「日本の古代3海をこえての交流-潟と港を発掘する-」森 浩一 中公文庫

遠方から潟湖を目指すとき、姿に特色のある山が目印になる。その船に乗り込 んだ人たちのうちに目指す潟湖を知っているものがあればなお良いが、全員が初 体験であっても、日数とか方向にくわえ、港の近くの山についての知識があらか じめ解っていると、力強い。これは私の印象であるが、日本海岸に点在する潟、 あるいはかって潟で、そこに潟湖の存在が想定されるところでも、背後に秀麗で 他を抜きんでた山があるところほど遺跡の集中度が大きく、潟湖の繁栄がしのば れる。

新潟県の本土側には、福島潟とか鳥屋野潟とかの潟はあるけれども、遺跡の集 中性が乏しい。それは、他にも原因はあろうが、すぐ背後に独立した山がないこ と、つまり航海の目標となる山の少なさにもよっているであろう。既に述べた十 二町潟は海上から見ると石動山や二上山を目標にすることができるし、放生津潟 も、遠くは立山、近くは二上山を目指して近づくことができる。このような港へ の目印となる山の多くが信仰上の霊山であることの一つの理由は、航海者たちに よって高められたのであろう。

私は1984年の夏、日本海をわずかの距離だが小船で航海したことがある。島根 県大社港から出港し、海岸から数キロの沖を東へ向って島根半島東端の地蔵埼を すぎると、はるか遠方に伯耆大山(海抜1711m)がそびえ、その手前に大山を一回 り小さくしたような高麗山(孝霊山ともいう、751m)が重なるように現われた。 地図上では見当はつけていたのだが、やはり二つの山頂がほぼ一直線になる位置 の海岸が鳥取県の、かって潟のあった西伯郡淀江町であった。


P67-68
(港を維持する力港への目印)

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