「死の民俗学―日本人の死生観と葬送儀礼―」山折 哲雄 岩波書店

一般に、先史・古代において骨(遺骨)が生活の現場で問題にされるのは、死者 に対する第二次的処置すなわち複葬をおこなうときにおいてである。死と同時に 遺体は腐敗の状態に移行し、やがて破壊・流失の過程を経てエッセンスとしての 骨へと変質する。腐敗・流失は死の一次的な異変をあらわし、白色の硬いカルシ ウム物質は死の二次的な結晶を示している。生者はこの一次から二次への変異の プロセスに介入することによって、その不可逆的な身分上の推移を確認すると同 時に、危機に瀕した死者との関係を回復する。そしてこのような二次的な結晶物 体との儀礼上のかかわりが、右に述べた死者に対する第二次的処置なのであり、 複葬と言われるものである。死者に対する二次的処置の重視は、死後の目にみえ ない霊的存在領域を、目にみえる遺存的領域(=遺骨)へと媒介する働きを含んで いるといえよう。

ところで国分直一は、わが民族における「複葬」の発生事情とその伝統につい て論じているが、それに先立って、生者と死者との関係をあらわす方法的な見取 図とでもいうべき仮説を掲げている。すなわち生者と死者との関係を示すパター ンには、次の三つの枠組がまず考えられるのではないかという。

−第一の枠組−
これは主として海島的漁労どうこう地方に顕著に見られるもので、死者は悪霊 になるのに対して、生者は墓地に訪れることも遺骨に触れることもしない。たと えばフィリピンやバシー海峡の島々におけるアニトまたはカニトのような悪霊が それである。

−第二の枠組−
森林的狩猟どうこう民あるいは遊牧民の生活に関係して見出されるもので、死 者は葬送を通して死後の世界に送られ、やがてその死者霊は祖霊にまで高められ て樹や森林に宿る。この場合は樹や森を依代として見えざる霊が祀られるが、こ のような傾向は例えば満州族の祖霊祭などに典型的に見られる。

−第三の枠組−
とくに農耕栽培的世界に見出されるもので、死者に対する関係は恐怖感を伴う けれども、時間の経過と共に親しい関係を回復する。そしてこの親しい関係は、 遺骨の処理あるいは管理という第二次的処置を通して実現されるのであるが、し かしこの遺骨の処理あるいは管理はかならずしも永久的なものではなく、ある時 期に停止される場合がある。この枠組に対応する地域は主として華南を含めて東 南アジアである。

右の国分による類型化の試みは地域の事例が限られているという点で、多少と も単純にすぎるきらいがないわけではないが、しかし文化さに基づく死者観念の 推移・発展を考える上ではきわめて示唆に富む仮説であるといっていいであろう 。とりわけその第三類型において遺骨の第二次的処置という指標を出しているの は注目すべきであって、わが民族の死者観念が東南アジア文化圏とともにこの類 型に属することは言うまでもない。

もしもそうであるとするならば、わが国における複葬(もしくは改葬)慣習は、 先史・古代においてどのような性格を示していたのであろうか。右の国分論文に よって要約すると、複葬はすでに縄文時代のとくに後・晩期から見出されるとい う。幼児には特別に甕棺を用いる例が早くから知られ、遺体を納めるばかりでな く、収骨して甕や壷に納めた例も知られている。すなわち中空の土偶の中に初生 児の歯・頭骨・長骨等の細片を納めた例、竪穴住居の床面に穴を掘り深鉢に幼児 骨を入れて埋めた例などをはじめ、幼児の甕棺葬は縄文の中・後期にかけて広い 地域に見出されるのである。またこのような複葬例は幼児のみならず成人の場合 及び集団収骨の事例においても見られ同時に頭蓋骨のみを改葬した事例も発見さ れている。遺骨保存への関心と頭蓋骨への特殊な配慮の念がすでに縄文期から抱 かれていたことは注目すべきである。

ついで弥生時代に入ると甕棺葬の他に木棺墓・箱式石棺・支石墓などによる葬 法が加わり収骨して再葬するいわゆる第二次的処置の痕跡を示す事例が関東地方 を中心に数多く見出されるようになる。また弥生時代の後期から古墳時代前半に かけて形を整えたものと考えられる葬法の一つにモガリがある。これは遺体を一 定期間そのまま安置しのち埋葬に付すという点で遺体の第二次処置を儀礼的に洗 練させたものということができる。モガリははじめ政治的首長を葬送する場合に おこなわれ、やがてそれ以外の階層のあいだにも広まったが、古墳時代の終焉と ともに衰えた。

P37-40
(複葬の発生と伝統)

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