志谷奥遺跡のシンプルさについて

「神在祭の起源」を制作するにあたって、ターニングポイントとなったのが、志谷奥遺跡である。

志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間(これが重要である!!)に位置する。
銅剣6本、銅鐸2個。
ひっそりと静まりかえった谷にこんな青銅器があると誰が気付いたであろう。場所は「風土記」でいうところの「恵曇(えとも)のつつみ」を見下ろす場所で、地下2、30cmの所に青銅器は眠っていた。

ほんとうに民家の横道を登ったところにぽつんと銅剣銅鐸出土地と書かれた立て杭が打ち付けてあるだけの場所。
偶然でなければ発見されなかった場所である。

スクナヒコは大国主命の国造りを助けた神として知られている。
小さな神様で、手のひらにのるほどだったという。しかし国造り半ばでどこかに飛んでいってしまう。それでも国造りの功績を称えられるのだから、よほどのことをしたのだろう。
私は彼の功績が青銅器を使った「暦の作成」だったと考えている。
「神在祭の起源」を見ていただければ分かるが、神話の時代はさほど昔の御伽噺ではない。メソポタミヤ文明やエジプト文明より、よっぽど新しい時代の事実に基づかれている可能性が高い。特に、大国主活躍の時代は青銅器時代と重なることが「神在祭の起源」にて判明した。そこで自ずとスクナヒコの功績は限定されるのであるが・・・・
いや、堅い話はぬきにしよう。この「出雲を歩く」はそんなことを語るためのコーナーではない。ただ、スクナヒコはこの志谷奥遺跡の場所に来た可能性があるということを言いたかっただけである。大国主がスクナヒコと出会ったのは美保関の辺りだと文献にある。美保関からは少し離れてはいるが、ひょっとするとスクナヒコはこの鹿島町の辺りに足を留めたことがあるのではなかろうか。私はスクナヒコのことが好きなので、そう思うことでこの場所がとても身近なものに感じられる。

「恵曇(えとも)」とは古来、航海を職にする一族の名称として使われた。今では静けさを取り戻した「恵曇湾」であるが、昔は航海を中心とした、にぎにぎしたまちだったかもしれない。そんなことを考えながら坂を下ろうとしたとき、笹の葉がカサカサと鳴った。
きっと夏の風だったのだろう。