「21世紀の神在祭」



・神について
人類が神の概念を持つようになってから、いったい何年の年月が流れたのであろうか。
ある人は、神は人が誕生する以前からあったといい、ある人は、神は山川に宿ると言う。地域ごとでも神の捉えかたは様々である。その一方で、今の時代は「神なき時代」とも呼ばれている。確かに現代は宗教の社会的な影響力が薄れつつある時代を迎えているのかもしれない。しかし、神の概念は完全に消え去ってしまうのかというと、そうでもない気がする。万が一、社会的な影響力は消えたとしても、個人の「救いの対象」として神は存在し続けるのではなかろうか。なぜなら人はまだ、神に取って代わる「救いの対象」を見出してはいないからである。それでは神とはいったい何なのか。私なりの考察をここで述べたい。

これまで「死」は個としての「終わり」を意味していた。しかし近年、その「個」の概念が揺らいでいる。特にそれは遺伝子科学の分野で進んでいる。クローンが容認されたり、遺伝子組換が容易に行われるようになれば、何が個であるのか、さらに分りづらくなるであろう。そんな現代において、来るべき21世紀の指針の一つとなるであろう著書が「利己的な遺伝子」(R.ドーキンス)である。
この著書で、生物という個は「遺伝子ののりもの」であると例えている。この説明からすると、「遺伝子が常にコピーを繰り返すことで半永久的に存在し続ける」ために「個」は存在しているということになる。つまり遺伝子にとって「死」は限りなく無いに等しい。その代りに「個」の死が必要であるというのである(異常を来たした遺伝子を考えてみよう。遺伝子の保存、種の保存のためには異常を後々まで残さないために「個」の死が必要なのである)。残念ながら、ここでは我々が必ず体験する、「個」の立場に立った死についての洞察は割愛されており、死に対する我々の根源的な不安は解消されていない。がしかし、この最新の風変わりな「哲学書」には「個」の死に対する考え方のテーゼが実に巧妙に含まれている。
「利己的な遺伝子」の考え方から言えば、遺伝子は我々「個」にシンプルな信号を常に送っていると言える。誰もが知っている極シンプルな信号。それは「生きて種を残せ」という信号に他ならない。生物はそのために必要な様々な能力を取り入れてきた。結果だけ見れば、厳粛な自然界の中で必要な能力を取り込めないものは生き続けることができなかったと解釈できる。よって、今存在する生物は全て「生きる」上での必要条件を備えてこの大地に立っていると言える。ただここで忘れてはならないのが「我々には生れて来た必然性はある」が「これから先、生きていける確証はどこにも無い」ということである。それは個々で乗り越えなければならない現実である。ここに「個」の概念が存在し、我々「個」に主体性があることを確認できる。しかし結局、我々「個」は遅かれ早かれ「死」に直面しなければならない。これは避けられない現実である。種の存続のための生と死。その狭間で我々「個」は苦悩する。遺伝子自体は神を必要としないはずである。なぜなら、ほぼ永遠の存続を保証されているからである。必要とするのは生と死の狭間で不安を抱え、もがきあがく我々「個」であ る。

ところで、その苦悩でさえ生物の持つ能力の一つであるように私には思える。苦悩は「欠落感」と関係している。「欠落感」は足りないものを満たそうとする飢餓感のようなものである。この「足りないものを満たそうとする能力」は、生物のはじめ、極シンプルな化学作用であったのだろう。ものが上から下に落ちたり、川が流れるような単純な作用と同様に、足りないところに何かを埋める作用として、「欠落感」が形成され、生物はものを食べ、セックスし、その結果として排泄し、子を宿すことを可能にした(厳密にはこれは有性生殖生物の特徴である)。更に発展させることで生物は多様で独自な文化を築いた。そして人がその「欠落感」を満たそうとしたとき、人間は「神」を概念化できたと私は考えている。
「神」とはその「欠落感」が作り出す「安心の概念」のようなものではなかろうか。「喜怒哀楽」には形がない。しかしそれを表現することはできる。「神」もそれと似ている。形はないが表現できるものである。その表現能力が様々な神を創り出したと考えられる。よって基本的に百人いれば百通りの神の概念が存在することになる。更に言えば、もともと「神」は以上のように、成り立ちからして生物個々のものであるということが言える。様々な神は表現形態が異なるだけであるとも言え、様々な宗教が基本的に同じ事を言ってるように思えるのは以上の理由による。ただ生物は共通の基盤を持つことで生命の維持と安心感を得ているので、「同じ神を持とうとする」ようになった。これが宗教の核であり、本質であると考えられる。

簡単ではあるが、以上のことから、全ての人に「神」すなわち「安心の対象」を求める権利はあるといえる。そして同じ神を持つことも可能であり、異なる神を持っているからといって排除する必要も無いということになる。信仰が最初からそうであったように、「あると思うところに全てがある」のである。そしてそれらは「安心の対象」を常に求める生物にとって、全て学ぶべき対象でもある。さてそれでは日本の神はどうであろうか?

・日本の神々
誰もが知ってるようで判然としない日本の神々。長らく日本は無思想の国として国際的に認知されてきた。しかしそうではないのではないか、というのが長い間私の心にあった疑問である。「神は人の痛みを知る尺度である」といった者がいる。確かに歴史的に見て、そうであるかもしれない。民族が滅ぶような痛みを経験した者達が持つ神は強靭である。そしてそれらの神は他の地域の神に比べて、拡大傾向にある。世界に名だたる宗教はそのような民達の哀しみが礎となっているとも言える。そのような神を日本はついに持たなかったし、それで不幸であったというわけでもない。
日本人は単一の民族でない。いわば、日本人は日本に流れ辿り着いたときから日本人であるといった至極あいまいな定義の元に成立している。しかしただ一度だけ、大量に移民が押し寄せてきた時期がある。それが縄文時代から弥生時代にかけてである(そうはいってもかなり大雑把で長いスパンではあるけれども・・)。これは中国の戦国時代の飢饉と混乱が関係しているというのが定説となっている。私はこの時、日本の基礎になる神の概念が出来上がったと考えている。そのことについてこのHP上で及ばずながらも愚考してきた。

日本は八百万神の国として知られている。その起源は縄文以前からあった、全ての自然に神が宿るとするアニミズム思想を受け継いだものであるといわれている。しかし社会学的に言っても、歴史的に言っても、国が形成されていく過程でそのような国家形成以前の思想が残されるていることは世界史の中でも稀である、いや不可能であるともいってよい。もしそれが可能であるとすれば、以前の思想を受け継いだのではなく、国家形成の過程で全ての神を同じ土台にあげることのできる何らかの思想が完成したためであると考えられる。その研究のために、私は出雲文化を採り上げた。

日本の神々について文献を調べると無数の神が存在していることが直ぐにわかる。「八百万の神」ともいわれ、山や河に神々は宿るとされている。しかし、私は「日本の神々はそのような存在ではない」ということに気付いた。少なくとも「記紀」にでてくる神々は始めから山や河に宿ったりはしない。それは独特な文化と関係していたのではなかろうかというのが「風葬文化と青銅器」での収穫であった。
結論として日本の神々は人であることが挙げられる。
周りが海に面する日本の独特な地形は非常に面白い文化を創り出した。大陸のようにゆったりとした文明の成熟は日本では起こり得なかった(鎖国のような奇妙な状況下でのみ、微かにその成熟はあったといえるかもしれないが・・・)。そのような大陸文明の輝きは海を伝わって早急に来た。まだこちら側で文明を受け入れる用意ができていないとしてもである。そのため純粋な意味での煌びやかな文明への驚きと憧れが生まれた。それをもたらす者が神々に選ばれたと考えられる。「神在祭の起源」では、文明がもたらした技術の一つとして青銅器の使用方法の考察を試みた。
熱は熱いところから低いところへと伝わっていく。日本の神々の成り立ちもそれに似ている。日本の神々の成り立ちは「文明の急激な温度差」が作り出したと言える。それが人が神となり得た理由であると考えられる。そして特異な文化である「風葬文化」が国家形成の過程で人を神に祭り上げる原点となったのではないか。日本はそのことにより、ついに今に至るまで統一神を持つことはなかった(風葬文化の片鱗が見られる、海を周囲に保持するアジア諸国も同じ印象を受ける)。しかしその代わりに日本は興味深い概念を獲得できたと私は考える。それは「神を集めること」ができる文化を持ったことである。
宗教・思想は基本的に閉鎖された排他的なものである。よって隣に異なる神を崇めることは許されない。歴史はこうやって幾多の神を除去してきた。ところが日本では神も仏も全てが存在する。それを日本は無宗教の国だからとしてこれまで容赦なく片づけられてきた。だが実際はそうではないのではなかろうか。日本は全てあるとする思想をはじめから完成させていたと考えられまいか。そして必要なものをうまく選択し、自らにそれを取り込むことが出来る文化を持っていると私は考える。その文化は出雲文化の特徴でもある。

それでは本題に入ろう。
なぜ、出雲の文化に興味を持ったのか。それは端的に言って、出雲に神在祭という祭があるからである。
神在祭の面白みは「神を集める」ことが可能である点である。本来、出雲の神在祭は日本の神々だけを招聘する祭りである。しかし私はこの祭りの「神を集めること」が出来るという実に日本的な文化を日本の神々だけの祭に留めておくのは惜しい気がする。そこで私はこの祭りで「神を集めること」が出来ることのみ抽出し、解釈に幅を与え、神在祭を世界規模で展開したい。つまり世界中の神々を残らず出雲で数え、世界中の神々を一堂に会する祭を行いたいと考えている。これが「21世紀の神在祭」構想である。この目的は今一度、全ての人々の心に対話できる「神」を取り戻させることにある。あえて個の「安心の対象」を無くす必要はない。信仰が失われつつある今、もう一度本来あるべき姿に「神」を戻す必要がある。人を殺すために利用される「神」ではなく、生きるための「安心の対象」として個人個人に「神」を取り戻すべきではなかろうか。
そのような願いを込めて、21世紀に向けて出雲から「21世紀の神在祭」を始めたい。

あなたの神を出雲で数える
消えつつある神、今も尚盛んな神、大小を問わず、全ての神を出雲に集める。日本の神だけではない。世界中くまなく、あなたの信じる神をここに登録する。あなたの心に隠れている全ての神、信じる心をここで数える。たった一人でもいい。これに賛同できる方のみ「21世紀の神在祭」に参加していただきたい。向こう3年間、私はここで全世界の、全ての神をできるだけ数え続ける。そして3年後に賛同してくれる人々と「21世紀の神在祭」を行いたい。それが私の「志」である。

ようこそ出雲へ、 これは 出雲から世界へ送る メッセージである

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