「先祖供養と墓」 五来 重 角川選書228

「日本書紀」によると、イザナミノミコトが亡くなった時に、イザナギノミコ トがモガリのところに入っていったら、死体は「ハレタタエ」ていた。死んだ人 は腐敗していって腫れ太りますが、そういう死体には「八色雷公(やくさのいか ずち)」といって、災いのもとになるような恐ろしいものがあります。あるいは 「古事記」によると、「蛆たかれとろろぎて」と書かれています。「日本書紀」 の一書には、「膿沸き虫(うじ)流(たか)りて」と死体の腐敗していくありさまが 書かれています。

死体は同時に災いをまき散らしているのだ、それは「泉津醜女(よもつしこめ) 」という鬼のようなものが宿っているのだということで、訪ねていったイザナ ギは追いかけられるわけです。モガリのところから逃げ出して、「衝立船戸神( つきたちふなどのかみ)」といって杖を立てて、ここから泉津醜女や八色雷公、 死者が出てこないようにします。

衝立船戸神{岐神(ふなどのかみ)}は一種の道祖神というか、塞神(さえのかみ) ですが、墓の場合は六地蔵になって墓場から死者の霊が出てこないため、呪術 的な防衛をする仏になります。そこに衝立船戸神がいるから、死者の霊が現世を 侵さないのだということが「古事記」に書かれています。

同書によれば、大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。今でも土葬の周りにたくさん柴を立て る風習が紀伊半島、とくに高野山周辺の村村によく残っていて、高野山などの墓 は青く茂っています。死者をクマデの中に置くことを、ここでは大国主神はその 中に隠れたというふうに書かれています。

大国主神の子の事代主神(「エビスさん」といわれる島根県美保関町の美保神 社の祭神)は、青柴垣を海の中に立ててその中に隠れたと書かれていますから、 水葬の場合にも、こういうものを立てたということが想定されます。

「万葉集」によれば、讃岐の狭岑島というところの海岸に死者があり、海岸に 「いほり」していると書かれています。「いほり」というのは、建物を建ててそ の中に死んだ人がいたということです。それを柿本人麻呂が見て、

荒磯面に いほりてみれば 波の音の繁き浜辺を

しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が

と詠んでいます。荒床とは、死体を風葬する場合に筵とか薦を敷いたことで、 「餓鬼草紙」にも見え、今ではそういうものを極楽茣蓙(ござ)といっています。

風葬は最近まで沖縄にだけは残っており、たいへん有名でした。風葬墓は、明 治以後に南西諸島で全てなくなっています。そして、最後まで風葬を行っていた 久高島も風葬をやめてしまいました。それから全部、風葬墓から普通の埋葬墓に なってしまいました。

それでも棺は地下に埋めないで亀甲墓の様なものの中に入れることになってい ますが、そういうときには茣蓙を敷きます。本土でも鳥辺野の風葬に茣蓙を敷い て死体を捨てています。「いほり」を造って、その中に「荒床」を敷いて、そこ に伏していたということがありますから、狭岑島の歌などから見ても、海岸の風 葬はあったということが推定できます。

P30-32
(3.自然葬法としての風葬)

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