
(11-17日)
(17-26日)
(10-26日)
(11日)
(11-16、20-25日)
(25日)
このほか、この期間中に単独で神在祭を行う神社もある。
・日御崎神社(簸川郡大社町)
・熊野大社(八束郡八雲村)
・六所神社(松江市大草町)
・売豆紀(めづき)神社(意宇郡松江)

神在月に出雲に集まらない神々もある?
神在月に出雲に集まらない神様もいるにはいる。それが留守神である。結構この留守神伝承は各地に広がっている。特にエビス、釜神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多い。エビスは関東、東海地方、釜神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持つ。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。

神在祭では何をするのか?
神社によってその形態は少しずつ違っている。
出雲大社

10日の夜、神迎えとして近くの海岸「稲佐の浜」にて儀式が行われる。
カガリ火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中には、神の依代となるひもろぎが2本、傍らにその先導役となる龍蛇神(海蛇)が海に向って配置される。
神職が入場して修祓の後、神迎えの祝詞が奏上される。この後、一同は隊列を組んで大社へ向う。ひもろぎは、大社教の施設である神楽殿に入り、ここで祭典が行われる。そして次に大社境内の東西にある19社へ渡る。ここで神々が休まれることになっている。
これより神の滞在期間である「お忌み」となる。神在の期間中、本殿前にて3度(11、15、17日)の神在祭祭典が行われる。
神等去(からさで)祭は17日の夕方に行われる。東西の19社にあったひもろぎが、拝殿に移動される。拝殿の祭壇に2本のひもろぎ、龍蛇神、餅が供えられ、その前にて祝詞が奏上される。
その後も神々は出雲国内に滞在されるが、26日の第2神等去祭で御国に帰っていかれる。

佐太神社
佐太神社の神在祭は他社と異なり春と秋の2回行われる。秋の神在祭は11月20〜25日で、30日には止神送(しわがみおくり)神事がある。春は神在祭裏月祭と呼ばれ5月20〜25日、31日が止神送。
秋の神在祭は11月20日夜の神迎神事から始まる。
本殿周囲には注連縄(しめなわ)が張り巡らされている。神職が南口から入り、礼拝後、傍らで佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う。そして一旦外に出て、直会殿にて秘儀。再び注連縄内にひもろぎを捧げ持って入り、殿内に安置する。以後25日の神等去出神事まで一切誰も注連縄内に入ることはできない。
25日夜に神等去出神事が行われる。祝(はふり)が包丁で青木柴の縄を切ることから始まり、神迎えの際と同様の儀式が行われる。中殿前からひもろぎが下げられ、祈祷所内で秘儀。その後ひもろぎを捧持して神職が出場し、行列を組んで神送りの場となる「神目山」へ向う。
神目山にて神送りの儀式を終え、神社に帰ると「お忌み」の終了となる。30日にも、帰り残った神々をお返しするために止神送神事として同じ神送りを行う。
万九千神社
11月17日から26日までを神在りもしくはお忌みと称し、まず神迎えにあたる龍神祭を17日早朝、宮司が1人、社近くの斐伊川の水辺で秘儀として行い、ひもろぎに宿る神々を社へと遷し祭る。この日をお忌み入りと呼び、以後社周辺での奏楽、歌舞、音曲の一切を禁止し、斎場の静粛と静浄を保ちつつ神送りにあたる26日の神等去出祭を迎える。25日には前夜祭があるが、かっては複数の神職が社殿に寝泊まりするお篭りもあったという。古くは東西に仰ぎ見る「出雲国風土記」の神名火山(現仏教山)の麓で火を焚いてお送りしたとの記録や伝承もある。
神魂神社
16世紀初頭までは出雲国造が当社の神主であり、明治以前までは国造火継ぎ神事や新嘗祭は当社で行われていた。
神在祭は旧暦10月11日(現在11月11日)夜に神迎え、18日が神等去出祭である。11日夜、境内神社稲荷社に合祀の高天神社で神々を迎え、引き続き12日早朝、ひもろぎでもって本殿内殿に迎える。かってこの社はこの東北方4町余の、それこそ茶臼山(かっての神名樋山)を真向かいに仰ぐ地に建てられていたことから、神在祭と神名火(樋)山に何か関係があるのではという説もある。
多賀神社
多賀神社(朝酌下社)は大橋川沿いにある。「出雲国風土記」所載の神社でもある。
25日、佐太神社より当社に直会のために神々が参集すると伝承されている。この直会の邪魔をしないよう、境内に人の出入りができないように、参道2ケ所に注連縄を張る。26日、早朝、この注連縄を外すことで多賀神社の神在祭は終了する。
特に神社での神事はなく、神々は自然に当社に集まり、自然に去っていくと考えられている。神職はこの行事を佐太神社の後の神々の直会と意識している。地域の人々も直会の邪魔をしないように、神社への出入りはせず、両日は静かにしていたという。
当社の本来的な参集の場所は神社ではなく、神社横(境内地ではあるが)の魚見塚古墳(前方後円墳)である。ここで神々はエビスの釣を見学するともいわれている。神職は25日昼頃、この古墳に幣を立て、清める。
朝山神社
朝山神社は宇比多伎(ういたき)山の頂上付近に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。旧10月1日、神職は氏子総代とともに鳥居下にヒモロギを立て、これに神々を迎える。
ヒモロギは総代らによって絹垣に覆われて、境内の朝山十九社に安置される。この社は出雲大社の十九社にならって20年程前に造営されたものである。御忌の期間中、神社では歌舞音曲をつつしむ。
10日、神迎え同様に鳥居下にヒモロギが立てられ、神送りが行われる。朝山神社のあと、神々は出雲大社に向かうと伝承されている。神職によると、当社では出雲大社同様、様々な「神議り」が行われているという。
日御碕神社
島根半島の最西端に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。当社では旧暦10月11日に神迎祭、14日に龍神祭、17日に神等去出祭を行っている。祭は社殿に神々を迎えるというより、出雲に神々が参集したことを祭神に報告するという形で行われている。しかし、近世においては、当社にも神々が参集することが積極的に説かれていた。
龍神祭は龍蛇が奉納されたことを祭神に報告する祭である。近年は護岸工事による潮流の影響で龍蛇が上がることはほとんどなくなっている。従って祭は龍蛇が奉納されたとの仮定のもとで行われる。
売豆紀(めづき)神社
松江市中心街の南端に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。当社の神在祭は12月3日の新嘗祭の前に祝詞を読むことのみが行われている。佐太神社参集後、直会の一つとして当社に神々が参集すると意識されている。
一説によると、当社の神在祭は神魂神社から佐太神社への巡幸のルートに当たっていたのではないかとも言われている。
神原神社
斐伊川支流、赤川の下流左岸に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。
当社の神在祭は現在では旧暦10月26日(現在11月26日)に宮司が祝詞を唱えるのみである。しかし終戦直後まではカラサデもあったという。宝永4年(1707)の縁起には「10月10日に神々は神在代宝原(神原)に参集し諸事の相談を行う。11月より17日は出雲大社に巡幸し諸事を決定する。これを上の斎(いみ)という。この斎の間は家を建てたりせず諸事慎重に過ごす。その後18日より神々は加多智社にて休息する。この間は忌みが解かれる。そして21日に佐太神社に巡幸し、再び斎の状態に入る。神々は26日に再び神原に戻った後全国に帰られる。これを神去風(カラサデ)という」とある。

神在月に留まる神々の滞在期間が異なるというのは本当か?
出雲滞在期間は大きく分けて、神無月を中心に参集する場合(新旧の暦の1ヶ月のずれは同一のものとして扱う)、神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)する(そして先に戻る)場合、中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る場合、神無月から大きく離れた時期まで滞在している場合がある。
神無月を中心に参集する神々は氏神・鎮守系が多い。早立ちする神々は天神が多い。中帰りする神々は釜神が多い。そして最後に越年するまで滞在してしまう神々は、山の神、田の神、亥の子神、釜神等の農耕神が多い。

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